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第1話
ハッと息を呑み、目を見開く。
視界に飛び込んできたのは、暗闇の中でぼんやりと発光するパソコンのディスプレイだった。鼓動がうるさい。身体中にじっとりと不快な汗が滲み、呼吸がどんどん浅くなっていく。
「最上さん、聞こえてますか」
画面には、ビデオ会議の参加者たちの顔が並んでいた。一人一人の表情は霧がかかったように不明瞭だが、誰かが俺を呼んでいる。
「最上さん?」
返事を、しなきゃいけない。
そう思うのに、喉が引き攣って声が出ない。頭をぐわんぐわんと強く揺さぶられているような眩暈に襲われる。
ディスプレイの向こう側では、きっと誰もが俺を——パソコンの前に座っているのが精一杯の無能な男を——呆れた目で見ているはずだ。
「参ったな、最上さん。何か言ってくれないと分かりませんよ」
「説明、難しかったですか? もう一度言いますね」
「そもそもですけど、最上さんのやり方って——」
やめろ。やめてくれ。
聞きたくない。何も考えたくない。
思考に真っ黒な幕が下りていく。冷たい水底へ沈んでいくように、息ができなくなる。
助けてくれ。誰か。
誰か、誰か……。
「——っ!」
ようやく正常な空気を吸い込み、目を開く。そこにあったのは光るディスプレイではなく、自宅の寝室の、暗い天井だった。
寝巻き代わりに着ているTシャツが、冷や汗でぐっしょりと肌に張り付いて気持ち悪い。不足した酸素を求めるように、ハァ、ハァと荒い呼吸音だけが室内に響く。
「……落ち着け。大丈夫だ」
自分に言い聞かせる。ここには誰もいない。仕事のことも、今は考えなくていい。大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
だが、追い払おうとすればするほど、自分を嘲笑する声が耳元で蘇る。夢の中で、ただ座っていることしかできなかった惨めな自分。呆れ顔の参加者たち。彼ら、彼女らの笑い声が、頭の中でどんどん膨れ上がっていく。
『最上さーん、何とか言ってくださいよ』
『もしかしてミュートしてます? 解除の仕方、分かりますか?』
誰もが俺を馬鹿にしている。なぜ、こんな簡単なことすらできないのか。自分でも自分にうんざりする。
——こんな俺に、生きている価値なんてあるんだろうか。
——本当に俺は、生きていていいんだろうか。
「最近、眠れていますか?」
白を基調とした清潔な診察室。向き合う医師は、こちらを見ることなくパソコンのキーボードを叩いている。
カタカタ、カタカタ。
無機質な打鍵音が室内に響く。その音を聞くだけで、心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。
こんなところにいていいのか。何かしなきゃ、早くしなきゃ。
逃げ出したいような焦燥感に駆られ、俺はTシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。シャワーを浴びてくるべきだった。寝汗が残ったままの生地が肌に張り付いて、吐き気がする。
医師の指が止まり、静寂が訪れる。淡々とした口調で、問いが重ねられた。慌てて声を振り絞る。
「あの、それが……寝てもすぐに目が覚めてしまって。変な夢も、よく見ます」
「変な夢、とは?」
「ビデオ会議の、画面が……その、ずっと目の前にあって。離れなくて……」
きちんと答えなければ。整理して、分かりやすく伝えなければ。そう思うほど鼓動はうるさくなり、言葉が喉の奥で渋滞する。
結局、それ以上の説明は出てこなかった。
「話したくないことは、話さなくても大丈夫ですよ」
「は、あ、ええと……」
「眠れないのは辛いですから、少しお薬を強くしましょうか」
「……はい」
もう少しだけ、待ってほしかった。このぐちゃぐちゃになった気持ちを、ゆっくりでいいから聞いてほしかった。
けれど、そんなささやかな願いすら、今の俺には口にすることができない。
「無理しないでください。焦らなくていいですから。職場復帰については、もう少し様子を見ましょう」
医師の言葉に力なく頭を下げる。
様子を見る……もうずっと、その繰り返しだ。きっと、誰も俺が仕事に戻ることなんて待っていないんだろう。
職場の人たちも。
目の前の医師ですらも。
処方薬を受け取って薬局を出たのは、ちょうどお昼時だった。
ビジネス街に近いこの界隈では、正午を過ぎるとビルから一斉にスーツ姿の人々が溢れ出してくる。眩いほどの『日常』を闊歩する彼らの姿を直視したくなくて、俺は自然と足早になった。
午前中の涼しさはどこへやら、日は高く昇り、九月とは思えない酷暑が街を焼き尽くしている。
睡眠不足の体にこの暑さは毒だ。歩くほどに、せり上がってくるような吐き気が腹の底を揺さぶった。
自宅マンションまではあと少し。だが、もう一歩も進めないかもしれない——そう思った時、コンビニの看板が目に入った。
きっと店内は空調がきいて涼しいだろう。逃げ込むようにそのコンビニへ足を踏み入れる。
明るい入店音が静かな店内に不自然なほど大きく響いて、ビクリと肩が跳ねてしまった。品出しをしていた店員の視線がこちらを向く。突き刺さるようなその視線から逃げるように、慌てて陳列棚の影へ移動した。
暑さから逃れ、空調の効いた店内へ逃げ込んだことで、体調は随分ましになった。よかった、きっとあのままではやがて動けなくなっていただろう。
このまま手ぶらで出るのも居心地が悪いため、何か買って帰ろうと思い、目についた冷蔵ケースから馴染みのあるビールを掴もうとした。
が、すぐに思い出してその手を引っ込める。処方されている薬との相性が悪いのか、酒を飲んだ日は特に悪夢にうなされることになる。止められているわけではないが、あまり飲まないに越したことはない。
代わりにその隣のケースにあった炭酸飲料を二本手に取り、レジへ向かった。先ほどの店員がやって来て無言で会計を済ませる。
無愛想なその態度は、品出し作業を中断させられたことへの不機嫌さからか、それともいかにも働いていなさそうな身なりの男が、平日の真っ昼間にフラフラと出歩いていることへの軽蔑からか……いいや、考えすぎだ。余計な思考を振り払い、レジ袋を下げて再び外へ出た。
夏の名残のような熱気が、容赦なく肌にまとわりつく。ようやくマンションのエントランスに辿り着き、ポケットに手を突っ込んだ。
「……あれ」
あるはずの鍵がない。このマンションはICタグが埋め込まれた鍵を、リーダーにかざさなければ扉は開かない。
焦ってショルダーバッグの中をまさぐるが、指先に触れるものにそれらしき感触が見当たらない。どこかで落としたのだろうか。
一度緩みかけた気が張り詰め、体調は一気に悪化していく。地面がぐにゃりと歪み、視界がチカチカと明滅し始めた。
早く横になりたい。その一心で乱暴に鞄をかき回していると、背後にすっと影が落ちた。
ハッとして振り返る。そこに立っていたのは、一人の男だった。
百八十センチ近い俺よりもさらに背が高い。細身の体に、黒を基調としたストリートファッション。紫色の混じった前髪の奥から、整った瞳がこちらを見下ろしている。
マスク越しでもわかる、圧倒的な若さと華やかさを纏った男。彼に見覚えがあった。俺の隣の部屋に住んでいる若者だ。
いかにも最近の若者らしいおしゃれな風貌の彼に比べて、平日の昼間に、ボサボサの髪と無精髭、くたびれたTシャツ姿のおじさんが俺だ。彼にどう映っているかを想像しただけで、心臓が嫌な跳ね方をした。
「あ、す、すんません」
場所を譲り、逃げるように視線を落とす。
俺のような存在は、彼らにとってきっと侮蔑の対象でしかないのだ。ビデオ会議で嘲笑されたあの声が、また耳の奥でフラッシュバックする。
ピーッという開錠音。男は軽く会釈をして中に入っていった。ホッと息を吐き、再び鞄に手を突っ込む。
だが、どれだけ探してもやはり鍵は見つからない。絶望感に襲われ、膝が震えだしたその時。
「あの」
低く、落ち着いた声が届いた。顔を上げると、とっくに中へ入ったと思っていた彼が、エントランスの扉を押さえてこちらを見ていた。
「隣に住んでる方ですよね。……入らないんですか」
「あっ……は、はい。すみません」
俺を待っていてくれたのか。急かされるように扉をくぐり、廊下を歩きエレベーターに乗り込む。
同じエレベーターに乗った彼は、スマートに目的階のボタンを押してくれていた。狭い密室に沈黙が流れる。
体調はもう限界だった。一刻も早く、自分の部屋のベッドに倒れ込みたい。
祈るような気持ちで、もう一度だけ、もう一度だけと鞄の中をまさぐる。だが、指先が虚しく空を切るたびに、湿った熱気が肺に溜まっていく。
扉が開き、居住階に到着した。ふらつく足取りでエレベーターを降りようとした時、背後から声をかけられた。
「あの……大丈夫ですか。顔色、すごく悪いですけど」
振り返ると、彼は訝しげな、だが明確にこちらを案じる瞳で俺を覗き込んでいた。
「大丈夫です、ええと……鍵が、見つからなくて……」
最後まで言い切ることはできなかった。視界が激しく回転する。足の力が抜け、膝が冷たい廊下にガクンと落ちた。手から放り出されたコンビニ袋の炭酸飲料が床を転がっていく。
「遼馬さん……っ!」
そのまま倒れ込む寸前、強い力で体を支えられた。ふわりと、スパイシーで清潔な香りが鼻腔をくすぐる。
遠のいていく意識の縁で、名前を呼ばれた気がした。
ここにいるのはお互いに名前も知らない隣人だけだ。では、一体誰が俺の名前を呼んだのかと、そんな疑問を抱く余裕すらなく、視界はぷつりと、テレビの電源を切ったように真っ暗になった。
「大丈夫ですか、最上さん」
ふいに声をかけられ、重い頭を持ち上げる。
久々に出社したオフィスの自席。霞んでチカチカする視界の向こうに、その男は立っていた。
この春から所属することになったチームのリーダー。エンジニア一筋で裏方を歩んできた俺とは対照的に、入社以来、華々しい新規プロジェクトを次々と立ち上げてきた、やり手の若手社員だ。
人懐っこさを感じさせる垂れ目と、甘ったるい声。手入れの行き届いた茶色の長髪を後ろで一つに結び、すれ違うだけで女性社員が見惚れるような色気を放っている。
彼は俺の仕事を覗き込みながら、慈愛に満ちたような、その実、徹底的に人を見下すための笑みを浮かべていた。
心臓を直に掴まれているような、ゾワリとした緊張が走る。被害妄想かもしれない。だが、何を言っても嘲笑されるという予感が、俺の言葉を奪う。
「この前のミーティングの資料、散々でしたよね。遠慮しないで、困ってることがあれば言ってくださいよ」
「あ、ええと……その、どうも」
「だから、そういうのやめてくださいって。最上さんのほうが先輩なんですから、一応」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
一応、先輩。その言葉の端々に、己の手を煩わせるなという拒絶の棘を感じる。慣れない業種で必死に作った資料は、彼らのような最前線の人間から見れば、学生のお遊びレベルだったのだろう。
加えて、不慣れなリモート会議。画面共有すら手こずる俺を、若手たちはあからさまに嘲笑した。スピーカー越しに聞こえてきたあのクスクスという笑い声は、今も耳の奥にこびりついて離れないトラウマだ。
じっとりと嫌な汗が滲む。苦しい。息ができない。キーボードを叩く指先が、微かに震え出した。
俺の動揺を愉しむように、彼の口元がニヤリと吊り上がる。肩に、ぽんと軽く手が置かれた。彼は俺の耳元に顔を寄せると、囁くような甘い声で言い放った。
「無駄な作業してないで、もう少し効率よくやりましょうよ。時代遅れなんですよ、あなたのやり方は。ねえ、最上サン?」
「——っ! はっ、」
弾かれたように目を見開く。苦しい。上手く息が吸えない。
それでも必死に肺を動かし、不足した酸素を体内に取り込もうともがく。
「はぁっ、はぁ……っ」
寒くもないのに、全身がガタガタと震えていた。またあの夢だ。リモート会議、新しいオフィス、若者だらけの飲み会——場所は違えど、結末はいつも同じ。
嘲笑され、疎まれ、息ができなくなって目を覚ます。
「……落ち着け。今のは、夢だ」
大丈夫だ。目を覚ませばいつものように、自分の寝室の布団の中に……。
「………?」
何かが違う。視界に広がるのは見覚えのない狭い空間。ベッドを囲む乳白色のカーテン。身じろぎすると腕に違和感があり、視線を落とすと細い管が繋がれていた。その先にあるのは、点滴の袋。
ここは、病院だ。そう理解した瞬間、カーテンが静かに揺れて看護師が姿を現した。
「あ、起きましたね。気分はどうですか? お名前、言えますか?」
答えようとしたが、喉がひどく乾燥していて咳き込んでしまう。
「大丈夫ですか」
背中に添えられた手の温もりに、少しだけ呼吸が落ち着いた。
「すみません、大丈夫です……最上、遼馬です。あの、ここは……」
「病院ですよ。救急で運ばれてきたんです。意識を失う前のこと、覚えていますか?」
看護師の問いに、冴えてきた頭で記憶を辿る。
心療内科の帰り。あまりの暑さに体調を崩し、なんとか自宅マンションまで辿り着いて……。
「エントランスの前で、鍵を探していました。気分が悪くなって、それで……」
確か、同じタイミングで帰宅した隣人に声をかけられたはずだ。話しているうちに限界が訪れ、そこから先の記憶がプツリと途切れている。
「お隣にお住まいの方が、倒れた最上さんを介抱して救急車を呼んでくれたんですよ」
看護師の言葉を聞いて、少しずつ倒れた時のことを思い出した。あの場には同じエレベーターに乗り合わせた彼しかいなかったので、誰かが救急車を呼んでくれたとしたら、看護師の言う通り隣人の彼なのだろう。
しばらくしてやってきた医師も、同じことを俺に教えてくれた。
「軽い熱中症ですね。通報者が体を冷やすなどの適切な応急処置をしてくれたおかげで、大事に至りませんでした。……それと、持ち物から保険証と診察券が見つかりました。心療内科に通われているんですね」
主治医や服用中の薬、そして眠れない夜が続いていることを正直に話すと、医師は難しい顔で頷いた。
「眠れていないなら薬が合っていないのかもしれません。主治医とよく相談してください。今日は点滴が終わって問題なければ帰宅していいですよ」
家族への連絡先を聞かれたが、一人暮らしで実家も遠い。迎えに来てくれる人がいないことを告げると、点滴が終わるのを待って、病院側がタクシーを呼んでくれることになった。
繋がれた管を外す看護師の手元を、ぼんやりと眺める。
「あの……通報してくれた人、というのは」
「ええ、同じマンションの方だそうです。運が良かったですね。今日は暑かったので、発見が遅れていたら重症化していたかもしれませんよ。そうだ、その方からあなたの荷物も預かっています」
看護師はそう言って、俺の鞄と少しシワの寄ったコンビニのレジ袋を差し出した。袋の中を覗くと、あの時買った炭酸飲料が二本、心細そうに横たわっている。
……こんな安物のレジ袋まで拾って、わざわざ救急隊員に預けてくれたのか。
脳裏に、あの隣人の顔が浮かぶ。
派手な髪色、整いすぎた容姿。自分とは住む世界の違う、いかにも『今時の若者』といった風貌の彼。
たまにマンションの共有部ですれ違うこともあったが、他人に興味がなさそうで、どこか冷たそうだなんて印象を抱いていた。
けれど彼は、倒れた俺を放っておかず、それどころか適切な処置までして救ってくれたのだ。なんて人の良い青年なのだろう。勝手な先入観で冷たそうだと決めつけていた自分を恥じる気持ちが込み上げてきた。
どれだけ迷惑をかけたことか。感謝と、それ以上の申し訳なさでないまぜになった心のまま、俺は荷物をまとめて病院を後にした。
外に出ると、黄昏に染まった街が今にも暗闇に呑み込まれようとしていた。ビル影に夕陽が沈み、急速に夜が迫る。
スマホで時間を確認すると、時刻は十八時を過ぎていた。救急で運び込まれてから、随分と長い時間を過ごしてしまったようだ。
日中の過酷な暑さが嘘のように、空気が冷え込んでいる。半袖のTシャツでは肌寒く、ぶるりと身震いして、看護師が手配してくれたタクシーに乗り込んだ。
自宅マンションに到着した頃には、陽は完全に沈み切っていた。エントランスホールで鞄を探り、そこでようやく思い出す。
——そうだ。俺、鍵をなくしたんだ。
探している最中に意識が遠のき、気づいた時には病院のベッドの上だった。改めて鞄の中をひっくり返すように探ってみるが、どこにも見当たらない。
衣服のポケットをすべて探っても、結果は同じだった。心療内科の待合室か、処方箋薬局か、それとも帰り道のコンビニか。保険証や財布を出そうと鞄をかき回した時に、落としてしまったのかもしれない。
そう思い至った瞬間、サッと血の気が引いた。コンビニならまだしも、もし病院で落としていたとしたら、もう今日の診療時間は終わっている。明日まで探しに行くことすらできない。
「なんで、こんなことに……」
鍵をなくしたことにも気づかないなんて。自分の注意力のなさに反吐が出る。
全然だめだ。本当に、俺は何をやってもダメなんだ。だから仕事も上手くいかない。年下の後輩たちをいつも呆れさせて、足を引っ張って。
どうして、こんな当たり前のことすらできないんだろう。なんでこんな欠陥品で生きてるんだろう。俺なんかが、このまま生きていて、いいんだろうか。
俺なんか……。
「遼馬さん!」
ぐにゃりと視界が歪み、体が傾く。
その時、目の前のエントランスドアが開き、焦燥に満ちた声が俺の名前を呼んだ。
ふらついた体が、温かな力にしっかりと受け止められる。ぐるぐる回る視界の向こうにぼんやり映ったのは、今日二度目となる隣人の青年だった。
先ほどはつけていたマスクが外れている。これまでに見かけた時も大抵つけていたので、マスクを外している姿は初めて見たかもしれない。
その素顔は恐ろしく整っていて、若い女性に人気のアイドルのような顔立ちをしていた。大きな口から覗く鋭い八重歯が特徴的で、どこか鮫を連想させる。
彼はその整った顔立ちに、焦りと焦燥を浮かべていた。
「大丈夫ですか、もう一度救急車を……」
「や……大丈夫、大丈夫です。すみません」
彼に支えられ、ようやく体勢を立て直す。
近頃は、ほんの少しの失敗で必要以上に落ち込み、思考が止まってしまう。今のも、そのせいで気が遠のいただけだ。落ち着けば、大丈夫。
俺は深く深呼吸をして、体を離した。
「ちょっとふらついただけです。それと、ありがとうございます。さっきは、その……助けていただいて」
「そんなこと気にしないでください。本当に大丈夫ですか? 顔色、すごく悪いですけど」
彼はまだ、心配そうに俺を覗き込んでいる。
安心させようと笑顔を作ろうとして、俺は、はたと動きを止めた。
——人に笑いかけるなんて、一体いつぶりだろう。ちゃんと、笑えているだろうか。
口の端が笑顔の形を忘れてしまったように、ピクピクと引き攣る。自分の浮かべている表情がきっとひどいものだという自覚が、俺の視線を地面へと逸らさせた。
「本当に、大丈夫です。よくあることなので……。ただ、その、家の鍵が見つからなくて。どうしようかと思ったら、少し気分が……」
話しながら、自分は今、医者や店員以外と会話をしているのだと意識してしまった。
意識した途端、言葉の組み立て方が分からなくなる。声はどんどん小さくなり、自信のなさが露呈していく。
ただの隣人に、こんな面倒な状況の話をされても困るだけだろう。適当にこの場を切り抜けて、早く一人になりたい。
「……本当、大丈夫ですから。どっかで落としたみたいなので、ちょっと探しに行ってきます」
「鍵、どこで落としたか心当たりありますか?」
「えっ」
もごもごとした俺の小声を、彼は真剣な眼差しで拾い上げた。
「調子が悪いなら無理しないで。心当たりがあるなら、俺が探しに行ってきます」
「い、いやいやいや! そこまでしてもらうわけには!」
あまりに予想外な申し出に、思わず大きな声が出た。驚いて顔を上げると、真っ直ぐな彼の視線とかち合う。
普通、ただの隣人にここまで親身になれるだろうか。それも、俺のような見るからに怪しい、くたびれたおじさんを相手に。
何か裏があるのでは? なんて、親切な彼に対して、申し訳ないほどの猜疑心を抱く。この場では冷静に考えをまとめることすらできない。早く一人になりたい。
「本当に大丈夫です、すみません、変な話聞かせて。多分あそこで落としたかなって心当たりもあるんで、それじゃ……」
「あ、じゃあ、俺もついて行きます。それならいいですか?」
「つ、ついて行くって……」
有無を言わせぬ強い視線に、それ以上断る言葉が見つからない。
「それで、どこですか? 心当たりのある場所って」
彼は返事も待たず、エントランスの扉を開けて外へ歩き出してしまった。慌ててその後ろを追いかける。
「えっと、コンビニです。駅へ向かう大通りのところの……」
「じゃああっちですね。道に落ちてないか見ながら行きましょう」
彼はテキパキと段取りを決め、俺の歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。
救急車を呼んでくれただけでも十分良い人だと思っていたが、ここまで来るともはや聖人の域だ。……何も裏がなければ、の話だが。
もしかしたら本当に親切でやっているだけかもしれないことに、ここまで疑いを持ってしまう自分が情けない。未だに状況を冷静に分析しきれず、混乱した頭でとにかく彼の後ろをついていく。
「体調、きつくないですか。無理しないで、休んでからでもいいですよ」
「大丈夫です、すみません。本当に、付き合ってもらっちゃって……」
「気にしないでください。俺がしたくてしてることなんで」
心底そう思っているような、屈託のない返事。八重歯をのぞかせてニコニコと笑う彼の顔は、第一印象の冷たそうだという印象からはガラリと変わって人懐っこさを窺わせた。
同時に、この笑顔に騙されてはいけない、という思いも湧いてきて、胸の奥がザワリと波立つ。人懐っこい、親切そうな振る舞いの奥で、自分を馬鹿にしているのではないかという疑いが拭いきれない。
信頼させてからとんでもない詐欺にひっかけてくるのではないか、と考えて、警戒を解かないまま彼の後ろを歩く。
早くこの状況から抜け出したい、どうかこれから向かうコンビニで鍵が見つかってほしいという俺の切実な願いは、虚しくも外れてしまった。
コンビニへの道中も、店のスタッフへの確認も、その後の交番への届け出も、一切の手がかりは見つからなかった。
「見つからないですね……他に心当たりはありますか?」
「あー、ええと……」
あとは心療内科だが、どうしてもその名前は出しづらかった。精神的な病で通院していることを他人に知られたくないと思ってしまう。
だが、仮にもここまで付き合ってもらっておいて適当な嘘をつくわけにもいかない。
「その、今日は駅前の病院に行っていて……。これだけ暗いと探すのは難しいし、病院も閉まってるんで、今日は諦めてどっかで一晩潰して、明日探してみます」
詳しい名称を伏せて伝えると、彼はいかにも心配です、と言わんばかりの表情を浮かべた。マスクをしていないせいだろうか。初対面の時のクールなイケメンという印象は崩れ、今の彼はまるで主人の帰りを待つ子犬のようにも見える。
「あの、本当、大丈夫です。明日も見つからなければ業者を呼びますし」
思わず彼を安心させようと思ってそう伝えると、それを聞いた彼は不意に顔を輝かせた。
「だったら、一晩うちに泊まってください! 鍵は明日、俺が探しに行きますから」
「へっ、い、いやいや! そういうわけには!」
「もちろん、嫌なら無理にとは言いませんけど」
そう言った瞬間、彼は心底寂しそうな、しゅんとした表情を浮かべた。
その捨てられた子犬のような顔があまりに痛々しくて、俺は断りの言葉を飲み込んでしまった。
気づけば、俺は彼の部屋の敷居を跨いでいた。
「お、お邪魔します……」
「どうぞ。すみません、あんまり綺麗じゃないんですけど」
初めて入る、隣人の部屋。間取りは俺の部屋を反転させたものと同じはずだが、雰囲気は月とすっぽんだった。
ゴミ出しを忘れた袋なんてどこにもなく、どこもかしこも清潔で整頓されている。キッチンだってほとんど自炊をしない俺とは対照的に、お洒落な調味料が使い込まれた様子で整然と並んでいた。
中でも特に目を引いたのは、リビングの一角に組まれた本格的な機材だった。湾曲した三枚のモニター、巨大なスピーカー。シンセサイザーにギター、電子ドラム
趣味の域を遥かに超えた光景だ。何か音楽関係の仕事をしているのだろうか。
「座っててください。何か淹れますね。温かいのと冷たいの、どっちがいいですか?」
「あ、いや、おかまいなく……! 本当に!」
図々しく家まで上がり込んでおいて、これ以上お世話になるわけにはいかない。焦る俺を余所目に、彼は「外は寒かったから温かいのにしましょう。コーヒー飲めますか?」と、テキパキと準備を始めた。
コーヒー豆を丁寧にセットし、専用のケトルから細くお湯を注いでいく。部屋中に、芳醇で上品な香りが漂った。立っていることすら申し訳なくて緊張していた俺の心も、その香りに少しだけ解きほぐされていく。
「遼馬さん?」
「はっ、はい」
いつの間にか、彼は二つのマグカップを手にこちらを見ていた。
「大丈夫ですか? やっぱり、まだ気分が悪いんじゃ……」
「いや、大丈夫! 大丈夫です!」
「とにかく座ってください」
促されるまま、リビングのソファに腰掛ける。驚くほど深く沈み込む、上質なソファだった。
「砂糖とミルク、使いますか?」
「あ、このままで。……ありがとうございます」
彼もソファの端に腰掛け、自分のコーヒーに口をつける。俺もマグカップを持ち上げた。伝わってくる熱が心地いい。
一口含めば、ほのかな苦味と香りが口いっぱいに広がった。体が休まる、優しい味。
なんだか、彼のイメージそのもののような味だと思った。こんなに親切にしてくれるのは、何か裏があるのではと疑っていた緊張も、体が温まると同時にゆっくりとほどけていく。
おそらく、彼は本当に、ただただ人がいいだけの青年なのだろう。冷静になった頭で考えれば、彼が自分のようなおじさんに対して企む良からぬことなど思いつかない。見た目はくたびれたおじさん、お金だって持っているようには見えない俺だ。親切にするメリットなど何一つないのだから。
人心地着くと、二人の間には痛いほどの静寂が流れる。このマンション、こんなに防音性が高かったのか——そんなことを考えるほど、部屋はしんとしていた。
相手は今日初めてまともに会話をした、おそらく一回り以上も年下の若者だ。人との会話自体が久しぶりなのに、共通の話題など見つかるはずもない。
……気まずい。死ぬほど気まずい!
相手は気にしていない様子だが、俺の頭はフル回転していた。これだけ親切にしてもらったお礼に、せめてこの沈黙を打破しなければという、謎の使命感に駆られる。
「あの」
「あっ、その!」
同時に声を上げてしまい、二人でぱちくりと目を合わせた。
「すみません、何でした?」
「いやいや、こちらこそ! なんでしょうか」
お互いに譲り合ってしまい、再び話が止まる。
このままでは話が進まないと思ったのか、彼が先に口を開いた。
「いえ、明日、どこの病院へ行けばいいか聞いておこうかと思って」
「えっ! いや、本当に大丈夫ですから。これ以上お世話になれません」
遮るように断り、これ以上迷惑をかけてしまう前に慌てて話題を逸らす。
「あっ、あの、そういえば。俺の名前、遼馬だって名乗りましたっけ?」
ずっと気になっていた。俺は彼の名前すら知らなかったのに、彼は今日だけで何度も俺の名前を呼んでいた。ついさっきもだ。
すると、彼は一瞬ピシリと固まり、俯いた。なぜか動揺しているように見える。
「……あーっと、はい。そう、引っ越しの時の挨拶で、聞いていたので」
「そうでしたっけ。すみません、俺、あんまり覚えてなくて」
「いえ。俺もたまたま、知り合いと同じ名前だったんで、覚えてただけです、はい」
なるほど。そんなこともあったかもしれない。
「じゃあ……すみません。もう一度、お名前聞いてもいいですか? 俺だけ覚えていないのは、申し訳ないので」
「そんなこと全然気にしないでください。藤谷です。藤谷晴人っていいます」
「トウヤさん。ありがとうございます」
トウヤハルト、名前までの若者らしくて格好いいなとぼんやり考える。
「……そういえば。藤谷さん、さっきエントランスに来てましたよね。その、どこかお出かけだったんじゃ」
尋ねると、彼はまた笑顔のまま固まった。
「藤谷さん?」
「あ、えーと。別に、大した用じゃなかったんで」
「そうなんですか?」
「はい。いつでもいいような、本当に大したことない用事です」
どこか歯切れが悪い。本当は大事な用事があったのではないだろうか。だが、これ以上問いただすのはかえって無粋だろう。今は彼の厚意に甘えるしかない。
再び静寂が流れる。何か話題はないだろうか、と鈍い頭を必死にフル回転させていると、ふと、足元に置いていたレジ袋が目に入った。
「あの、藤谷さん」
「はい、なんですか?」
「これ……倒れる前に買ったやつなんですが。こんなものしかなくて、本当にお礼にもならないんですけど、もしよかったら」
俺は袋の中から、炭酸飲料を取り出してテーブルの端にそっと置いた。ラベルの端が少し擦れているのを見つける。
「あ」
差し出した直後、最悪な事実に気づいて手が止まった。俺が倒れた時、この炭酸飲料も一緒に地面に叩きつけられたのだ。
「……すみません! これ、派手に落としたから、開けたら吹き出すかも。炭酸だし……それに、すっかりぬるくなっちゃってますよね。すみません、変なもの渡そうとして。また今度、新しいのをちゃんと買ってきますから」
顔がカッと熱くなる。お礼のつもりが、これでは嫌がらせの爆弾を渡しているようなものだ。慌ててそれを引っ込めようとすると、藤谷は声を立てて笑った。
「あはは、いいですよそんなの。気にしないでください。……でも、せっかくの遼馬さんからのお礼だし、もらってもいいですか? 冷蔵庫で冷やしておけば、明日には美味しく飲めると思うので」
そう言って、彼は俺の手からそっと炭酸飲料を受け取った。指先がわずかに触れ、彼の熱が伝わってくる。
「ありがとうございます、大事に飲みますね」
そう言ってはにかむ彼の笑顔に、失敗したはずの俺の心も、不思議と軽くなっていくのを感じた。
全くイケメンは得だ。笑いかけられると、俺のようなおじさんの心まで、なんだか嬉しくなってしまう。
会話が途切れたところで、藤谷が立ち上がった。
「すみません、少し片付けたい仕事が残っていて。ちょっとだけ作業してもいいですか? 気にせず、くつろいでいてください」
「えっ、すみません! お忙しい時にこんな……」
「迷惑じゃないですって。……そうだ、遼馬さん。お風呂入りますか? お先にどうぞ」
「いやいやいや! 大丈夫です! お構いなく!」
日中の汗がベタついて気持ち悪いのは事実だが、流石に図々しすぎる。
だが、藤谷はそんな俺の思惑をお見通しだと言わんばかりに、テキパキとバスタオルの準備を始めた。
「タオルはこれを使ってください。お風呂の場所は……間取りが同じなら分かりますよね? 湯船も溜めてもらって大丈夫ですから」
「いや、本当に……そこまで、大丈夫ですって……!」
結局、俺はまた、彼の鮮やかなペースに押し切られる形で風呂を借り、あまつさえ服まで借りてしまった。
貸してもらったスウェットは、若者らしいオーバーサイズなデザインで、おじさんの俺が着ると余計にくたびれて見える気がして落ち着かない。そのくせおそらく藤谷が愛用しているであろう、スパイシーでお洒落な香水の匂いが仄かに香るものだから、そのアンバランスさに頭がクラクラした。
「本当に、何から何まで……。藤谷さんには感謝してもしきれないです」
申し訳なさから、つい何度も頭を下げて謝ってしまう。
すると、藤谷は困ったように眉を下げて俺を見た。
「あの、遼馬さん。さっきからずっと思ってたんですけど、敬語、やめませんか?」
「えっ?」
「俺の方がずっと年下だし、お隣さんなんですから。そんなに畏まられると、俺もなんだか緊張しちゃうっていうか……もっと気楽に接してほしいんです。ダメ、ですか?」
藤谷が捨てられた子犬のような、縋るような瞳で俺を見つめてくる。
その純粋な眼差しに気圧され、俺は思わず毒気を抜かれた。
「あ、いや、ダメじゃない、です……じゃなくて、わ、わかった。じゃあ、お言葉に甘えるよ。ありがとう、藤谷くん」
「はい! その方が嬉しいです」
ぱあっと顔を輝かせる彼を見て、俺の心も少しだけ軽くなった気がした。
「遼馬さん、寝室使ってください。俺はこっちで作業してるんで」
「いや、それはさすがに。ここまで甘えて、寝室まで奪うわけにはいかないよ」
俺が珍しく語気を強めて断ると、彼は渋々というようにリビングのソファで眠れるよう枕や毛布を整えてくれた。正直、このソファでも十分、うちのベッドよりずっと寝心地がいいと思う。
藤谷は同じリビングに置かれたデスクトップPCの前に座り、大きなヘッドホンをつけて作業を始めた。
その後姿をしばらく見守った後、大きなソファに横になり、毛布にくるまった。
……眠れるわけがない。
そもそもが睡眠障害を抱えているうえに、他人の家だ。緊張で眠気など全く感じなかった。
今日処方されたばかりの強めの睡眠導入剤を、彼の目を盗んでこっそり飲み、目を閉じる。やや強引な睡魔が覆いかぶさるように俺の意識を遠のかせた。
カチ、カチ……。
カタカタカタ、タン。
背後から聞こえる微かなマウスのクリック音と、キーボードを叩く打鍵音。
診察室で聞いた音や、ビデオ会議の向こう側で響いていた音が呼び覚まされる。
……やめろ、やめてくれ……。
暗闇の中に、いつものビデオ会議のディスプレイが浮かび上がった。
『最上さん、聞こえてますか』
『時代遅れなんですよ』
若いリーダーが人を見下すための笑みを浮かべて迫ってくる。目前に迫ったその貼り付けたような笑顔に、俺は息ができない。
彼は口を開く。
——全部俺に任せてくれればいい。アンタは何も考えなくていいんです。ね、最上サン?
「……っ、はぁっ、う、あ……!」
「遼馬さん! 遼馬さん、大丈夫ですか!」
肩を揺さぶられ、弾かれたように目を開けた。
そこにあったのは冷たいディスプレイではなく、血相を変えて俺を覗き込む藤谷の顔だった。
そうだ、ここは藤谷の家だ。他人の家だというのに、またいつも発作が起きてしまった。
「ごめん……変な、夢を見ちゃって。大丈夫だから。気にしないで」
必死に言い訳を絞り出すが、呼吸は未だ整わず荒いままだ。早く落ち着かなければと思えば思うほど、体が強張っていく。
藤谷はそれ以上何も聞かず、ただ心配そうに俺を見つめていた。俺を落ち着かせようとしてくれているのだろうか。背中に添えられた手が優しく上下する。その温もりに気づいて、やっと呼吸が落ち着いてきた。
「ありがとう。俺、うなされてたかな。煩かっただろう、起こして本当にごめん」
「いえ、まだ仕事してたんで。よかった、苦しそうだったからびっくりしました」
俺の様子がひとまず落ち着いたことに、藤谷はホッとしたようだったが、それでも心配げな表情を浮かべていた。きっと俺がひどい顔色をしているせいだろう。
「温かいものでも飲みませんか。眠る前だから、コーヒーよりココアのほうがいいですよね」
遠慮するような暇もなく、藤谷は手際よく動いてキッチンでココアを淹れてくれた。
温かいマグカップを渡され、二人でソファに並んで座る。
「こんな遅くまで仕事してたんだ。……すごいね、在宅ワーク?」
「はい、楽曲作成とか編集をやってて……。これ、知ってますか?」
薄暗い部屋で彼が取り出したスマートフォンの画面が光る。こちらに差し出された画面に映っていたのは、俺もプレイしたことのある有名なアプリゲームだった。
「えっ、これ……俺も遊ぶよ。この曲、藤谷くんが作ってるの?」
「はい、一部ですけど。バトル曲とかを担当させてもらってて」
「すごいな……! あの曲、すごく格好良くて耳に残ってる」
「本当ですか? ありがとうございます、嬉しい」
褒められて照れくさそうに、でも素直に喜ぶ彼を見ていると、かわいいなあ、と心が和んでいく。
それにしても、本当にすごい。俺よりずっと若いだろうに、自分自身のスキルで、世の中に認められた仕事をしている。なんて眩しい人物だろう。
同時に、ひどい自己嫌悪に襲われた。大したスキルもなく、勤労という最低限の義務すら満足に全うできない、社会のお荷物である自分。並んで座る二人の格差が、あまりにも重くのしかかる。
俺の心がまた深く沈みかけたのを感じ取ったかのように、藤谷は「そういえば」と明るい声で話題を変えた。
彼は会話の中で、俺の仕事や倒れた理由については深く踏み込んでこなかった。この前家の近くで気になる飲食店を見つけたが行ったことはあるか、とか、運動不足なので体を動かしたいと思っているがなかなか続かない、だとか、俺がリラックスできるように他愛もない話題を選んでくれているのが伝わってきた。
温かいココアと、彼の低く掠れた柔らかな声。
凍りついていた心の奥底に、小さな灯がともるような、あたたかい気持ちが広がっていく。マグカップの中身が半分と少しなくなったところで、自然と欠伸が漏れた。
「話し込んじゃいましたね。遼馬さん、そのまま横になってくれていいですよ」
「ん……ごめん。だいじょうぶ、自分で片付けるから……」
「あはは、いいんですよ。ゆっくり寝てください。……おやすみなさい、遼馬さん」
俺の手からマグカップを取り上げた藤谷に促されて、再び毛布に潜り込む。薬の効果と、彼との交流で得られた安らぎが、俺を泥のような深い眠りへと誘ってくれた。
朝の眩い光が、まぶたを透かして意識を揺り起こした。
「……?」
ゆっくりと目を開ける。いつもの悪夢による覚醒ではない。暗いディスプレイも、嘲笑う声もなかった。
視界に飛び込んできたのは、真っ白な天井だ。次いで何やらおいしそうな食事の匂いと、一人暮らしの家では普段聞くことのない他人の生活音が聞こえてきた。
水道の蛇口をひねる音、皿が擦れ合う音、人の気配を感じさせるそれに一瞬ビクリと体を強張らせたが、すぐに昨夜の記憶がよみがえってきて、緊張を解く。
——そうだ、俺は昨日鍵をなくして、お隣に住む藤谷晴人の家に泊めてもらったんだった。
手元に置いていたスマホを確認すると、時刻はとうに九時を回っている。早く起きて、彼の厚意にこれ以上甘えないよう一人で鍵を探しに行こうと思っていたのに、数ヶ月ぶりに訪れた深い眠りがそれを許さず、すっかり寝過ごしてしまったようだ。
体を起こしてリビングを見渡すと、キッチンに立つ藤谷の姿が目に入った。俺に気づいた藤谷が嬉しそうに笑う。
「遼馬さん。おはようございます。よく眠れました?」
朝日を背負って笑う彼は柔らかな空気を纏っていた。香ばしいコーヒーと、こんがり焼けたトーストの香りが漂っていて、落ち着く朝の空間が広がっている。
「おはよう、藤谷くん。……ごめん、あんなに威勢のいいこと言っておきながら、こんな時間まで寝ちゃって」
「いいんですよ、昨日は大変だったんですから。さ、朝ごはん食べましょう」
ダイニングテーブルには、厚切りのトーストと目玉焼き、サラダ。そして丁寧に淹れられたコーヒーが用意されている。
一人暮らしが長く、朝食といえばせいぜい菓子パンをかじってインスタントコーヒーを流し込むだけだった俺にとって、この光景はあまりにも遠く、温かいものだった。
朝ごはんまでいただくわけには、と思いながらも、用意された食事はしっかり二人分だ。ここは大人しく厚意に甘えることにする。お礼を伝えて、藤谷と向かい合う席に座った。
「……美味しい」
サクサクに焼けたバタートーストを一口食べただけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ここ数ヶ月、三時間以上続けて眠れることなんて一度もなかったのに、今日は朝まで一度も目が覚めなかった。
体は驚くほど軽く、霧が晴れたように心が穏やかだ。食事もこんなに美味しい。
「本当に、ありがとう。藤谷くんのおかげで、久しぶりに人間らしい朝を迎えられたよ」
「大袈裟ですよ、朝ごはんくらい。でも喜んでもらえたならよかった」
そう言ってはにかむ彼の笑顔に、また救われたような気持ちになる。
今のお礼は朝ごはんのことだけではなかったが、それ以上しつこくお礼を伝えるのも躊躇われて、一口一口に感謝しながら朝食を平らげた。
食事を終え、片付けくらいはさせてほしいと懇願して食器を片付ける。きれいなキッチンに緊張しながら皿洗いを終えた後、いよいよ鍵を探すためにお暇しようとすると、やはり藤谷は一緒について行くと言って俺を引き留めた。
「ここまで協力したんで、見つかるまで見守らせてください」
そう言う彼に押し切られて、またまた承諾してしまった。
一人で探しに行くつもりで玄関まで来ていたが、彼が準備をする間、家の前の廊下に出て待つことにする。
今日もずいぶんと暖かい。半袖で十分過ごせそうな気候だ。
のどかな朝の空気を吸い込んで、ふと視線をずらすと、藤谷の家の隣にある、見慣れた自宅の扉が目に入った。
「……一応、ね」
万が一、ということもある。昨日、エントランスで倒れる直前まで、自分は鍵を探して混乱していた。一度も確かめていなかった可能性を潰すため、俺は隣にある自分の家のドアノブに手をかけ、回してみた。
ちょうどその時、準備を終えた藤谷も廊下に出てくる。
「あ」
「え」
カチャリ、と軽い音を立てて、ドアノブが回った。何の手応えもなく、俺の家のドアはあっさりと開いたのだ。
鍵は、かかっていなかった。
呆然と立ち尽くす俺の目に飛び込んできたのは、玄関のキーケースの中に鎮座している、見覚えのある自宅の鍵だった。
「……嘘、だろ」
血の気が引くのがわかった。
落としたんじゃない。失くしたんじゃない。
俺は最初から、鍵を家に置き忘れたまま外に出ていただけだったのだ。
「ごめん! 本当にごめん、藤谷くん!」
あまりの情けなさと、彼にかけた多大な迷惑への申し訳なさで、心臓が潰れそうになる。
自分の勘違いで救急車を呼ばせ、一晩泊めてもらい、朝ごはんまでご馳走になって……。俺は一体、何をしていたんだ。
「本当に申し訳ない、俺、鍵なくしてなかった……最初から、鍵かけてなかっただけだった。家にあったんだ。あんなに騒ぎ立てて、君の時間を奪って……!」
土下座せんばかりの勢いで謝り倒す俺に対し、藤谷は呆れるどころか笑みを浮かべた。
「よかったじゃないですか。鍵、落としたんじゃなくて家の中にあったんですね。安心しました」
「でも……っ」
「遼馬さん。ごめんなさいじゃなくて、ありがとうって言ってくれませんか?」
藤谷の真っ直ぐな瞳が、俺の卑屈な謝罪を優しく遮った。
「もともと俺のほうが強引に協力させてほしいって言って始めたことだし。だから、自分を責めないでください。……その代わり、今度お礼に、昨日話したお店に一緒に食事に行きましょう」
そのできすぎた人間性に、言葉を失う。
自分がいかに情けなく、彼がいかに眩しいか。その差に打ちのめされると同時に、向けられた純粋な善意が嬉しくて、視界が急激に滲んだ。
「ああ……ありがとう、藤谷くん。本当に、ありがとう」
涙を拭う俺を見て、彼は「だから大袈裟ですって」と困ったように、けれど嬉しそうに笑った。
藤谷の申し出で連絡先を交換し、それぞれの家へと戻る。数歩歩けば辿り着く、自分の城。
だが、帰宅した瞬間に、俺は息を呑んだ。
そこには、藤谷の部屋とはあまりにも違う現実が広がっていた。
カーテンはきっちりと閉ざされ、朝の光など微塵も入ってこない。埃っぽく、ゴミが散乱し、投げ出された洗濯物が床を埋めている。
まるで自分の心を映し出す鏡のようだ。
……恥ずかしいな。
今のままの俺では、彼に顔向けできない。少しでもあの優しい青年にとって恥ずかしくない大人でありたい。そんな前向きな欲求が、静かに胸を焦がした。
俺はのろのろと、けれど確かな足取りで、カーテンを開けて朝日を部屋に招き入れた。ゴミを拾い、脱ぎ散らかされた服を集め、散らかった部屋を片付け始める。
ふと、彼の部屋がある方角の壁が目に入って、手を止める。この壁の向こうに、彼がいることを急に意識する。
藤谷はまた仕事を始めるのだろうか。或いは、二度寝をする、なんてこともあるだろうか。
今までは孤独の象徴だった一人きりのこの部屋が、隣に彼がいるというだけで、全く違う場所に感じられた。
ソワソワして、どこか落ち着かない。けれどそれは、決して悪い気持ちではない。
今日は久しぶりに食事を作ろう。食材がないから買い出しにも行かなければいけない。洗濯機を回してから出かけよう。そういえば、溜まったゴミを捨てる、次の収集日はいつだったろうか。
朝日の差し込む部屋は静かで暖かい。止まっていた時計がゆっくりと動き出したような、そんな朝だった。
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