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第3話
キーボードを叩く音と、遠くで鳴る電話の呼び出し音。コピー機の低い唸りが、フロアの奥から響いてくる。誰かの笑い声が一瞬だけ浮かび、すぐに周囲の雑音に溶けた。
総務課と書かれたプレートの前に立ち、手に持った書類を軽く整える。
「すみません」
カウンター越しに声をかけると、一番近くに座っていた女性が顔を上げた。
こちらを認識した瞬間、ほんの一拍だけ目を見開き、すぐに親しげな笑顔を浮かべる。
「五十嵐さん、お疲れ様です」
「お疲れ様。忙しいところごめんね。これお願いできるかな」
差し出した書類を、彼女は丁寧に受け取る。
「はい、確かに。……住所変更ですか、お引越しか何かですか?」
「うん。今住んでるところ、ちょっと会社から遠くて。最近リモートより対面のほうが多いから、もっと通勤に便利なところに引っ越したんだ」
「そうなんですね。……あれ、この住所」
指先が、紙の上でぴたりと止まる。
「どうかした?」
「あっ、いえ! 何でもないです! ただちょっと、見覚えあったかなって思っただけで」
慌てて視線を泳がせる様子が、あまりにも分かりやすい。誤魔化し方としては完全に悪手だ。
内心では呆れつつも、そんな感情は顔に出さず続ける。
「ふうん? ……詳しく聞いてもいい?」
「いやぁ、個人情報ですからぁ……」
渋る彼女へ、距離を一歩だけ詰める。周囲には聞こえない、彼女にだけ聞こえる距離まで近づいて、ひそめた声で言う。
「だめ?」
「………!」
彼女はわずかに頬を染めて、息を呑んだ。しばらく迷っていたようだが、結局言いにくそうに口を開く。
最近会社を休んでいる社員に、保険関係の書類を送ることがあって、その宛先が似たような住所だった気がする、と。
こんなことをあっさり話してしまって大丈夫なのかと、彼女の迂闊さにまた呆れる。まあ、こっちがそう仕向けたんだけど。
「そうなんだ。じゃあ、ご近所さんがいるかもしれないね」
「ですね、すごい偶然。まあこの辺りに住んでる人多いですよね。便利だし」
あくまで何でもない顔で、軽く相槌を返す。
「ありがとう。じゃあ、それよろしくね」
「はい!」
明るく返事をする彼女に軽く手を振り、カウンターを離れる。背を向けた瞬間、ふっと気が緩みそうになるのをぎりぎりで抑えた。
廊下に人の気配はないが、こんな浮かれ切った顔を誰かに見られるわけにはいかない。
——偶然だって? そんなわけないだろう。
休職中の社員と、元上司が同じマンションに引っ越すなんて、そんな都合のいい偶然、あるわけがない。
でも、これは偶然だ。
偶然、俺が同じマンションに引っ越してきたと知ったら、あの人はどんな顔をするだろうか。
それを想像しただけで、口元が緩むのを止められない。
◆
どうしてこうなった、というネットミームがある。
簡単に説明すると、何でこうなったのか分からない、原因と結果の因果関係に常識では説明がつかないような、予想外の出来事に対して使われる言葉だ。大抵は、悪い意味で。
「遼馬さん、今日のごはんは何が食べたいですか。和食ですか? 洋食のほうがいいかな」
今まさに、俺は頭の中で自分自身に対してそう問いかけている。どうしてこうなった。
「和食なら肉じゃがが作れるし、洋食ならカレーが作れます。どっちにします?」
「に、肉じゃがで……」
「了解です! じゃあ、お風呂沸かしておいてください」
キッチンに立つ藤谷が、にんじんとジャガイモを両手に持ってにっこり笑う。子犬のように可愛らしいその笑顔に釣られて笑うが、心の中では疑問符を浮かべずにはいられなかった。
本当に、どうしてこうなったんだっけ?
始まりは、そう、藤谷と食事に行って数日後のことだった。
『遼馬さん、辛いもの平気ですか? 夕食にカレー作ったんですが、作りすぎました! 一人で食べきれそうにないので、食べにきませんか?』
そんなメッセージで誘われて、再び藤谷の家を訪れると、相変わらずきれいに片付いた部屋で、お手製のグリーンカレーを振る舞われた。ココナッツミルクを使用した本格的なもので、美味しくておかわりまでしてしまった。
「そうだ、遼馬さん。せっかくだから泊まっていってください。この前、よく眠れたって言ってたし、環境が変わると気分も変わっていいかも」
食事の後そう言われて、もちろん遠慮はしたものの、以前と同じように引き止められてその日はそのまま宿泊することになった。
自分のベッドを空け渡そうとする藤谷に、それはさすがに悪いからと断って、再びリビングのソファを寝床にする。
眠る前に藤谷はまた俺にココアをいれてくれた。甘いココアを飲みながら少しだけ話をして、ソファで横になる。
美味しかったグリーンカレーのおかげなのか、それとも、人と会話をするという刺激があったおかげなのか。わずかな高揚感を抱いたまま横になると、不思議と薬がよく効いて朝までぐっすり眠れた。
翌朝、よく眠れたことを藤谷に伝えると、藤谷は心から嬉しそうに笑って「遼馬さんさえよければ今日も泊まっていってください! うちは何日でも大歓迎なので。こうなったら、安眠の秘訣を探しましょう!」と言って、帰ろうとする俺を更に引き止め続けた。
そのままずるずると何日も宿泊を重ねて、今、この状況に至る。
最初の数日は、せめてお昼だけでもと一度帰宅していたが、あまりに藤谷の家の居心地がよく、さらに藤谷も「どうせ泊まるならそのままうちにいてもいいんじゃないですか? いっそのこと、帰らなくていいように必要な荷物だけこっちに持って来ちゃいましょう」と言うものだから、この一週間は全く自宅へ帰っていない。ほとんど同居状態と言っていい。
藤谷は何かと俺の世話を焼こうとしてくれるが、さすがにここまで生活を共にするのならいつまでもお客様でいるわけにはいかない。
夕食は藤谷が用意することが多いが、藤谷が仕事をしている日中は、俺がキッチンに立ったり、部屋の掃除をすることもある。
と言っても、藤谷のような凝った料理は作れないし、掃除も普段から片付いているためそんなに仕事はないのだが、俺が何かするたびに藤谷は大袈裟なほど感謝をしてくれた。
俺自身も、こうして朝昼晩と三食しっかり食事をして、簡単な掃除で体を動かしている生活は、暗い部屋で一人きり蹲っていた生活と比べて調子がよく感じられた。夜も圧倒的に眠れる日が増え、確実に良い方向に向かっている、とは思う。思うのだが。
……これで、いいのだろうか?
自分の力ではない、他人の、藤谷の力を借りなければ人として最低限の生活もままならない自分に、情けなく不甲斐ない気持ちになる。
明日こそは自宅に帰って、一人でも同じようにちゃんと生活しなければ、と思うものの、結局今日も居心地の良さに流されて、こうして夜まで居座っている。
しっかり味の染みた肉じゃが、小松菜と卵の副菜、豆腐とわかめの味噌汁、炊きたてのごはん。
丁寧に作り込まれた料理が食卓に並んだ。
「いただきます」
ダイニングテーブルで、二人向き合って手を合わせる。まだ温かい肉じゃがを口に運べば、ジャガイモが口の中で優しくホロリと崩れた。
「美味しい」
しみじみと、そんな言葉がこぼれる。
「よかった。ちょっと煮崩れしちゃったんですけど」
「全然気にならないよ。すごいな、藤谷くん、料理が上手いね。誰かに習ったことがあるの?」
「いえ、一人暮らし始めてから、レシピとか見て、見よう見まねで覚えました。料理するのは好きなので、凝り始めると色々やってみたくなっちゃって」
「そっか、偉いなぁ」
美味しい食事をきれいに平らげて、食器を片付ける。片付けくらいは任せて欲しいと伝えたが、俺が食器を水洗いしていると、隣に藤谷も並び、結局水洗いと食洗機への片付けで役割分担することになった。
食洗機のスタートボタンを押した後、藤谷は少し仕事をすると言ってパソコンへ向かった。
その間に俺は入浴を済ませて、就寝の準備を整える。いつもの流れだ。
ソファに枕、毛布を持ってきて横になろうとすると、パソコンへ向かって集中していたはずの藤谷がいつの間にかソファのそばに立っていた。
「遼馬さん。今日こそはベッド使ってくださいって言ったじゃないですか」
「いや、さすがにそれは……家主をおいて、俺が使うわけにはいかないから」
「ダメです! 遼馬さんがたまに夜中に起きちゃうの、寝心地が悪いせいもあるかもしれないじゃないですか。今日は絶対ベッドで寝てもらいます」
「俺がベッド使ったら、藤谷くんはどこで寝るの」
「俺は仕事が片付いてからちょっと寝るだけなので、ソファで……」
「ほら! だめだよそんなの、藤谷くんは働いてるんだから、ちゃんと休まないと体がもたないだろう」
「でも、」
「俺がベッドで寝るんだったら、藤谷くんもベッドで寝ないと!」
売り言葉に買い言葉でそんなことを口走る。
言ってしまってから、今自分は何を言ったのかと自問自答した。何か、おかしなことを言ってしまわなかっただろうか。冷たい汗がすべり落ちる。
恐る恐る藤谷の反応を待っていると、しばらくポカンとしていた藤谷だったが、やがてその手があったか! と言わんばかりの顔でパッと満面の笑みを浮かべた。
「その手がありましたね!」
やっぱりそう思っていた。
明かりを落とした寝室。肌触りのよい清潔なシーツに恐る恐る身を預けると、ベッドのスプリングが大きく揺れた。
先に寝転んでいた藤谷が、隣で横になった俺を見て、薄暗闇の中でも分かるくらいニコニコ顔で笑っている。
「狭くないですか、遼馬さん」
「いや、狭いよ……! どう考えても狭いよ、これは」
どうしてこうなった、とまた頭の中で自分に問いかける。
藤谷の寝室に置かれたベッドは、俺の家の安物シングルベッドに比べれば大きく、おそらくセミダブルタイプだ。それでも、大の男が二人で寝転ぶと横幅はいっぱいで、かろうじて肩がぶつからないだけのサイズである。
しかし俺の訴えを藤谷は「あはは、確かに狭いですね」と楽しそうにスルーしている。このおかしな状況を、完全に楽しんでいる様子だ。
「修学旅行みたいで、なんかワクワクしますね」
「いや、修学旅行でも男二人が同じベッドで一緒に寝ることなんてないよ」
「そうですか? まあいいじゃないですか!」
そう言うと、藤谷はまだ少し逃げ腰の俺に布団を被せて、「じゃあおやすみなさい」と早々に寝る体勢に入ってしまった。
藤谷の中では、このまま眠ることは決定事項らしい。オレンジ色にぼんやりと光る常夜灯を眺めて、また頭の中の俺が叫んだ。
どうしてこうなった!
「そうだ、藤谷くん、仕事は……? この後、仕事するって言ってなかったっけ?」
せめてこの同じベッドで寝るという状況を、少しでも先延ばしできないかと思って尋ねる。
ベッドが揺れ、藤谷が体勢を変えたのが分かった。こちらを向いたのかもしれない。
「急ぎの仕事じゃないんで明日にします。夜中にゴソゴソしたら、遼馬さん起きちゃうかもしれないし」
「いや、大丈夫だよ、多分……というか、やっぱり俺ソファで寝るから……!」
「ダメですって。諦めて、今日はここで寝てください」
この隙にベッドから抜け出そうとする俺を掴んで藤谷が引き止める。再びシーツの中に引きずり込まれてしまった。
「俺もベッドで眠れるし、遼馬さんもベッドで眠れる、一石二鳥ですね」
「一石二鳥ってこういう時に使う言葉だっけ……」
逃げ出さないようになのか、藤谷は俺に布団をかけるついでに手を置いて、そのまま動かさなかった。
親が子どもを寝かしつけるような格好だ。ただ横に並んで寝ているより、明らかに体も近い。
先ほど入浴を済ませた藤谷からは、いつも香る香水ではない清潔な石鹸の香りがした。間近に迫る整った顔立ちを直視できない。
こんな至近距離に他人がいるという経験がほとんどない俺の心臓は、馬鹿みたいにドギマギしている。そんなことを意識するような関係ではないのに、これだから恋愛経験の乏しいおじさんは救えない。
藤谷はきっと、こんな距離感で人と眠ることに慣れているのだろう。このベッドのサイズだって、きっとそういうことなんだと思う。過去に、いや、もしかしたら今だって、俺が知らないだけで、本来この場所にいるべき人物がどこかにいるのかもしれない。
……なんだ、この気分は。
胸がチリリと焦げついて、落ち着かない。
自分のような体の大きいおじさんではなく、藤谷の腕の中にすっぽり収まるような、可愛らしい女性がここにいる姿を思い浮かべると、なんだかモヤモヤして気分が悪かった。薬の副作用だろうか。
「おやすみなさい、遼馬さん」
もう一度そう言うと、藤谷はそのまま——俺を寝かしつけるような格好のまま、やがて寝息を立て始めた。笑顔も幼いが、寝顔も幼い。
自分よりいくつも年下の人間が隣で無防備に眠る姿を見ていると、何か後ろめたい、悪いことをしているような気分になる。
藤谷の体温が伝わってくるようなこの距離で、緊張して眠れるわけがないと考えていたが、やがて悶々としていた俺の思考は徐々に睡魔に飲み込まれていった。
結果として、同じベッドで眠るという行為は、安眠効果抜群だった。
朝までぐっすり熟睡できた俺を見て、藤谷は「やっぱりベッドのほうがよく眠れるんですね! もっと早くこうすれば良かった!」と満足げだ。その日から藤谷は遠慮する俺をあの手この手でベッドに寝かせ、時には自分も隣で眠るようになった。
確かに、熟睡はできた。できたのだが、その理由は、おそらくベッドそのものじゃない。
睡眠導入剤の効きが悪く、これまでであればなかなか寝付けなかったような時でも、隣に人のいる気配や、その温もりを感じていると、不思議と眠気がやってくる。夢と現実を区別させてくれる存在や、自分が一人ではないと感じられる安心感にこそ、おそらく安眠効果があるのだろう。
つまり、俺がよく眠れるのは、藤谷が隣にいてくれるから。
そんなことを口に出すわけにはいかないので、俺は藤谷の満足そうな結論に曖昧に笑うだけで答えた。正直に言えば、優しい藤谷は毎日俺と眠れるようにと、仕事を早く切り上げるだろう。逆に否定してしまえば、藤谷と眠る機会がもう訪れないのではと思って、どちらも選択できなかった。
一緒に寝てくれると安心する。だけど、義務感でそんなことをさせたくない。
自分の感情の間で揺れ動きながら、やはり、俺は流されるままに今の状況に甘んじてしまった。
同じベッドで眠るようになって、また二週間が過ぎた、ある日の夜。
「今日は少し仕事が長引きそうなので、先にベッドに入っていてください。遼馬さんを起こさないようにそーっと入るんで、気にせず先に眠ってくださいね」
藤谷にそう言われて、この日は一人で寝室に入った。セミダブルのベッドは一人で寝転ぶ分にはスペースが余るほど広く、なんだか寂しい、物足りない気持ちになる。
休職中の俺には、明日早起きしなければならない予定もない。藤谷に合わせて起きていてもいいのだが、そう言えば、きっと彼は気を遣って仕事を切り上げてしまう。
こういう日は、言われた通りに先に眠ってしまった方がいい。あまり健全とは言いがたいこの関係を続けている以上、それくらいはしておきたい。
とはいえ、一人で眠るのはやはり難しい。薬の効きが悪いと、微睡むだけでなかなか熟睡には至らない。この日もそうだった。
眠いのに眠れない、浅い意識の中で、また悪夢が襲ってくる。薄暗い室内にディスプレイの明かりが浮かび、その向こうから、こちらを見て呆れたり、クスクスと笑う若者たちの声が聞こえてくる。
『このチャートって、何を見たいんでしたっけ。……ふっ、ああ、ごめんなさい。ちょっと意図が分からなくて』
『大丈夫ですか、最上さん。今の話分かりました?』
『難しかったかな、ごめんなさい。じゃもう一回説明しますね。ええと、今の用語は……』
また笑われている。しっかりしなければ、ちゃんとしなければ、集中しようと思えば思うほど、頭の中が真っ白になっていく。
鼓動がうるさい。呼吸ができない。息苦しい、誰か、誰か……!
「……さん、遼馬さん!」
「っはぁ! はぁっ、はぁ……!」
急激に意識が浮上して、止まっていた呼吸を取り戻す。
薄暗い室内で、自分ではない重みにベッドのマットレスが沈んでいる。はっきりと覚醒した視界の中に、いつのまにか隣にいた藤谷が心配そうにこちらを見ている姿があった。
「大丈夫ですか、遼馬さん。落ち着いて、大丈夫」
「はぁっ、はぁ……、はぁ……」
呼吸を促すように藤谷の手が俺の背中を優しく上下に撫でる。背中に手を回すために、まるで抱きしめられているかのような格好だ。いつもよりずっと温もりが近い。
心配そうな彼の瞳が自分を見つめていることに気づいて、やっとここが現実だと理解した。
これが現実だ。この場所に、この部屋に、誰も俺を笑う人はいない。今は、今だけは。
「……藤谷くん……」
「はい」
縋るように名前を呼べば、優しい返事が返ってくる。その声に滲んだ優しさが胸に染みて、目頭が熱くなった。
「藤谷くん……」
「はい。何ですか、遼馬さん」
彼から伝わる温もりだけを頼りに、シーツの中で自分の膝を抱えるように体を丸めた。
誰も俺を馬鹿にする人はいない。温かくて、安心できる。この場所だけは。
俺の呼びかけに藤谷は優しく返事をしながら、躊躇いがちに、そっと俺の体に腕を回した。心臓が音を立てて動く。息苦しさではない思いで呼吸が止まる。
藤谷の触れている部分が痺れるように熱を持った。さっきまで俺を苦しめていた悪夢が遠ざかり、意識が全て藤谷の存在に集中する。
最初は遠慮がちだった藤谷の手に、やがて力が込められて、俺の体は完全に彼に抱き締められた。
「……っ」
藤谷の腕から彼の思いやりが、優しさが伝わってくるようで、心が震えた。涙が次々に溢れて落ちる。
もうダメだ、これ以上誤魔化せない。ずっと輪郭を持たなかった、自分の中の藤谷に対する感情が、彼の腕の中で明確な形を取り始める。
優しい。嬉しい。温かい。愛おしい。この温もりから離れたくない。
俺にとってもう、藤谷は、なくてはならないほど大きな存在になっていた。
——でも、ダメだ。
彼はただの隣人で、その優しさからこうして俺を気にかけてくれているだけ。
俺の中ではこんなにも大きな存在なのに、彼にとっては、ただの親切心から見過ごすことができない、可哀想な存在、それが俺だ。
いったい、いつまで許されるのだろう。こうして、ただの隣人である彼に甘えられるのは、いつまでなのか。
本来このベッドで、彼の腕の中にこうして抱き締められるのは、彼に見合うだけの魅力を持った素敵な女性なのだろう。そんな存在に、俺のこの場所を空け渡さなければならないのはいつだろうか。いつまでなら、この場所にいることを許される?
彼の温もりから感じる安心感と、この場所にいつまでいられるのかという不安でごちゃまぜの感情が、体の中で暴れている。次々に涙が溢れて止まらない。震える俺の体を抱きしめる彼の指先から伝わる感情に、必死で俺と同じものが隠れていないかを探してしまい、自分で自分が嫌になる。
そんなもの、あるわけないと分かっているのに。
「藤谷くん……」
「はい。遼馬さん」
暗く、静かな寝室の毛布の中、感じるのは藤谷の香りと、呼吸と、鼓動と、温もりだけで、世界に二人だけになったような気がした。
本当にそうだったら、どれだけいいだろう。
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