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㉙あの頃、そしてこれから

 ヘルメットの中で、ダンの横顔が微笑んでいた。その向こうには、濃青の空が広がっている。  ダンと、バイクと、ブルーアワー。急に1つの世界が目の前に現れたようだった。  ダンはこれを見に来たのだ。ニコは自然にそう思い、しばらく、ダンと一緒に玉ねぎ畑の上空に広がる刹那の色を見つめていた。  しかし、これだけでなかったことを、ニコはやがて知ることになる。  徐々に暗くなっていく空を見ながら、ダンはまた少しバイクを走らせた。明るいうちに通った道にもう一度入る。車両も人もいよいよ姿を消していた。極たまに乗用車が通るくらいで、自分たちの乗るバイクの他に動くものはほぼない。到着した時に橋の上から見たのと同じものだろうか、フレアスタックが近くにあった。夜空に向かって炎が上がり、照明の動きのせいか明滅して見える。それから、マンションのような形状の配管群。さっき見たのとはまるで趣を変えていた。 「……こんなふうになるんだ」  呟いたのはダンだった。さっきまでくっきりと見えていた配管は闇の中に沈んでいる。代わりに、工場の灯りに照らされた太い管だけがよく見える。夜空を背景に、建物の輪郭が黒く佇んでいた。灯りは規則的に並んでいて、強く光っていた。そこに、明滅するフレアのオレンジ色が時折重なる。 「ニコ。ちょっと、降りていい?」  ダンは、もうゲートが閉まっている向かいの工場の傍にバイクを停めた。ダンの合図でニコはシートを降りる。互いにヘルメットを外し、再び工場を見上げた。 「やっぱり、ここに来て正解だったと思う」  ダンが言った。 「親父が話してたクルーズも考えてみたんだけど、こうやって近くから見た方が迫力あるかなと思って」 「この距離感はやべえよな」 「ニコが配管、配管って言ってたから、近さは重要だと思ったんだよ」  そう言って、ダンは輝く工場をじっくりと見つめた。 「夜景も良い。思ってたよりずっとすげえ」 「すげえな」 「きれいな写真はいっぱい見たけど……自分の目で見るのがいちばん感動する」  ニコはまたダンを見た。ヘルメットを外したいつものダンの顔がそこにある。その目が、工場の灯りを映してキラキラしていた。 「あれさ。中に人、いないよな」  え、とニコは聞き返し、工場を見る。 「まあ、終業時間過ぎてんなら……せいぜい夜勤の誰かがいる程度じゃね」 「じゃなくて。人間が動かしてる感じしないじゃん」  ダンの言わんとすることを考えているうち、ニコは手を取られた。 「ちょっとあっちも見よう」  そのまま徒歩で、来た道を引き返す。歩きながらダンは言った。 「想像しろよ。あの工場の中で動いてるのは人間じゃなくて、ロボットとかそういうやつ」 「ロボット?」 「そう。小回りの利く小型のロボットが何台もいて、独自の言語で会話しながら機械を動かしてる。で、もし俺たちがあの中に迷い込んだとしたら、その時は人語で喋ってくれる」 「だいぶファンタジーだな」 「うん。近未来的ではあるんだけど、でも……レトロ感も感じる。工場の外観とか見ると結構錆びついてたりするとこ多いし。なんつうの……スチームパンク? もし、工場がもっと稼働してる昼の時間なら、あの塔から煙ももっと出てるかもしれないから、余計そういう雰囲気強くなると思うんだけど……」  1区画歩いたところで、別の工場が現れた。正に、蒸留塔が立ち、灯りの円い光が無数に輝いていた。  ダンは足を止め、それを指した。 「そういう気持ちで見ると、幻想的だろ」  人の存在しない工場。立ち働くロボットたち。近未来SF感。前にダンがそんな言葉を遣っていたのを思い出した。  ダンが工場夜景に何を見ているのか、何を味わっているのか。それを知り、ニコははっきりと思う。ダンは、これを見たかったのだ。  道は暗かった。街灯がないせいだ。それでも、ところどころに建つ工場の灯りがあるから、目が利かないということもない。バイクを少し留守番させて、ヘルメットを手に、ふたりはまた少し歩いた。先ほど見つけた海の見える場所まで行き、立ち止まる。夜風が吹きすぎた。暗い海と、対岸に見える建物の灯りを見ながら、ニコは言った。 「ダンが言ってたこと、マジで正解。俺、明るい時間の工場の方が好きかも」 「読みが当たってよかった」 「夜景はお前向きだな」 「ニコが工場夜景に興味あるって言わなかったら見ることもなかったと思うから、……でも、また来る機会があったとしたら、次は昼だけでもいいよ」 「いや。今日みたいなのがいいじゃん。昼は俺、夜はダンが楽しいんだから」  変な遠慮の仕方をするダンに、ニコはそう言った。  それから、夕方出掛けてから今この時間までのことを思い返す。 「ダンってさ」 「ん」 「時々急に面白いこと言うよな」 「え」 「玉ねぎとか」 「あれは玉ねぎだろ」 「そういうの、高校ン時からそうだったなって、思い出した」  一緒に笑い合っていた、高校1年のあの頃から。ニコはダンを面白いヤツだと思っていた。好きなものに一途なところも人として面白かったが、単純に、時々面白いことを言うやつ、とも思っていたのだ。  すると、ダンは小さく笑った。 「違うよ、それ」 「は。なにがだよ」 「俺が思い付きで言ったことを、ニコが笑ったり、ツッコんだりして、面白い話にしてくれただけだろ」 「…………」 「俺は別に面白い話をしようと思ってたわけじゃないから」  ニコは驚く。そして、すぐに言い返した。 「いや、嘘だろ。お前フツーに面白いこと言うじゃん」 「いやいや」 「いやいやいや」  ふたりして笑ってしまう。この際真実はどちらでもいい。それよりも、こうして一緒に笑っていることの方が、よほど心地良い。あの頃みたいだ、とニコは思った。その感覚をダンも思い出したのか、ふっと視線をニコに寄越した。その視線に、ニコは応える。 「楽しいな、マジで」 「うん」  ダンは少し、目を下げた。沈黙があった。波の音が聞こえる。 「もし……あのまま仲良かったら」  ダンが静かに言った。 「もっと、いろんなとこ出掛けたりして、思い出も、いっぱい増えてたのかも」  途切れた時間。それがもし、続いていたなら。  ニコは首を傾げて見せる。 「どうだろうな。高校ン時は行動範囲も決まってたし、遊ぶ場所も大体同じだったじゃん。卒業後の進路も今と変わんなかっただろ。お前は仕事して、俺は大学でバスケして、結局こういうペースでしか出掛けらんなかったんじゃね?」  慎み深く微笑んで、ダンは海の面に目を馳せる。 「だとしても……友達って時間を勝手になかったことにしたのは、悪かったと思ってて……」 「それはもう……」 「でも無理だったんだよ。あの時は。本当に」  ニコは口を噤んだ。 「ニコと一緒にいるのがマジで楽しかったけど、俺が好きになったせいで、怖い気持ちの方がデカくなったから。俺がどういうヤツか本当のこと知ったら、絶対お前に嫌われると思った。それがどうしても嫌でさ」 「…………」 「隠し通せる自信もなくて、……だったら、お前のこと避けて、無視して、急に冷たくなった酷いヤツだって嫌われた方が、ずっとマシだった」  ダンの隣で、ニコは黙って頷いた。  ダンの視線が、再びニコに戻ってきた。 「だけど、今は少し、違うこと思ってる」 「なに」 「俺の『絶対』、絶対じゃなかったのかもって」 「うん」 「お前に言われたし。俺の『絶対』、あてにならねえって」  微笑むニコに、ダンの表情も緩む。車が1台、通り過ぎていった。 「さっき言ったみたいに、俺が言うことにお前が笑ってくれたりとか、去年会いに来てくれた後のこととか、全部ひっくるめて考えるとさ。……ニコって、ずっと俺の味方でいてくれたんだって、そう思ってさ」 「友達だったからな」 「……うん」 「正直、今もそういう気持ちあるぜ、俺」 「わかる」  ダンが体ごとこちらを向いた。 「ずっと、いろいろ考えてきたけどさ。……俺、確かに、お前を好きになったけど……」 「うん」 「友達をやめたいわけじゃないんだって、思った」  わかる、と今度はニコが言った。何か、心の中で解れていくものがある気がした。  ニコは言う。 「去年の夏、お前に会いに行ったじゃん」 「うん」 「大学入って3ヵ月くらい経ってさ、講義始まって、バスケ部始まって、バイトも始めて、いろんなことあってさ。そういうの、誰かに話したくなるだろ。友達でも家族でも誰でもいいんだけど、あぁ今誰かと話してぇなって考えた時に、……ダンのこと思い出したんだよ」 「…………」 「前からずっとそう。今日こういうことあってさー、みたいなどうでもいい話も、もうちょい大事めな話でも、お前に聞いてほしいっていつも思う」  ダンは小さく、しかし何度も肯いてくれた。それから、両腕にヘルメットを抱えて、また少し海を見る。 「ニコと俺はもともと友達で、……世間で言うところの、親友、みたいなもんかな」 「かもな」 「でも、今は少し形を変えてて、これも世間的に言えば……」 「恋人かな」 「だとしたら、……だとしても。親友から恋人に変わったってわけじゃ、ないと思う」  ニコはダンを見つめた。結び目が、ひとつずつ解けていく。ダンはまっすぐに海を見つめて、1本になった糸を確かめるように言った。 「どっちでもいい。どっちもそうだから。ニコは俺の親友で、恋人なんだと思う」  ダンの肩に手を乗せる。 「呼び方も何でもいいよな」 「うん」 「親友と恋人のハイブリッドってことだろ。ちょっとかっけえじゃん」  ふたりで笑い合った。  ダンがニコに言う。 「俺は、お前の味方を、長い間放棄したけど。今は、ちゃんと味方でいたい」 「おう」  ニコの手を肩に乗せ、笑顔のまま、ダンは続けた。 「この前、お前ン家行って思ったんだよ。なんか、この人たちも味方っぽいって」 「ウチ?」 「そう。お前の家族はお前にとっての味方だろ。だったら、俺にとっても、少なくとも敵ではないって言うか」 「味方の味方は、味方。みてえなことか」 「ややこしいけど、そう」  それなら、とニコはダンの横顔に言った。 「俺にとってのアユミさんも一緒。あの人は味方だって思う」  あぁ、とダンは吐息交じりに言い、また黙った。その肩に少し力が籠るのが分かった。  今度の沈黙は長かった。ダンは海を見、俯き、唇を噛む。ヘルメットを大事そうに抱え、そっと顎を乗せる。強い風が一度、自分たちの背を押した。  ニコはダンの肩から手を下ろし、黙って海の向こうを見つめて待った。 「……俺にとっての味方っていうのは……」  ダンが静かに言った。 「俺が持ってる条件を、無視してくれる人」  ニコはダンを見る。 「条件ってなに」 「俺はさ……、高校の時も今も、多分、そんなに人から嫌われてる方じゃなかったと思う。まあ、特別好かれてはなかったとしても、疎まれたり外されたりする感じじゃないって言うか」 「うん」 「でも、それって、条件があって。俺が普通に人の中にいられるのは、みんなが俺の隠してる部分を知らないから」 「…………」 「俺がゲイだって知らないから、みんな、俺を普通の人と同じだと思って扱ってくれる。俺はずっと、そう思ってきた」  ニコはダンを見つめ続けていた。ダンの小さな声が言葉を次ぐ。 「だから、俺にとって本当の味方っていうのは、俺の秘密を知っても、隣や、傍にいてくれる人のこと」 「…………」 「お前みたいに」  ニコはダンの腕を掴んだ。驚いたようにこちらを見るダンがヘルメットを抱く腕を下ろす。ニコは片腕でその身を抱き寄せた。暗い夜の、人気のない工場地帯ではあっても、ダンが屋外での抱擁を好まないことは分かっていた。でも、気持ちが先に動いていた。それに、この気持ちの種類を思えば、恥じることはないはずだった。  ごめん、と言って体を離し、ニコはそのまま俯いてしまう。ダンは微かに笑い、ニコのジャケットの袖口を握る。 「……なんでニコがそんな顔するの」 「……なんでかな」  胸が苦しかった。同情というには、痛みが強すぎる。 「ニコ」 「…………」 「続き、聞いてほしいんだけど」  肯いたニコに、ダンは言った。 「ニコはさ。さっきも言ったけど、俺の『絶対』を全部覆してきた人」 「…………」 「俺の気持ちを知ったら絶対離れてくと思った。でも、また会いに来た」 「…………」 「男同士のセックスがどんな感じか分かれば絶対無理になると思った。でも、続きをしに来た」 「……ハハ」 「俺がゲイだって知ったら絶対嫌われると思ったのに、……そうならなかった」  涙が、こぼれそうになった。一度強く目を瞑り、夜空を仰ぐ。ダンが握っているままの袖を思う。ああ。感情が伝わってくるのはここからだ。 「ニコは、俺を救ってくれた最大の味方」 「…………」 「だから、そういうお前が、味方だって言うなら……」  ダンの手が、袖から離れ、ニコの手を握り直す。 「俺……親父に話してみようかな」 「……お前のこと?」 「うん。……あと、ニコのことも」  ダンの気弱そうな笑顔がそこにあった。 「俺、親父を信頼してないわけじゃないよ。寧ろ、信頼しかしてない。あの人はずっと家で仕事してたから、ガキの時面倒見てくれた大半は親父だし、仕事就く時も、就いてからも世話焼いてくれたし。バイクのこともそう。俺を甘やかさないで、でも尊重はしてくれて、そうやって……俺の今までをずっとそばで見守っててくれた人だよ」  ニコは頷く。 「だからこそ、知られるのがいちばん怖い人だと思ってた。息子の秘密を知ってガッカリさせたくなくて。こんな息子だったのかって、嫌われたくなくて……」  ダンの瞳も潤みかけるのを見て、ニコは諦めた。瞼から雫が零れ落ちる。  ダンの手に力がこもる。 「でもさ。俺の『絶対こうなる』が、あてにならないってニコが言うなら」 「……うん」  ダンはにっこりと笑い、 「話してみようかなって思っただけなのに、もうだいぶ気分良い」  次のハグは、ダンからだった。  友達としてのハグか。それとも恋人としてか。やはり、どちらでも構わなかった。  ニコの体を抱き締めながら、泣くなよ、とダンが言った。泣いてねえよ、とニコは言った。 「ダン」 「なに」  互いに身を離す。 「お願いがあんだけどさ」 「なに」 「アユミさんに話す時、俺も一緒にいていい?」  すると、ダンは目を円くし、けれど、すぐに笑顔になった。 「めっちゃ心強い」  それから、ふたりはバイクに戻った。ヘルメットをかぶり、ニコはまたダンの後ろに跨る。  夜の静かな工場地帯を、元来た方へ戻っていく。ニコが歓声を上げた製油所の夜景もきれいだった。今度はダンの方が「すげえー」と声を出している。初めに見つけた大きな玉ねぎも、夜に見ると不思議な佇まいだった。玉ねぎだと思って見るとやけにシュールだ。そして、橋を渡り、街へと戻る。高速道路。家電量販店の看板。乗用車が走り、人が歩道を歩いている。 「なあ。今日のがダンの選んだベストスポットってことだろ」 「まあな」 「他の候補もあったのかよ」 「この辺工場多いから、別のところもあったよ。けど、今日みたいに近くから見るっていうより、遠景で工場群を見るってとこのが多そうだった」 「そっちもそのうち行こうぜ」 「いいね」  ヘルメット越しの会話にも随分慣れた。ダンの大事なバイクに乗れたことを、ニコはもう一度感謝した。 「次は俺が車出してもいいよ」 「それもいいな」 「あ、でも……バイクみたいに停まりづれえか」 「速度は落ちるけど、シェアサイクルもありじゃね?」 「だったらお前ン家にチャリいっぱいあんじゃん!」 「レンタルはしてねえんだけど」 「あ、そっか」  笑いながら夜の街を行く。  景色が少しずつ、見慣れたものに変わっていった。 「夏になるとバイクじゃ暑いから。やっぱりニコが車出してくれるのがいいかも」 「おう、そうしようぜ」  やがて、バイクは住宅街へと入っていった。ダンの家の最寄り駅を過ぎ、歩き慣れた道を、今日はバイクで通る。  ニコを乗せたまま、バイクはダンの家に到着した。バイク屋の前のスペースで停車し、エンジンが切られ、バイクは静かになった。  ニコが先に降りる。それから、ダンも。ヘルメットを外すと、ダンがそれを預かってくれた。  ふと見ると、シャッターが下りた後のバイク屋の灯りの下に、アユミさんの姿が見えた。 1台のバイクの脇に立ち、軍手をはめた手にタオルを持って、こちらに振っている。 「おかえり」                              完

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