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第6話

「あの人、絶対ヤバいです。遼馬さん、近づかない方がいいですよ」  柔らかい朝の光が差し込むダイニングテーブル。並んだ朝食の食パンを片手に持ったまま、藤谷が言う。  キッチンでコーヒーを淹れていた俺は、二人分のマグカップに入った熱いコーヒーを手に持って、藤谷の目の前に座った。 「ヤバいって、五十嵐さんが?」 「はい。大体、同じマンションに引っ越してくるなんて偶然なわけないじゃないですか。もともと遼馬さんが住んでるって知ってたんですよ」 「いや、でも現に、藤谷くんは偶然隣に引っ越して来たんだろう?」 「うっ……それを言われると言い返せない……! でもっ、俺は本当に偶然なんですけど、あの人は絶対、偶然なんかじゃないんですって!」  藤谷の家にまだお世話になることが決まって、数日が経った。  あの日からも変わらない日々が続いている。こうやって一緒にご飯を食べて、藤谷が仕事をしている間に掃除をしたり、家事をしたりして、夜は同じベッドで眠る。  何も変わらない穏やかな日々にすっかり忘れていたが、そういえばエントランスで五十嵐と会ったあの時、五十嵐は、既に何度か藤谷と話している、と言っていた。一体何を話したのか聞いてみたら、こんな話題になったというわけだ。 「偶然じゃないなんて言ってもなぁ……わざわざ俺の住んでるマンションに引っ越してくる理由がないよ。俺、きっと五十嵐さんには嫌われてるし」  表面上は人当たりよくしているが、どう考えても無能な俺を見下して嘲笑っているタイプの人だ。おそらく、俺が仕事に来なくなってせいせいしている。わざわざ同じマンションに引っ越してくるわけがない。  考えられるとしたら、あまりに嫌いすぎて嫌がらせで……とか。だとしたら怖い。仕事ができなくなるくらい追い込むだけでは飽き足らず、徹底的に俺を潰すつもりなんだろうか。それは確かに、近づかない方がいいかもしれない。 「嫌い? 何言ってるんですか。あの人は俺と同類ですよ。遼馬さんのことが好きで好きで好きで堪らないって全身から滲み出てるじゃないですか。危険です。絶対近づかないでください」  しかし藤谷は全く見当違いな意見のようだ。  有り得ない。五十嵐が俺のことを好きで好きで好きで堪らない、なんて、なんの冗談……いや、待てよ。 「藤谷くん……俺のことを、その……好きで好きで好きで、堪らないの?」 「当たり前じゃないですか! えっ、伝わってないですか⁉」  心底驚いたようにそんなことを言うので、顔が熱くなる。藤谷は、七年前に俺と会っていたことを打ち明けて以来、たびたびこういうストレートな気持ちをぶつけてくるようになった。  その度に浮かれてしまう自分がいる。口元が緩みそうになって、苦いコーヒーを流し込み誤魔化した。淹れたてのコーヒーはまだ熱く、喉が熱で痺れるようだ。飲み込むのも精一杯である。  情けないことに、俺の恋愛経験は皆無に等しい。学生時代に、思いが通じ合うだけで終わったささやかな恋愛はあったが、社会人になってからは仕事仕事で全くそんな余裕はなかった。  もう長いこと独り身で、誰かにこんなにもはっきり好意を寄せてもらったことなんて、今までにない。嬉しい、けれど、そうやってストレートな感情をぶつけられた時、どんな顔をすればいいのか分からない。  それに、自分の気持ちもこれまで一度も伝えられていなかった。藤谷はこうして俺に率直な好意を示してくれるが、それが恋愛感情なのか、そうではないのか判断がつかなかったからだ。  藤谷はよく俺のことを『神様』に例える。であればその好意はやはり恋愛ではなく、尊敬、崇拝、いわゆる人としての好意に収まるものだろう。  もし俺が恋愛的な意味で、藤谷のことを好きだと伝えたとして、彼はどう思うだろうか。藤谷に限ってそんなことはないとは思うのだが、もし、拒絶されたり、少しでも嫌そうな顔をされたらと思うと、怖くて、とてもじゃないが口に出すのは無理だった。  期待してはいけない。身の程を弁えなければ。浮かれかけた自分の気持ちを引き締める。  藤谷は何度か視線を迷わせてから、ためらうように口を開いた。 「いっそのこと、引っ越しませんか。その……二人で、別のところに」 「いや、さすがにそこまでしなくても……休職中で、引っ越すようなお金もないし。大丈夫、藤谷くんの考え過ぎだよ」  心配してくれているのだろうが、やはり五十嵐がそこまで俺に執着しているとは思えない。同じマンションに引っ越してきたのも偶然で、俺のことを知ったのはたまたまだろう。  先日の訪問も、休職中の無能なおじさんをからかいに来ただけだ。引っ越すほどの問題とは思えなかった。  俺の答えを聞いた藤谷はガックリと肩を落とし、「伝わってないかぁ……」と呻いていた。  結局、五十嵐が危険という意見を曲げなかった藤谷に、一人で家から出ないようにと念を押され、この話は終わった。  朝食の後、藤谷は仕事をするためにパソコンへと向かった。その間に洗濯乾燥機を回し、部屋に掃除機をかける。  ここ最近はますます調子が良く、夜もよく眠れる。そのおかげで、日中はほとんど横にならずに過ごせていた。  そうなると時間を持て余してしまい、何かしなければと思う。簡単な家事を引き受けるだけでは、一日はなかなか過ぎてくれない。 「……よし」  昨日、藤谷と一緒に自宅へ戻り、ノートパソコンを持ってきた。仕事用ではない、私物のものだ。  まだ仕事へ戻る気持ちには到底なれないが、仕事を連想させるものとして、ずっと怖くて触れられなかったパソコンにも、今なら向き合える気がした。  ケースから取り出したパソコンをダイニングテーブルに置き、久々に通電させる。  電源ボタンを押すと、起動音がしてパソコンがカタカタと動き始めた。ディスプレイが光り、何かを立ち上げている。  鼓動が煩かった。少し息苦しい。耳鳴りがして、嫌な思い出が蘇りそうになる。  リビングの隅にいる藤谷の後ろ姿を見る。ここは職場じゃない。大丈夫だ。自分に言い聞かせ改めてディスプレイを見た。  背中越しに藤谷の気配を感じながら、ゆっくりとキーボードに手を伸ばす。まだ少し指先が強張っているが、もう逃げ出したいほどではない。  パソコンを前に、考える。さて、何をしようか。  せっかく調子が戻ってきたのだから、社会復帰のために有意義なことをするべきだとは思うが——さすがに、まだそこまで大したことはできない。ブラウザを立ち上げて、ニュースサイトを見たりと、適当にネットを眺める。  ふと、デスクトップにあるコードエディタ——プログラムを書くためのアプリのアイコンが目に入った。  仕事に使うものではなく、スキルアップのための勉強に使っていたものだ。少し躊躇ってから、そのエディタを起動した。  エディタを起動すると、過去に作成したプロジェクトの一覧が並ぶ。どれも仕事に直接関係するものではない。だが、スキルを磨くために積み上げてきたそれは、自分の努力の結晶のように思えた。  以前藤谷に説明した通り、俺は元々専門職だった。主に社内システムの開発と保守をする部署にいた。  各部署が使う申請画面や管理画面の改修、問い合わせ対応、エラー調査。ログを追って原因を探り、必要があればデータベースを直接触って修正するようなことも多かった。トラブルが起きた時だけ必要とされる、まるで便利屋のような仕事だった。  元々、コードの羅列を見るのが好きだ。試行錯誤を重ねて新しいものを作り出す瞬間が好きだ。しかし当時の業務の割合としては、開発1、保守9くらいで、あまり達成感のない仕事だった。不満に思ったことも少なくはなかったが、それでもまだましな部類だったと、今は思う。  技術の進化により、システム開発や保守のコストは大幅に下がった。どこの会社も同じように人員削減が進んでいたと思う。うちも例外じゃなかった。  ほとんど強制的な自主退職を促されていた人も多い中で、俺は辛うじて部署異動で残された側だった。長く仕事を続けていたことや、年齢的にも定年まではまだ時間があるので、会社にとって扱いやすかったのかもしれない。  異動になったのは、外注開発を扱う部署だった。社内の古いシステムを維持するより、新しい事業やサービスに力を入れるという流れの中で作られた部署だった。社外から依頼を受けてシステムを開発する、いわゆる受託のチームだ。  システム開発と銘打っていたものの、業務の中心はコーディングではなかった。クライアントの要望を聞き取り、どんな人が使うのかを想像しながら、必要な機能を一つずつ整理していく。その内容を資料にまとめて、ミーティングを重ねながらプロダクトの仕様を固めていく。  慣れない仕事だった。今までに聞いたこともないようなビジネス用語が飛び交い、ついていくだけで必死だった。打ち合わせの録音を何度も聞き返して、聞き漏らした単語を調べる。言われたことを一つずつ分解して、資料に落とし込む。曖昧な部分を残さないように、何度も確認を取る。  時間をかけて、丁寧にやっているつもりだった。だがそれでも、ずっと開発や企画寄りの業務に携わってきた、優秀な彼らとの差が埋まることはなかった。  リモートミーティングの場で、作った資料を四苦八苦しながら画面共有した瞬間に止められる。 『これ、どういう意図ですか?』  口調自体は穏やかなのに、責められているように感じてしまい、委縮する。 『クライアントの要望を踏まえて、その……』  言いながら、自分でも言葉が曖昧だと分かる。頭が真っ白になって、根拠を説明しようとするほど言葉が空回りしていく。 『要望って、どの部分のことを指してます?』 『ユーザー像との整合性は?』 『それ、仮説ですよね。裏付けはありますか?』  間髪入れずに重ねられる質問に、答えが追いつかない。準備してきたはずの内容が、次々と崩れていく。 『すみません、もう一度整理して……』  言いかけたところで、誰かが小さく息を吐いたのをマイクが拾った。画面の中の別の誰かも、肩を揺らしているのが分かる。  ——こいつ、分かってないな。  そう判断されたのが、空気で伝わってきた。恥ずかしい、情けない、消えてしまいたい。  自分だけが何も分からないミーティングが、全員分かっている前提で進んでいく。ここに俺の居場所はない。このまま消えてしまいたいと、強く思った。  一気に蘇った苦しい記憶に息苦しくなって俯く。目を閉じ、ぶるぶると震えながら、それが過ぎ去るのを待った。  喉の奥が詰まったように苦しくて、息の仕方さえ分からなくなる。逃げ出したい衝動が何度もこみ上げるが、それでも椅子から立ち上がることだけはしなかった。  浅い呼吸を繰り返した後、ゆっくりと息を吐く。時間をかけて、どうにか呼吸を整えていく。  やがて、記憶の洪水が少しずつ引いていった。完全に消えたわけではないが、さっきまでのように飲み込まれそうな感覚はない。  ゆっくりと顔を上げ、再びパソコンの画面を見る。起動したばかりのコーディングエディタから、過去に自分が作成したプロジェクトを一つ選択して開いた。  それは、エンジニアになりたての頃、まだ触ったことのない言語で一から構築した、架空の会社の勤怠管理システムだった。ログイン画面から出勤打刻、勤怠一覧出力まで一通り作った、自己満足のシステムだ。  今見るとまだまだ未熟な部分が目立つが、これを作っていたその時は、自分の手で何かを作り出せることが本当に楽しく、自信に満ち溢れていたことを思い出す。  コーディングが好きだ。それしかできない自分に価値はないのかもしれないけれど。それでも。  新規作成のショートカットキーでまっさらなエディタを開く。  しばらく触っていなくても、体はよく覚えていた。慣れた操作でカタカタとキーボードを叩き、作成したコードを実行する。  コンソールに出力された文字を眺めた。黒い背景に浮かぶ白い文字が、やがて涙で滲んで見えなくなる。 「遼馬さん?」  あまりに集中していたので、いつの間にか藤谷がそばに立っていたことに気づかなかった。 「藤谷くん……」 「何かあったんですか」  俺が泣いていることを心底心配してくれている顔だ。彼の優しい気遣いにますます涙があふれて、頬を伝い落ちた。目を閉じて、首を横に振り、この涙が辛い気持ちからくるものではないと伝える。  コーディングを始める、初心者向けの教材は大抵この言葉から始まる。  出力関数を使用して、コンソールという出力エリアにこの文字を表示させることが、すべての始まり、エンジニア志望の通る道だ。  学生時代、自分が初めてコーディングに触れたときに成功させた、始まりのプロジェクトでもある。  ——Hello, world!  こんにちは、世界。0と1で構築された、新しい世界へ足を踏み入れた時の言葉。自らの知識と想像力で、様々な不可能を可能にする、そんな世界へやってきたことを示す言葉。  コーディングが好きだ。試行錯誤して何かをなしえる瞬間が好きだ。コードの羅列なら何時間向き合っていても苦痛ではない。そんな世界に没頭したくて、選んだ仕事だった。  ……いったい、どこでずれてしまったんだろう。  涙が止まらない俺の隣で、オロオロと狼狽えていた藤谷は、やがて意を決したように俺の隣に座り、寄り添って、俺の体を抱き締めた。藤谷の慣れ親しんだ香りと、安心できる温もりに包まれると、ますます涙があふれた。  俺はまた、ここから始められるだろうか。新しい世界に足を踏み入れたばかりの、ただ自分の好きなことに夢中になれた、あの頃と同じように、この言葉から。  常夜灯のオレンジ色の明かりだけで薄暗い寝室の中。セミダブルのベッドは相変わらず、男二人が寝転ぶには少し狭いが、今となってはこうして二人一緒に眠るのが当たり前になっていた。  静かな寝室の、この狭いベッドの中は、世界に自分と藤谷の二人しかいないのではないかと錯覚するほど静かで、今の俺にとって一番安心できる場所だ。 「コーディングが好きなんだ。設計とかロジック考えて、それがちゃんと動いたときが、一番テンション上がるなぁ」 「なるほど……ちょっと作曲と似てますね。俺は打ち込みが多いんで、トラックごとに作っていって、全部鳴らしたときが一番テンション上がります」  お互いの仕事のことを、とりとめもなく話す。  最初のころは休職のきっかけとなった辛い記憶まで蘇るため、避けていた会話だ。あの頃よりはずっと、落ち着いた気持ちで思い返すことができる。この安心できる場所のおかげだろう。  藤谷の声は低く、穏やかで落ち着いた声だ。低音のその声は時々音にならずに掠れる時があって、俺はこの寝室で、眠る前のわずかな時間に、その音にならない音を拾い上げるのが好きだった。  もっと藤谷の声が聴きたいと思って、質問を探す。 「藤谷くんは、普段どんな音楽を作ってるの。前に言っていたような、ゲーム音楽?」 「何でも作りますよ。ゲームのBGMとか、ジングル系もやるし、あとは歌モノのトラック任されたりとか」 「歌の入ってる曲もあるの? 聴いてみたいな。今度教えてくれる?」 「もちろん! と言いたいところですけど……ちょっと恥ずかしいですね……歌モノは、その……どうしても感情が出やすいんで」  照れくさそうにしている藤谷が可愛らしく、微笑ましい気持ちになる。そんな風に言われると余計に気になってしまう。藤谷が嫌がるのであれば無理強いはしたくはないが、また頼んでみよう。  シーツの中で少し体を動かすと、ベッドもギシリと音を立てて軽く揺れた。もう少し話していたい気持ちもあるが、徐々に睡魔が襲ってきた。薬が効いているのかもしれない。 「……あの」  うとうとと微睡み始めたところで、遠慮がちに、藤谷が声をかけてきた。 「遼馬さん、もっと近づいていいですか」  静かに、囁くようにそう言われて、心臓が大袈裟な音を立てた。掠れた声の、音にならない音がいつもよりずっと感情を揺さぶって、微睡みから急激に意識が覚醒する。  驚いて緊張しながら藤谷のほうを見ると、薄暗い寝室の、今でも十分に距離の近いベッドの中で、藤谷の目がまっすぐに、確かな熱を帯びて自分を見つめていることに気づいた。 「遼馬さんに触れたい。だめですか」  伺いを立てる藤谷に、何と答えていいか分からない。今だって、この狭いベッドでは肩がぶつかるほどに近い距離だというのに。これ以上近づいたら、いったいどうなってしまうのか。  心臓がばくばくとうるさい。何と返したらいいのか分からない。  何も言えないでいる俺を見て藤谷はどう思ったのか、それまでじっと俺を見つめていた目を伏せて言った。 「すみません、今の、やっぱなしで! 忘れてください」  先ほどの言葉を冗談に変えるような言い方だが、どこかつらそうで、無理をしているのが伝わってきて、胸が苦しくなる。  そんな顔をさせたいわけではなかった。ただ、どうしていいか分からなかっただけだ。  なかったことにはしてほしくない。緊張したまま、ぎこちなく自分から距離を詰める。 「………!」  藤谷が息を飲んだのが伝わってきた。ぴったりと寄り添うように、体を近づける。  顔に熱が集まっていく。心臓は相変わらず暴れて音を立てている。今、藤谷がどんな顔をしているのか確かめる勇気がなくて、ぎゅっと目を瞑った。  恐る恐る、藤谷の手が俺の背中に回る。腰の横を藤谷の手が通り過ぎる時、ビクリと体が反応してしまった。  驚いた藤谷の手が引っ込みそうになり、慌ててしがみつくように身を寄せる。拒絶されたわけではないと分かった藤谷が、再び恐る恐るというように俺の背中に手を回して、優しく俺を抱き締めた。  藤谷はいつも俺に触れるとき、遠慮がちにする。少しでも俺が嫌がるならと、離れる準備をしている仕草だ。  逃げるわけがない。こんなにも温かくて、幸せで、誰にもこの場所を譲りたくないと思うほどに、愛おしくてたまらないのに。  目を閉じたまま、自分を包む温もりへ顔を埋める。優しく俺を抱き締めていた藤谷の腕に、ぎゅうっと確かな力がこもった。 「……遼馬さん」  藤谷が切なげに俺の名前を呼ぶ。体を密着させたまま聞くその声は、いつもよりずっと響いて、つま先から頭の上まで体が全部痺れるようだった。 「……すきです……」  抱き締める腕にますます力を込めて、たまらずこぼれてしまったかのように、藤谷が言う。  心が震える。好き、その言葉に、どんな意味が込められているのか探してしまう。尊敬する人として? 神様のように崇める相手として? それとも、もしかして、俺と同じような意味で。 「好きです、遼馬さん……好き」  掠れた声で繰り返される告白に、空っぽな心が満たされていく。好きです、好き、繰り返されるたびに、思考が蕩けるようだ。  自分の気持ちを留めておけず、とうとう、俺の口からこぼれ落ちてしまう。 「……俺も、藤谷くんが」  すき、と、本当に消え入りそうな、小さな小さな声で言葉にする。初めて口からこぼれ落ちた感情に、自分で恥ずかしくなってますます顔の温度が上がった。  言った、言ってしまった。藤谷は引いていないだろうか。こんなおじさんが自分を好きだなんて、気持ち悪いのではないだろうか。藤谷の反応を怖くて確かめることができない。  藤谷は俺を抱き締めたまま固まったように動かなかった。長い時間が過ぎたような気がした。何の反応もないことがだんだん不安になって、閉じていた目を怖々と開く。 「………っ」  すぐ目前へ迫っていた藤谷の表情に息を飲んだ。  彼はさっきよりずっと熱っぽい、こちらが焦げつきそうなほどの瞳で、俺をじっと見つめていた。その目が微かに潤んでいる。  なんて顔をしてるんだ。そんな、嬉しくてたまらないみたいな顔。 「遼馬さん、本当……?」  信じられないと言うような声だった。じっと見つめられながら確かめられて、恥ずかしさのあまり答えられずに俯く。  耳が熱い。鼓動がうるさい。藤谷から伝わる、生々しい体温を急激に意識する。 「もう一度、聞きたい……遼馬さん」  懇願するように、藤谷が俯いた俺の額へ自分の額を擦り付ける。触れた部分が全部熱を持って痺れた。 「お願い、もう一回言ってください」 「っ」  そのまま、藤谷が俺の耳元でそう囁いた。吐息の音も一緒に注ぎ込まれて、体がゾクゾクと戦慄く。 「遼馬さん」  切なげに名前を囁かれて、もう、それ以上は耐えられなかった。  ——朝の柔らかい光が、カーテンの隙間から寝室に差し込んでいる。  眩しさに瞼をくすぐられて目を開けた。すぐそばに藤谷の寝顔があった。紫色のメッシュが入った前髪はくしゃくしゃに寝癖がついていて、無防備なその様子が可愛らしい。  しばらく藤谷の寝顔を眺めていたが、やがて昨晩のことを思い出し、シーツの中で恥ずかしさのあまり身もだえた。  ずっと秘めてきたこの思いを、とうとう告白してしまった。藤谷が何度も俺を「好き」だなんて言うので、つい、自分の気持ちがこぼれ落ちてしまった。  しかも、その後……。  昨夜のことを鮮明に思い出して、堪らなく恥ずかしくなる。藤谷が起きたらどんな顔をすればいいのだろう。  自分が誰かとこんな朝を迎えるなんて、考えたこともなかった。どう振る舞えばいいのか分からない。考えるだけで気まずい。 「ん……」  ぎゅっと眉を顰めてから、藤谷がゆっくり目を開けた。いよいよその瞬間が訪れると思い、緊張が高まる。  どんな顔をすればいい? 何を話そうか。ぐるぐると考えて緊張する俺とは対照的に、俺と目が合った藤谷は、すぐにパッと顔を明るくして、その目を幸せそうに細めた。 「遼馬さん、おはようございます」  そのあまりにも幸せそうな様子に、さっきまでの気まずさが、いつの間にか薄れていくのを感じた。 「……おはよう、藤谷くん」  嬉しそうに微笑んだ藤谷が手を伸ばして、俺の体を抱き寄せる。逞しい体に抱き締められると、体温に混ざって藤谷の香りがした。  こういう時に、言葉なんて必要ないのだということを、俺は初めて知った。 「遼馬さん。あの……お願いがあるんですけど」  遠慮がちに、藤谷が口を開いた。 「お願い?」 「はい。俺のこと、名前で呼んでくれないかなって」  抱き締める腕はそのままに、至近距離で俺の顔を覗き込むようにして、藤谷が見上げてくる。懇願するその顔は子犬のようで、可愛らしい。「ダメですか」なんて続けて聞かれたら、胸がきゅんとときめいて、断るなんて絶対に無理だった。そういえば、前にもこんなことがあったような気がする。 「えっと……晴人くん、だっけ」 「……っ、はい!」  名前を呼んだだけで嬉しそうに目を輝かせている。ぴんと立った犬耳と、ぶんぶんと激しく左右に揺れる尻尾が見えるようだった。本当に子犬みたいだ。苗字で呼び慣れていたので少し恥ずかしいが、こんなに喜んでもらえるならいくらでも呼ぼうと思った。  今日のことを、俺はこの先の人生で、何度でも思い出すだろう。藤谷と自分の関係がどのように変わっていったとしても。  それでも、きっと。

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