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第四章 番外編
8月も終わりに近付いてきた頃。
明日葉護は自宅で二人分の洗濯物を畳んでいた。
なぜ二人分か、なぜなら週末になるとアパートに泊まりに来る男がいるから。なぜ泊まるのか、それは自分のことが好きだから。なぜ自分はそんな男を家に泊めているのか、それはさっぱりわからない――――ふりをしている。今のところは。
明日葉はそんな自分のことを好きだと言って憚らない男、亜笠誠一郎に声をかけた。
「亜笠ぁ、今日の夕ご飯どうする? 買い物行くー?」
お風呂掃除をしていた亜笠は、エプロンで手を拭きながら明日葉のいる居間にやってきた。
「いえ、今日はあるもので済ませちゃいます」
「じゃあ今日はもう出かけない?」
二人とも昼食を済ませた後だった。明日葉は特に予定がないなら今日の午後はゴロゴロしていようかなと考えていた。
「出かけます」
亜笠はいつもの無表情で、唐突に言った。
「行きたいカフェがあるんです」
「いってらっしゃい、気を付けてね」
「護さんも来ます」
「何その決定事項みたいな言い方」
そんなことを言いながらも、明日葉は出かける亜笠にくっついてアパートを後にした。駅へ歩く道すがら、明日葉は亜笠に問いかけた。
「どこのカフェ行くの?」
「内緒です」
「何? またサプライズ?」
「とっても素敵なカフェなので、事前情報なしで来てほしいんです」
明日葉は最近、亜笠のこうした突飛な行動にも慣れて来ていた。この間なんかは「ちょっとそこのカフェ行きましょう」と言うので軽い気持ちで「いいよ」と言ったら、とんでもない山奥の古民家カフェに連れて行かれた。
どこが『ちょっとそこ』なんだよ、と思いながらも食べたキッシュはめちゃくちゃおいしかった。
「今日は山奥じゃないよね?」
「はい、駅から徒歩十分以内です」
明日葉はその言葉に胸を撫で下ろした。
そのため――――すっかり油断していた。
電車に乗ってから、明日葉はしつこくも亜笠に聞いてみた。
「どの辺にあるの?」
「行けばわかります」
「いやそりゃそうだけども」
電車は立川駅に着いた。そこから亜笠に手を引かれて、南武線に乗り換える。川崎方面の列車だった。明日葉は首を傾げた。
「神奈川の方?」
「違います」
さらに分倍河原で乗り換える。京王線で調布まで行き、下車する。明日葉はまた首を捻った。
「調布にあるの?」
「乗り換えますよ」
亜笠が特急から区間急行へ電車を乗り換えた。
明日葉はそこまで来て、ようやくどこに向かっているかを悟った。
「待って、もしかして仙――――」
「着きましたよ」
明日葉が指摘するより先に亜笠は電車を降りた。
そこは――――仙川駅だった。
まずい。明日葉の顔が青くなった。
明日葉は自分の頭の回転の悪さを呪った。亜笠が目的地を告げずに出かけると言った時点で察するべきだった。何をしているんだおれは。と頭を抱えた。
「行きますよ」
そう言われて引きずられていく。目的地は駅から歩いてすぐだった。
雑居ビルの二階に、そのカフェはあった。
珈琲LOTUS、と書かれた看板の前を通り過ぎて、二階の入り口へ上がる。
ガラス張りの扉の前まで来ると、店内では黒いエプロンをつけた女性店員が、こちらに向かって元気よく手を振っていた。
「あのぉ、もしかして事前に電話とか――――」
「しました。店に直接」
「マジで何してんの!?」
叫ぶ明日葉を尻目に、亜笠は扉に手をかけた。
「いやぁ! まだ入らないでよ! 心の準備が!」
「実の姉に会うのに心の準備いります?」
そう言いながら亜笠は何のためらいもなく扉を開けた。
「護~! 久しぶり、いらっしゃい!」
エプロン姿の女性――――姉の慧 は、張りのある声でそう言った。
明日葉はげんなりしながらも、亜笠に引きずられるように店内に入った。香ばしいコーヒーの香りが明日葉の鼻をくすぐった。
亜笠は姉の前に立って頭を下げた。
「初めまして、護さんの婚約者の亜笠誠一郎と言います」
「電話で聞いてますよ~。改めて初めまして、護の姉の慧です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「待って、電話で何を話したの?」
「いろいろ」
簡潔に姉が言った。亜笠も隣で頷いた。いろいろって何だよ! と明日葉は憤慨した。電話で話した内容が気になって、明日葉は亜笠が婚約者でないことを訂正するのをすっかり忘れていた。
「まあまあ、いいからとりあえずお席にどうぞ。特別に窓際の席予約しておきましたよ」
背中を押されて、明日葉は席に通された。亜笠も一緒にくっついてくる。
用意されていたのは窓際の角の席だった。元々店内はさほど広くなく、全席合わせて20席にも満たない程度だ。
小さいが、レトロな家具と木目調の壁が落ち着いた雰囲気の、静かなカフェだった。カウンターにはサイフォンコーヒーがコポコポと音を立てていた。
「来てくれてありがとうね」
姉はそう言いながら、席に座った明日葉たちにお冷とナプキンを置いて行った。店内には他にも3人ほど客がいた。
他の客にコーヒーを出してから、慧は明日葉たちの席に戻ってきた。
「ご注文は?」
明日葉は慌てて亜笠から渡されたメニューを見た。
「僕はアイスコーヒーを」
「じゃあおれもアイスコーヒー……と、この季節のパフェ」
明日葉は何だかんだ文句を言いつつも、ちゃっかりとパフェを頼んだ。
「はいよー、ちょっと待っててね」
そう言って姉はカウンターへ声をかけた。
「あの人が私の旦那さん、よろしくね」
カウンターには背の高い、白シャツに黒いエプロンをつけた男性がいた。こちらに気が付いて頭を下げてくれる。明日葉と亜笠もお辞儀した。
それを見届けると、姉はカウンターの奥へ消えて行った。
亜笠は優しく微笑んだ。
「素敵なお姉さんですね」
「どこが」
明日葉は水を飲みながら半眼になった。
「お前は姉と言う生き物を知らないからそう言えるんだ」
「明るくて気さくな良いお姉さんじゃないですか」
「おれが家の中でどれだけいじめられたか……」
「絶対天然からかわれてたでしょう」
「おれ、小さい頃かくれんぼ苦手でさ……鬼が近付いてくると怖くて泣きながら飛び出ちゃってたんだよ。そのたびにめちゃくちゃバカにされてさぁ……」
それわかってて人のことかくれんぼに誘うんだぞ、と言うと、亜笠はお腹に手をあてて、顔を真っ赤にして笑っていた。
「そんなに笑うことかよ」
「あはははっ、笑いますよ……そんなの」
面白すぎます、と言って涙を拭う亜笠に、明日葉は歯をむき出して抗議した。
そんな会話をしていると、アイスコーヒーをトレイに乗せた姉がやってきた。
「何? 私の悪口でも言ってる?」
ニヤニヤしながら、姉は淀みない手つきでコースターを二つテーブルに乗せ、アイスコーヒーを置いた。
「悪口じゃない。事実を言ってる」
「へそまがりなんだから」
そう言って姉はトレイを抱えたまま亜笠に向かって話しかけてきた。
「亜笠くん、大丈夫? こんなのがパートナーで苦労しない?」
「とんでもないです。毎日楽しいですよ」
「こいつうちのカフェ来るのも今日が初めてなのよ? 信じらんないでしょ、ここ始めてから3年経つって言うのにさ~」
そう言いながら、姉が意地悪そうに口角を上げた。
「いろいろ忙しかったんだよ」
「電車の乗り換え、不安だったんでしょ」
明日葉は無言でアイスコーヒーにストローを差して、吸った。亜笠は向かいで口に手をあてて震えていた。笑ってるな、こいつ。
「だから今日亜笠くんが連れて来てくれて良かった」
「僕も前から一度来てみたかったんで、来れて嬉しいです」
「え~やだもう。めちゃ良い子じゃん。イケメンだし、護にはもったいない」
姉はそう言ってから、パフェ作ってくるからね、とまた奥へ引っ込んでいった。
明日葉は亜笠のことを睨んだ。
「お前さっきから笑いすぎ。おれが乗り換えできないからってバカにして」
「新宿駅で2時間迷子は……笑っちゃいますよね」
「うるさい! わかんないんだから仕方ないだろ!」
そんなことを言いながら二人でアイスコーヒーを飲んだ。コーヒーは酸味が少なく、えぐみもなくすっきりとしていて、普段コーヒーの味にこだわりのない明日葉でも美味しいと思えた。
「コーヒーってこんなに違うんだ……」
明日葉の言葉に、亜笠も頷いた。
「MR時代にいろんなところ飲み歩きましたけど、ここのコーヒーすごく美味しいですよ」
「へぇ……」
改めて店内を見回す。カウンターにいる姉の夫と目が合った。
「コーヒーすごく美味しいです」
そう伝えると、姉の夫は照れくさそうに笑って、頭を掻いた。
姉はパフェを手に明日葉たちのところへ戻ってきた。
「はい、どうぞ。今月はシャインマスカットのパフェです」
細身のグラスに、カットされた淡い緑色のマスカットが華びらのように盛り付けられていた。隙間を埋めるようにクリームが乗せられている。グラスの中には生クリーム、輪切りのマスカット、シリアル、マスカットのゼリーがきれいな層を作っていた。
カクテルスプーンを二本置いて、姉は微笑んだ。
「亜笠くんにも食べさせてあげなよ」
「最初からそのつもりだよ」
明日葉はむくれながら言った。姉は他の客に呼ばれてそちらへと向かった。
シャインマスカットを一粒つまんで食べてみる。甘い果肉がじわっと口の中に広がった。
「うまっ」
さっそくスプーンを手にクリームを掬いとる。ほんのりベージュ色をしたクリームは、紅茶の風味がしてとても美味しかった。
「亜笠も食べてみ。美味しいよ」
明日葉は自分のスプーンにクリームとマスカットを乗せて、亜笠に向けた。
「…………」
亜笠が少し躊躇する。明日葉は亜笠の唇の近くにスプーンを差し出した。
「ほら、早くしないと落ちちゃう」
「……いただきます」
亜笠はそう言ってスプーンを口に含んだ。
「どう? 美味しいだろ?」
「はい、すごく美味しいです。これ紅茶のクリームですね」
「お前も食べなよ」
そう言って明日葉は亜笠の方へパフェを寄せた。
「護さんって……本当に、なんていうか……」
亜笠が何かを言いよどんでいた。明日葉は首を傾げて、また一口クリームを頬張った。
亜笠が口をつけたスプーンを平然と自分の口に運ぶ明日葉に、亜笠は頬を赤くした。明日葉だけが首を捻っていた。
「あんたねぇ、何のために私がスプーン二本置いたと思ってるの」
気付けば姉がすぐ傍に立っていた。
「姉ちゃん、このパフェめっちゃうまい」
「当たり前よ。私が作ってるんだから」
まずいって言ったら出禁ね、と言って姉は呆れた顔をした。
「亜笠くんもごめんね~、人前で恥ずかしいよね。こいつ昔からこうなのよ」
「いえ、僕も最近やっと慣れてきました」
「美味しいからって言って、食べかけのソフトクリームとか押し付けてくるのよ。全然変わってないなぁ」
「美味しいの共有したいだけだろ。いいじゃん、まずいのあげるわけじゃないんだし」
「でもカフェで堂々と『あ~ん』はちょっとやりすぎよね」
姉の指摘を受けて、明日葉は顔を真っ赤にした。
「べ、別にそういうつもりで食べさせたわけじゃ――――」
亜笠と姉が目を見合わせて笑っていた。
明日葉はその様子を見て、憮然としながらコーヒーを飲んだ。口の中に留まった甘さが、すっきりとした苦みに流されていく。コーヒーとの相性も抜群だった。
姉はそんな調子で、オーダーの合間に亜笠の隣に来ては「馴れ初めってどんな感じだったの?」や「実家に行った時どうだった? お父さん怒ってた?」などと話していた。
散々質問攻めに合い明日葉はげんなりとしていたが、亜笠は始終楽しそうに笑っていた。明日葉はそんな亜笠を見て、少しだけ胸を撫で下ろした。
「すごく美味しかったよ。また来るから」
そう言ってお会計を済ませる。姉はニコッと笑った。
「絶対また来なさいよ。亜笠くんと二人でね」
「絶対また来ます」
亜笠がそう言って笑った。明日葉と亜笠はカウンターにいる姉の夫にもお辞儀して、その場を後にした。
駅に向かいながら、亜笠が口を開いた。
「――――お姉さん、僕らが男同士だってこと、何にも言いませんでしたね」
明日葉は夕日に照らされた亜笠の横顔を見た。
「……姉ちゃん、高校卒業してすぐに、家出同然で東京に飛び出して行ったんだ。新宿でバーとかカフェとか転々として、いろいろ見聞きしてたからかもね」
「それでも偏見を持つ人はいますよ。護さんのお姉さんは……やっぱり優しい方なんだと思います」
「そうかな……」
「はい……譲さんや護さんと、よく似てます」
亜笠が優しく微笑んだ。明日葉は照れくさくなって目を逸らした。
「また来ましょうね」
亜笠の手が、明日葉の手を握った。
「…………うん」
また。その言葉に明日葉は少しだけ目を伏せた。
夏の終わりのぬるい夕風が頬を撫でた。
――――ずっとこのままではいられない。それはわかっている。亜笠の気持ちを受け入れることが出来ない限り、この関係はいずれ終わる。
でも、それでも、と明日葉は思った。
握られた手をぎゅっと握り返した。
せめてもう少しだけ、このままで。
そう願った。
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