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第五章 第11話

 雨宮は立川の富士見支社に営業車を取りに、明日葉と亜笠は電車で青梅に向かった。  乗り込んだ電車の中で、横に座った亜笠がやたらと明日葉のうなじを見ていた。 「何?」  明日葉が首を傾げると、亜笠は視線を逸らした。真っ直ぐに前を向いたまま、さらりと言った。 「キスマークついてます」  明日葉は亜笠が注視していた辺りをバッと手で隠した。 「襟からギリギリ見えるか見えないかくらいです」  冷静に言われて明日葉は歯ぎしりした。 「あいつ……!」 「――――良くはないですけど」  亜笠がそう前置きして、言った。 「本当に、無事で良かった……」  亜笠は小さく息を吐いた。明日葉は首を押さえていた手を外して、隣に手を伸ばした。しばらく躊躇ってから、亜笠の手を握る。 「……護さん」  亜笠が目を見開いていた。明日葉は前を向いたまま、顔を赤くした。 「ひ、人も……そんなにいないし、これくらいは」  亜笠はしばらく何も言わなかった。やがて明日葉の手を包むように、そっと握り返した。 「……はい」  亜笠は微笑んで、明日葉の肩に頭を預けた。 「…………怒ってる?」 「めちゃくちゃ怒ってます」  即答だった。そこは一切絆されないのが亜笠という男だった。 「慌てて引き返してドアの前に着いたら、中から雨宮さんとあなたの話し声がするし、鍵はかかってるし」  明日葉はぐうの音も出なかった。 「ドアを開ければあなたは半裸だし」 「待って。半裸ではない」  かろうじてシャツとパンツは残っていた。 「雨宮さんは泣いてるし」 「――――……うん」  亜笠は明日葉の肩に頭を預けたまま、続けた。 「雨宮さんと、話せましたか」 「……少しだけは」  窓の外を夜の街が流れていく。明日葉はその景色を眺めながら、雨宮の涙を思い出していた。 「でも――――まだ、ちゃんと言ってないから」  明日葉は亜笠の手をぎゅっと握った。 「タクザイロの件が終わったら、話すよ」 「……はい」  そこまで話したところで、明日葉の手がガタガタと震え始めた。 「え」  亜笠が頭を上げて目を丸くする。 「どっ、どうしよう……センター行って、やっぱりダメですとか言われたら……タクザイロ……130万の売上……っ!」 「そこですか……」 「笑うなよ! 冷所逸脱もあるんだぞ!? エンタイビオ4本だぞ!?」  一瞬にして頭の中が医薬品のことで満たされる明日葉を見て、亜笠は呆れたように微笑んだ。  明日葉と亜笠が急ぎ会社に戻ると、普段であれば静まり返っているはずの倉庫に明かりが灯っていた。中に入り、念のため詰所で作業着を羽織ってから、倉庫へ入る。冷蔵室の前では汗を浮かべた江南と、呑気そうに笑顔を浮かべる大柴がいた。 「江南さん!」 「明日葉!」  江南が振り返る。 「どうなってます!?」 「10.8度まで上がった。ファンの異常だ。業者にはもう大柴さんが連絡してくれた。今日中に見に来てくれる手筈だ」 「対象品は!? エンタイビオは!?」 「エンタイビオも対象ですぅ~」  大柴の声に、明日葉が膝から崩れ落ちた。 「タクザイロの件はどうなってますか」  隣で亜笠が冷静に言った。江南が頷く。 「大丈夫、社長の耳にも入ってるし、ロガーと保冷容器も用意した。必要書類と合わせて詰所に置いてある」 「――――よし、わかった」  江南の言葉に、床に崩れ落ちた明日葉が復活した。 「亜笠はここに残って」 「は?」 「冷所逸脱の対応頼む。業者も来るならお前がいてくれた方がいい。エンタイビオの使用可否も――――できれば、元MRのコネで回答早められるなら、お願いしたいんだ」 「明日葉さん……」  こちらを丸い目で見つめる亜笠に、明日葉は笑った。 「おれは雨宮と一緒にタクザイロ引き取りに行く」 「でも」 「大丈夫」  明日葉は亜笠の目を真っ直ぐに見つめて、言った。 「頼む。お前しかいないんだよ」  亜笠が苦笑した。小さく息を吐いて口を開く。 「――――浮気はダメですからね」 「しないってば!」  そう言って、明日葉は亜笠と別れて詰所に戻った。図ったかのようなタイミングで外からクラクションが鳴る。明日葉は急ぎ引取関係の書類を確認し、保冷容器とロガーを持って外へ出た。  富士見、と書かれた営業車がエンジンのかかった状態で止まっていた。駆け寄ると運転席の窓が開いた。雨宮が顔を覗かせる。 「準備できたなら乗れ。行くぞ」 「江南さんには!?」 「さっき電話で確認済みだ」  雨宮が笑った。いつもの、あの人懐っこい笑顔だった。 「早く乗れ」  雨宮の言葉に頷いて、明日葉は保冷容器を後部座席に固定して置いた。自分は助手席に滑り込む。 「行くぞ」 「うん!」  明日葉が乗り込んだ営業車が、ゆっくりと駐車場を出て行った。  その様子を、倉庫の窓から亜笠が見ていた。  高速道路を走る車内には、エンジン音だけが静かに響いていた。  フロントガラスの向こうを流れていく景色を、明日葉はぼんやりと眺めた。助手席の窓へ映る自分の顔は、ひどく疲れていた。そりゃそうだ。恋愛での大修羅場の後に、仕事での大修羅場を迎えているのだから。 (だから、何でこういっぺんに来るかな……)  冷所トラブルと言い配送トラブルと言い、雨宮トラブルと言い……。明日葉はそっとため息をついた。  ハンドルを握る雨宮は、前だけを見つめたまま何も話さない。  重苦しい沈黙が十分ほど続いた頃、不意に雨宮が口を開いた。 「どうして何も言わずにいなくなった」  視線は前を向いたままだった。責めるような口調ではない。ずっと胸につかえていた問いをようやく口にしたような声音だった。  明日葉は、できるだけ何でもないことのように口を開いた。 「それはおれが悪い」  明日葉は真っ直ぐに前を見ていた。 「お前に話すのが怖くて、黙って逃げたから」  車内が静まり返る。雨宮は何も言わなかった。 「でも、どうしても言えなかった。あの頃は」  一週間前に知らされた大阪への赴任。言えるわけがなかった。それは頭ではわかってる。  でも、言うべきだったのだ。自分は。それがただの我儘でも、子供のような無茶だったとしても。  言って、困らせるべきだったのだ、雨宮のことを。  既婚のことだってそうだ。  どういうことだ、おれのこと騙してたのか、そう言って怒って、殴ってやればよかったのだ。たとえそれで別れることになったとしても。  長い沈黙のあと、雨宮がぽつりと言った。 「俺とより戻さないか」  明日葉はずっと前を見ていた。 「離婚も成立した。もうお前が後ろ暗く思うことも何もない」  返事をしない明日葉へ、雨宮は静かに続けた。 「……一緒に暮らすことだって、できる」  明日葉は小さく笑った。 「戻さないよ」  短く、はっきりと告げた。 「どうして?」 「お前、他にも遊び相手いっぱいいるだろ」 「お前が嫌なら全部切る」  間髪入れず返ってきた言葉だった。明日葉は思わず雨宮を見た。 「無理だろ」  怪訝そうに見つめる。雨宮はどこか楽しげだった。 「無理じゃない」  そう言うとスマートフォンを取り出して、明日葉に投げて寄越した。 「今この場で連絡先全部削除してもいい」  仕事関係以外のな。そう付け足す相手に、明日葉は困惑した。 「……なんでそんなにおれに執着するんだよ」  雨宮ほどの外見と能力なら相手なんて選び放題だろうに。  雨宮はふと笑いを引っ込めて、言った。 「好きだから」 「っ――――」  あまりにも真っ直ぐな返事だった。明日葉の頬がにわかに熱くなった。 「3年付き合っただろ」  その横顔は真剣そのものだった。 「……3年も続いたの、お前だけだった」  初耳だった。 「みんな大抵は月単位。早けりゃ、その日のうちに終わる。元妻ですらもって1年だった」  雨宮は自嘲するように笑った。  遊び相手も別れた相手も数知れず、と言うことは耳にしていたが、まさかそんなに短期間だったとは思わなかった。 「捨てたり、捨てられたり――――さすがの俺も、もう疲れた」  その言葉だけは演技には聞こえなかった。  明日葉は何も言えなかった。  雨宮にも雨宮なりの孤独があったことを、自分は知っている。 「俺はお前がいい」  静かな声だった。 「もう一回、やり直したい」  車内に沈黙が落ちる。明日葉は――――その時ばかりは口を開くのを躊躇った。膝の上に置いた手を、ゆっくりと握る。  言わないと、と思った。 「おれはね――――お前のそういうところ、すごく嫌だ」  責めたくて言っているわけではなかった。 「全部お前の都合で動かなきゃいけないの、しんどい」  ただ、自分の気持ちを初めて正直に言葉にしただけだった。  雨宮は何も言わない。前だけを見つめている。  長い沈黙の後に、掠れた声が落ちた。 「……しんどかったのか」  少し間を置いて続ける。 「昔も」  雨宮の言葉に、明日葉はゆっくり頷いた。 「うん。それだけじゃなかったけど」  彼の髪を乾かすのが好きだった。指通りの良い髪を撫でるのも、目が合ってお互いに笑い合うのも――――幸せだった。  それでも。 「でも、やっぱりつらかった」  その一言で十分だった。  雨宮は前を向いたまま、小さく息を吐いた。 「――――そうか」  ハンドルを握る雨宮の指先に、静かに力が入っていた。白くなった指の関節は、やがてゆっくりと元へ戻った。雨宮はそれ以上、何も言わなかった。  雨宮がどう感じ、何を思っているのか、明日葉はエスパーではないからわからなかった。

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