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第5話

 深夜のコンビニに訪れる客層は、決して良いとは言い難い。  まず酔っ払い。話は通じないし、面倒な絡み方をしてくる。挙げ句の果てに店内で粗相をされた時なんて最悪だ。店長はそういう客の後始末をアルバイトに丸投げするので、大抵は自分が片付けることになる。  次に訳ありっぽい男女。明らかに年齢差があったり、男の方が堅気じゃなさそうだったりと、あまり関わり合いたくない匂いがプンプンする。なのに、難癖をつけられることが多い客ナンバーワンでもある。男の方が女にいい格好をしようとするのか、理不尽なクレーム対応をさせられることが少なくない。  それから……。  他に客のいない店内に、入店音が虚しく響く。  長い前髪の隙間から、入口をちらりと確認した。  ——あの人だ。  深夜のコンビニに訪れる客層、もう一つは疲れたサラリーマン。社畜と言ってもいいかもしれない。 目の下に深く刻まれた隈。まともにセットもされていないボサボサの髪、くたびれてヨレヨレのスーツ。今にも倒れそうな足取りでエナドリを一本手に取り、欠伸混じりにレジへやって来る。  こんな大人にはなりたくないなぁ、と思いながらレジを打つ。 「ありがとうございました」  適当な挨拶で会計を済ませ、その人物の背中を見送った。まだ生きてたな、あの社畜おじさん。そのうち過労で死ぬんじゃないだろうか。まあ、自分には関係ないけど。  深夜のコンビニに訪れる客層は、最悪だ。世の中に見捨てられたような人間ばかり。もちろん、それを眺める俺も含めて。 「え、ハルト、コンビニでバイトしてるの? あの駅の近くの?」  同じ専門学校に通う知人の言葉に、頷いて答える。グループワークでボーカルを担当している、ボーカル科の女性だ。名前は、確かミユウ……美優、だったか。  今日はスタジオをレンタルして音合わせを行う予定だったが、俺の曲作りがまだ固まっていないこともあって、やることがなく手持ち無沙汰な様子だ。どうせなら早々に帰ってしまったドラム担当のメンバーのように、先に帰って欲しいのだが、さっきからやたらと話しかけてくる。 「そうなんだ。私も結構行くけど、見たことないな。……今度、バイトしてる時に行ってもいい?」 「深夜だから、やめた方がいいよ。女の子一人で来るのは危ないから」  それだけ答えると、彼女はなぜか少し不機嫌になって、そっぽを向いてしまった。  隣にいたベースのメンバーが肘で俺をつついてくる。やめてほしい。今、サビのコード進行を詰めている途中なんだから。  しばらく不機嫌そうにしていた彼女だったが、俺が何の反応も返さずにいると、呆れたように顔をしかめ、それでもすぐに気を取り直してまた話しかけてきた。 「ね、ハルトってなんでそんなに前髪伸ばしてるの? せっかく綺麗な顔してるのに、もったいなくない?」 「別に。切るのが面倒なだけ」 「ふーん……まあ、私はそのほうがいいけどさ。ライバルは少ない方がいいし」  何か小声でボソボソと喋っていたようだが、あまりよく聞こえなかった。それより作曲に集中したい。  隣にいたベーシストがまた俺を肘でつついて、「お前さぁ……」と呆れた声を出していたが、それすら煩わしくて無視した。  コンビニの深夜バイトは、翌日の午前に授業がない曜日のみ、土日を含めて週三回。深夜の特別手当で時給がいいため、少ない時間と日数で生活費を稼げる効率のいい仕事だ。  空いた時間はすべて作曲に費やした。音楽で生計を立てるというのは、簡単なことじゃない。学校に通って専門的なスキルを学んだとしても、この業界で仕事ができるのは一握りだ。  卒業してからじゃ遅い。今すぐにでも結果を出す必要がある。幸いSNSや動画ストリーミングサービスなど、自分の作品を発表する場はいくらでもあった。  やれることは何でもやった。だが、思うような結果は得られていない。今は、まだ。  早く結果を出さなければと、焦りばかり募る。    学校でスタジオが使用できるギリギリの時間まで作業し、そのままコンビニのアルバイトへ向かう。  客の少ないこの深夜帯は、俺の他にアルバイトはいない。一応店長も出勤しているが、大抵は俺に任せて店の奥で仮眠を取っている。  この日も、俺は一人でレジに立っていた。品出しをするよりも、ただここに立っていてほしいと言われている。深夜は面倒な客が多いが、背の高い俺が立っているだけで威圧感があり、多少は面倒な客を遠ざけられるらしく、店長には感謝されていた。  店内BGMが小さく流れる以外には何の音もない。レジに立ちながら、俺はぼんやりと今行き詰まっている作曲のことを考えていた。  頭に浮かぶ旋律はどれもありふれていて、誰かの真似でしかないように感じられる。人の心に残るような、自分にしかできない音楽が作りたいと思っているのに、上手くいかない。垂らした手で、ぐっと拳を握る。  ずっと音楽に携わる仕事がしたいと思って、ここまでやってきた。でも、認めたくはないけど、もしかして、自分には、 「だから、才能がないんすよぉ! 俺なんてどうせ! 何にもできないんすからぁ」  急に店内に大声が響いて、ビクリと顔を上げる。  驚いた。いつのまにか客がいたようだ。考え事をしていたせいで、入店音に気づかなかった。  騒がしくしているその男性客はどうやら酔っ払っているようだ。すっかり出来上がっているのだろう、おいおいと涙声で声を張り上げている。  酔っ払いの横にはもう一人、その人物を宥めている男性がいた。  おや、と思う。酔っ払いを宥めている方は常連だった。深夜に一人でやって来る、いつも死にそうな顔をした社畜おじさんだ。  珍しい、今日は連れがいるらしい。 「最上さぁん、俺もうダメっす……この仕事辞めます」  グズグズと鼻を鳴らしながら、酔っ払いが言う。最上と呼ばれた男は、倒れそうになる男を支えながらうんうんと頷いて宥めた。 「分かるよ、辛いよな。俺も若い頃はそうだったよ、何が悪いのか全然分からなくて、エラーの原因見つけるのに何時間もかかったりして」  言いながら、社畜おじさんは手際良く冷蔵ケースからミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出した。おじさんの話を聞いた酔っ払いがますます声を荒げて咽び泣く。  そのまま、酔っ払いを引きずるようにして社畜おじさんがレジへ向かってきた。おいおい、マジか。その状態でこっちに来るつもり?  煩い上に酒臭い客にうんざりして、思わず顔に出てしまう。長い前髪で顔半分は隠れているから、そこまで露骨には見えないだろうが、レジまで来た社畜おじさんは俺の思いを察したのか、申し訳なさそうにペットボトルを差し出した。 「ごめんな、すぐ出るから」  素直に謝られてバツが悪くなり、軽く頷いて無言でレジを打つ。片手でもたもたと会計をする社畜おじさんに、酔っ払いが「最上さぁん!」と泣きながらまとわりついている。  おじさんも大変そうだ。少し同情する。 「大丈夫だよ、今はさ、先が真っ暗で何にも見えないような気がしても、そのうちにさ」  小銭を数えて出しながら、社畜おじさんが言う。  穏やかな、優しい声が耳に残った。まるで俺に話しかけているようだと思った。 「見落としてたコードが一個見つかって、急に、目の前が明るくなることもあるから。才能があるかないかなんて、考えても分かんないだろ。ぜーんぶやって、全部試して、それでもダメだった時に考えよう。大丈夫だよ、俺も一緒に考えるから」  社畜おじさんの言葉と一緒に、取り出した小銭が俺の手のひらに乗せられる。触れた場所から言葉が滲んで広がるようだった。  俺が言われたわけでもないのに。なんで、こんなに。 「ありがとう」  社畜おじさん……最上は、最後にそうお礼を言って酔っ払いを引きずったまま店を出て行った。彼らの出て行った背中をしばらく見つめる。 「才能があるかないかなんて、考えても分かんない……か」  先ほどの最上の言葉を繰り返して呟く。  見落としてたコードが一個見つかって、急に、目の前が明るくなる。全部やって、全部試して、それでもダメだった時に考える。  あまりにも力技すぎるだろう。そんなことで解決すれば苦労はしない。だけど。  やれることは全部やったと思ってた。自分にも、まだ、試したことのないコードがある気がした。  その日から、何となく最上がやって来ると、彼を目で追うようになった。  気にして見ていると、細かな彼の行動に気づく。例えば、同じ商品は賞味期限が短い方を選んで買っていくだとか、手を伸ばした場所の商品の陳列が乱れていたら、自然な動作できれいに並べ直すだとか、他の人がレジに並びそうな時は、さり気なく譲って後ろに並ぶだとか。  そんな些細なことに気づくたび、彼の人柄の良さが伝わってきて、胸に温かな灯がともるようだった。  今日も最上は、日付が変わったばかりの時間に、疲れ切った顔で一人コンビニへ入ってきた。  エナドリを一本手に取ってレジへやって来る。 「お願いします」  今まで気にしたことはなかったが、最上は会計時、小さな声ながら必ず店員である俺に声をかけてくれる。  それと、これも今まで気にしたことはなかったが、こんな時間にエナドリを買うなんて、まだこれから仕事をするつもりなのだろうか。この人、本当にいつか過労で倒れてしまうのではないか。  心配でソワソワしながらも、コンビニ店員である自分にかけられる言葉などない。なるべく無に徹して会計を済ませる。  その日、小銭がなかったらしい最上は、クレジットカードで支払いを済ませた。控えのレシートと一緒に、購入テープを貼ったエナドリを最上に渡す。 「ありがとう」  へらりと疲れた笑顔を浮かべ、ふらふらの足取りで出ていく最上の背中を、今日も見送る。  彼が酔っ払った——おそらく同僚に対して励ましの言葉をかけていたあの日から、今までよりずっと作曲のアイデアが浮かぶようになった。  感謝の気持ちからか、どうも心配で気になってしまう。いっそのことエナドリの取り扱いをやめて、健康に良さそうなものを目につくところに陳列するよう、店長に掛け合ってみようか……なんて、考えるほどには。  手の中に、クレジット支払い時に発行される店舗控えのレシートがあった。悪いと思いながらも、氏名欄を目で追ってしまう。 「RYOMA MOGAMI……モガミ、リョウマ、さん」  実際に呼ぶことはないであろう名前を、口の中だけで呟く。誰かの名前をこんなに特別に感じたのは、初めてだった。  シフトに入る日はほとんど毎回見かける最上を、気づけば心待ちにしている自分がいた。  今日も生きてた、と生存確認することで、密かに安心する。彼がレジへやってきた時は、せめて丁寧に接客をする。コンビニ店員の自分にできる精一杯である。  レジに立って時計を見た。時刻はもうすぐ二十三時。早い日なら、そろそろ最上が訪れる時間だ。心なしか浮かれた気持ちで、誰もいない店内を見渡す。  入店音が鳴って、すぐ入口を確認した。 「あ」  俺と目が合ったその客は、嬉しそうに笑顔を浮かべる。対して俺は、つい顔を顰めてしまった。 「ハルト!」  同じ専門学校へ通う、ボーカル科の美優だった。今はグループワークも終わっていて、そんなに関わることもない。会うのは久しぶりだ。  学校が近いので同じ学校の生徒がやって来ることは珍しくない。だが、この時間は酔っ払いも多いし、終電を過ぎると店の明かりも消えて静まり返る。  こんな遅い時間に女性が一人で出歩いているのは、あまり感心しない。面倒なことになりそうな予感がして、嫌な顔をしてしまうのも仕方ないだろう。 「やっと会えた! ほんとに遅くに働いてるんだね。時間教えてくれないから、何回も通っちゃったよ」 「こんな時間に? やめた方がいいよ。危ないから」 「もう、すぐそういうこと言う」  レジまでやって来た彼女は、拗ねたようにそう言いながら、それでも帰ろうとしない。  正直、彼女の行動はよく分からないし苦手だ。グループワーク中も音楽に関係のない話ばかりしてきてうんざりすることが多かった。 「何時まで働いてるの?」 「朝まで」 「ええ! 大変じゃない?」 「別に。もう慣れたから」  早く帰ってくれないかと思いながら、適当に返事をする。歌う時はその安定した高音や声量に感心するばかりだが、こうして話していると、その高い声も耳障りにすら感じてしまう。  なかなか帰ろうとしない彼女に苛立ちを募らせていたその時、また入店音が鳴った。ハッとして入口を見る。  最上だった。今日も疲れた様子でフラフラと、エナドリのある冷蔵ケースへ向かう。  この前より顔色が悪そうに見える。今にも倒れそうでハラハラした。大丈夫だろうか。  いつものようにエナドリを手に取り、レジへ向かおうとこちらを向いたその時、今日初めて目が合った。  最上が浮かべた驚いたような顔にドキリとする。しまった、つい目で追ってしまった。ずっと見ていたことに気づかれただろうか。  最上はこちらを見たまま、困ったように眉尻を下げた。そこで気づく。さっきから話し続けている彼女が、今もまだレジを塞いでいることに。  しばらくオロオロしていた最上だったが、やがて無言のまま、手に持ったエナドリを冷蔵ケースへ戻そうとした。  諦めて帰るつもりだと察した瞬間、反射的に声を上げる。 「お客様!」  レジの前にいた美優も、冷蔵ケースに向かっていた最上も驚いてこちらを見た。  思った以上に大きな声を出してしまったことに、恥ずかしくなる。焦った気持ちを誤魔化すように声をひそめて、レジ前にいる彼女に囁いた。 「ごめん、仕事中だから」 「……うん、私も、ごめん」  流石の彼女も反省したようにシュンと肩を落としたが、それもほんの一瞬で、すぐにいつもの調子を取り戻し明るく言った。 「また来るね!」  いや、来なくていいから。喉まで出かかった言葉を飲み込んで彼女を見送る。あの様子ではあまり反省していないだろう。  美優が店を出て行き、やっと空いたレジで手を挙げて最上に声をかける。 「お待たせしました、どうぞ」  自分が声をかけられたとは思わなかったのか、最上はキョロキョロと辺りに視線を彷徨わせた。自分以外に誰もいないことを確認し、やっと自分が呼ばれていることに気づいたのか、気まずそうな顔でレジまでやって来る。 「なんか、すんません。邪魔しちゃって」  何も悪くないのに、最上の方がペコリと頭を下げて謝ってくる。どこまでお人好しなんだと思うと同時に、彼の申し訳なさそうな顔が自分に向けられているかと思うと、ムズムズとくすぐったい気持ちになった。 「いえ、こちらこそ……お待たせして、すみません」  何とか平静を装って会計を終える。「ありがとう」と、いつもの疲れ切った笑顔を向けられると、心臓が変な音を立てた。例えるならキュン、みたいな。いや、キュンって。何だそれ。  自分の制御できない謎の感情に振り回されて混乱する。だいたい最上が悪い。あんな疲れ切った顔で、無防備に笑って、そんなの、どう考えても可愛いじゃないか。弱々しく震えている小動物みたいな。俺が守ってあげなきゃみたいな。  まだ混乱している俺をレジに置き去りにして、最上は店を出て行く。  ともかく、今日も生きていた。よかった。  最上はスランプから救ってくれた恩人だ。以前は他人事のように「過労で死ぬんじゃないか」なんて軽く考えていたが、今は姿を見かけるたびに、そんな最悪の事態にはなっていないと分かってホッとする。  店を出て行くフラフラと頼りない背中を見送っていた、その時だった。急に、最上が慌てたように走り出した。  ただ事ではない勢いに不審に思い、目を凝らす。外は暗く、明るい店内からは道の様子が分かりづらい。  ただ、走って行った最上が足を止め、誰かと揉めているような姿が見えて、俺の頭は一瞬で冷えた。 「店長……店長!」  ガタッ、と奥のスタッフルームから音がする。人生でこんなに声を張り上げたことはない、というくらいの声量で叫んだので、奥で仮眠を取っていたであろう店長が驚くのも無理はない。 「警察呼んでください! 早く!」  スタッフルームから顔を出した寝ぼけ眼の店長にそう言い残して、レジから飛び出す。店の扉へ体当たりするような勢いで外へ出ると、状況がより鮮明に見えた。  最上と、それから二人組の若者。見るからにたちの悪そうな身なりの男たちだった。  片方の男が、女性の手を掴んでいる。その女性を視界に捉えて、顔を顰める。さっき帰ったと思っていた美優だ。案の定、厄介ごとに巻き込まれている。  男たちは酒が入っているようだった。フラフラとおぼつかない足取りで、最上に向かって凄んでいる。 「何だよ、オッサン。関係ねーだろ、すっこんでろ」 「俺たちちょっとこのおねーさんにお酒の相手して欲しいだけだから。ね、おねーさん。奢るし、いいよね?」  美優の腕を掴んでいた男が、その腕を強く引っ張った。嫌がって身を捩る美優の肩を、男は強引に抱き寄せる。  最上はあくまで穏やかな口調で、二人の間に割って入った。 「いやいや、お兄さん、ちょっと落ち着いて。冷静に話そう、ね、冷静に」 「うるせぇな、黙れや」  声を張り上げ興奮した男の拳が振り上げられる。 「遼馬さん!」  思わず、心の中だけで呼んでいた彼の名前を声に出してしまったのと、美優が悲鳴を上げたのは同時だった。  男の振り上げた拳が最上の頬へ振り下ろされる。鈍い音がして、最上の体が地面に倒れた。もつれそうになる足を必死に動かし、最上に駆け寄る。  男たちは倒れた最上の体を掴んで無理やり起こし、なおも暴力を振るおうとしていた。 「……っ!」  体当たりするように、一人の男を突き飛ばす。何とか最上への攻撃を防ぎ、よろけた体を必死に踏ん張った。 「んだよ、コイツ!」  美優の肩を抱いていた男が、美優を突き飛ばして俺に向かってきた。  体が大きいだけで、音楽しかやってこなかった自分は喧嘩慣れなどしているわけがない。殴られる、と覚悟をした瞬間、俺を庇うように最上が間に立ちはだかった。 「ぐっ」 「遼馬さん‼」  自分の代わりに彼が殴られるのを見て、怒りで目の前が真っ赤に染まった。  そこからの記憶はあまりない。事態を把握して警察を呼んでくれた店長によると、警察が来るまで、俺は酔っ払いの男たち二人にそれ以上の攻撃を許さず、掴みかかっていたらしい。  警察の到着により、その場はひとまず収まった。酔っ払いたちは任意同行となり、俺と最上、美優、通報者の店長はその場で事情聴取を受けた。  被害届を出すかどうかを尋ねられ、実際に殴られた最上と、元々の被害者である美優がそれを断ったため、それ以上の事件にはならなかった。  事件のきっかけとなった美優は警察に、この辺りは治安が悪いから夜の独り歩きは控えた方がいい、と苦言を呈されたようだ。彼女も被害者ではあるものの、俺としてもぜひそうしてほしい。  頬が痛々しく腫れ上がった最上は、救急車をすすめられたが、それも断っていた。絶対に診てもらったほうがいいと俺からも強くすすめたが、大丈夫だと笑うばかりだ。 「すみません、俺のせいで……」 「えっ、どうして君が謝るの。こちらこそ、事件を大きくしちゃったみたいで申し訳ない」  腫れの残る頬のまま、最上は笑って頭をかく。  この人は、どうしてこんなに、危なっかしいのか。なんで俺なんかを庇って、こんな怪我までして……。  守りたいと思った人を守るどころか、自分が守られた悔しさに焦燥が募る。せめてもとコンビニのスタッフ用冷凍庫から取り出した氷をレジ袋に入れ、更にそれをタオルで包んで、傷を冷やしてほしいと最上に渡した。最上はそれを受け取って、言う。 「ありがとう。お仕事の邪魔してごめんね。それじゃあ」  いつもの調子で、何一つ特別なことなどなかったかのように、最上は背中を向けて帰っていった。その背中を引き止められないことが、堪らなくもどかしかった。  最上にとってきっと、今日のことは特別でもなんでもないのだろう。目の前に困っている人がいたから。自分が犠牲になって助けられる人がいたから。そういうことが自然にできる人なんだと、ただのコンビニ店員と客という立場の自分ですら、もう十分に分かっていた。  すごい人だと思う。尊敬、憧憬、この感情にどのような言葉を当てはめればいいか分からない。  彼がこの先歩んでいく人生が、どうか幸せに満ちたものであってほしい。人のためばかりではなく、自分を大切にしてほしい。笑っていてほしい。  浮かんでは消える願いは、すべて最上に向けたものだった。不思議なもので、そんな思いが浮かぶたびに、自然と旋律が浮かぶ。  届けたい思いを乗せた、あの人に向けた旋律が。    ◆ 「コンビニ……? 酔っ払いの傷害事件……? ああ!」  藤谷の自宅のリビングルーム。淹れ直したコーヒーも冷めてしまうほどの時間、藤谷の話を聞いて、やっと俺の記憶が蘇った。 「あのコンビニ、店舗が入れ替わる前の! えっ、あれが藤谷くん⁉」  先日、藤谷と鍵を探しに行ったコンビニは数年前、店舗が入れ替わり、今は別の系列になっている。前の店舗の際、確かに深夜店の前で酔っ払いに絡まれ、困っていた女の子を逃がそうとして手を上げられたことがあった。その時、止めに入ってきてくれたコンビニ店員のことも一緒に思い出す。  だが、今の藤谷と記憶の中のコンビニ店員とが上手く結びつかない。言われてみれば背丈は同じくらいだが、何というかもっと——。 「その……あの時はまだ身なりに気を使う余裕がなかったので……あんまり思い出して欲しくないんですけど」  恥ずかしそうに頬を染めて藤谷が言う。ということは、やはりあのコンビニ店員の彼が藤谷だったのだ。  身なりも確かに印象が違うが、それ以上に、薄らぼんやりと記憶に残っている接客態度も藤谷とは結びつかない。こんな元気で爽やかな印象ではなかった。もっとダウナーな、感情の薄い無表情な店員だったはずだ。  本当に同一人物なのかと、疑いの眼差しでまじまじと藤谷を見る俺に、藤谷はとうとうガバリと頭を抱えてしまった。 「本当にすみません! 若かったんです! 勘弁してください! 黒歴史で!」  心から恥ずかしそうにしている藤谷に、思わずふっと吹き出してしまう。 「そっか、藤谷くんにも若気の至りみたいな時期があったのか」 「やっぱり話したくなかった……いや、でも……」  一頻り恥ずかしさに悶えた後、不意に藤谷は真剣な表情で顔を上げた。俺も居住まいを正す。  目の前にいる青年が、七年前常連だったコンビニのアルバイト店員だなんて、まだ少し信じられないが、彼が真剣な表情で語る言葉に、耳を澄ませる。 「俺、ずっとあの時の遼馬さんの言葉が残ってて。自分に才能がないんじゃないかって思ってた時に、救ってくれた言葉だから……それに、尊敬してるんです。あんなふうに、人のために行動できる遼馬さんのこと」  あまりにも真剣に、そんなことを語るものだから、気恥ずかしくなって思わず視線を背けてしまった。真っ直ぐな感情を向けてくれる藤谷の気持ちが眩しくて、直視できない。  自分が他人にそんな大層な感情を向けられるとは思ってもみなかった。そんな、尊敬なんて……ん? 尊敬? 「もしかして、前藤谷くんが言ってた、尊敬してる人って……」 「はい! 遼馬さんです!」 「俺⁉」  話を聞いたその時は、親だとか、学生時代の先生なんじゃないかと思っていた。まさか自分に向けられた言葉だなんて思いもよらない。今日は驚きの連続である。  次々と与えられる新情報に混乱する俺をしばらく見ていた藤谷が、神妙な顔で俯いて、言いにくそうに、続けた。 「それで、その……これだけは信じてほしいんですけど。本当に偶然なんです。家が隣同士なのは……! いえ、仕事が軌道に乗って、コンビニのアルバイトも辞めて、遼馬さんと会えなくなって……引っ越す時、この辺りに来ようと思ったのは、また遼馬さんに会いたいって気持ちが少しはあったからなんですけど。でも、まさか同じマンションの隣になるなんて思ってなくて……!」  あまりに真剣な様子で何を話すのかと思っていたら、藤谷が話し始めたのは俺が思いもしなかったことだった。  言われてみればそうだ。七年前に客とコンビニ店員でしかなかった二人が同じマンションの隣同士になるなんて、そんな偶然、本当にあるだろうか。  ずっと藤谷が何を後ろめたそうにしているのか分からなかったが、やっと理解した。藤谷はガバリと頭を下げる。 「ストーカーとかではないんです、本当に、信じてください! 俺自身もさすがにこんな偶然あるわけないとは思うんですけど、でも本当に偶然で……もし遼馬さんが俺のこと気づいたらキモいだろうって思って、極力遼馬さんと関わらないようにしてたんです!」 「いや、別にそんな、ストーカーなんて疑ってないから……顔上げて、藤谷くん」  あまりの謝罪の熱量にこちらの方が驚いてしまう。  信じられないような偶然だが、まあ、そういうこともあるだろう。そもそも藤谷のような若者が俺のようなおじさんのストーカーだなんて疑うわけがない。心配しすぎだ。 「キモいなんて思わないよ。むしろ、声をかけてくれればよかったのに」 「いやダメですよどう考えてもキモい、でもたまに見かける遼馬さんの姿が本当に、今にも倒れそうでハラハラしました……できることなら声をかけたかった……ちゃんと食べてますか、食事をエナドリで済ませてませんか、仕事ばかりじゃなくてちゃんと休んでくださいって言いたかった……」  当時を思い出すように、悔しそうに藤谷が言う。あまりにも悔しそうに言うので、申し訳ない気持ちになってきた。 「そ、そっか……なんというか、すみません……」 「いえ……いいんです、だから今、こうして大々的に遼馬さんのことを心配できる立場を手に入れたら、ブレーキが効かなくて……!」  ようやく、あまりにも過保護な藤谷の謎が解け腑に落ちた。  まさかそんな積年の思いから気にかけてくれていたとは。ただの隣人を家に招いて、健康的な食事をさせ、同じベッドで寝かしつけまでするわけである。  なるほど、つまりだ。藤谷は、単に他人に優しいわけではなくて。  相手が、俺だったから優しくしてくれていた……? 「っ」  今まで考えもしなかった結論に至って、瞬間的に顔に熱が集まる。  そんな、考えたこともなかった。藤谷の優しさが、自分という個人に向けられた特別なものだったなんて。 「ええと……つまり、その……藤谷くんは、俺のことをどう思ってるの……?」 「好きです! いや、違うな……」  恐る恐る尋ねた俺の質問に、即答で答えた藤谷に浮かれたのも束の間、『スン』という擬音が似合う真顔になった藤谷を見て、肝が冷える。  しまった、さすがに自惚れが過ぎたか。そりゃそうだ。藤谷が自分のことを好きだなんて、そんな都合のいい話があるわけなかった。  勘違いして浮かれた自分を恥ずかしく思っていると、真剣な表情のまま藤谷が続けた。 「好きとか、そういう次元じゃない。神です。神様」 「そっか、神……神?」 「遼馬さんがそこにいてくれるだけで俺の人生は満たされます。まさに神様」  力強く藤谷はそう言い切る。一方、俺の理解は追いつかず、熱弁する藤谷にすっかり置いてけぼりだ。 「そういうわけなので、迷惑どころか本当にずっとうちで暮らしてほしいです。俺が作ったご飯を食べて、俺が買ったパジャマを着て、俺の隣でスヤスヤ眠る遼馬さんを見ているだけで俺は幸せなんです、こんな偶然を与えてくれた神に感謝……いや、違うか……神は遼馬さんだった」 「ごめん、何言ってるのか全然分からない」 「すみません俺も自分で何言ってるのかよく分かりません……ブレーキが効かない……」  頭を抱えてしばらく唸るように悶えた後、やっと落ち着いてきたのか、急に静かになった藤谷は再びシュンと肩を落とした。 「すみません……今まで黙ってて。やっぱキモいですよね……」 「え、と……いや、キモいとかそういうことはないけど……」  正直、よく分からない。藤谷にとって自分が、ただの隣人ではなくどうやら特別な存在であったらしいことは分かったが、それは結局どのような感情なのだろうか。  いや、本人が言うには神らしいが。しかし俺は神ではないので、どう受け止めていいのかよく分からなかった。  それはずっと一緒にいたいと、この同居生活が永遠に続けばいいのにと、俺が藤谷に対して抱いているそんな思いと、同じなのだろうか。  喜んでいいのか答えが見つからず、困っている俺を見てどう受け止めたのか、藤谷は思い詰めた表情で俯き、口を開く。 「もし、遼馬さんがもう俺の顔も見たくないくらい嫌なら、引っ越します。二度と遼馬さんの視界に入らないように生きて行くので、安心してください」  今にも泣きそうな表情でそう言う藤谷を見る。熱烈な思いを告げた後で、あまりにも真剣にそんなことを言うものだから、不意に笑いが込み上げた。 「ふっ」  藤谷が驚いて顔を上げる。笑うような空気ではなかったが、それでも、笑いを堪えることができない。 「いや、ごめん。うん、なんていうか、やっぱりよく分からないんだけど」  一生懸命藤谷の気持ちを推し量ろうとしたのだが、全く分からないのでもう諦めることにした。お互いに色々と考え過ぎている気がする。もっとシンプルに考えてもいいのかもしれない。 「確認してもいいかな。正直に言ってほしい。藤谷くんは、本当に、俺がここにいても迷惑じゃない?」 「勿論です! 神に誓って……あっ、違った、神は遼馬さんだった」 「もういいって、それは」  とうとう声を上げて笑ってしまう。こんなに笑ったのは、本当に久しぶりだ。藤谷も驚いたのだろう、きょとんとした顔で俺を見た後、少し緊張が解けたように笑った。  まったく、いったいなんで藤谷はこんな情けないおじさんをそこまで持ち上げてくれるんだろう。謎は深まるばかりだが、藤谷が嘘をついていないことだけは、見ていて十分すぎるくらいに分かった。  ——なら、もう、いいか。  俺はまだ藤谷と一緒にいたい。藤谷も、俺と一緒にいたいと思ってくれている。  お互いの気持ちはまったく同じものではないかもしれない。それでも。 「ありがとう、藤谷くん……これからも、お世話になってもいいかな」 「……! はい、ぜひ!」  改めてそんな確認をすると、お互いに照れ臭くなって、少しだけ笑い合った。  すっかり冷めたコーヒーを口に含む。じわりと広がる苦みに、なぜだか泣きそうになる。  悲しみで滲んだ涙ではない。もう少しだけこのままでいられることへの安堵で、情けないことに泣いてしまいそうだった。

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