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①再会
「タニコシ ノゾミちゃん。こちらへどうぞ」
例えば、小児科の待合室。付き添っていた母が立ち上がり、曖昧に笑って言う。
「あの、男の子なんですけど」
あら、ごめんなさい。ノゾミくんね。
そう訂正する看護師の後に続きながら、母が耳打ちする。性別の男のとこに丸してあるのにね。
こういうことが時々あった。どうして女の子に間違われるのか、幼い頃のニコは不思議に思っていた。それが、どうやら自分の名前は中性的で、どちらかと言えば女の子に使われることの方が多いらしいと気付いたのは、小学生になってからだったと思う。名前のことで揶揄われる経験もないではなかった。だが、それがいじめに発展したり、深い嫌悪感に苛まれたりしないで済んだのは、多分、自分の体が人より大きくて、本当に怒らせたら反撃が怖いと思われていたからだと、ニコは何となく思っている。
仲の良い友達は、ニコと呼んでくれる。『タニコシ』の真ん中をとって『ニコ』だ。ちょっと外人っぽいそのニックネームをニコは気に入っていた。だから、本名である『ノゾミ』を呼び名に使うのは、ほぼ家族だけだった。
だが、1人だけ例外がいた。
夏。アスファルトから陽炎が立ち上る時刻だった。きれいな、まるで車のショールームを少し小さくしたようなバイク屋の前。1台のバイクの脇にしゃがみこんで工具を握っている、丁度自分の父親と同じぐらいの年齢の男性。その人の姿を認めると、ニコは自然と早足になった。近付くのを待たずに声が出る。
「アユミさん」
男性――アユミさん――が顔を上げる。作業着と揃いのキャップのツバをちょっと持ち上げて、目元の汗を拭い、
「……ノゾミか」
立ち上がるアユミさんの前で、ニコは歩を止めた。
「お久しぶりっす」
「お前……暫く見ない間に、またデカくなってねえか?」
胸の辺りから頭のてっぺんまでを視線で撫でられて、ニコは少しくすぐったくなる。
「そうかも。あン時からだと、5~6センチは」
「マジかよ。すげえな」
笑顔のアユミさんが嬉しい。ニコの口許も綻ぶ。
横にあるバイクを示して、ニコは言った。
「バイク屋、始めたンすね」
「ああ。オープンからちょうど1年くらいだな。ずっとやりたくてさ」
「すげえ。アユミさんもバイク乗るンすか」
「昔はな。今はおとなしいもんだよ。近所行くならカブで充分だし」
それでもずっとバイク屋をやりたかったと言うのだから、この人は今でもバイクが大好きなのだとニコは理解する。
整備中らしきバイクを見る。なかなかシャープな「顔」だ。大型で、全体的にメカっぽい。特撮ヒーローが乗っていそうな雰囲気で、純粋にカッコよかった。日差しを反射してピカピカと輝いている。
「これは、お客さんの?」
「そう。定期点検に預けてったヤツ。大事に乗ってくれてて嬉しいよね」
確かに車体はきれいだった。目立つ傷もない。ニコはバイクの向こう側へ回り、その全貌を観察する。
「なんか、イマっぽいっすね」
「だな。なんつうか、現代工業製品って感じだよ」
アユミさんの目を見た。
「例えば?」
「うん。例えば、フレーム。バイクの骨格だな。こいつがアルミ製で、軽くて頑丈ってとことか。スポーツバイク寄りなんだよ、この子は」
「へえ。軽いのいいっすね」
「ああ、けど、もっとこだわって軽く作ってんのがホイール。重さの影響が出やすいのがここだから。ホイールが軽いと加速した時よく回るし、減速も止まりやすい。体感が変わるんだよ」
「あー、回転してるからか……」
「あとは重くなりがちなマフラーとかな。ここ軽いと切り返しがスムーズで扱いやすくなる」
正直、バイクに詳しいわけではない。それでも、アユミさんの解説から想像できるものはあった。
「全部軽けりゃいいってわけじゃないんだろうな……」
「バイクによって性格も違うからな。重さが魅力のヤツもいる。俺はそっちのが好きだね。安定感あるしさ」
へえ、と頷いたニコに、アユミさんが言う。
「機械好きか?」
「え」
「いや。変なとこ食いつくから」
ハハハ、とニコは笑う。バイクが好きなわけじゃないことはとっくにバレているようだ。もちろん、バイク好きを装ったつもりもない。
「俺、材料工学なンすよ、専攻が」
「材料。……大学で?」
「そっす。だから軽量化とか耐久性とか、つい」
今度はアユミさんが声をあげて笑った。ニコの腰を軽く叩く。
「いいねいいね、そういうの。構造の話なんか滅多にしねえから嬉しくなっちゃうよ。バイク乗りはさ、音がどうだとか、どれが速いだとか、そういう話題ばっかだもん。ウチのもさ……ああ」
そこでアユミさんは言葉を切り、
「お前、俺とバイクの話しに来たんじゃねえよな」
いや、とニコは咄嗟に首を振る。
「アユミさんにも会いたかったから」
「ンなこと言っても何も出ねえよ。……メグミなら自転車屋の方」
そう言って、アユミさんはバイク屋の隣の建物を指した。
もともと、ここには自転車屋しかなかった。ニコがアユミさんと出会ったのはその頃のことだ。アユミさんが父親から継いだ店だと聞いている。
「今ならアイツひとりじゃねえかな。オッサンたちはお茶の時間だろ」
「オッサンって、前からいたアユミさんの友達?」
「ん。俺の昔のバイク仲間で従業員だよ。んで、メグミの上司」
もう一度自転車屋の方を見やる。建ったばかりのバイク屋に比べれば年季が入っているが、個人経営にしては小綺麗で整った店構えだ。これもアユミさんのこだわりなのだとニコは思っている。
「ダ……えと、メグミ、仕事中?」
「まあな。普通社会人はこの時間、仕事中だろ」
「……そっすね」
「いいから行ってきな。店の中は涼しいぞ」
促されてその場を離れるのはやぶさかでなかった。しかし、ニコは爪先を自転車屋の方に向けたものの、もう一度アユミさんを見る。
「……アイツ、元気にしてます?」
アユミさんは不思議そうにニコを見た。
「だから会えば分かるだろ。……元気だよ」
「まあ、そっか」
「なあ。お前たち、喧嘩でもしたの?」
そう聞かれる理由も分からないではない。一時期はしょっちゅうここに来て、『メグミ』と一緒にいた。だが、突然それがなくなった。当時から自分によくしてくれていたアユミさんが、自分たちの関係が険悪なものになったと解釈しても、不思議ではない。
「喧嘩、とは違うかな……多分」
「ふうん」
別に俺はアイツに腹立てたとかねえし。と、ニコは心の中で呟く。
「とりあえず、行ってみますわ」
「ああ。ごゆっくり」
アユミさんが工具を持ち直すのを見て、ニコは今度こそ、歩き出した。自転車屋に向かって。
「…………は?」
信じられないものを見た、という顔で、ダンがこちらを見ている。ニコとしては、もし叶うなら、「おぉ、ニコじゃん」とか、「久しぶりじゃん」とか、そういった言葉をかけてほしいと思っていたのだが、そうならないことも予期できていたので、特別驚きもショックを覚えもしなかった。ただ、思う。自分たちが高校を卒業したあの頃から、変わっていないものがある、と。
「……おう」
自転車屋の店内は独特のにおいがした。機械油と、新品の自転車のにおいだ。
だが、変わったものもある。ダンは今、ここで働いている。大学生をやっている自分とは違い、彼は社会に出て仕事をしている。父親であるアユミさんと同じ作業着姿のダンを見て、ニコはそれを意識した。数か月前まで同じ制服を着て、同じ学校に通っていたはずなのに、今はもう、違う世界にいるのだと。
ダンは店の奥にいた。アユミさんと同じように工具を持って、一台の自転車と向かい合っていた。そこに黙って近づいていくニコに気付いたダンは、一瞬、「いらっしゃいませ」と言おうとしたのだと思う。言いかけ、しかし、ニコを見て、固まった。そして、「…………は?」だ。
「元気かよ」
尋ねても、ダンはまだ不可解そうな顔でニコを見つめたままだった。この返事が返ってこない感じも、予想がついていた。と言うより、そういうダンしか最近は見ていなかったから、返事をされない前提で接する癖がついていたのだと思う。
「似合ってんな、作業着」
随分前から言っていた。親父の自転車屋で一緒に働くのだと。
ダンはふいと視線を逸らせた。
「……別に、コレ似合っても……」
「…………」
その横顔を見つめる。返事が、あった。一歩、ダンに歩み寄る。
「バイク屋にいんのかと思ってた」
「……なんで」
「バイク好きそうだったから」
知らず鼓動が上がっていた。次から次へと言葉を次ぎたい衝動に駆られる。だが、自分が喋りたいわけではない。
「……アレは、親父の店だから」
「けど、好きなんじゃねえの。バイク」
「……まあ」
視線は交わらなかった。しかし、それでもよかった。
ダンは手を止めて、その場に固定されたかのように動かなかった。この奇妙な緊張感は、前にもあった。
「俺、ちょうど試験終わったとこでさ。少し時間あったから」
「…………」
「顔見てぇなと思って」
「…………」
微動だにしないのに、ダンの張り詰めた空気だけが強くなる。
店のドアが開いた。
二人の男性が入ってくる。彼等も作業着を着ていた。ダンと、その傍にいるニコを認めて声を掛けてきた。
「おう、メグミ。休憩していいってアユミが言ってたぞ」
「え……」
「お客さんなんだろ。ゆっくりしてきな」
代われ代われ、とダンを追い立てるようにして、『メグミの上司』の一人が整備中の自転車の前に陣取る。やむなく立ち上がったダンは、躊躇いながらも帽子を脱いだ。すみません、と彼等に頭を下げる。そして、ニコを見ないまま、スタスタと店の外へと向かっていった。
「すみません、邪魔して」
ニコは口早にそう言い置いて、ダンを追った。
表に出た瞬間、今日の気温を思い出して眉をしかめる。ダンは少し先で立ち止まっていた。
「ダン……」
「仕事中だから」
「あぁ……ごめん」
「…………」
「…………」
ダンが困惑の滲んだ目で睨んでくる。帰れ、と言われているような気がする。でも、嫌だった。
「長居しねえから」
「…………」
「ほんとだって」
ダンの目がバイク屋の方を向く。アユミさんはこちらに背を向けて、まだバイクをいじっていた。帽子を取り、額の汗を袖で拭っている。
小さな溜息が聞こえた。ダンが再び歩き出す。自転車屋の裏手に回る。そこに階段があることをニコは知っていた。店の2階と3階が住居なのだ。ダンの部屋は3階にある。
不機嫌そうな足取りで階段を上がり、ダンは3階の扉を開いた。靴を脱ぎ、自室に向かう。ニコもそれに続いた。エアコンの点いていない部屋は蒸していたが、ダンは習慣のように手慣れた仕草でその電源を入れた。そのまま、部屋のドアに近いベッドの端に腰を下ろした。ニコはダンの前を素通りして、奥の窓辺まで進んでいく。ここからの景色は記憶に残っている。前に見た時から、町並みはほとんど変わっていないように思う。駅からは徒歩圏内だが、落ち着いた住宅街だ。やたらと開発の手が伸びてくる地域でもないのだろう。
「……で?」
ダンの短く低い声がした。ニコは振り向いてその顔を見る。見えたのはやはり横顔だ。
「……なんかあったわけ」
突然の訪問の理由を問われている。そうと分かると、冷たいものに背中を撫でられたような気分になった。理由がなければ来ることはないだろうと、言外にそう言われているようで。
「さっき言っただろ」
「…………」
「たまには会いてぇじゃん」
「…………」
「まぁ……仕事中だったのはゴメンだけど」
窓から離れて、ダンに近寄る。ダンの肩が強張るのが分かる。ニコはそれを知りながらも、ベッドに腰を下ろした。隣同士に座ると、ダンが少し顔を背けた。
「割と忙しいのかよ、仕事」
「……まあ」
「新入社員だもんな。覚えること多いとか」
「そりゃ……まあ」
「けど休みはあんだろ」
「……あるよ」
「んじゃ、次は休みの日に来るわ」
「…………」
ダンは深く俯いてしまう。
「あぁ、けど……夏は俺も忙しいかも。バスケの合宿とかあってよ」
「…………」
「大学バスケさぁ、高校ン時と全然違くて。俺、まだ戦力外なんよな」
少しだけ、ダンの顎が持ち上がった気がした。
「だから、夏は一回死ぬくらいの気持ちでやんねえとなわけ」
小さく頷く気配があった。
「でもさ、筋肉は結構育ってんだぜ。推薦決まってからずっとジム行っててさ」
ニコはさらっとした生地のTシャツの袖を捲り上げた。肩から上腕にかけて盛り上がる筋肉を、ダンの作業着の腕に戯れにぶつけてみる。
浅いのに、大きな吐息。ダンはやにわに立ち上がり、ベッドを離れた。シンプルなブラックのチェストの前で、ニコに背を向けたまま足を止める。その首元が赤いように見えた。呼吸もどこか苦しそうだった。エアコンは少しずつ利いてきているが、快適な涼しさにはもう少し時間が掛かりそうだ。気分が悪いのではないかと案じたニコは、自分も腰を浮かしかける。
「……だから、来なくていいから」
押し出されるようなその言葉に、また、背中が冷える。
「いいってなんだよ」
「……いや、……だから……無理、には」
無理には、来なくていい。そう言葉を繋ぎ合わせる。ニコは小さく溜息を吐いた。
「休みの日、メールしろよ」
「…………」
「お前が教えねえならアユミさんに聞くから」
「なんだよ、それ……」
振り向くダンに、ニコは笑って見せる。
ダンの顔を見る。顔色が悪いわけではなさそうだった。ただ、少しの間目を逸らせなくなる。何とも表現し難い表情がそこにある。前にもあった。ダンが自分に向けるその表情は、
一言で言えば、「すげえイイ顔」だ。
今度こそニコは腰を上げた。
「今度さ、お前の好きなバイク教えろよ」
「…………」
「もう乗ってんの?」
「……いや。まだ」
「そっか」
身構えるダンの空気を察して、ニコはそのままドアへと向かう。
「んじゃ、またな」
「…………」
「またな」
ダンは少し躊躇った末に、小さな声で言った。
「……また」
続く
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