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第五章 第12話

 横浜の物流センターにはスムーズに到着し、タクザイロの引取りも問題なく終わった。営業車はそのまま青梅営業所に引き返した。引き返し途中、話をしようと思っていた明日葉だったが、快適で静かな車内と引取りに成功した安心感とで助手席で涎を垂らしながら眠ってしまった。気が付いた時には営業車は羽村市を通り過ぎていた。  涎を袖で拭いていると、隣の雨宮が呆れたように言った。 「お前なぁ、普通寝るか? お前のこと狙ってるやつの真横で」 「いや、なんか、安心しちゃって……」  明日葉はそう言いながら欠伸をかみ殺した。 「俺がこのままホテルにでも入ったらどうする気だったんだ」 「お前はしないよ」  渋い顔をする雨宮に微笑みかける。車が信号で止まり、雨宮がこちらを見た。 「護……」 「だってこれ営業車だもん。富士見にクレームが行くぞ」 「そこは嘘でも俺のこと信頼してるからって言えよ」  間髪入れずに雨宮がツッコんだ。明日葉は微笑んだまま、自分のネクタイを緩めてシャツのボタンを外して首筋を露わにした。 「何、誘ってんのか」 「違うわ! これ! お前がやったこれのことが言いたかったんだよ!」  亜笠に指摘されたものを指差す。雨宮はチラリと一瞥した後、前を見た。信号機が青になり、車が発進する。 「これをつけた時点でお前の信用はゼロだ」  ネクタイを締めながら明日葉が言い切ると、雨宮が肩を揺らして笑った。 「まあ、そうなるわな」 「笑い事じゃない」 「――――最後ぐらいいいだろ」  明日葉はその言葉に目を見開いた。 「残したかったんだよ、痕」 「雨宮……」  明日葉はそれ以上何も言えなかった。  営業車が河和の駐車場に滑り込む。時計は23時を回っていた。助手席のドアを開けると、夜の湿った空気が一気に車内へ入り込んできた。  後部座席から保冷容器を持って倉庫へ向かうと、出入口には二人の人影が立っていた。 「明日葉さん!」  真っ先に駆け寄ってきたのは亜笠だった。その少し後ろから江南も歩いてくる。 「お疲れ様です。無事に受け取れました?」 「大丈夫! ばっちり!」  明日葉は答えながら、手に持った保冷容器を掲げた。  運転席から降りてきた雨宮に、江南が頭を下げながら近付いた。 「ありがとうございます、雨宮部長」 「江南さんも、遅くまで対応ありがとうございます。輸送中も問題なしです」  江南が雨宮からいくつかの書類を受け取っていた。明日葉は亜笠に向き直って口を開いた。 「エンタイビオは?」 「隔離措置まで終わってます。対象ロットと本数も確認済みです。メーカーにも連絡しました。明日の朝には使用可否の連絡が来ます」 「そっかぁ……」  明日葉は心底ほっとして、大きく息を吐いた。若干涙目だった。 「ありがとう~亜笠ぁ~」  思わず片手で抱きつくと、亜笠が無表情で言った。 「明日葉さん、押し倒したくなるので出来れば人のいないところでもう一度お願いします」  明日葉は亜笠の言葉をスルーして辺りを見回した。 「あれ、大柴さんは?」 「冷所逸脱がひと段落したら颯爽と帰って行きました」  相変わらず大柴のポリシーはブレなかった。まあ冷所逸脱時、時間外に対応してくれただけでも良しとしよう。 「業者も来てくれて、冷蔵室は無事に復旧済みです」 「まあでも念のため緊急用の冷所の方に入れておこうか」  亜笠と二人、会話しながら倉庫へ向かった。緊急用の小型薬用保冷庫の温度を確認し、タクザイロを入れる。 「ロガーの確認して、受領記録記入しちゃいますね」  亜笠が保冷庫に表示されている温度の記録を取り、詰所に向かった。  明日葉はその場に留まって、今しがた閉めた冷所の扉をそっと撫でた。 「よかった……本当に」  ようやく肩から力が抜けた。いや、正直に言えば棚卸前日の冷所逸脱に配送トラブル、まったくもってよくはないのだが。  これは今日は帰れなそうだな……とひとり疲れた笑みを浮かべた。  ふと倉庫の外を見ると、亜笠が雨宮の隣に立って何やら話していた。受領記録を終えて、雨宮に手渡しに行ったのだろう。  雨宮は書類を手に取ると営業車へと向かって行った。 (話は、また改めてかな……)  心の中だけでひとりごちた。  亜笠と江南がこちらに向かって歩いてきた。 「二人とも、お疲れ」  江南が安心したように微笑んだ。 「江南さんも、冷所対応ありがとうございました」 「いや、俺は電話ばっかりしてただけで、ほとんど亜笠がやってくれたよ」 「亜笠もありがとう~」  明日葉はうるうるとした眼差しを亜笠に向けた。はいはい、と亜笠は呆れたように返事をした。  江南が大きく伸びをしながら口を開いた。 「亜笠、終電なくなるぞ。そろそろ帰ろう」 「ですね」 「はーい」  連れ立って社内に戻る。帰宅準備をし、三人で外へ出た。  見ると、駐車場に一台、河和のものではない営業車が止まっていた。  明日葉は足を止めた。つられて隣を歩く亜笠も止まる。 「雨宮……」  雨宮が、営業車にもたれかかるように立っていた。もうとっくに帰ったものだと思っていたのに。 「雨宮部長? どうして――――」  近付こうとする江南を、明日葉が押しとどめた。 「ちょっと話があるって、待っててもらったんです」 「ああ、知り合いなんだっけか」  じゃあ、お先に、と言って江南は雨宮に一礼し、その場を後にした。  江南の背中を見送ってから、明日葉は隣に立つ亜笠を見た。 「ちょっと、話してきていい?」  亜笠は雨宮を見たまま、すぐには答えなかった。  小さく息を吐いて、目を伏せた。 「――――待ってます」  明日葉は微笑んだ。 「ありがとう」  亜笠から離れて雨宮のところへ歩いていく。雨宮は黙って明日葉が来るのを待っていた。  雨宮の正面に立つ。雨宮は憮然として腕を組んでいた。 「まだいたんだ」 「悪いか」 「悪くないけど」  明日葉は営業車をちらりと見た。 「今日はありがとう」 「何が」 「タクザイロ。お前が動いてくれなかったら、たぶん間に合わなかった」  雨宮の手腕は、見事と言う他なかった。おそらく足立だったらこうもスムーズにはいかなかっただろう。  雨宮は肩を竦めた。 「まあ、仕事だからな」 「それでも助かった」  明日葉は雨宮を見て、微笑んだ。 「ありがとう」 「……ああ」  雨宮が目を伏せた。  明日葉は胸の前で拳を握って、思い切って口を開いた。 「あのさ、雨宮、おれ――――」  その瞬間、雨宮が腕を伸ばした。  肩を引き寄せられ、次の瞬間、唇が重なった。  明日葉は目を見開いた。抵抗する間もなく唇は離れていった。 「雨宮」  明日葉は呆然とその顔を見上げた。雨宮は何も言わず、ただじっと明日葉を見つめた。そのうちふっと口角を上げた。  いつもの、自信に満ちた顔ではなかった。  雨宮は、笑っていた。いつもの笑顔ではなく、傷付いた、自嘲的な笑みをその顔に浮かべていた。 「行けよ」  雨宮が言った。 「俺のことは捨てて、あいつのところに」  長い付き合いの明日葉にはわかった。  これは――――雨宮の、最大限の譲歩だ。  捨てられることを何より恐れていた男が、今、自分から明日葉を突き放そうとしている。 「捨てないよ」  ほとんど考えるより先に、言葉が出た。雨宮が目を見開く。 「おれはお前のこと捨てない」  捨てるなんて、できるわけがなかった。  この人と過ごした三年間をなかったことにはできない。苦しかったことも、嫌だったことも、今でも思い出せば胸の奥が冷たくなるようなことも、全部覚えている。  それでも自分は――――幸せだったのだ。  生まれて初めて誰かを好きになった。初めて好きな人に好きだと言ってもらえた。初めて好きな人の腕に抱かれた。  膝に頭を乗せて甘えてくる髪を撫でたこと、風呂上がりの髪を乾かしたこと、くだらないことで笑ったこと、大きな身体に抱き締められて、同じベッドで眠ったこと。  全部、何一つ忘れたくない、自分の大切な人生だった。  雨宮が明日葉を見つめた。 「俺のこと好き?」  8年前のあの日、二度目にホテルで会った時と、同じ問いかけだった。  明日葉は雨宮の頬に両手を添えた。雨宮の身体がわずかに強張る。  優しく、自分の方へ引き寄せる。 「まゆみさん」  亜笠、ごめん――――心の中で謝って、明日葉は雨宮の唇にそっとキスをした。  触れるだけの短いキスで、すぐに顔を離す。  明日葉は眉を寄せた。涙が零れそうになって、ぐっと堪える。 「今でもまだ好きだよ」  ようやく言えた。  5年――――長かった。ずっと会いたかった。  街で似た背格好の男を見れば振り返った。病院でスーツ姿の男を見かけて心臓が跳ねたこともあった。会いに行きたかった。電話をかけてしまおうかと迷った夜だってあった。  本当は、会えて嬉しかった。  けれどそれが怖かった。  怖くて、苦しくて、亜笠に知られることが――――傷つけることが、何よりつらかった。 「だったら」  戻ってこい、と、雨宮が明日葉の両手を取った。 「でも、おれ、もう無理なんだ」  雨宮の手に力が入った。  見上げた瞳に、今にも泣きそうな自分の姿が映っていた。 「護……」  たまらなく胸が痛かった。それでも戻ろう、とは思わなかった。 「もう終わったんだよ」  静かに、だがはっきりと告げた。 「終わったことに付き合ってられるほど、おれも、もう暇じゃないから」  瞳に涙を溜めながら、明日葉は微笑んだ。  自分にはもう、明日がある。  仕事も、棚卸も、帰る家も――――待っている人も。  これから買わなければならない冷蔵庫だってある。  5年前にはなかったものが、今の自分にはたくさんあった。  明日葉はそっと雨宮の両手から自分の手を抜いた。離れた指先がたまらなく寂しかった。  でも、それでいい。寂しくてもいい。悲しくてもいい。好きなままでもいい。  全部持って、この先へ行けばいい。 「お前の傍にはいられないけど」  雨宮を真っ直ぐに見る。 「ずっと一緒に生きてるって、そう思ってるよ、おれは」  どうか、この願いが、愛する人に届きますように。  雨宮がどうか、独りきりにならないように。  自分がいなくても生きていけるように。  いつか、この人にも自分の知らない明日が来るように。 「護」  待て、と言うように、雨宮の瞳が苦しそうに歪んだ。  こんな顔をする人ではなかったのにな、と思った。  いつだって強くて、自信に満ちていて、何でも自分の思い通りにできると信じているような人だった。  でも、その瞳の奥にいつもさみしさがあった。  だからずっと傍にいたかった。自分がいなくなることをいつも怖がっていたことも、知っていた。  きっと昔の自分なら、その顔を見た瞬間に戻っていた。  ごめん、と言って。おれが傍にいるよ、と言って。  でも――――おれ、もう待てないんだ。  自分の人生を、この人が追いついてくるまで止めておくことは、もうできない。  ごめん、先に行くね。 「まゆみさん――――さようなら」  明日葉にとって、それが最後の言葉だった。  追い縋る手からそっと離れて、背を向けた。そのまま振り返らずに歩いた。  明日葉の歩く先には亜笠がいた。彼は相変わらずの無表情で、そこに立っていた。  明日葉が隣まで来ると、亜笠が口を開いた。 「――――話は済んだんですか」 「うん」  明日葉は答えた。 「おれの言いたいことは終わったから」  亜笠はそんな明日葉をじっと見つめた。  それから明日葉のずっと後ろに立つ雨宮を見る。 「護さん」 「え? 何――――」  言い終えるより先に、亜笠が自分の唇で明日葉の唇を塞いだ。 「ん!?」  慌てて胸を押して引き剥がす。顔がかっと熱くなった。 「何!?」  亜笠はしれっと答えた。 「消毒です。念のため」 「…………」  あまりにも当然とばかりに言われ、明日葉はぽかんとした。  どうやら一丁前に嫉妬しているらしい。明日葉は思わず笑ってしまった。 「バカだなぁ、お前――――」  亜笠は少し不満そうに眉を寄せた。  明日葉は空を見上げた。夜空には無数の星が瞬いていた。  星さえ見えれば、きっと途中で迷ったとしても、目指した場所にたどり着ける。  ――――どうか、雨宮の頭上にも星空が広がっていますように。  明日葉はそう願って、振り返らずにその場を後にした。  河和の駐車場に止まる営業車に寄りかかりながら、雨宮はずっと明日葉を目で追っていた。その場から足を動かす気になれなかった。  追いかけようと思えば追いかけられた。腕を掴むことだってできた。名前を呼べば、あのお人好しのことだ。一度くらいは振り返ったかもしれない。  だが、できなかった。 『まゆみさん――――さようなら』  耳の奥に、最後の言葉が残っている。  もう元に戻らない。ようやくその意味を理解した。  5年前、明日葉が突然いなくなった時とは違う。  あの時は探せば見つけられると思っていた。怒っているだけだと思っていた。時間が経てば頭も冷えるだろうと、どこかで高を括っていた。  護は自分が好きだから。ずっと、そう思っていた。  実際、その通りだった。 『今でもまだ好きだよ』  あれほど欲しかった言葉を、明日葉は震える声で口にした。  そして、好きだと言ったその口で、自分を選ばないと言った。 (……参ったな)  雨宮は額に手を当てた。  今更になって、胸の奥が鈍く痛み始める。 (こんなに好きだったとはな――――これは、堪える)  自分でも笑ってしまうくらい。  いや、本当は前からわかっていた。  ――――好きだった。明日葉のことが。  出会った頃から、堪らなく愛おしかった。  だが、自分にはそれを認めることができなかった。  その身の上から、雨宮にとって替えが利かないものは、恐怖でしかなかった。それがないと生きられないなんて、自分の命を相手に握られているのと同じだった。  明日葉にまで捨てられたら、自分はどうしたらいい?  だから、認めなかった。認められなかった。いつでも替えが利くものだと、そう思い込もうとした。  そうすればいつ捨てられても、自分は平気だから。  そして自分は――――間違った。  散々試した。他の男を連れてきた。目の前で他の誰かを抱いた。無茶な要求をした。それでも護は残った。問いかけるといつも「好きだよ」と目を閉じた。  その瞳の奥に悲しみを抱えていたことに、自分は気付かないふりをした。  答えを聞く度に安心して、安心する度に怖くなって、また次を試した。  どこまで行っても終わりはなかった。  見限られて当然だった。  見ると、明日葉の隣には男が立っていた。  亜笠誠一郎――――憎らしい、あの男が。  明日葉が傍まで来ると、亜笠が何かを言った。  次の瞬間、明日葉の顔を引き寄せ、その唇にキスをする。 (あいつ……)  雨宮の額に青筋が浮かんだ。  よりによって今、自分の目の前でやるか。  雨宮の視線に気付いたのか、亜笠がこちらを見る。  目が合った。ほんの一瞬だった。  けれど相手の口元には、明らかに勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。 (いつか殺す……)  割と本気で思った。  明日葉は顔を離すと何かを怒鳴っていた。やがてポカンとして、そして、ふわっと微笑んだ。  声までは聞こえない。それでもわかった。  昔から変わらない、あの笑い方だった。  目尻を下げて、八重歯を覗かせて――――何度も見た笑顔だった。 『ずっと一緒に生きてるって、そう思ってるよ、おれは』  明日葉の言葉が蘇る。  最後まであいつらしい。捨てる男の心配までして、本当にどうしようもないお人好しだ。 (泣きわめいて、罵ってもらった方がまだマシだよ……まったく)  お前なんか大嫌いだと言われた方がよかった。  最低だ、二度と顔も見たくない、人生を返せと。そう言われたならまだ言い返せた。怒ることもできた。開き直ることもできた。嫌われたのなら仕方がないと、自分に言い聞かせることもできた。  けれど明日葉は、最後まで雨宮を憎まなかった。  それどころか、最後の最後に、自分の最も欲しかったものを差し出して、行ってしまった。 (……ずるい奴)  こんな別れ方をされたら、嫌いになれるわけがない。  雨宮は頭を掻いて深くため息をついた。  振られてしまった。完膚なきまでに。  もうどうにもならない。  明日葉の選んだ道の先に、もう自分はいない。  雨宮は遠くなっていく明日葉の背中を見つめた。  隣の亜笠に何かを言われた明日葉がまた怒っている。亜笠が涼しい顔で返して、明日葉がその腕を叩いた。  明日葉はもう、一度も振り返らなかった。  振り返らなくていい。そう思った。  それでも心の中で、もう一度だけ名前を呼んだ。 (――――護)  雨宮は遠くなる明日葉の背中をずっと見ていた。  追いかけなかった。その姿が小さくなって、やがて夜の街の中へ溶けていく。  完全に見えなくなってからも、雨宮はしばらくそこに立っていた。  そしてようやく、ひとりで小さく笑った。 「あーあ、やってくれたな、あいつ……」  星空を見上げながら呟いた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。  明日葉は駅までの道のりを亜笠とゆっくり歩いていた。自宅は駅の先にある。駅まではもうすぐ。二人とも黙って歩いていた。  明日葉はなんだか離れがたかった。もう少し一緒にいたい気もするが、明日は何せ棚卸……今日じゃなければなぁ、と明日葉は思った。 (泊まっていけって、言えるんだけど……)  雨宮との話を終えてから、ずっと不思議な気分だった。何年も抱えていたものを無理やり引き剥がしたような寂しさがあった。  けれど、それ以上に、心は軽かった。  雨宮への気持ちはやっぱり複雑だ。簡単に割り切れるものではない。それでももう戻らないと、今度は自分で決めることが出来た。  逃げじゃなく、別れだと。  ひとりではきっとできなかった決断だ。  隣を歩く男が――――亜笠がいたから、雨宮ときちんと決別することができた。 (お礼とか言うべきなのかな……それとも、やっぱり……)  保留にしていた答えを、言うべきだろうか。今、ここで。  明日葉の顔が熱くなった。 (でもそれはそれで失礼にならないか!? 雨宮と別れたからハイ次、みたいな……!)  ひとりで百面相している間に、駅についてしまった。  改札の前で亜笠が立ち止まる。明日葉も足を止めた。 「じゃあ、また明日」 「――――うん、また、明日」  手を上げる亜笠に、手を上げ返す。亜笠はそのまま改札を通って、ホームへ歩き出した。  名残惜しいが、自分も戻るか、と思い小さく息を吐いたところで、亜笠の足がピタッと止まった。振り返った彼と目が合う。  数秒見つめ合った後、亜笠が踵を返して改札へ来た。明日葉もつられて改札の前に足を進める。 「護さん、やっぱり、今日は――――」  亜笠がそう言って改札を通り抜けようとした。  その瞬間――――二人は改札を挟んで向き合った。  明日葉の脳裏に過去の記憶が蘇る。  抗がん剤の急配、年度末のバタバタした空気、三鷹の本社に、急ぎ在庫を取りに行ったこと。  改札を逆走して、青年に激突したこと。  その青年の顔が、目の前の亜笠の顔に重なった。 「あ、れ……お前……」 「護さん?」  亜笠が心配そうに改札を越え、明日葉の目の前に立った。明日葉は、そんな亜笠を震える手で指差した。 「お前、あの時の……?」  ぶつかったのは、今にも消えそうな、青ざめた顔の青年だった。 「あ――――っ! 思い出した!」  亜笠はその言葉に微笑んだ。 「……やっとですか」 「あの時ぶつかった、三鷹駅で! あれ、お前だった!」  興奮したように叫ぶ明日葉に、亜笠は苦笑した。 「そうですよ。やっと思い出してくれました?」 「だって、お前、あの時と全然雰囲気違うじゃん!」  目の前にいる亜笠は、自信があって、堂々としていて、何をするにも迷いがない。そんな雰囲気をいつも纏っていた。  けれど、あの日見た青年は――――顔色は青ざめ、目には何の光もなく、今にもその場から消えてしまいそうだった。  同じ顔なのに、まるで別人だった。気が付かないのも無理はない。 「……あの日」  亜笠が静かに口を開いた。 「会社にも居場所がなくて、恋人とも別れたばかりで」  亜笠はその日を懐かしむように微笑んだ。 「生まれて初めて、死にたいって思いました」 「亜笠……」  知らなかった。何も。  あの日、ほんの数秒すれ違っただけの青年が、そんな場所に立っていたなんて。 「何もかもどうでもよくなってました」  亜笠はそう言って、明日葉を真っ直ぐに見つめた。 「そこにあなたが来たんです」 「おれ?」  亜笠が頷いた。 「ぶつかって派手に転んで、訳のわからないこと言いながら必死で謝って、ICカード通すの忘れて、帰りのことなんか全然頭になくて」  明日葉は苦笑した。確かに、あの時はそれで出るのに苦労したんだった。  おかげでぶつかったことなんて、その日のうちに忘れていた。 「――――それでも全速力で走って行くその背中を見てたら、もう一度あなたに会いたいって思ったんです」  明日葉は瞳を見開いた。 「そこで、人生が変わりました」  亜笠が手を差し伸べてきた。明日葉はその手をじっと見つめた。  見慣れた、自分より少し体温の低い手。優しい手だった。仕事中、何度もその手に助けられてきた。料理を作ってもらった。転びそうになった自分を支えてくれた。泣いている自分の背中を、ゆっくりと撫でてくれた。  亜笠の顔を見る。 「いつかあなたに出会う未来を、ずっと待ってました」  亜笠は微笑んだ。その目には少しだけ、涙が浮かんでいた。  明日葉はしばらくその瞳を見つめた後、亜笠の手をそっと取った。  笑いながら、言った。 「待った?」  亜笠は首を横へ振った。 「いいえ――――あっという間でした」  その言葉を聞いた瞬間、明日葉の胸の奥で何かがほどけた。  手を引かれ、そのまま身体を抱き寄せられる。 「大好きです、護さん」  夜遅いとはいえ、駅前だ。また誰かに見られたらどうしよう、といつもの自分なら慌てていた。  だが、今だけは、と思った。 「結婚を前提に、僕と付き合ってください」  亜笠は声を震わせながら、それでもはっきりと言った。  明日葉は思わず笑った。  結婚を前提に、なんて。本当にこの男らしい。  大袈裟で、真面目で、どこまでも一直線で、とびっきり変で。  でも――――そのすべてが愛おしかった。  明日葉は瞳を閉じて、その背中に腕を回した。 「――――よろしく、誠一郎」  明日葉を抱き締める腕の力が強くなった。 「……はい」  掠れた声だった。  瞼の裏には、5年前の自分がいた。  暗い部屋の中、カーテンを閉め切って、布団の中に身体を丸めて、携帯電話を消して、誰にも会いたくなくて俯いていた自分。  もう二度と恋なんてしないと決めたあの日。  明日葉はその部屋の扉を開けた。  蹲る自分へ歩み寄る。  そこにいる明日葉は、ボロボロだった。何日もろくに食べられなくて、眠れなくて、傷だらけで泣いていた。大好きだった人を置いて逃げた自分を、ずっと責め続けていた。  明日葉はそんな自分の前にしゃがみ込んだ。  大丈夫、と。微笑んで声を掛ける。  そっと手を差し伸べた。  あの日、誰にも取ってもらえなかった手を、今度は自分自身で取るために。  ――――お前は雨宮とちゃんと別れられる。  逃げたままじゃない。いつかもう一度会って、好きだったって言える。今でも好きだって認められる。それでも戻らないって、自分で選べる。  前を向いて歩けるようになる。  信じられないだろうけど、その時お前はひとりじゃない。  とびっきり変で、お節介で、図々しくて。無理矢理デートに連れ出して、いきなり家族を紹介して、挙句の果てに実家まで付いてきて、いつの間にか部屋に上がり込んでいる、そんなとんでもない男が現れる。  そんな男を、お前もいつか好きになる。  一緒に仕事して、ご飯を食べて、くだらないことで喧嘩して、何でもないことで笑い合う。そんな毎日が来る。  思い出の中から雨宮を消さなくてもいいんだ。好きだった自分を否定しなくてもいい。傷付いた自分まで、捨てなくていい。  亜笠を好きだという自分も――――もう、何も捨てなくていいんだよ。  全部抱き締めたまま、明日に行ける。  だから、大丈夫。  ――――明日があるよ。  明日葉はゆっくりと目を開いた。  目の前には、亜笠がいた。  相変わらず綺麗な顔だ。これから先も、きっとこの顔を何度も見るのだろう。  朝起きた時も、仕事をしている時も、くだらないことで喧嘩した時も、疲れて帰った夜も――――明日も、明後日も。  愛おしい人が目の前にいる。それだけで明日葉の心はあたたかく満たされた。  明日葉は亜笠の背中に回していた腕をそっと解いた。  それから亜笠の肩をガシッと掴んで、バッと身体を離した。  目を丸くする亜笠に、ニコッと笑う。 「それじゃあおれ、会社戻るわ」 「は?」  亜笠の顔から、今までの感動が一瞬にして消えた。 「明日棚卸だから」  言って、明日葉はくるりと踵を返した。 「ちょっと待ってください」  亜笠に肩を掴まれるが、振りほどいて走り出す。 「じゃあな!」 「じゃあな、じゃないです! 何で駅まで来たんですか!」 「お前のこと見送ってからこっそり戻ろうと思ってたんだよ!」 「はあ!? どんだけ社畜なんですか、このブラック労働者!」  亜笠も明日葉につられて走り出した。 「棚卸前日に冷所逸脱だぞ、帰れてたまるか!」 「いい加減にしてください!」 「お前は帰れ!」  先に帰ってろ、とでも言うように明日葉は振り返って自宅の鍵を亜笠に投げた。 「帰るわけないでしょう! ちょっと、護さん!」  鍵をキャッチした亜笠が、額に青筋を立てて抗議した。 「待ってください!」 「待たない!」  ついさっき恋人になったばかりの二人が、夜の街中を全力で駆けていく。  明日葉は星空を見上げて走った。  笑いながら、愛する人と一緒に。  自分で選んだ、明日へ向かって。

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