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第2話
これまで交流のなかった隣人の家に一晩泊まるという、信じがたい出来事から一週間が過ぎた。
連絡先は交換したものの、藤谷からの連絡は一度もなかった。
やはり食事に行こうという約束は、こちらに気を遣わせないようにという彼の親切心から出た社交辞令だったのだろう。
そう思いながらも、どこかで期待しているのか、つい一日に何度もスマホの通知を気にしてしまう。
藤谷の家に泊まった日、休職してから初めて熟睡することができた。あの日から、俺を悩ませていた睡眠障害は少し回復している。
さすがに朝まで目覚めないほどの熟睡はできないが、うなされて起きる感覚が少し延びたように思う。四時間ほど続けて眠れることもあるくらいだ。
何より大きいのは、あの悪夢をあまり見なくなったことである。その代わりのように、藤谷からの連絡でスマホが鳴る夢を何度か見た。
それは着信だったり、メッセージだったりと様々だ。大抵は連絡があったことに慌てて、着信に出ようとしたり、メッセージの内容を確かめようとしたところで目が覚める。起き抜けには夢と現実の区別がつかず、スマホを見て通知がないことにがっかりするほどだった。
がっかり……そう、俺はまた彼と話したいと思っていた。本当に久しぶりに、人と健全な会話をしたあの夜の、優しい時間が宝物のように心に残っていた。
同時に、次に会ったとき、また何か失態を演じて、彼を呆れさせてしまうのではないかと恐ろしくもあった。仕事に行くこともできない、行ったところで、誰からも歓迎されない、無力な本当の俺が露呈して、彼に失望されてしまったとしたら。
そんなことを悶々と考えてぼんやりしていたある日。
不意に、机の上に置いたスマホが短く震えた。
画面を覗き込んだ俺は、送り主の名前を見た瞬間、自分でも驚くほどに心が舞い上がるのを感じた。
藤谷からのメッセージ通知だ。俺は夢の中と同様に、しばし慌てた後恐る恐るその通知の内容を確認した。
幸いこれは夢ではなかったようで、もちろん目が覚めることもなく、メッセージの内容が表示された。
『こんにちは。連絡が遅くなってしまってすみません。この前話していた店に食事に行きませんか。遼馬さんの都合の良い日を教えてください』
丁寧な文面に、胸が熱くなる。
俺は、自分が思っていた以上に、あの優しくて可愛らしい——子犬のように俺を慕ってくれた彼に、「また会いたい」と強く願っていたのだと、そこで初めて気づいた。
いつでもいいよ、とすぐにでも返事を送りたかった。だが、今の自分が仕事をしていないことを悟られたくないという、ちっぽけなプライドが邪魔をした。
俺はわざと予定を確認するふりをして時間をおいて、間隔の空いた日付をいくつか候補として送った。
すぐに返信が届く。
『明後日で大丈夫です! 楽しみです!』
彼からのメッセージを読みながら、俺の口元は自然と綻んでいた。凍りついていた日常に、温かな光が差し込んだような気がした。
浮かれた気持ちでスマホを置き、すっかり習慣となった部屋の掃除を行おうとしたその時、再びスマホが短く鳴った。
また彼からメッセージだろうか。何か言い忘れたことでもあったのかもしれない。
そう思って、緩んだ表情のまま軽い気持ちで手に取り画面を目に入れた瞬間——そこに表示されていた名前を見て、俺の心臓は凍りついたように一瞬で冷たくなった。
通知に表示されていたメッセージの差出人は、藤谷ではなかった。
『五十嵐TL』
「——っ、はぁっ、はぁっ……!」
がたがたと手が震え出す。スマホを握っていることすらままならず、画面を見たくないのに、恐怖で体が固まって動けない。
浮かれていた時に突然背中を押され、崖から突き落とされたような感覚だった。視界が霞み、チカチカとした光が明滅する。
頭の中に浮かぶのは、あの上司の、人好きのする垂れ目と甘ったるい声色だ。口では人を気遣うようなことを言いながら、俺を時代遅れだと嘲笑う、あの目。
画面に表示されているのは差出人の名前だけで、内容までは分からない。
いったい何の用だろう。またあの時のように、心配するふりをして俺を笑いたいのか。それとも、仕事から逃げ続けている俺を、徹底的に責め立てるつもりなのか。
「……はぁっ、はぁ……っ」
考えるだけで、心臓が早鐘を打ち呼吸が乱れていく。
俺は決死の思いでスマホから視線を引き剥がし、画面が見えないようにテーブルへ伏せた。あのビデオ会議の、クスクスという嗤い声が耳の奥に貼り付いて離れない。
メッセージ内容を確認する勇気はなかった。俺は震える指で再びスマホを掴むと、五十嵐からの通知を、ただ逃げるように画面から消し去った。
その日から、俺はまた毎晩悪夢にうなされ眠れない日が続くことになった。
藤谷と食事の約束をした日の朝。
洗面所へ向かい、鏡に映る自分の姿を見る。目の下には濃い隈が刻まれており、ひどい顔だ。
昨夜もあまり眠れなかった。常に耳鳴りがするようで、気分も優れない。
それでも、藤谷に会えることを思うと少しだけ浮かれる自分がいる。鏡に映るくたびれたおじさんがどれだけ頑張ったところで、あの眩しい若者の隣に立つのは気が引けるが、それでも少しはましに見えるようにしなければ。
そんな気持ちで、昨夜から充電しておいた電気シェーバーを手に取る。休職してから数えるほどしか使用していないそれに久しぶりにスイッチを入れると、ブォォンと唸り声を上げて動き出した。
「……よし」
伸び放題だった顎鬚にジェルを乗せ、思い切ってシェーバーの刃を当てる。
ジョリジョリと、自分の不摂生を削り落とすような音が洗面所に響く。鏡の中にいたくたびれたおじさんの輪郭が、少しずつあらわになっていく。
口の周辺や顎を覆っていた無精髭を綺麗に剃り落とすと、そこには久しぶりに見る、少し痩けた自分の顔があった。
これなら、あの眩しいほど整った若者の隣に並んでも恥ずかしくないだろうか……そんな考えが頭をよぎったが、すぐに無理だと思い直した。髭を剃ったくらいでは到底、この劣等感は埋まりそうにない。
次は着ていく服だ。クローゼットを開け、手持ちの服の中から比較的まともに見えるものを探し始める。
近頃は随分と空気が冷え込んできて、もう半袖のTシャツ一枚では肌寒く感じる季節だ。程よい秋服を選ばなければならない。
「秋服、秋服……あれ、去年は何を着てたんだったかな」
ふと手が止まる。一年前の今頃の自分が、どんな服を着て、どんな顔をして外を歩いていたのか、思い出そうとしても何も浮かばない。
クローゼットの中には、かつて働いていた頃の名残が詰まっている。だが、今の季節にぴったりな、ほどよく小綺麗な服が驚くほど見当たらない。俺はしばし絶望的な気分で衣装ケースをかき回した。
結局、なんとか見つけ出したのは、アイロンのかかっていないチノパンと、少し古びたカジュアルな柄物のワイシャツだった。他にまともな服が見当たらないため、仕方なくそれにアイロンをかけ見た目だけでも整える。
その時、スマホが短く鳴った。肩が跳ね、心臓が煩く音を立てる。
このところ、何度か五十嵐からメッセージが送られてきている。その全てに既読すらつけていないので、ますます相手を苛立たせているのではないかと思っていた。
震える手で、恐る恐るスマホの画面をのぞき込む。表示されていたのは、五十嵐の名ではなく藤谷だった。
『そろそろ出られそうですか?』
先ほどまでの緊張が嘘のように解け、ホッとした気持ちでスマホを手に取った。『今出るよ』と手短に返信し、玄関へ向かう。
数ヶ月ぶりに、自分の意志で誰かに会うために靴を履く。重い扉を開け、廊下へと踏み出したその時、隣の扉もほとんど同じタイミングで開いた。
「あ」
視線が重なる。そこに立っていた藤谷は、今日もまたくたびれたおじさんである自分とは対照的な、若者らしい洗練された姿をしていた。
彼は俺の姿を見るなり、パッと花が咲いたような明るい笑顔を見せた。
「遼馬さん! こんにちは。今日はよろしくお願いします」
大きな口から覗く、あの特徴的な八重歯がチラリと見える。屈託のないその挨拶に、俺は少しだけ気恥ずかしくなって、後頭部を掻いた。
「藤谷くん、こんにちは。……この前は、本当にありがとう。こちらこそ、よろしくね」
お互いに簡単な挨拶を交わし、秋の気配が混じり始めた街へと歩き出す。
向かうのは、あの晩彼の部屋でココアを飲みながら、彼が「気になるけどまだ行ったことがない」と話していた飲食店だ。
マンションから少し離れた路地裏に佇むその店は、煤けた暖簾と色褪せた食品サンプルが小さなガラスケースに並ぶ、どこか昭和の雰囲気を漂わせた定食屋だ。夫婦二人で店を回しているこじんまりとした店だが、良心的な価格と確かな味で知る人ぞ知る地元の人気店である。
「俺も何度か行ったことがあるだけだけど、確かに、一見さんお断り、みたいな雰囲気があるよな。最初はちょっと緊張したけど、店主もいい人だし、全然そんなことないよ」
「そうなんですね。前を通るたびに、いつもすごくいい匂いがして、気になってて。今日は遼馬さんが付き合ってくれて嬉しいです」
藤谷は屈託なく笑ってそう言った。彼の笑顔を微笑ましい気持ちで見つめる。
「何を食べても美味しいけど、俺は特にミックスフライ定食が好きだな。揚げ物が日によって違うから、何が出てくるか楽しみなんだ」
「そうなんですね。いいなぁ……うわ、今の言葉だけでめちゃくちゃお腹空いてきました」
本当にお腹を空かせているようで、喉を鳴らす仕草すらどこか微笑ましい。睡眠不足のせいかあまり食欲を感じていなかった自分のお腹も、彼につられたのか小さく音が鳴った。
店に着くと、お昼時ということもあり、外には三組ほどの客が並んでいた。使い込まれた換気扇からは、食欲をそそる香ばしい油と出汁の香りが漂ってくる。
「今日のフライは何かな」
「あっ、待ってください! 俺、遼馬さんおすすめのミックスフライにするんで。中身はお楽しみにしておきます!」
店の前に出ているお品書きを見ることなく、ワクワクした様子で藤谷は列に並ぶ。俺も笑いながら彼に続いて列に並んだ。
数ヶ月前までの俺なら、こうした待ち時間すら苦痛で、周囲の視線に怯えていたはずだ。だが今は、隣で楽しそうに話す彼のおかげで、このひとときすら穏やかに感じられた。
やがて列が進み、店内へ入ると、使い込まれた木のテーブル席へと通された。二人とも同じミックスフライ定食を頼む。
昼時だから時間がかかるかと思ったが、ほどなくして二人分の盆が運ばれてきた。ご飯に味噌汁、お新香、そして大皿の上には山盛りの千切りキャベツと真っ赤なカットトマト、黄金色の衣を纏った三種類の揚げ物が並んでいる。
今日のフライは、アジフライ、クリームコロッケ、そしてメンチカツだ。
「やった! メンチカツ!」
藤谷の瞳が子どものようにキラキラと輝く。彼は丁寧な手つきで割り箸を割ると、「いただきます」と綺麗に手を合わせた。その行儀の良い仕草に、また一つ、彼への好感度が増した気がした。
サクッ、と小気味よい音が響いた。彼が大きな口を開けてメンチカツを一口食べると、そのシャープな顔立ちが、とろけるような至福の表情へと変わる。
「……美味しい! 遼馬さん、めちゃくちゃ美味しいですよ!」
幸せそうに頬を膨らませて咀嚼する彼を見ていると、不思議と俺までお腹がいっぱいになっていくような感覚に陥った。
若者らしい、迷いのない食べっぷりだ。つられて自分も笑顔になってしまう。
「ゆっくり食べなよ。逃げやしないから」
「そうですよね。もったいないから、味わって食べないと」
俺は自分のアジフライを口に運びながら、向かい側で本当に美味しそうに食事を楽しむ彼を、そっと見守った。目の前で誰かが笑って食事をしている。それだけのことが、こんなにも尊く感じられるものかとしみじみ思う。
自分の食事も進み、気づけば完食していた。久しぶりに誰かと食べる食事で心までお腹いっぱいになった気がした。
食事を終え、会計のために席を立つ。財布を出そうとする藤谷を制し、レジの前に出た。
「先日のお礼だから、ここは俺が払うよ」
「いや、ダメですよ。連れてきてもらっただけで、僕としては十分お礼になってますから。自分の分くらいは払わせてください」
「いやいや、それじゃお礼にならないよ。……ほら、いいから」
半ば強引に彼の制止を振り切り、二人分の支払いを済ませる。
「すみません、ごちそうさまです。次は僕に奢らせてくださいね」
申し訳なさそうに藤谷が言う。次は、と彼が言ってくれたことで、まだ失望されるような展開にはなっていないのだと感じて、胸に安堵が広がった。
会計を終えて店を出る。秋の爽やかな風が、少し火照った顔に心地いい。
「本当に美味しかったです。また来たいな」
そんな藤谷の言葉に目を細めた、その時だった。ポケットの中でスマホが重く震え始めた。
——ヴー、ヴー、ヴー。
その無機質な振動音を聞いた瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。楽しい時間の終わりを告げるような、不吉な予感。
俺は逃げ出したい衝動を抑え、震える手でスマホを取り出した。液晶画面に表示されていたのは、最も見たくない、そして最も恐れていた名前だった。
『五十嵐TL』
「……っ!」
心臓に直接手をかけられたような、ゾワリとした緊張が全身を駆け巡る。スマホを地面に投げ捨て、そのままどこか遠くへ逃げ去ってしまいたかった。
視界が霞み、耳の奥であの甘ったるい声が再生される。
——時代遅れなんですよ、あなたのやり方は。
「遼馬さん?」
隣にいた藤谷くんが、俺の異変に気づいて顔を覗き込んできた。彼の純粋な瞳を見て、俺はかろうじて自分を奮い立たせた。
「うん、大丈夫……何でもない」
「電話ですか? 俺のことなら気にしないで、出てもらっていいですよ」
「いや……あとで、かけ直すから」
「でも、結構長く鳴ってますよ。僕は全然気にしませんから」
「いいから! ……あ、いや、いいんだ。本当に。ごめん、大きい声出して」
反射的に拒絶するような声を上げてしまい、俺はすぐに後悔して項垂れた。
みるみる顔色が悪くなっていく俺を見て、藤谷の表情から色が消えた。彼は何かを察したように、それ以上は何も言わなかった。
執拗に音を鳴らしていたスマホはやがて沈黙を取り戻したが、俺と藤谷の間には、先ほどまでの温かな空気とは正反対の、重苦しい沈黙が流れ始めた。
頭がぐわんぐわんと大きく揺さぶられるような感覚に襲われる。立っているのがやっとの状態で、冷や汗が背中を伝う。
店先に立ち尽くしたままでいるわけにもいかず、藤谷は「少し休んでから帰りましょう」と言って、すぐ近くの公園へ向かって歩き出した。俺の体調を気遣ってくれているのか、ゆっくり歩く彼の背中をもつれそうになる足でなんとか追いかける。
ウォーキングコースとして賑わう、広めの公園へと辿り着いた。藤谷に促されるまま大きな木陰にあるベンチに腰を下ろす。
「遼馬さん、ちょっとここで待っててください」
そう言い残して足早に離れていく背中を、俺はぼんやりと見送った。彼がどこへ行くのかなんて、考える余裕もなかった。
一人取り残された俺は、ベンチの背もたれに体を預けた。ここ数週間で、街の空気はすっかり秋めいている。吹き抜けていく風には確かな冷たさが混じり、爽やかで心地よい。
遠くから小さな子を連れた親子の笑い声や、ウォーキングコースを歩く人々が落ち葉を踏む足音が聞こえてくる。自分が今置かれた状況とは正反対の、穏やかで優しい風景が広がっている。
しばらくすると、藤谷が両手にカップを持って戻ってきた。公園内にあるカフェで購入したのだろう、テイクアウト用のアイスカフェオレだ。
「これ、どうぞ」
「あ、ありがとう。……いくらだった? 払うよ」
財布を取り出そうとする俺を、藤谷は片手を振って制した。
「いえ、さっきのお礼ですから」
きっぱりとそう言いきって笑顔を見せる藤谷に、つられて俺も、少しだけ笑みを浮かべる。
「これじゃお礼のお返しが、いつまで経っても終わらないな」
俺の言葉に藤谷も「あはは、いいじゃないですか」と、あの鮫のような八重歯を覗かせて楽しそうに笑う。
受け取ったガムシロップを一つ加え、ストローで混ぜる。一口飲むと、ミルクのまろやかさとシロップの優しい甘さが、渇いた喉と強張った心にゆっくりと染み渡っていった。
「……そういえば、藤谷くんの家で飲んだコーヒー、本当に美味しかったな」
ふと思い出して口にすると、藤谷はぱあっと顔を輝かせた。
「本当ですか? ありがとうございます。またいつでも、飲みに来てくださいね」
隣人としての社交辞令だろう。そう思いながらも、最上は「ありがとう」と微笑んで返した。
「藤谷くんは、コーヒーが好きなの?」
「好きですね。仕事で集中して作業している時なんかは、特に飲みたくなります」
「分かるなあ。俺は、仕事中はインスタントで済ませちゃうことが多いけど」
エンジニアとしてコードの羅列と向き合っていた日々を思い出し、最上は小さく苦笑した。
「俺も面倒な時はインスタントですよ。この前のは、珍しく家にお客様を呼んだので、はりきっちゃっただけです」
照れくさそうに笑う彼の言葉に、胸の奥が少しだけ疼いた。
心地よい秋の風が吹くたび、木の葉がさざめく音が周囲を包む。
半分ほどに減ったプラスチック容器から、冷たい水滴が滴り落ちた。レンガ調の地面に滲んだその一点が、じわりと形を変えて広がっていくのを、俺はただぼんやりと見つめていた。
隣に座る藤谷は、何も言わない。世界から音が消えたような、静止した時間が流れる。
穏やかな時間だった。だからこそ、急に胸が苦しくなった。こんなふうに優しくしてくれる相手に、俺はずっと必死に取り繕っている。それどころか、心配してくれる彼にさっきは大きな声まで出してしまった。それがたまらなく情けなかった。
「ええと、何ていうか……その。藤谷くんも、気付いてるかもしれないけど」
振り絞るような声で、俺は口を開いた。鼓動の音が煩い。妙なプライドが邪魔をしていたし、ただの隣人にこんな話をされても困るだろうという引け目もある。
けれど、これ以上黙ってはいられなかった。いつか何かのきっかけで俺の無様な実態が露呈して幻滅されるより、今この瞬間に最後通牒を突き付けられたほうがいい。そうでなければ、これ以上仲良くなってから拒絶された時、今の俺はきっと耐えられないだろう。
「俺、今、仕事を休んでて……。休んでるというか、もう行けてないというか。その、なんていうか……気持ち的に、仕事ができなくなっちゃって」
緊張で、カフェオレを持つ手がかすかに震える。四十も近いというのに、自分の現状すらまともに説明できない自分を情けなく思う。
「この前、鍵をなくしたかもしれないって言った病院も、本当は心療内科だったんだ。いろいろ……眠れなかったりとか、あとは、幻覚とか幻聴を防ぐための薬とかもらってて。それで……」
一気に吐き出し、俺は指先の冷たさを自覚した。今、藤谷はどんな顔をしているだろう。俺のような、自分でも自分にうんざりする男を、彼はどんな目で見ているだろうか。確認するのが、恐ろしくてたまらなかった。
藤谷は何も言わず、ただじっと地面を見つめて俯いていた。公園を吹き抜ける風の音だけが、耳元を通り過ぎていく。
沈黙が長引くたび、鼓動が早鐘を打ち、口にしてしまったことへの後悔が波のように押し寄せてきた。やはり、話さなければよかった。まだ会うのも二度目、ほとんど他人と言ってもいい隣人に、こんな重い話を聞かせて何になるというのだ。
彼はきっと、返答に窮して気まずい思いをしているに違いない。俺はせめてこの場を和らげようと、無理に乾いた笑いを作って、軽い口調を装った。
「ごめん、変なこと言ったよな。忘れていいから。ほんと、情けないよな。いい歳した大人が、まともに働けもしないなんて。自分でも、つくづく嫌になるよ」
「そんなことないです!」
突然、ガバリと藤谷が顔を上げた。
その表情は、今までの穏やかなものとは一変し、焦ったような、それでいてひどく真剣なものだった。
力が入っているのか、その目元は少し赤らんでいるように見える。泣くのをこらえているような顔に見えて、俺は息を飲んだ。
「そんなことないです。そんな……遼馬さんが情けないなんて、絶対そんなことない」
彼は一度言葉を切ると、射抜くようなまっすぐな瞳で俺を貫いた。
「俺にできることなんて、話を聞くくらいしかできないんですけど。なんでも、どんなことでもいいので、遼馬さんが何か話したくなった時は呼んでください。気の利いたことは言えないかもしれないけど……遼馬さんのことが、もっと知りたいです」
その瞬間、胸の奥が震えるのを感じた。
これまで、誰も自分の話なんてまともに聞いてくれないと思っていた。診察室で淡々とキーボードを叩く医師も、ビデオ会議の向こうで俺を時代遅れだとあざ笑う若者たちも、誰も俺の話なんて聞きたくはないんだと。上手く考えもまとまらない、パニックになって言葉が出てこない、そんな俺の話なんて、誰も聞きたくないだろうと決めつけていた。
だけど、本当はずっと、誰かに聞いてほしかったのだ。
職場でも、病院でも、暗い自宅の寝室でも、俺はずっと独りだった。自分の抱えるどろどろとした感情を、そのまま受け止めてくれる場所なんてどこにもなかった。
視界が急激に滲んでいく。これ以上、彼に情けない姿を見せたくなくて、俺はたまらず俯いた。熱を持っていく目頭を、震える指先で強く押さえる。
「……ありがとう」
声を絞り出すのが、やっとだった。
心を開くのは、やはり怖い。藤谷のような眩しい若者に、壊れてしまった情けない大人である自分を曝け出すのは、耐え難いほどの恐怖を伴う。
それなのに——。
どうしようもなく、心が温かくなっていくのを感じる。自分という存在を、そのまま知ろうとしてくれる人が隣にいることが、今の俺にはたまらなく嬉しかった。
すぐには言葉が出なかった。けれど、急かすことなく待ってくれる気配に背中を押されるように、俺は途切れ途切れに自分のことを話し始めた。
もともと働いていた専門職が、人員削減で部署ごとなくなり、今年の春からこれまでの職種とは全く違う部署の所属になったこと。
自分より年下の優秀な人材が揃うチームで、時代遅れのおじさんは全く役に立てなかったこと。だんだん発言するのが怖くなり、言葉が出なくなったこと。
仕事を始めようとすると手が震え、目の前が真っ暗になること。悪夢にうなされて、夜が眠れないこと。
「そういえば、藤谷くんの家に泊まった日、仕事に行けなくなって初めて朝まで熟睡できたんだ」
「そうだったんですか」
「うん。きっと、久々に人と話せて嬉しかったんだと思う。ありがとう」
俺が笑うと、藤谷も嬉しそうに笑ってくれた。
「じゃあ、またぜひうちに来てください! 遼馬さんがよければですけど、うちはいつでも大歓迎です!」
「ありがとう」
社交辞令だろうと思いながら笑って返したのだが、藤谷は意外にも本気だった。「次は精一杯おもてなしします」とか、「何が食べたいか考えておいてください」とか、「仕事もそれまでに絶対片付けておくんで!」とか、真剣な顔で次々に口にする。
おそらく、藤谷には社交辞令なんて感覚はないんだろう。本当に素直な性格だと思う。
日が傾きかけ、いよいよ空気が冷え込む前に俺たちは自宅へ帰ることにした。
「すっかり話し込んじゃったな。ごめん」
「いえ、俺のほうこそ色々話しちゃってすみません」
あんな重たい話を聞かせたのに、藤谷は少しも嫌な顔をしない。それどころか、俺の気まずさまで軽くするように、自然にそう返してくれる。
歩きながらその横顔を見つめていると、藤谷が不思議そうにこちらを見た。
「遼馬さん?」
「ああ、いや。ごめん。藤谷くん、若いのにすごい気配りがうまいというか……何でそんなにいい子なのかなと思って」
最初、俺は隣人である藤谷に対して、見た目だけで冷たそうな人だと思っていた。まさかこんなに優しい子だとは思わなかったから、申し訳ないような気持ちで、ついその顔を見つめてしまった。
藤谷は少し照れたように俯いて言った。
「実は、尊敬している人がいるんです。すごく親切で、いつも人のことを考えているような優しい人で。俺も、そんな風になれたらって思ってるんですけど、なかなか上手くいかなくて」
「そっか……藤谷くんが尊敬するくらいだから、そりゃすごい人なんだろうな」
学生の頃の恩師だろうか。それとも親御さんだろうか。誰でもいい、こんなにいい子を育ててくれてありがとう。その人物に心の中でお礼を言う。
自分の尊敬する人を誉められたからだろうか、藤谷も「はい! 本当にすごい人なんですよ」と嬉しそうだ。
やがてマンションに着いた。まさか今日は鍵を忘れてはいないよな、と鞄を漁る。
幸い鍵はすぐに見つかった。二人でエントランスをくぐり、エレベーターで居住階へ上がる。
「また連絡しますね」
そう言って先にエレベーターを降りた藤谷に、返事をして俺もエレベーターを降りる。
が、藤谷はエレベーターを降りてすぐに立ち止まった。目の前の大きな背中にぶつかりそうになり、すんでのところで足を止める。
「藤谷くん?」
「……ええと、遼馬さん。あの、」
いつも元気な藤谷が、珍しく何故か焦った様子の小声で、言いにくそうにそう口にしながら、くるりと踵を返し俺をエレベーターの中へ戻そうとする。
不思議に思って藤谷の肩越しに、その先にある光景を見た。
「……っ」
ひゅ、と喉の奥が鳴る。
呼吸が止まったような気がした。上手く息を吸うことができない。
見覚えのある長身。一つに束ねた明るい色素の髪。長い前髪の隙間から覗く気だるげな垂れ目が印象的な風貌の男。
なぜ。いったいどうして。その人物が自分の家の扉の前に立っていることに、心臓がバクバクと嫌な音を立てる。
——なぜ、俺の家を知っているのだろう。
わざわざ調べたのか。何のために? まさか、ずっと連絡を無視していることへ報復するため?
最初は遠慮がちだった俺を押し戻す藤谷の手が、様子が変わった俺を見て確信を持ったのか、明確な力を持つ。
閉まりかけていたエレベーターに俺を戻そうとしているところで、運の悪いことに、気だるげな垂れ目が俺を見つけてしまった。
「最上さん」
にこにこと笑うその男の笑顔に、トラウマを刺激される。
怖い。何も話せない。何も聞きたくない。今すぐ逃げ出してしまいたいのに、体が固まってしまって動けない。全身がガタガタと震え出す。
「お久しぶりです。何度か連絡したんですよ。見てなかったんですか? ひどいな」
いかにも親しげに、軽い調子で言いながら、男が近づいてくる。いやだ。いやだいやだいやだ、怖い!
「……あっ‼ 遼馬さん、約束してたやつ、今渡します。ついてきてください!」
不意に、温かい手が俺の手を掴む。
わざとらしく大きな声で宣言した藤谷は、そのまま俺の手を引いて強引に男の横を通り抜け、自分の家へ向かった。
男が何か言うより早く、半ば引きずるように俺を連れ、鍵を開けた家の中へと体を滑り込ませる。扉が大きな音を立てて閉まった。ガチャリ、施錠音がやたら大きく鳴り響いた。
「……⁉」
暗い玄関で、何がどうなったのか、俺は藤谷の体に密着していた。藤谷が愛用しているであろう、スパイシーな香水の香りに強く包まれる。
自分の腰に藤谷の手が巻き付いていると気づいて、あり得ない状況に混乱する。
温かい、それにいい匂いだ。いや、感想が変態すぎる。おじさんが若者に対してこんな感想を抱いていたら完全にアウトである。さっきまでの恐怖で心臓はまだ暴れているのに、意識だけが別の熱に引きずられていく。
一方の藤谷は、今の状況は無意識のことなのか、未だ緊張した面持ちで外を気にしていた。耳を澄ませ、じっと扉の向こうを睨んでいる。先ほどの男がまだ扉の向こうにいるか警戒しているのだろう。
——助けてくれたのだ。動けなかった俺の異変に気付いて、きっと、俺を逃がしてくれた。
じわりと、顔に、体に、熱が広がっていく。
嬉しい。感謝の気持ちと、それだけではない、自分でも名前を付けられない熱が胸を微かに焦がす。
先ほど目にした男——五十嵐のことなど、もう頭の片隅にもないというのに、俺の体はまだ動かなかった。
「帰ったかな……遼馬さん、だいじょう……っ、す、すみません!」
やっとこの状況に気づいたらしい藤谷が、慌てて俺から離れる。これでもかというほどに顔を真っ赤に染め、慌てふためいていた。
「ほんとすみません! 遼馬さん、会いたくない人かなと思ったら、つい……! すみませんでした‼」
「いや、うん……! 正解、その、会いたくない人だったから」
藤谷の慌てぶりに少しだけ冷静さを取り戻し、恐縮する藤谷をなだめる。
「ありがとう、藤谷くん」
俺が笑いかけたことでやっと安心したのか、藤谷は表情を引き締めて言った。
「まだ外にいるかもしれないので、もう少し待ってから出たほうがいいですよ。……そうだ、コーヒー淹れましょうか」
先ほど公園でまた飲みたいと言ったのを覚えていてくれたのだろう。まだアイスカフェオレが胃を満たしている感覚があったが、そのお誘いを断ることなど、当然、俺にできるわけがなかった。
◆
バタン、と威勢のいい音を立てて、目の前で扉が閉められる。次いでガチャリと施錠音まで響いた。
しばらくは唖然としていたが、すぐに状況を理解して、ふうん、と口からため息が漏れる。
久々に見た最上の表情を思い返す。自分を見つけ、恐怖に染まったあの顔。震える体。何の言葉も発することができずに、薄く開いたままの唇。
「ふ」
思わず笑みがこみ上げる。なんだあの人、あんな顔をして俺を見て。俺なんかに怯えて、声も出なくなっちゃって、本当に、なんて、かわいいんだろう。
ゾクゾクと愉悦感がこみ上げる。そういう顔が見たかった。俺を見た瞬間、あんなふうに怯える顔が。
先ほど、自分とあの人の間に立ちはだかった男を思い浮かべる。と言っても、最上を目に焼き付けるのに夢中であまり印象に残ってはいないが。
若そうな見た目だった。自分より年下だろう。背はそれなりに高かったが、どこか子どもっぽく、未熟そうな男だった。
俺からあの人を守っているつもりなんだろうか。なんだあのわざとらしい言い訳は。取るに足らない相手のはずなのに、苛立ちと嫌悪感で舌打ちが漏れる。
「……邪魔だな」
あの人には、もっと孤独になってもらわないといけない。もっともっと、本当に壊れる寸前まで追い込まなければ。
計画の修正が必要だと考えて、今日のところは引き下がることにする。
どんなにあがいても無駄なのに。最後にあの人を手に入れるのは、俺なんだから。
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