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第五章 番外編
5年前。
その日、雨宮まゆみは仕事帰りに恋人――――明日葉護の自宅を訪ねていた。
風呂上り、明日葉はベッドに腰掛けて、床に座った雨宮の髪を乾かしていた。髪が指を通る優しい感触に、雨宮は目を細めていた。
「まゆみさん」
「何?」
ドライヤーを止めて、コードをクルクルとまとめながら明日葉が言った。
「あの、会社の人からチケット貰ったんだけど、ここ行ってみない?」
差し出された紙切れを覗き込む。葛西臨海水族園、と書いてあった。
「おれ、上京してからあんまり出歩いたことなくて」
せっかくだから、と明日葉がはにかんで笑った。
「んー……」
自分の返事に明日葉が固唾を飲んでるのがわかった。本当にわかりやすい恋人だった。雨宮は笑った。
「たまには行くか」
明日葉の顔が露骨に明るくなった。
翌日、二人で水族園に行った。
薄暗い水族園の中を歩き回る明日葉の頬は紅潮していた。水槽に顔を近付けては、まゆみさんも見て、と言って雨宮の手を引っ張った。
クロマグロが泳ぐ巨大な水槽の前で、二人は足を止めた。
「……うまそうだな」
ポツリと言うと、明日葉が笑った。
「普通はきれいとか言うんだよ」
魚たちを見上げる明日葉の横顔を見る。つぶらな目を見開いて、子供のように目を輝かせる明日葉に、思わず雨宮の手が伸びた。
「うわっ、何すんの」
癖毛をぐしゃぐしゃとかき回すと、明日葉が小さく抗議してきた。
帰り際、ショップでバカでかいクロマグロのぬいぐるみを買って持たせたら、これ以上ないくらい幸せそうな顔で笑った。
まあ、悪い気はしなかった。
そのまま車に乗せて、夜の公園の駐車場に車を止めて事に及ぶ。明日葉は恥ずかしがりながらも車外での行為も許してくれた。
真面目で大人しいのに、淫乱。雨宮にとっては可愛くて仕方なかった。
どんな行為でも、明日葉は仕方なさそうに笑って許してくれた。
今まで、いろんな男と試した。けれど誰ひとりとして雨宮の元に残った人間はいなかった。
明日葉だけ。2年続いた男は初めてだった。今年で3年目に入っていた。
雨宮はいろんな男に自慢した。時には明日葉自身の身体も差し出して紹介した。これが今の自分の恋人。写真もたくさん撮った。
少しでも多くその肌に触れていたくて、忙しい仕事の合間に時間も作った。仕事優先の自分にしては、本当に珍しく。
飲み会なんかも挨拶だけしてすぐに帰った。妻が家で待ってるから、と言えばそこまで引き留められることはなかった。嘘ではなかった。
ただ一つ違ったのは、家で待っているのは妻ではなく、明日葉だった。
明日葉の体温を感じている時が一番の幸福だった。
朝になると離れがたかった。
「まゆみさん、コーヒー飲む?」
そう言ってコーヒーを淹れてくれる。自分は胃が痛いと言って飲まないくせに。
似合わないのにタバコを吸う。タバコを吸う時、目を伏せて煙を吐くのが妙に色っぽくて好きだった。明日葉は匂いがつくと悪いからと、いつもキッチンの換気扇の下で吸っていた。
呼び出せばすぐに来た。待ち合わせの時わざと少し遅れると、寂しそうな、不安そうな顔で佇んでいた。自分が近付くと露骨に顔が明るくなった。
それを見るのも好きだった。
好きだった、のに。
大阪転勤になった。
明日葉は大阪に行くよと言った。まあ負担にならない程度になと自分は笑って返した。
そのすぐ後だった。電話がきたのは。
『――――もしかして結婚してる?』
「あー……」
してる。だがあえて言っていなかった。
別居期間も長く、もう離婚したものと思っていたからだ。どこから聞いたのだろうか。そのまま伝えると、明日葉はもう一度言った。
『既婚者だったのか』
「……俺のこと疑ってるのか」
咄嗟に口から出た言葉だった。
長い沈黙ののちに、電話が切れた。
あ、拗ねたかなと思った。別に嘘はついていない。そのうち素直になって帰ってくるだろうと思っていた。
――――そこから、5年が経った。
気がつけば連絡が来なくなっていた。電話をしても繋がらない。メールも届かない。まだ拗ねてるのか。仕事も忙しく、頻繁に東京に帰れるような状況ではなかった。そのうちにどんどん月日が経って、気がつけば5年。
大手製薬企業からヘッドハンティングされた。大阪から東京に帰ることになった。
東京に帰ってから、真っ先に明日葉のアパートへ行った。
通い慣れた道を通って、築年数の経った階段を3階まで昇る。淡いグレーの扉には、表札はない。忘れたことはない。302号室。扉の前に立ってしばらく逡巡する。呼び鈴を押した。
中からは――――知らない女性が出てきた。
聞くと3年前からここに一人で住んでいると言う。
見慣れた部屋に見たことがない靴が並んでいるのを、呆然として見つめた。
明日葉は、どこにもいなかった。
ふーん、と思った。
事故、事件、病気、亡くなったとかじゃないよな。一瞬脳裏に過ぎる。でも違う。雨宮は心のどこかで理解していた。
あいつ、いなくなったのか。そうか。
自分はまた捨てられたのか? だが永遠にその疑問は解消されない。
電話も繋がらない。メールも来ない。明日葉に聞くことができなかった。
今までもあった。でもこんなんじゃない。泣きながら罵倒される方がまだいいと思った。こんなに静かにいなくなるなんて、と思った。
雨宮は珍しく、本当に珍しくイライラした。
でも探すようなことはしなかった。できなかった。仕事も忙しかった。相変わらず誰彼構わず夜遊びもした。
ふと、思い立って新しいスマートフォンを契約してみた。雨宮の手の中には真新しい機種があった。スワイプして操作すると、その名はすぐに出てきた。
『明日葉護』
通話ボタンを押す。もしかして、もしかすると。
もし以前の自分の番号を着信拒否されてるなら。
新しい番号でなら――――
コールが鳴った。電話番号は変わっていなかった。そのことに安堵する。
が、ふと我に返って電話を切った。
何をしてるんだ、俺は――――
以前の番号が着信拒否されていたということは、そういうことだ。
ならもう追うべきじゃない。
なのに、それなのに。
仕事でゲイカップルが卸会社にいる、と聞いた時、最初は信じられなかった。
バカだなと思った。自分の性癖を暴露するなんて、働きにくくなるだけだろうと。
だが、その名前を聞いて雨宮は息ができなくなった。
「なんだっけ、河和の珍しい名前の人。小松菜じゃなくて――――そうそう、明日葉だ!」
明日葉。明日葉護。同僚が連呼する。その名前に心臓が掴まれた。
相手の名前は亜笠誠一郎。知らない名前だった。
自分の前から消えて行った唯一の男と、知らない男。
2人が、ゲイのカップルを公言して、同じ職場で働いている。
雨宮の人生の中で、一番の衝撃だった。
仕方ない。だって5年もあった。その間自分は一度も会いに行かなかった。
でも――――許せなかった。
受け持った部下が青梅エリアの担当MRだった。ゲイのカップルがいるという河和の青梅営業所も、営業回りのリストに入っていた。
高額医薬品の受注が来たのを理由に、雨宮は部下に同行した。駐車場に着くと、部下はまだ車内で資料を見つめていた。
一足先に降りて、小さな卸会社の前に立つ。
中を覗けば、寝癖頭の男がパソコンの前に座って作業していた。
心臓が跳ねる。いつか見た横顔。
隣にはやけに顔のいい青年が立っていた。
口うるさく寝癖男にいろいろ言っていたかと思うと、その頭をわしゃわしゃと撫でくりまわした。
この2人だ。直感した。
雨宮の体は自然に動いていた。扉に手をかけて開ける。
「こんにちは、お世話になっております。富士見製薬の雨宮と申します」
振り返らない寝癖頭の男の隣に立って、雨宮は笑った。
何でもないことのように。
「久しぶり、護」
――――ずっと探していた恋人が、そこにいた。
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