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第五章 第8話

 明日葉は速足で駅まで歩いた。雨宮が追ってくる気配はなかったが、一刻も早く家に帰りたかった。  街の雑踏を抜けて南口まで来たところで、ようやく足を止めた。心臓がどかどかと脈打ってうるさい。上がった息を整えているところで、明日葉は胸につかえるものを感じて、慌てて近くのトイレに駆け込んだ。個室に入って鍵を閉める。  便器に顔を突っ込むと、胃の中身が全部出てきた。何度もえずきながら胃液まで吐いたところで顔を上げた。扉によりかかって荒い息を吐く。 (よかった……ご飯、ほとんど食べてなくて……)  最近吐き戻すことがなくなっていたので、油断していた。  吐瀉物と血の味で、口の中は最悪だった。明日葉はふらつきながらも便器の中身を流し、個室を出た。洗面所で何度も口を濯いだ。ついでに顔も洗う。  ザーッという水音を聞きながら、明日葉は暗い瞳で流れていく水を見つめた。  昔は、よくあった。ホテルの帰り――――知らない男たちに触られた日は、こうしてよくトイレで吐いていた。 (乗り越えたと、思ってたのに……)  まだ手は細かく震えていた。  明日葉はもう一度口を洗おうと、水を口に含んだ。上を向いて濯ごうと顔を上げ――――鏡に映った人物を見て、盛大に噴き出してしまった。 「ぶはっ! げほっ、ごほごほっ!」  辺り一面が水浸しになる。明日葉は咽ながらも後ろを振り返った。  そこには――――目を丸くした亜笠が立っていた。 「護さん」 「亜笠っ、何でここに!?」  亜笠は驚きながらも、自分のバックパックからハンカチを出した。「未使用です」と言って明日葉の手に握らせてくる。 「何でって、そりゃ用足しに」  その顔で平然となんてことを言うんだ……。明日葉は咳き込みながら思った。 「買い物に来ただけなんですけど、まさか護さんがいるとは思いませんでした」  亜笠はそう言うと、明日葉の姿を上から下までしげしげと眺めた。  明日葉はハッとして鏡を見た。髪の毛はボサボサ、目は充血して赤い、顔は真っ青、唇の端は切れて血が滲んでる、手首には手形の痣、袖口には赤黒い血の跡――――言い訳のしようがないくらい『何か』あった後だった。 「…………雨宮さんですか」  ぼそりと亜笠が言った。 「いや、転んだ」  明日葉はそっぽを向いてさらりと言った。  明らかに嘘とわかる言葉に、亜笠は額に手をあてて深くため息をついた。 「――――とりあえず、僕の家に来てください」 「いい。家に帰る」  明日葉は即答した。亜笠から目を反らして、トイレを出て行こうと一歩踏み出した。その足元には、明日葉が先ほど噴いた水で水たまりが出来ていた。  ズベッと情けない効果音を出して、明日葉が強かに転んだ。 「…………」 「…………」  亜笠がぷるぷると小刻みに震えた。手で口元を覆っている。 「笑うな」 「笑ってません」 「揺れてるんだよ、身体が!」 「いや、だって、普通転びます? ここで……」 「うるさい!」  明日葉はパーカーについた埃を払おうとして、手を止めた。床が濡れていたせいで、腹から太腿にかけてぐっしょりと濡れていた。ジーンズの色が変わっている。冷たさに身震いした。  震える明日葉に、笑いを引っ込めた亜笠が言った。 「家に来てください。着替えないと、風邪引きますよ」 「でも……」 「着替えたらすぐに帰ってもいいですから」  優しい言葉だった。明日葉はしばらく逡巡してから、首を縦に振った。  亜笠の家は駅から10分ほど歩いた住宅街の一角だった。  築浅と思われる5階建てのマンション。その3階で亜笠は立ち止まり、ポケットから鍵を取り出した。  カチャリ、と静かな音を立てて玄関が開く。 「どうぞ、入ってください」  亜笠は先に入って、玄関脇に置かれたキーボックスへ鍵をかけた。靴を脱いでさっさと奥に行ってしまう。明日葉も恐る恐る中へ入った。 「……お邪魔します」  亜笠が明日葉の家に来るのはいつものことだったが、明日葉が亜笠の家に上がるのは、初めてだった。廊下を通り抜けてリビングに出る。  白い壁に、明るい木目のフローリング。日当たりもよく、晴天も相まって、部屋の電気をつけなくても室内が十分に明るかった。  淡いグレーの二人掛けのソファ。木目調のローテーブル。壁際にはテレビと、背の低い収納棚。余計なものはほとんど置かれていない。家具も同色系で統一されていて、モデルルームのようにきれいだった。  ぼんやりと見回しながら、亜笠らしいなと思った。 「今着替え用意しますから、ソファに座っててください」  カウンターキッチンで手を洗いながら、亜笠が言った。洗い終えるとリビングの奥にある、寝室らしき部屋に入っていってしまう。  明日葉は汚れた姿でソファに座るのが申し訳なく、ラグの敷かれた床に腰を下ろした。三角座りで家主を待つ。  亜笠はすぐに戻ってきた。タオルと、下着と、上下の服一式を手渡される。 「身体冷えたでしょう。着替えついでにお風呂入ってください」 「いや、でも……」 「すぐに沸きますから」  亜笠は明日葉の返事を待たず、着替え一式を抱えさせるとそのまま脱衣所へ押し込んだ。 「シャワー、最初は少し冷たいんで気を付けてください」  そう言って扉を閉める。ほぼ同時に、『お風呂が沸きました』というアナウンスが聞こえた。  仕方なく浴室の扉を開ける。真新しい浴槽には透明な湯が張られ、白い湯気が立ち上っていた。  パーカーは水を吸っていて脱ぎにくかった。冷え切ったジーンズも脱いで、脱衣所の隅にパーカーと一緒に置いておく。  身体を軽く流してから湯船に浸かった。少しばかり熱めに設定された湯は、冷えた身体に心地よかった。 「はぁ……」  自然と息が漏れた。湯気に包まれながら、明日葉は天井を見上げた。  ――――優しい男だ。本当に。  昨夜、あれほど傷付けてしまったのに。ボロボロで現れた自分を責めることもせず、黙って家に迎え入れてくれる。  自分には、あまりに出来た男だ。  この恩に報いるにはどうしたらいいのか見当もつかない。何より、亜笠は何も返してほしいなんて思わないだろう。そういう男だ。  だからこそ明日葉は苦しかった。  身体が十分に温まったところで湯船を出る。タオルで髪を拭き、借りたパーカーとチノパンへ袖を通した。少し大きめの服からは、洗剤の清潔な匂いがした。  脱衣所を出ると、キッチンから包丁を動かす音が聞こえてきた。  リビングへ向かうと、エプロン姿の亜笠が夕食の支度をしていた。 「お風呂ありがとう」  明日葉が声を掛けると、亜笠が振り返った。明日葉の抱えた服を見るなり手を差し出してくる。 「服、洗って乾燥かけちゃいますから、預かります」 「そこまでしなくてもいいってば」  言うが、亜笠は黙って明日葉の腕からタオルと汚れた服を取り上げた。洗濯機のある脱衣所にその背中が消えていく。  明日葉は何も言えなかった。  駅から徒歩10分のわりに、静かな部屋だった。防音がしっかりしてるのだろうか。部屋のテレビもついていない。亜笠が洗濯機のスイッチを押す音と、水の流れる音だけがかすかに聞こえた。  所在なく立ち尽くしたまま、明日葉は部屋をゆっくり見回した。  リビングの奥、寝室に続く扉が少しだけ開いていた。  明日葉はぼんやりと足を向けた。中を覗くと、そこには寝具が整えられたベッドがあった。大きなクローゼットと、壁際にはデスクもある。デスクの上には、ノートパソコンが一台置かれていた。  その隣――――小さな写真立てに、明日葉の目が向いた。  デスクの前で、明日葉の足が止まった。  写真立ての中に写っていたのは――――自分だった。  電車の中、スーツ姿の自分が出入口の脇にもたれ掛かるように立ち、窓の外をぼんやりと眺めている。画質は少しばかり粗い。まるで、誰かが離れた場所からこっそり撮ったような写真だった。 「これ……」  明日葉は思わず写真立てを手に取った。指先でガラスをそっと撫でる。  いつ撮られたものなのか、まったく身に覚えがなかった。 「護さん、傷の手当てを……」  救急箱を抱えた亜笠が寝室へ入ってきた。思わず亜笠の顔を見る。  亜笠の視線が、明日葉の顔から手の中にある写真立てへと移動した。  沈黙が二人を包んだ。 「亜笠、これって……」  先に沈黙を破ったのは明日葉だった。が、明日葉がすべて言い終えるより先に、亜笠の手が写真立てを奪っていった。そのままデスクの引き出しを開けて、中に収められる。パタン、と引き出しが閉じた。 「…………」 「…………」  再びの沈黙。亜笠は何事もなかったかのように、明日葉の手を引いてリビングに戻った。明日葉をソファに座らせて、自分は床に膝をつく。 「さ、傷の手当てしましょう」  平然と、いつもの無表情でそう言った。  明日葉はその顔をじっと見つめた。 「…………おれの写真」  画質は荒かったが、あれは間違いなく自分だった。 「どうして――――」  明日葉の問いかけに、亜笠は小さく息を吐いた。よく見ると亜笠の耳がほんのりと赤くなっていた。 「……去年の9月頃、電車で一緒になったことがあって」  明日葉は目を瞬いた。 「偶然、本当にたまたま、僕が立っている向かいに明日葉さんが乗ってきたんです」  亜笠はそう言いながら、床に置いた救急箱を開いた。 「……全然覚えてない」 「でしょうね」  亜笠が少しだけ寂しそうに微笑んだ。 「護さんはずっと外ばかり見てましたから」  何てことない一言だった。  なのに、その一言を聞いた途端、明日葉の中の何かが溢れた。それは言葉にできなかった。けれど大きな波になって、明日葉の心の中をかき乱した。  明日葉はぎゅっと胸元を掴んだ。そうしていないと、苦しさで叫び出しそうだった。  ボロボロと、我慢していたものが瞳から零れた。 「――――護さん」  亜笠が心配そうな眼差しで、明日葉を見ていた。  止めないと、そう思えば思うほど涙は止まらなくなった。次から次へと頬を伝い、借りたばかりのパーカーを濡らしていった。 「……どうして泣いてるんですか」  亜笠の問いかけにも、明日葉は答えることが出来なかった。  どうして、と思った。  たった一枚の写真。画質も悪くて、誰が見ても隠し撮りだとわかるような写真。髪の毛もボサボサで、スーツもよれていて、笑顔でもなんでもない自分。  それなのに。  亜笠はそれを写真立てに入れて、毎日見える場所に飾っていた。自分でも覚えていないほんの一瞬を。何気なく窓の外を眺めていただけの自分を。  宝物みたいに大切そうに。  胸が苦しかった。何も返せない自分を、どうしてそんなにも大切にしてくれるのだろう。  人を傷つけることしかできない、不器用な自分のことを。 「護さん」  優しく名前を呼ばれた。  明日葉は苦しさに喘ぐように、口を開いた。 「おれ……」  声が震える。でも言いたかった。亜笠には、伝えたかった。 「おれ……お前に、好きになってもらう資格、ない……」  そこで初めて――――ようやく、胸の奥へ押し込めていたものを吐き出した。 「おれ、雨宮を……あんなに好きだった人を、置いて、逃げた」  明日葉はつかえながらも、少しずつ、少しずつ、声に出した。  雨宮と付き合っていた当時、彼の幼少期の話を、聞かされていた。  幼い頃から両親に虐待されていたこと。捨てられて、親類の間をたらい回しで育ったこと。中高と荒れ果て、それでも必死で働いて学を得、生きてきたこと。  彼はどれも笑って話した。まるでつらいことなどひとつもなかったかのように。  過酷な環境に身を置きながらも飄々と生きる彼の姿を、明日葉は愛していた。  たとえそれが原因で、自分の肉体が弄ばれることになったとしても。  明日葉にはわかっていた。最初に雨宮が他の男をホテルに連れてきた時から、それが試し行為なのだということに。  雨宮は、不安だったのだ。明日葉がどれだけ愛しても、いつか自分から離れていくのではないかと。また捨てられるんじゃないかという思いに、彼は取り憑かれていた。  だから、断らなかった。自分のできることすべてで彼が満たされるのなら、どんな行為でも黙って受けようと思った。 「おれ、わかってたんだ。あいつにどうやっても埋められない穴があること、わかってた。でも、おれ、もう耐え切れなくて、あいつのこと見捨てて、ひとりで逃げた」  どんな行為でも黙って耐えられた。  耐えられなかったのは――――雨宮が、既婚だとわかったからだ。  彼は、自分との未来を最初から考えていなかった。  そのことを目の前に突きつけられたからだった。  それだけは耐えることができなかった。  だから、明日葉は逃げるしかなかった。 「あんなに好きだったのに、ひとりにさせた」  あんなに愛した人を、ひとりにしてしまったことを悔やんでいた。  大好きだった人を置いて逃げ出して生き延びたことに、罪悪感を抱いた。そんな自分には、人に愛される資格も、人を愛する資格もないと思った。  だから、もう二度と恋愛しないと、ひとりきりで生きていこうと誓った。  好きな人から逃げ出した自分のことを、信じることができなかった。  臆面もなく好きだと言ってくる亜笠のことも、怖かった。  涙を流す明日葉の頬を、亜笠の両手が優しく包み込んだ。 「……傍にいてあげたかったんですね、雨宮さんの」  明日葉は泣きながら何度も頷いた。  そんな明日葉を、亜笠は優しく抱き締めた。 「見捨てたんじゃなくて、護さんは自分を守っただけですよ」  少し体温の低い手が、明日葉の背中を撫でた。 「このままじゃ自分が壊れるって、そう思ったんですよね。だから必死で逃げた。自分を守るために。それは誰にも責められることじゃありません」  あなたが罪悪感を持つことじゃない、と亜笠は言った。 「――――護さんが、生きて、ここにいてくれて良かったです」  あの時の選択は、間違いなんかじゃなかったんですよ。  亜笠の言葉に、明日葉は声を上げて泣いた。  子供のように泣きじゃくる明日葉を、亜笠はずっと抱き締めてくれた。 「護さん」  亜笠が優しい声で言った。 「全部終わったら、一緒に冷蔵庫買いに行きましょう」  その約束に、明日葉は頷くことしか出来なかった。

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