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第五章 第9話
何年ぶりだろう、こんなに泣いたのは。
目は腫れて、泣き過ぎたせいで顔全体が熱かった。亜笠はそんな明日葉に何も言わず、淡々と傷の手当てをしてくれた。痛む手首に湿布と包帯を巻いてくれ、唇の傷には消毒液が塗られた。亜笠は傷口に染みるたび顔をしかめる明日葉を見ても、「少し我慢してください」と言うだけだった。
「まあ血も止まってますし、病院に行くほどじゃないでしょう」
そう言って明日葉の唇を優しく撫でる亜笠の瞳は、とても穏やかだった。
「ありがと」
明日葉は小さく礼を言って、ティッシュで鼻をかんだ。亜笠の手が差し出される。
「ゴミ、ください」
鼻をかんだティッシュなので明日葉は躊躇した。躊躇っていると、ティッシュを持った手ごと亜笠の手に引き寄せられた。バランスを崩して床に倒れそうになった身体を、亜笠が受け止める。そのまま抱き締められて明日葉は顔を赤くした。
「――――ありがとうございます、話してくれて」
不思議な気持ちだった。この5年間、誰にも話してこなかったことを、こうして亜笠に聞いてもらうのは。
たまらなく恥ずかしかった。でも、嫌ではなかった。妙に照れくさくて明日葉は返事が出来なかった。
身体を離して、亜笠がにこりと笑った。
「護さん……さっきトイレで吐いてたでしょう」
唐突に言われて、明日葉の肩がビクリと上がった。別に隠してるつもりはなかったが、とっくにバレていたらしい。
「消化にいいもの作りますから、食べて行ってください」
言われた途端に明日葉のお腹からぐぐぅ、と間抜けな音が鳴った。
一拍置いて、亜笠がくすりと笑った。
「安心してお腹空いたんですね」
「卑しいお腹ですみません……」
「いえ、食欲ありそうで良かったです」
亜笠はそう言うとキッチンに立った。
「何か手伝う?」
「座っててください」
亜笠の言葉に甘えて、明日葉はローテーブルの傍に腰を下ろした。ソファにもたれかかると、安心したせいか大きな欠伸が出た。今週、酔った亜笠を背負って帰った日からあまり眠れていなかったことを思い出した。
しばらくして、ことことと鍋の煮える音が部屋に響き始める。そのうち亜笠がミトンを手に土鍋を運んできた。卵と鶏肉、三つ葉ののった雑炊だった。
「どうぞ」
茶碗を手渡され、明日葉は小さく「いただきます」と呟いた。亜笠が隣に座る。
一口食べると、唇の傷に沁みた。
「痛っ」
「大丈夫ですか」
「大丈夫……」
傷には沁みるが、もう一口食べる。美味しかった。冷え切っていた心が少しずつ溶けていくようだった。
「…………」
「どうしました?」
明日葉の目から再びボロボロッと涙が零れた。見ていた亜笠よりも明日葉の方が慌ててしまった。
「ごめん、ティッシュ……」
亜笠が手渡してくれる。明日葉は何枚か手に取って瞳に押し当てた。
「いや、なんか食べたらホッとして……久しぶりに泣きすぎて、涙腺壊れたみたいだ」
鼻をかんで、亜笠が引き寄せてくれたごみ箱に捨てる。明日葉はレンゲを手に取ると再び雑炊を食べ始めた。優しいだしの味がじんわりと胃に沁み渡る。
「おいしい……」
「食べれるなら大丈夫ですね」
そう言って微笑んで、亜笠も雑炊を口にした。しばらく二人で黙々と雑炊を食べた。
食べ終わって人心地ついたところで、亜笠があたたかいほうじ茶を淹れてくれた。一緒に飲みながら、明日葉は憮然として口を開いた。
「にしても、何でこういっぺんに来るかな……」
亜笠が顔を上げる。
「何がですか?」
「雨宮と言い、タクザイロと言い、エンタイビオと言い……」
明日葉としては非常に真剣な悩みだった。亜笠はまたか、というように額に手をあてた。
「元彼を高額医薬品と同列に並べないでください……」
「棚卸月に来ないでほしい……」
そこですか、と呆れたように言う亜笠に頷く。明日葉としてはそれ以外になかった。一年でも二番目に神経をすり減らす時期なのに。ちなみに一番は三月末、本決算の時だ。
「社畜……」
お茶をすすりながら亜笠にそう言われて、明日葉はイーッと歯をむき出した。
ふと、真剣な顔になって口を開く。
「本当は……お前にも、棚卸が終わったら話そうって思ってたんだ」
棚卸が終わって、仕事が落ち着いてから話そうと、そう思っていたのに。
雨宮が現れてしまったから、言わざるを得なくなってしまった。
手の中のほうじ茶を見る。琥珀色の液体から湯気が立っていた。
「付き合えない、って話ですか?」
亜笠の言葉に頷いた。亜笠は少し考え込んでから口を開いた。
「念のため聞きますけど、雨宮さんと復縁するつもりはないんですね」
「ないよ。最初に言ったろ」
「じゃあ、諦めませんから」
はっきりと、まっすぐにこちらを見つめて、亜笠が言った。
「護さんの心の中にまだ雨宮さんがいるとしても、僕の気持ちは変わりません」
微笑む相手に明日葉は困惑した。
「どうして、そこまで……」
亜笠ほどの容姿と性格なら、他にいくらでもいい人を選べるだろうに。なぜ自分なのだろう。明日葉は心底不思議だった。
「言ったでしょう、好きなんです」
ストレートな言葉に明日葉の頬が熱くなる。この男はどうしてこう臆面もなく恥ずかしい言葉を口に出来るのか……。呆れと照れが混ざった複雑な気持ちで、明日葉は頬を掻いた。
亜笠はにっこりと笑って続けた。
「だから別れるって話もなかったことに」
「それはちょっと保留にさせて」
明日葉は即答した。亜笠が憮然として言った。
「何でですか」
「そもそもが、おれたち、付き合ってないよね」
自分と亜笠を交互に指差しながら言うと、亜笠がわざとらしく首を傾げた。
「そうでしたっけ?」
「おれ、『うん』って一言も言ってないからね」
「付き合って半年くらい経ってると思ってました」
「そんなに!?」
当たり前のように言われて明日葉は後ずさった。
「一緒に通勤して一緒にご飯食べて、デートしてキスしてセックスして半同棲してますよね、僕ら」
「…………」
「お互いの両親に挨拶も済ませましたし」
「…………」
改めて列挙されると恋人以外の何物でもなかった。亜笠の言葉を借りるならば、婚約者だった。明日葉はかぶりを振った。
「いや、でも、おれは返事をしてないから……!」
頑なだった。そこだけは譲りたくなかった。まだ付き合っていない、と明日葉は自分にも言い聞かせた。
亜笠はそんな明日葉を見て微笑んだ。
「まあ、いいですよ。いつまでだって待ってますから」
明日葉はテーブルに置いた自分の携帯を見つめた。亜笠よりも――――先に、伝えなければいけない人がいた。
「うん……待ってて」
亜笠は満足そうに笑って、明日葉の頬にキスをした。
「あー……なんか、ほっとしたら眠くなってきたな……」
ソファに横になると、睡魔がどっと襲ってきた。明日葉は大きな欠伸をした。
「最近眠れてなかったんですか」
亜笠の声が聞こえた。明日葉はどんどん重くなる瞼に耐え切れず、目を閉じた。
「考えなきゃいけないこと、いっぱいあって……」
亜笠の手が、明日葉の髪を優しく撫でた。
「雨宮のこととか、棚卸のこと、とか……お前の、こと、とか……」
そこまで言ったところで言葉は途切れた。規則正しい寝息が部屋に響き始める。
「――――おやすみなさい、護さん」
亜笠の手は、ずっと明日葉の髪を撫でていた。
翌朝、明日葉は亜笠のベッドで目を覚ました。時刻は10時を過ぎていた。
亜笠は朝食を用意して待っていてくれた。有り難くいただいてから、明日葉は何としてでも引き留めようとする亜笠を何とか説き伏せて、自宅へと帰宅した。ひとりきりで、少し考えたかった。雨宮のこと、亜笠のこと、自分のこと。まるで人生の総決算だ。
(だから何で棚卸の時に重なるかなぁ……)
会社は仮決算だった。本決算の時でなくて良かった……と明日葉は心底思った。完全に社畜だった。
明日葉は自宅の換気扇の下でタバコをふかしながら、考えた。
しばらく自分の携帯を見つめてから、意を決して雨宮にメールを送った。怪我をさせた詫びと、改めて話し合いがしたい、と。
だが、いつまでたっても返事は来なかった。電話をしても出ない。留守番電話のアナウンスが虚しく響くだけだった。
――――怒らせてしまっただろうか。明日葉は自分がされたことも忘れて、ため息をついた。
いよいよ棚卸一週間前になった。少しのミスやトラブルが後々大きく影響してくる。明日葉はいつも以上に気合を入れて業務を進めた。各所で在庫を絞っていることもあり、急配に次ぐ急配で、あっという間に週の半分が過ぎていった。
ついに棚卸前日、木曜日。その日も倉庫内は慌ただしかった。
棚卸を明日に控え、通常業務と並行して返品在庫の確認や保留品の整理、棚番ごとの数量確認を進めていた。
明日葉もハンディスキャナーを片手に倉庫内を走り回っていた。
「亜笠、そっち終わった?」
「あと二棚です」
「終わったら返品待ちの方お願い。おれ冷所見てくる」
「わかりました」
亜笠の返事を聞きながら、明日葉は手元の一覧表にチェックを入れた。
明日の棚卸さえ無事に乗り切れば、何とかひと段落だ。
(まあその後データ集計が待ってるわけだけど……)
が、今回の集計担当は亜笠だった。段取り命の彼のことだ。上手いことやってくれるだろう。
頼むから何か起きてくれるなよ、と明日葉はその場で両手を組んで天に祈った。
今月はいろいろありすぎた。仕事はともかく……私生活が。明日葉はため息をついた。
――――結局ホテルで別れたあの日から、雨宮とは話していない。
こちらからメールを送っても返事はなく、電話をしても留守番電話に繋がるだけで折り返しもない。明日葉は胸ポケットにしまった携帯電話を見た。
やはり雨宮からの連絡は返ってきていない。
だからといって追いかけている暇もなく、気がつけば数日が過ぎていた。
(…………棚卸、終わってからだな)
逃げじゃない。これは断じて逃げなどではない。明日葉は自分にそう言い聞かせながらも、少しだけほっとしていた。
明日を乗り切って、仕事が落ち着いてからちゃんと話そう。
明日葉が冷蔵室に向かおうとしたところで、詰所の方から声が飛んできた。
「明日葉さーん」
聞き覚えのある声だった。
振り返ると、詰所の入口に見覚えのある青年が立っていた。
先日雨宮と同行していた――――たしか、足立というMRだ。
「足立さん? どうしたんですか?」
「お世話になってます。ちょうど、青梅病院の帰りでして」
富士見製薬のMRである足立は、病院回りが主な仕事のはずだ。何か江南に用事でもあったのだろうか。
明日葉はハンディスキャナーを腰へ戻しながら詰所へ戻った。
「江南さんなら二階にいますよ」
手袋を外しながら言うと、足立は両手を胸の前で振った。
「あ、江南さんにはもうご挨拶してきました」
明日葉は首を傾げた。
「えっと、じゃあ……?」
そこでハッとする。
「も、もしかして何かタクザイロ絡みで問題が!?」
たしかに今日入荷予定だったはずが、配送遅延で明日の朝の到着になってはいる。入荷しないなんてことが、いや、まさか、そんな。と悲壮感たっぷりの顔で明日葉が詰め寄ると、足立は首を横に振った。
「違います違います!」
「じゃあ、どうしてここに?」
足立は明日葉を見て、それから気まずそうに目を反らして頭を掻いた。
「あの……実は、明日葉さんにお話があって」
「おれ?」
思わず自分を指差した。足立が頷く。
「なんというか……私情を挟んで非常に申し訳ないんですが……」
歯切れが悪い言い方だった。
「何ですか?」
「そのぉ…………」
足立がデスクの上に突っ伏す大柴をチラリと見た。明日葉は手を振った。
「あ、大丈夫ですよ。大柴さんはお昼の後はぐっすり寝るタイプなんで」
何も聞こえてないです、と明日葉は笑顔で言った。
「あ、そうなんですか……」
寝てることに関して一切ツッコまない明日葉に、足立が顔を引き攣らせながら頷いた。
明日葉は少しだけ詰所の時計を見上げた。
「足立さん、ごめんなさい。おれ、戻らないと……」
そう話す明日葉に、足立は意を決したように顔を向けた。
「雨宮部長のことで、お話があります!」
明日葉は目を見開いた。思わず黙り込む。足立はそんな明日葉を気にせずに続けた。
「月曜から、雨宮部長――――なんていうか、その、いつも通りではあるんですけど……なんか元気がなくって。唇も切れて腫れてたし……」
明日葉の身体がビクッと揺れた。明日葉の唇にもうっすらとだが傷がある。が、内側に近い部分なのでパッと見はわかりづらかった。頼むから気付くな……と明日葉は心の中だけで祈った。
しかし――――あの雨宮が?
「元気がない……?」
首を傾げる明日葉に、足立もつられるように首を傾げた。
「ですよねぇ、雨宮部長が元気がないなんて、信じられないですよね」
でも本当なんです、と足立が言った。
「仕事は普通にしてるんです。指示も出すし、会議でもいつも通りですし。数字のことで笑顔で詰められる時なんか普通に怖いです」
「はあ……」
「でも、いつもなら会社でも移動中でも雑談を欠かさない人なのに――――最近、全然喋らないんです」
「あの雨宮が?」
「あの雨宮部長が、です」
暇があれば人をからかって遊んでいる、あいつが? 明日葉にはにわかに信じられなかった。
「土曜日に明日葉さんと飲みに行くって言って喜んでたのに、週が明けたらこれです」
「…………」
明日葉の背中を冷や汗がダラダラと流れた。
やばい、わかりやすすぎる。おい、38歳営業部長、お前一体何やってるんだ。若い部下にこんな心配までさせて、と明日葉は心の中だけで雨宮に語り掛けた。
「絶対明日葉さんと何かあったんだって、そう思って、今日はご相談に来ました!」
明日葉は小刻みに震えた。バレては……いない、んだよな?
「どうしたんですか、何があったんですか!? 殴り合いの喧嘩したんですか!? たしかに部長は人をからかって遊ぶのが大好きだしたまにとんでもなく毒舌だし性格もひねくれていて最悪ですけど、部長としては仕事も出来るし部下にも優しいしめちゃくちゃいい人なんです!」
悪口なのか褒めているのかわからなかった。が、心配しているということはよくわかった。明日葉は苦笑した。
(そっか……部下に信頼される上司なんだな、お前)
上司としては、本当に良き上司なのだろう。人の良さそうな足立がこれだけ真剣に心配し、業務外だというのに自分に声をかけてくるくらいなのだから。
「でも、おれにはどうにもできないですよ、たぶん」
「やっぱり喧嘩したんですか……?」
「喧嘩というか、まあ、それに近いことは……」
頭を掻く明日葉に、足立は両手で口を覆って仰け反った。
「意外です……! 明日葉さん見るからに温厚なのに、あの体格の雨宮部長を殴るなんて!」
「いや、うん、まあ……」
まさかキスされたから噛みついたとは言えない。口が裂けても言えない。殴ったということにしておこう。
そこまで話して、明日葉はハッとして再び詰所の時計を見た。
「足立さん、ごめんなさい。話はまた今度でもいいですか? 棚卸の準備で、ちょっと……」
その言葉に足立も慌てて頭を下げた。
「こちらこそ、すみません! お時間いただいてしまって」
「いえ」
「あの、もし明日葉さんさえ良ければ、今日の夜にお会いできませんか!?」
「へ?」
「雨宮部長のことで相談に乗って欲しいんですぅ!」
うるうるとした瞳で見つめられ、明日葉は言葉を詰まらせた。
行きたくない。猛烈に行きたくない。ポンコツの自分のことだ。どこでうっかり口が滑って雨宮との関係がバレるかわからない。
「いや、ちょっと、今日は……」
足立がずいっと顔を近付けてきた。
「お忙しいのは十分承知しています! でも、でも……っ!」
「あ、足立さん……」
「雨宮部長と今一番一緒にいるの自分なんですよぉ! 沈黙がつらいんです! こっちが話しかけても「ああ」と「うん」しか言わないんですよぉおおおお!」
そのまま床に突っ伏して泣き出しそうな足立に、明日葉の眉が八の字になった。
困った。これは、どうすべきか……。明日葉は脳内で今日の予定を振り返った。
トラブルがなければ19時前には帰れるだろう。明日葉は頬を掻きながら言った。
「えっと、じゃあ……19時以降なら……」
足立が明日葉の両手を取った。
「ありがとうございます! 連絡先お聞きしても良いですか!?」
「はい」
そう言って明日葉はその場で足立と連絡先を交換した。
「明日葉さん! 本当にありがとうございます!」
そう言ってブンブンと手を振りながら、足立は営業車に乗り込んで帰っていった。
「あれ、足立さん来てたんですか」
倉庫の奥で在庫チェックをしていた亜笠が、詰所に戻ってきた。窓の外を見て呟く。明日葉は頷いた。
「江南さんに話に来たついでに寄ってくれたんだ」
「何話してたんですか?」
「雨宮がいかにいい上司か、話してくれた」
嘘ではなかった。
その名前に亜笠の眉根が寄った。明日葉は小さく笑った。
「あいつ、会社では信頼される上司みたいだ」
「…………まあ、アストリア製薬にいた頃から有名でしたから」
亜笠が憮然として言った。明日葉は目を見開いた。
「お前、知ってたの?」
「MRの間では有名人ですよ。営業の鏡だってね」
亜笠が苦笑した。雨宮本人に思うことはあれど、仕事上では信頼できる人間だということは理解しているのだろう。
「そうだったんだ……」
明日葉の知らない雨宮の5年間が、そこにはあった。
明日葉は自分の両頬を叩いた。亜笠が目を丸くして見つめてくる。
「よし! 棚卸準備進めていかないと! 明日は本番だ!」
「……はい」
亜笠が微笑んだ。明日葉は笑顔で倉庫へと戻っていった。
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