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第4話
見慣れた診察室で医師と向き合う。白衣の医師の視線はいつものようにパソコンのディスプレイへ向けられ、指先でキーボードを叩きながら何かを入力していた。
「以前より顔色がいいですね。どうですか、眠れるようにはなりましたか」
キーボードの打鍵音に混じって、医師がそう尋ねてくる。
「はい、その……朝まで目が覚めないことが増えました。夢を見ない日も多くて」
「そうなんですね。よかったです。何か心境の変化でもありましたか」
医師の問いかけに、すぐさま藤谷の顔が浮かぶ。まさか毎晩隣人に寝かしつけてもらっています、などと言えるわけもなく、言葉に詰まる。
「いや、その、特には……」
「そうですか。薬が効いているのかもしれませんね。もう少し今のまま様子を見てみましょうか」
今のまま……。
その言葉に、このまま藤谷と生活を共にする日々を思い描く。そんなふうに過ごせたら、どれほどいいだろう。
「次回までこの調子が続くようなら、少しずつお薬を減らしていきましょうね」
回復を喜ぶ医師の言葉を、ぼんやりと聞き流す。
こんなにも藤谷がいることが当たり前になってしまって、あの一人きりの部屋での孤独な生活に戻った時、果たして俺は耐えられるのだろうか。
以前の生活を思い出そうとすると動悸がした。考えることすら、脳が拒否しているというのに。
藤谷がいなくなれば、きっと元の俺に戻るだけだろう。またあの悪夢の中で、夢と現実の区別もつかない、苦しいだけの日常に。
病院を出てすぐスマホを手に取り、今終わったよ、とメッセージアプリに打ち込む。『すぐ行きます!』と返事がきてしばらくすると、文字通り本当にすぐに、藤谷が現れた。
「ごめん、待たせて」
「いえ! せっかくなのでちょっとランニングしてきました。運動不足だったのでちょうどよかったです」
爽やかに笑いながらそう言って、藤谷はランニングで僅かに乱れた髪を後ろに撫で付けるようにかき上げた。
なるほど、それで今日は動きやすい服装だったのか、と納得して改めて藤谷を見る。藤谷が着用すると、ラフなジャージ姿ですら眩しくて、思わず目を細める。
「でも、長かっただろう。わざわざ俺を待たなくても、先に帰ってくれてよかったのに」
「それじゃ遼馬さんと一緒にご飯に行けないじゃないですか。行きましょう、もう俺お腹ペコペコ」
可愛らしい表現にふっと笑みがこぼれる。病院が終わる時間を待っていなくたって、ご飯には一緒に行けると思ったが、それ以上は追求しないでおく。
今日は心療内科の診察日だった。滅多に外出しない俺が家を出ようとしたところで、藤谷に呼び止められ、行き先を告げると、病院が終わるのを外で待っているから、そのままこの前の定食屋でお昼ご飯を食べましょう、と誘われた。
こういったことは今日だけではない。同居生活が始まってから、ごく稀に俺がこうして通院や買い出しに出かけようとすると、何かと理由をつけて必ず藤谷がついてきてくれた。
最初は偶然かと思っていたが、何度か続くうちに意図的にそうしているのだと察する。多分、俺を一人にしないようにしているのだと思う。俺が目の前で倒れ、救急車を呼ぶ羽目になったことを、今でも気にしているのかもしれない。
最近は夜も眠れているし、体調もいい。そこまで心配しなくても大丈夫なのだが、口には出せなかった。そうやって藤谷が自分のことを気にかけてくれることも、藤谷と一緒に過ごせることも嬉しかったからだ。
お昼時にはまだ少し早い定食屋は、開店したばかりで他に客はおらず、一番乗りのようだった。
すぐに席へ案内され、以前と同じようにミックスフライ定食を二人分注文する。
「今日のフライ、楽しみですね」
店先に出ているお品書きを、今日もあえて確認しなかったのだろう。楽しそうに藤谷が呟く。
やがて運ばれてきた盆の上、中央に並んだ三つの揚げ物は、ハムカツ、かぼちゃコロッケ、白身魚のフライだった。
藤谷はハムカツにひとしきり喜んだ後、嬉しそうにそれを口へ運んだ。微笑ましくその様子を眺めながら、自分も食事を進める。
「先生に、前より顔色がいいって褒められたよ。藤谷くんのおかげだな」
「ほんとですか。良かった。遼馬さん、ベッドで眠るようになってから、夜起きる回数も減りましたもんね。やっぱり寝る場所って大事ですよ。……そうだ、あれ試してみません? 最近ネットで話題になってる、めちゃくちゃよく眠れるっていうマットレス!」
「いやいや、高級なやつでしょ、それ。今でも充分寝心地いいのに、勿体無いよ」
「ええ……でも気になりません?」
藤谷くんは知らないだろうが、俺の安眠の秘訣はベッドではなく藤谷である。マットを変えたところで意味はない。やんわりと購入を止めるが、藤谷は「試してみる価値はあると思うけどなぁ」と不満げだ。
「……藤谷くんは」
藤谷は、どうしてそんなに俺を心配してくれるのか。
不意に、疑問がこぼれ落ちそうになる。
どうして、ただの隣人を自分のテリトリーに招いてまで気にかけてくれるのか。大の男が同じベッドに入り、寝付けない夜には温もりを分けてくれるほどに面倒を見てくれるのか。過保護なくらい、外出にまでついてきてくれるのか。挙げ句の果てには寝心地を気にしてマットを新調しようとしたりして。
どうして。なんで。
もしかして、少しでも、俺と同じ気持ちがあるんじゃないか。
——なんて。
「遼馬さん?」
問いかけたまま固まってしまった俺を、藤谷が不思議そうに見ている。開きかけた口を閉じて、笑顔を浮かべてみせる。
「何でもないよ。美味しいね、このハムカツ」
「……? はい! お店で食べるハムカツって、ほんと美味しいですよね。家で作ってもこんなに美味しくならなくて……」
藤谷が楽しそうに話す姿を、笑って見守る。馬鹿なことを聞こうとしてしまった。藤谷が自分を気にかけてくれる理由なんて、一つしかない。
彼の優しさからくる同情以外に、あるわけないのに。
微睡んでいた意識が浮上して、ふと目が覚める。
昼間、久々に病院で診察を受けたせいだろうか。色々と考えてしまって、悪夢を見ているわけでもないのに、今日は眠りが浅い。
暗い寝室は静かだ。穏やかな寝息が聞こえて隣を見ると、同じベッドで眠る藤谷の寝顔があった。
熟睡しているのだろう、力なく開いた唇から八重歯が覗いていた。心なしか笑顔に見える。楽しい夢でも見ているのだろうか。あどけなくて可愛い。
藤谷の寝顔を見ているだけで、藤谷の淹れてくれたココアを飲んでいるときのような、甘くて温かい気持ちになる。
布団の中で身じろぎすると、柔らかいマットが沈んでベッドが軽く揺れた。
そう言えば、定食屋から帰ってきてすぐ、藤谷がネット通販で本当に高級マットレスを買おうとしていたので驚いた。とんでもない金額だったのでさすがに止めたのだが、思い出して笑みがこぼれる。眠れないのに、こんなに穏やかな気持ちでいられることが、自分でも信じられない。
このまま、夜が終わらなければいいのにと思う。朝が来てしまえば何かが動き出して、この静かで穏やかな時間も終わってしまうような気がした。何も失わないまま、ただ隣にいられるこの時間が永遠に続けばいい。
いつか、元の生活に戻らなければいけないことは分かっている。でも、今はまだ甘えさせてほしい。
藤谷が、ここにいることを許してくれるうちは。
心療内科の通院があった翌日。
その日、珍しく朝から藤谷はパソコンの前に張り付いていた。大きなヘッドホンをつけ、たまにエレキギターの弦を弾いたり、シンセサイザーを鳴らしたりしたかと思えば、ヘッドホンを外してぐしゃぐしゃと自分の髪をかき混ぜる。
「なんっか違う……こうじゃない、こうじゃないんだよ」
リビングの隅でああでもない、こうでもないと唸る藤谷の姿を、キッチンでお湯を沸かしながら見つめる。
珍しい、スランプだろうか。普段はきれいに整えられていることが多い藤谷のヘアスタイルがくしゃくしゃになっているのが新鮮で、視線を奪われる。大変な時に申し訳ないが、少し可愛い。
椅子の上で足を組んだり、そのまま椅子をくるくると回してみたりと、忙しなく動いているのも珍しかった。年下なのにしっかりしていて、余裕のあるイメージだったので尚更だ。
前に藤谷がそうしてくれたように、インスタントではないコーヒーを淹れる。近所のコーヒー専門店で買った豆をミルに入れて挽き、フィルターの上に乗せる。焦らずゆっくり、お湯を注いでいくと、鼻腔をくすぐる香ばしい香りが広がってゆく。
「藤谷くん、コーヒー淹れたよ」
「遼馬さん……! ありがとうございます……神様……!」
大袈裟に俺を見上げる藤谷に、苦笑して返す。
「大袈裟だよ」
「大袈裟じゃないですよ! 遼馬さんを見て浮かんできました……! 今なら何小節でも書けます!」
せっかく淹れたコーヒーはデスクの脇に置かれ、藤谷は再びヘッドホンを付け直し集中モードへ戻った。コーヒーは冷めてしまうだろうが、仕事が進むならそれもいいだろう。
自分のコーヒーに口をつけながら、今のでコーヒー豆がなくなったな、と考える。確か牛乳も残り少ない。卵もだ。昼食の前に買い物に行こうか。
藤谷はまだ仕事に集中している。いつもコーヒー豆を購入している専門店は徒歩五分ほどだし、スーパーもそこからすぐの場所だ。
声をかければきっとまた一緒についていくと言うに違いない。このくらいの買い出しで、せっかく進み始めた藤谷の大事な仕事を中断させるわけにはいかない。
コーヒーが空になったマグカップを置いて、俺はそっと家を出た。
秋晴れの心地よい日だった。毎日家にこもっているせいで曜日の感覚など皆無なため、外に出て人出の多さを目の当たりにし、初めて今日が休日だということに気づいた。
元々人混みは苦手だ。特に休職してからは騒がしい場所で気分が悪くなることが多いので、外出する必要があるときは平日の人が少ない時間帯を選んでいた。
スーパーも混んでいるだろうか。一瞬、別の日に出直そうかと考えたが、すぐに思い直す。出直したら、きっとまた藤谷に気を遣わせてしまう。やはり今買い物を済ませてしまったほうがいい。
一人で外出するのは久々のことだった。何となく不安な気持ちが晴れなくて、藤谷が一緒にいるのが当たり前になっていることを嫌でも自覚した。
いい歳した大人が情けない。こんな買い出しくらいで怖気付いていたら、藤谷がいなくなった時、まともに生活もできないだろう。
体調は回復しているはずなのに、精神的には弱くなったみたいだ。こんなことで本当に大丈夫だろうか。
ますます不安に陥りそうになり、慌てて落ち込んだ気持ちを追い出した。今はそんなことを考えなくていい。ともかく、買い物を終わらせて無事に帰ることだけを考えよう。
コーヒー専門店でコーヒー豆を購入した後、スーパーへ向かう。休日のスーパーは人や車の出入りが激しく、賑やかな家族連れも多い。
店内に入ろうとしたタイミングで、ちょうど小さな子どもが俺の横を走り抜けていった。
「こら! 歩きなさい!」
叫びながら、母親が大慌てでその子を追いかけていく。邪魔にならないよう端に寄って道を空け、人が途切れたのを見計らって店内に入る。
幸い、店内はゆとりをもって商品が陳列されており、それほど混雑しているようには感じられない。このくらいの騒がしさなら、人酔いすることもないだろう。
牛乳、卵、他にも細々とした食品、日用品を買い物かごに入れて、レジに並ぶ。
レジ周りは会計待ちの人であふれ、店内で一番混雑している場所だ。ざわざわと響く喧騒に頭がぐらりと揺れる。ふらつく足元を必死に踏ん張って耐える。大丈夫、大丈夫だ。
なんとか会計を終えてスーパーを出る。人混みから逃れて新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
ほら、やればできる。俺は大丈夫だ。一人でも大丈夫。
藤谷がいなくても、大丈夫。
秋の爽やかな風を身に受けて帰り道を歩く。遠くから公園で遊ぶ子どもの笑い声が聞こえてきた。
長閑な街並みを歩いていると、少しだけ気持ちも上を向く気がする。久々の一人での外出と、買い出しというミッションをクリアしたからだろうか。気分は晴れやかだ。
マンションに着き、エントランスで鍵を探す。勝手に鍵を借りるのも気が引けて、すぐそこだからと藤谷の家の鍵は開けたまま出てきてしまった。エントランスの自動ドアを開けるには、もう随分使用していない、俺自身の自宅の鍵が必要だ。
鞄の中を手で探り、鍵を探す。ほとんど自宅に帰っていないこともあって奥に入り込んでしまったのか、すぐには見つからない。
まさか忘れてきたわけじゃないよな、と不安になりながら鞄の中を探っていた、その時だった。
「最上サン」
聞き覚えのある甘ったるい声に、ゾクリと、肌が粟立った。
まさか、なんで、そんなわけない。また幻聴だろうか。悪夢の続きを見ているのか。そんな思いがぐるぐると頭の中を駆け巡る。
しかしその声は、これが現実であることを知らせるかのように、俺の耳元で言葉を続けた。
「やっと会えましたね。お元気でしたか」
飛び退いて距離を取り、声の主を視界に収める。そこには想像通りの人物が、夢ではなく現実に立っていた。
明るく染めた髪を後ろでひとつに束ね、ニコニコと人好きのする笑みを浮かべるその男。
五十嵐迅、休職前に所属していたチームのリーダーだ。先日、何故か俺の家の前にいた男でもある。
職場で見かけるスーツ姿とは違って、ゆったりしたスウェット生地のパンツにシャツという、ラフな格好である。
心臓がバクバクとうるさく暴れ回る。休職前の様々な場面が現実に蘇る。
心配するふりをしながら、遠回しに俺を貶めるような発言。あからさまな溜息や、苦笑い。明確にモラハラと名付けられるほどではない、だが確実に人を追い詰める言動の数々。
上手く息ができず、浅い呼吸で必死に酸素を取り込む。黙ったままではいけない、何か言わなければ。そう思うのに、声が出ない。
五十嵐は気だるげな目を楽しそうに細めて俺を見ている。苦手な目だった。俺の一挙一動を観察し、何か指摘すべき不手際を探しているような目。
はくはくと声にならないまま動いていた口から、ようやく音を絞り出す。
「なん、で……」
なんでここにいるんだ。
思ったことがそのまま、口からこぼれ落ちそうになり、しまったと青ざめて口を閉じる。
まずは挨拶をするべきだった。そして、仕事を放り出して休んでいることを謝罪しなければいけなかった。社会人の責任として、それが正解だった。
それなのに、自分の感情が先に出て、相手を否定するような言葉が出てしまった。最悪だ。どうして俺はこんなにも、当たり前のことが当たり前にできないのだろう。
自己嫌悪と、これからどうなるかという不安や恐怖で、目の前の景色がぐにゃぐにゃと歪む。気持ち悪い。立っていられず、ガタガタと膝が震える。
そんな俺の様子すら、五十嵐は心底楽しそうに見つめている。
「なんでここにいるのか、ですか。あれ、聞いてませんか。何でしたっけ、ほら、最上さんの隣人の……藤谷くん? 彼には何回か会ってるし、話もしてるんですけど」
藤谷の名前が出たことで、不安や恐怖より驚愕を感じて、ハッと目を見開く。
なぜ、五十嵐がその名前を知っているのか。何度か会っているだって? そんな話、藤谷からは聞いていない。
驚く俺を更に興味深そうに、面白そうに見つめて、五十嵐は続ける。
「最上さん、今、彼のところにいるんですよね。聞きました。何回訪ねても最上さんが留守だから、何か事件に巻き込まれてるのかなって、心配したんですよ。ダメじゃないですか、最上さん。お隣さんの家に入り浸ったりして、迷惑かけちゃ」
五十嵐の哀れむような、呆れたような視線に射抜かれて、頭を鈍器で殴られたような気分になる。
心臓がぎりぎりと締め付けられて痛かった。正論だった。自分でも分かっていた。ただの隣人である藤谷に甘えて、自分より一回り以上も年下の彼の世話になって、このままではダメだと分かっているのに、どうしても、その居心地の良さを手放せなかった。
自分の甘えを、一番突かれたくないところをこの男に見透かされた。仕事でもずっとこうだった。五十嵐の正論は、いつだって、俺がいかに無能であるかを浮き彫りにする。目を逸らしたくなるような、自分という人間の愚かさを直視させる。
——息が、できない。
今にも倒れそうな俺を、五十嵐は満足げな目で見て、言う。
「藤谷くんには言ったんですけど、俺もこのマンションに引っ越してきたんですよ。最上さんも同じマンションに住んでるって知って、この前も挨拶に行ったんですけど」
五十嵐が俺に一歩近づく。安全だと、ここなら大丈夫だと感じていた場所を侵食されていく。
思わず後ずさった俺の背中はすぐエントランスの壁にぶつかり、逃げ場がなくなった。五十嵐はまた一歩近づいてくる。
「なかなか話せないんで、どうしようかと思ってました。……ねぇ、最上さん。ダメですよ、あんまりお隣さんに迷惑かけちゃ。何か困ったことがあるなら、俺に教えてください。同じ職場のよしみで、力になれることもあると思うんで」
本当に目前まで迫ってきた五十嵐が、笑顔で、俺の手をスーパーのレジ袋ごしに握った。
冷たい手だった。驚いて引っ込めようとした手を強引に開かれ、何かを握らされる。
その瞬間、それまで表面上優しそうに細められていた五十嵐の目が、強い意志を宿したように俺を捉えた。獲物を狩る獣のような目だと思った。
「仕事とおんなじですよ。全部俺に任せて、アンタは何も考えなくていい。……ね、最上サン」
「遼馬さん!」
エントランスのドアが開いて、慌てた様子の藤谷が飛び出してくる。最後にパソコンに向かう様子を見た姿のまま、くしゃくしゃの髪に部屋着のスウェットで、着の身着のままという格好だ。
俺と五十嵐を視界に捉えると、藤谷の顔つきが険しくなり、俺から五十嵐を引き離すように間に割って入ってきた。
「遼馬さん、帰りましょう」
五十嵐に背を向けて、藤谷は動かない俺の体を引っ張るようにしてエントランスの扉へ向かう。藤谷の行動を見ていた五十嵐が声を上げて笑った。
「ひどいなぁ、藤谷くん。まだ最上さんと話してる途中なのに」
「関わらないでくださいって言いましたよね。俺も遼馬さんも、あなたと話すことはないです。失礼します」
今までに聞いたこともないような冷たい声でそう言い放ち、藤谷は五十嵐を睨みつけた後、俺を引っ張ってエントランスの扉をくぐった。
無言のまま、藤谷は俺の手を引きエレベーターに乗り込む。空気が冷たかった。何も言わない藤谷から怒りの感情が伝わってきて、恐ろしかった。
また、俺がちゃんとできなかったから。いい年した大人のくせに、職場の人間とコミュニケーションすらまともに取れないから、さすがに呆れてしまったのではないだろうか。強く引かれる藤谷の手から、確かな苛立ちが感じられて萎縮する。
藤谷は俺を自分の家へ連れ帰った。鍵が開いたままのドアを開けて、玄関に入る。
バタンと音を立ててドアが閉まると、電気のついていない玄関は途端に暗くなった。
藤谷が立ち止まって、俺も立ち止まる。しんとした静寂が冷たく広がった。俺を引っ張るために繋いでいた手が力なく落ちた。
「ごめん、藤谷くん」
「……遼馬さん?」
思わず、謝罪の言葉がこぼれた。藤谷の顔を見ることができず、俯いて続ける。
「迷惑かけてごめん。ずっとここに居座ってたこともそうだし……他にも、いろいろ。俺がさっきの人……五十嵐さんに会いたくないって言ったから、ずっと、会わないように気を遣ってくれてたんだよな」
五十嵐は、藤谷と何度か会って話したと言っていた。もしかすると藤谷は、俺が会いたくないと言った五十嵐が同じマンションに引っ越してきて、何度も家を訪ねていることを知っていたのかもしれない。
だから俺が自宅へ帰らないように誘導していた。万が一鉢合わせても自分が対処できるようにと、外出するときは理由をつけて付き添ってくれた。
そう考えるとあまりに過保護すぎる彼の行動の辻褄が合った。俺が気を遣わないように、直接は伝えず、そうしてくれていたのだ。
いつか藤谷が言っていた。尊敬している人がいて、その人みたいになりたいんだと。だからいつも人の気持ちを考えて、人のために動こうとしてくれる。
藤谷の優しさを知っていたのに、ずっと、居心地がいいから、俺が藤谷と一緒にいたいからと、藤谷の優しさに甘えていた。
五十嵐の言う通りだ。それでいいわけないのに。
「違います、遼馬さん。迷惑なんてそんなことないです。俺、ほんとにただ遼馬さんと一緒に居たかっただけです。遼馬さんが居てくれると嬉しくて、だから」
慌てたような藤谷の言葉に、黙って首を横に振る。藤谷は優しい。優しいから、どれだけ話したってきっと本当のことは言ってくれない。
——俺が、自分で離れなければ。
俯いていたせいで、滲んだ涙が床に落ちそうになる。
「ありがとう。藤谷くんのおかげで、眠れるようになったし、最近は結構体調もいいんだ。昨日の病院でも、回復に向かってるって言われたし。いい機会だから、そろそろ、俺も家に帰るよ。長いことお世話になりました」
「遼馬さん!」
「またね、藤谷くん」
藤谷の返事を待たずに、それだけ言って鍵が開いたままのドアを開ける。後ろでまだ藤谷が俺を呼び止める声が聞こえたが、そのまま廊下へ出てドアを閉めた。
これでいいのだと自分に言い聞かせる。もっと早くこうするべきだった。
情けなく溢れそうな涙を空いている手で擦って誤魔化す。しばらく気持ちの整理はつきそうにないけれど、きっと、時間が解決してくれるだろう。
これからは、ちゃんと一人で……
「遼馬さん!」
「え!」
閉めたはずのドアがガチャリと開く。焦ったような藤谷が中から出てきた。
「遼馬さん、聞いてください! 俺、ほんとに迷惑なんて思ってないですから! 気を遣ってたわけでもない、だから、謝る必要なんかないんです」
「ちょっ、待っ……藤谷くん、もういいから! ほんとに、大丈夫だから!」
すっかり区切りをつけ終わった話のつもりだったので、ぎょっとした。
藤谷からしたら、そこまで俺の世話を見る義理はないだろうし、俺から離れればそれで終わる関係だろうと思っていたのだ。
驚いた俺は外へ出てこようとする藤谷を、咄嗟に家の中に押し戻した。開いたドアを押して閉めようとする。
藤谷は逆にドアから出てこようと必死で、押し合いになった。なんだこの状況。
ともかく、引き下がろうとしない藤谷を俺は必死に説得する。
「藤谷くんが優しさとか、責任感でそう言ってくれるのは分かってるけど、もう充分だから……! こんな、ただのお隣さんにここまでしてくれる必要ないよ。藤谷くんだって、いつまでもこんなおじさんが家に居座ってたら嫌だろ。こ……恋人、とかも、呼べないし」
自分で言っておいて、藤谷の恋人が藤谷を訪ねる姿を想像して胸がズキリと痛んだ。自分の恋愛経験のなさを恨むばかりだ。想像だけで動揺するなんて、情けないにも程がある。
「いや、だからそれが間違いなんですって……! お願いします、話を、聞いてください! 遼馬さん!」
だが藤谷の方も譲らない。しばらくそのまま、文字通りドアを挟んで押し問答した後、やはり引きこもりのアラフォーでは力で敵わなかったのか、力づくでドアから出てきた藤谷が、俺の目の前で勢いよく膝をついた。
「遼馬さん!」
「ちょっ……! 藤谷くん⁉」
額が廊下に擦れそうなほど頭を下げて、藤谷が俺に向かって土下座の格好になる。
なぜ俺が頭を下げられなければいけないのか、むしろ、土下座する必要があるのはこちらの方だというのに。
全く状況の分からないまま、慌てて俺も地面に膝をつく。
「藤谷くん、何してるの。やめなって……こんなこと、しなくていいから」
土下座をやめさせようとするものの、頭を下げた藤谷はピクリとも動かない。そのままの格好で、藤谷は、真面目な口調で話し始めた。
「ごめんなさい。遼馬さんに黙ってたことがあります」
「えぇ……?」
何が起きているのか全く分からない。混乱したまま藤谷の、低く下げられた頭の後ろを見つめる。
床についた藤谷の手が、何かを決意したようにぐっと拳を握るのが分かった。
「俺、知ってるんです。遼馬さんのこと、ずっと前から」
思い詰めたような声で、藤谷が言った。その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
ずっと前から、知っていた? 俺のことを?
いや、それは勿論、俺も藤谷のことはずっと前から知っていた。確か藤谷が隣に引っ越してきて、マンションで見かけるようになったのは二年くらい前だと思う。話したことはないにしろ、お隣さんとしての認識はかなり前からある。
だが藤谷の言うずっと前が、自分と同じ認識ではないような気がして、俺は言葉を見つけられないまま、ただ黙り込んだ。
ずっと前って、いったい、いつから。
藤谷がゆっくり顔を上げる。恐る恐る俺の顔を見て、その表情を後悔の色で染めた。死刑を待つ囚人のような顔だった。
「黙っててごめんなさい。俺、そんな、遼馬さんが思ってるような人間じゃないです。他人に優しいわけでもない。遼馬さんだから、ずっと、尊敬してた人だから、俺が、一緒にいたかったから……」
「ちょっ、待って、ごめん、藤谷くん。頭が追いつかなくて……え……? 俺のことを、知ってたの? いつから?」
混乱し切った頭で、なんとかそう問いかける。
改めて、藤谷の憔悴してもなお整った顔立ちを見つめた。このマンションで隣人として見かけるようになる前に、会ったことがあるだろうかと記憶を思い返してみるが、全く心当たりがない。
藤谷は俯いて視線を逸らし、言いにくそうに、しかし何かを決心したように口を開いた。
「七年前です」
「七年前⁉」
確かに、七年前にはもうこのマンションには住んでいたが、隣に住んでいたのは別の人物だったはずだ。俺と同じくらいの年齢の男性で、そのうちに結婚したのか女性と一緒に住むようになって、手狭になったのだろう、二年ほど前彼らが引っ越した後にやってきたのが藤谷だった。
驚きのあまり思考が上手く回らない。ぐらりと目眩で視界が揺れて頭を押さえた。
「遼馬さん」
藤谷が心配そうに俺の体を支えてくれた。その手から伝わるのは、やはり俺を気遣うような優しさだ。触れた後で、ハッとして遠慮がちに手を引っ込めるところすら、彼の優しさ以外のなんでもない。
そんな藤谷の仕草を見ていると、混乱していた思考が少しずつ収まっていく。そうだ、一度落ち着こう。藤谷の黙っていたことが何かは分からないし、心当たりもないが、藤谷がこうして俺に対して悪意のない、思いやりを持って接してくれていることだけは確かだ。
七年前、藤谷がどこでどうやって俺を知ったのか。何にそんな後ろめたさを感じているのか。話を聞く必要があると思う。
「……藤谷くん」
「はっ……はい」
緊張している様子が伝わってきて、思わずふっと笑ってしまう。
どんな話を聞いたとしても、きっと彼への感情が変わることはないだろうと予感があった。
「コーヒー、冷めただろ。新しく淹れ直そうか」
「……っ! はい!」
家を出る前に淹れたコーヒーは、きっと口をつけられないまま冷めているだろう。新しく買ってきたコーヒー豆の出番だ。温かく、心を落ち着かせてくれるコーヒーを淹れてから、ゆっくり話を聞けばいい。
二人のろのろと立ち上がって、藤谷の家へと戻る。
途中、スーパーのレジ袋を持った手に何が異物を握っていることに気づいた。
それは五十嵐が俺の手に握らせたメモ用紙だった。真っ白なそこには、三桁の数字が書かれている。
何の数字だろうか。疑問に思ってメモ用紙を眺めていると、五十嵐の声が蘇る。
——ダメですよ、あんまりお隣さんに迷惑かけちゃ。何か困ったことがあるなら、俺に教えてください。
心底楽しそうに、五十嵐がそう囁いていたのを思い出して、ゾワリと不安が心臓を撫でた。拳でメモを握りつぶして、そのまま捨ててしまおうかと思ったが、何か仕事に関係のある、重要な数字かもしれないと思い直す。
メモ用紙はひとまずジャケットのポケットに突っ込んだ。色々なことを考えるのは、藤谷の話を聞いた後でいい。
五十嵐の言葉を頭の片隅に追いやって、前を歩く藤谷の背中を追いかけた。
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