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第7話

 薄暗い室内で、パソコンのディスプレイだけが光っている。ぼんやりとそのディスプレイを見つめていた俺は、ハッとして辺りを見回した。  いつの間にかオフィスは暗く、残っているのは自分だけになっていた。今何時だろう。時計を確認すると、もう終電間際だ。早く帰らなければと、慌てて席を立った。  瞬間、ぐらりと眩暈がした。倒れそうになった体を、デスクに手をついて支える。耳鳴りに混じって、クスクスと誰かが自分を笑う声がした。『ちょっとよく分からなかったんで、もう一回説明してもらっていいですか』 『コンテキストの共有からお願いします。どの前提で話しているのか、曖昧で分かりづらくて』  答えられない質問や要求が浮かんでは消える。笑い声がだんだんと大きくなっていく。  俺が無能だから、こんなことも満足にできないから。だから笑われるのだ。  帰宅している場合じゃない。早く、次のミーティングの資料を完成させなければ。今度こそは、笑われないように、失敗しないように。思うほど息が詰まり、苦しくなる。  早く、早く、早く——! 「遼馬さん!」  低く、安心できる声で名前を呼ばれ、息苦しさから一気に解放される。  目を覚ましたそこは、藤谷の家の寝室だった。常夜灯の灯りだけで薄暗い室内、藤谷が心配そうな表情で自分を見つめている。  足りない酸素を取り込むように肩を上下させる。そうだ、今のは夢だ……現実の、俺を脅かすものなど何もない、この安心できるベッドに藤谷と二人きりという状況を理解して、やっと落ち着きを取り戻した。 「遼馬さん、大丈夫ですか……?」  俺が苦しんでいる時、藤谷はいつも自分のことのように心配してくれる。その優しさが嬉しくて、心が満たされる。 「晴人くん……ありがとう。もう、大丈夫だよ」  藤谷はホッとしたような表情を浮かべた後、手を伸ばして俺の体を自分のほうへ引き寄せた。 「よかった……」  静かな声で藤谷が呟く。存在を確かめるように、丁寧に抱き締められて、その安心する温もりにじわりと視界が滲んだ。涙がこぼれ落ちないよう、彼に身を預けて目を閉じる。  職場で経験したトラウマから、仕事に行けなくなって半年ほど。  夜になると悪夢にうなされ、ひどい睡眠障害を患い、日中も幻覚、幻聴に悩まされていた俺は、こうして藤谷とともに暮らすようになって、劇的に回復した。  悪夢を見たのも、本当に久しぶりのことだ。藤谷に出会う前は、毎日夢が現実か分からない悪夢に一晩中苦しんで、ほとんど眠れず過ごしていたと言うのに。 「遼馬さん」  藤谷が俺の名前を呼んで、頬に軽く口づけてきた。柔らかい感触がくすぐったい。  そのままちゅ、ちゅ、と音を立てて何度か頬や口の付近にキスを繰り返した後、藤谷は少し顔を離して、熱っぽい瞳でじっと俺を見つめてきた。  何かを強請るような表情にドキリとする。躊躇いながら目を伏せると、藤谷の顔が再び迫って、自分の唇をそっと俺の唇に重ねた。 「ん……っ」  何度しても慣れない。何度してもドキドキする。  藤谷の柔らかい唇で自分の唇が押しつぶされる。頭の奥が痺れるような感覚に酔い知れる。  藤谷はそのまま、何度か角度を変えて食むようにキスをした後、はぁ、と長い吐息を吐き出した。 「どうしよう、幸せすぎる……」  あまりにもしみじみと感慨深く言うので、思わず吹き出してしまった。 「俺もだよ」  囁くように言うと、藤谷は親に褒められた子どもみたいな、嬉しそうな笑顔を浮かべる。  本当に、幸せだった。怖いくらいに。  藤谷が俺を抱き締める腕の力はなかなか緩まない。 「あの、遼馬さん」 「うん」  ソワソワ、モゾモゾとシーツの中で藤谷が身じろぎする。  藤谷が何を言おうとしているのか、簡単に予想できた。実のところ、それを期待している自分もいる。  藤谷はためらいがちに口を開く。 「もっと、したいです。ダメですか」  懇願するような目で訴えかけられる。可愛い子犬の垂れ下がった耳が見えるようだ。藤谷がたびたび見せる、このお願いポーズに弱い。 「晴人くん、それわざと……?」 「えっ、何がですか」 「天然か……怖いな……」  もし藤谷がセールスマンだったなら、どんな契約書を出されたとしてもサインしてしまいそうで恐ろしい。幸い藤谷の今の望みは俺自身の望みでもあるので、断る必要がないのが幸いだ。 「許可なんか取らなくても、晴人くんの好きにしていいよ」  藤谷のお願いを了承しながら、寄り添うように藤谷へ身を預ける。首筋に顔を埋めると藤谷の香りがした。  普段はスパイス系の落ち着いた香りの香水をつけている藤谷だが、寝具の中ではそれがない、藤谷自身の香りがする。  どちらも藤谷への思いを強くする好きな香りではあるが、順位をつけるなら何もつけていない、今の藤谷自身の香りのほうが好きだ。安心する香りにもっと包まれたくて、体を密着させる。 「……っ、遼馬さんこそ、それ、わざとですか」 「えっ、何が」 「やっぱり小悪魔だ……! 好きにしていいって言ったの、遼馬さんですからね!」  一際大きくベッドを揺らして、藤谷が体を起こす。俺の両脇に手をついて、覆い被さるような格好になった。  上から俺を見下ろす藤谷の頬は紅潮しており、その目はギラギラと欲望を湛え俺を見ている。  さっきまで可愛らしかった藤谷が、今度は明らかに欲情を堪えきれないという顔をしていて、そのギャップに胸が甘く痺れた。 「遼馬さん……」 「ん……っ」  ———。  季節は冬。十二月に入り、いよいよ寒さも本格的になってきた。  クリスマス、年末年始といった大きなイベントが後に控えており、世間の人々もどこか浮足立つ時期である。  五十嵐を警戒する藤谷の心配は相変わらず続いていて、俺は未だに一人での外出を制限されていた。もともと出かける予定はないに等しいため、困ることはないが、それでも、どうしても外に出なければならない用事が一つだけあった。 「引き続き、調子が良さそうですね、最上さん。どうですか、最近は眠れていますか」  白衣の医師がパソコンに何かを打ち込みながら、俺に問いかけてくる。 「はい。夜は、ずいぶん眠れるようになりました。おかげで体調が良くて……あの、それと、パソコンを使えるようになったんです。ずっと、仕事のことを思い出して、怖くて、使えなかったんですが」  報告を聞いて、医師はパソコンのディスプレイから僅かに視線を外し、満足げに俺を見た。 「いいですね。焦る必要はありませんが、自分からしたいと思えることが増えるのはいい兆候です。少し、今の薬より弱くしてみましょうか」  この日の診察は、今使用している睡眠導入剤の種類を変えるという話で終わった。少しだけ前進した結果を聞いて安堵する。  今、俺が回復に向かっているのは間違いなく藤谷の存在があるからだ。もし、藤谷がいなくなってしまったら——その時のことを考えると、まだ不安が大きい。  このままでいいわけではないが、それでも、前進はしている。いずれ、藤谷がいなくても、一人でも大丈夫だと思える日が訪れたら、その時は……。 「遼馬さん!」  心療内科から出てすぐ、藤谷が駆け寄ってきた。 「そろそろ終わると思って待ってました。ぴったりでしたね」 「晴人くん……」  ニコニコと嬉しそうにしている藤谷の様子は、やはり子犬みたいだ。成人男性がこんなに可愛くていいのだろうか、としばし遠くを見るような気分になる。  せっかくの外出なので、いつもの定食屋に寄って行こうという話になった。店までの道を歩き始めると、冷たい風が頬を刺すように吹き抜ける。  身震いして肩をすくめた俺を見て、隣を歩いていた藤谷は何かを思いついた顔になった。いたずらを企む子どものような顔に少しだけ訝しく思っていると、藤谷との間にあった俺の手を絡め取られて、そのまま藤谷のコートのポケットへと導かれる。 「は、晴人くん! ちょっと」 「遼馬さんの手、冷たいですね。心のあったかい人ほど手が冷たいって本当だったんだ」 「いや、変なこと言ってないでさ……は、恥ずかしいから……他の人に見られたら」  大通りではないとはいえ、それなりに人目に付く道である。ポケットの中でしっかりと繋がれた手のおかげで、男二人が並んで歩くには近すぎる距離だ。藤谷の香水の香りまでしっかりと伝わってくるほど近い。  ちょうど、すれ違ったベビーカーを押している母親の視線がこちらに向いた気がした。恥ずかしさでカッと耳の温度が上がる。外気との温度差でいっそう風が冷たく感じられる。  他人の目から見て、自分たちがどのように見えるのかを考える。恋人……に、見えるわけがない。父親と息子という年齢差でもない。思わず目を奪われるような容姿の彼と、どこにでもいるくたびれたおじさんの自分とでは、友人にも見えないだろう。  恥ずかしい、いたたまれない、そう思った瞬間、反射的に手を引いていた。ポケットの中で絡め取られていた指を、少し強引に振りほどく。 「……遼馬さん?」  思ったよりも強くなってしまったのか、藤谷の動きがぴたりと止まる。一拍遅れて、勢いよく頭を下げた。 「すみません! そんなに嫌だと思わなくて」  しまった、と思う。言葉より先に体が動いてしまったせいで、完全に誤解させてしまった。 「違っ、その……そうじゃなくて……!」  慌てて否定するが、上手く言葉が出てこない。視線を逸らしながら、なんとか続ける。 「嫌とかじゃなくて……その、やっぱり恥ずかしいから。こういうのは、外ではやめよう……?」  さっきの母親の視線を思い出して、また耳が熱くなる。もっと上手く伝えられればいいのだが、こんな言葉でしかフォローできない自分が情けない。  せめてもう少し藤谷と年齢が近かったら。……あるいは、自分が女性だったなら。こんな気持ちにはならなかったのだろうか。 「……恥ずかしい、ですか」  藤谷は小さくそう繰り返したあと、少しだけ間を置いた。何かを飲み込むように視線を落とし、それから、ゆっくりと頷く。 「……分かりました。すみません、俺、配慮が足りなかったですね」  申し訳なさそうに笑って、藤谷が謝る。その笑顔が少しだけ、無理をしているように見えて、物理的な距離だけでなく、藤谷の心まで遠のいた気がした。  胸の奥がざわつく。 「本当に、嫌なわけじゃないから……俺のほうこそ、ごめん」  思わず、俺も謝っていた。何か言わなければと思うが、何も思い浮かばない。自分の気持ちが上手く伝わっていないような気がするのに、そのずれを埋める言葉が見つからなかった。  冷たい風が二人の間をすり抜けていく。さっきと同じはずの冬の空気が、いっそう冷たく感じられた。 「……じゃあ、行きましょっか! 楽しみですね、今日のフライ!」  努めて明るく言ったその声に、わずかな無理が混じっているのが分かった。そのまま一歩先に歩き出す背中を見て、胸の奥が鈍く痛む。  ——また、気を遣わせてしまった。  自分の不器用さに、どうしようもなく嫌気が差す。何も言えないまま、俺はその背中を追うように歩き出した。  心療内科の帰り道、藤谷との間に感じた距離は埋まることなく、夜になった。  夕食を食べた後、藤谷は片づけたい仕事があると言って、ずっとパソコンに向かっていた。いつも通りに振舞っているように見えるが、どこか上の空で、僅かに距離を置かれているように感じる。  不安な気持ちを抱えたまま、就寝の準備を済ませて寝室へ入る。このまま、今日は一人で眠るのだろうと思っていたが、しばらくして同じように就寝の準備を済ませた藤谷が寝室へ入ってきた。 「行き詰まったので今日はもう寝ます……」  あまり仕事が上手くいっていないようで、元気がない。ベッドに入ってきた藤谷を心配して様子をうかがう。  シーツの中で身じろぎして、寝心地を確かめた藤谷は、そういえば、と明るい声で話しかけてきた。 「今日のフライ、美味しかったですね。特にエビフライ!」 「ああ、うん……エビは珍しいんじゃないかな。ラッキーだったね」 「ですね! しっかり身も詰まってて、最高でした」  他愛もない話をしながらも、やっぱりいつもより少しだけ距離が遠いような気がして、気になってしまう。いつもこんな感じだったろうか。  薄暗い寝室に、藤谷の声が響く。いつもは落ち着くその低い声が、今日は何だか胸をざわめかせる。  しばらくして、欠伸を噛み殺しながら藤谷が言った。 「そろそろ寝ましょうか」  ベッドのスプリングを揺らして体の向きを変え、藤谷がこちらを向く。藤谷は俺を愛おしそうに見つめながら、大きな骨ばった手で俺の髪を軽く撫でた。  心療内科の帰り道に、藤谷の手を振りほどいてから、やっと触れられた気がした。最近あまりなかった、遠慮がちな触れ方だった。触れていいのか、俺が嫌がっていないかと、ためらうような。 「おやすみなさい、遼馬さん」  その手が、熱が、離れていくのが恐ろしかった。二度と触れてもらえないような気がした。  不安に心の中を占領される。きっと、何か間違えたのだ。あの時、俺の伝え方が、何か間違っていた。だから、藤谷が俺に触れるのを再びためらうようになってしまった。  どうして俺はこうなんだ。何も上手くできない。仕事だって周りを呆れさせるばかりで、今だって、こんなに大切な人に自分の気持ち一つちゃんと伝えられなくて……。 「遼馬さん⁉」 「………っ」  これ以上醜態をさらしたくないのに、自分の意志とは無関係にボロボロと涙がこぼれた。 「えっ、すみません、俺また何かしちゃいました……⁉ す、すみません……ごめんなさい、遼馬さん泣かないで」 「ちが……ちがうから、晴人くん……やめてくれ、謝らないで、おれが……」  上手く話すこともできずに、ただ嗚咽が漏れる。狼狽えながら、それでも俺に触れることをためらっている藤谷に、縋るようにしがみつく。 「ごめん……上手く言えない……」  しゃくりあげる俺の体に、ずっと触れるのを迷っていた藤谷の手が強く絡む。 「大丈夫……大丈夫です、遼馬さん、俺待ちます」  待つ? ——いったい、何を。頭に疑問が浮かぶが、口から漏れるのは相変わらず嗚咽だけだ。  藤谷は続ける。 「ごめんなさい、遼馬さんが俺のこと、受け入れられなくても……俺みたいなのが恋人で、恥ずかしいって思ってても、もう、遼馬さんのこと逃がしてあげられない。だからすみません、遼馬さんがいいって思うまで、俺いつまでも待ちます。だから」 「えっ」 「え?」  全く、想像もしていなかったようなことが聞こえて、驚きのあまり一気に涙が引っ込んでしまった。  驚いて目を丸める俺に、藤谷もキョトンとして俺を見た。藤谷の目も赤くなって、涙ぐんでいる。 「えっ……待って、恥ずかしいって……いや、俺が……?」 「遼馬さんが、俺と恋人だって思われるのが恥ずかしいって……あれ、言ってましたよね、今日」 「いや、え……! 違う、違うよ! あるわけないよそんなこと!」  伝わっていないとは思っていたが、まさかそんな勘違いをされていたとは。焦って誤解を解く。 「恥ずかしいのは俺だよ。俺みたいなおじさんが、晴人くんみたいな格好いい子の恋人なんて、誰が見たっておかしいって思うだろ」 「えっ、待って遼馬さん、もう一回言ってください。俺のことなんて……⁉ 格好いいって言いました⁉」 「言ったよ! 誰が見ても格好いいよ! 格好いいし可愛いし、性格まで恋愛ドラマの主人公かと思うくらい完璧だし」 「ほ、褒めすぎですよ……! でも嬉しい、生きてて良かった」 「自覚ないの⁉ 道理で話がこじれるわけだ……!」  藤谷がやたらと俺を過大評価していることは知っていたが、まさか自己評価がそこまで低いとは思っていなかった。 「百人が百人とも、俺と晴人くんの釣り合いが取れない原因は、俺だって言うよ。なんで俺みたいなしょうもないおじさんがこんなイケメンの隣にいるんだって」 「は? どこのどいつですかそんなこと言うの。目が腐ってるんじゃないですか」 「いや、だから……えぇ……なんで? なんで晴人くんって、俺に対してそんな盲目なの……?」  さっきから嬉しいやら恥ずかしいやら話が通じないやらで、情緒が追いつかない。頭を抱える俺と対照的に、藤谷は不服そうだ。 「遼馬さんこそ、なんで自分のことそんな風に言うんですか。遼馬さんほどすごい人はこの世にいません。自分で言うのもなんですけど、遼馬さんって絶対、俺みたいな執着ドロッドロ系の人間を惹きつけるタイプだし。めちゃくちゃモテますよ。しかもガチ恋厄介勢。マンションまで引っ越してきたあの人みたいな」 「えぇ……? その誤解、まだ続いてるの」 「だから、誤解じゃないんですってば。危なっかしいな……俺が守らないと……遼馬さん、絶対俺から離れないでくださいね」  何故か決意を新たにして俺に言い聞かせる藤谷を見て、呆れてしまう。話が通じない。こんなおじさんの何を心配しているのだろう。  さっきまでの悩みが、少しだけ馬鹿馬鹿しく思えてくる。涙もすっかり止まっていた。自然と笑みが戻った俺を見て、藤谷はホッと安心したような顔を見せた後、目を伏せて申し訳なさそうに言った。 「俺が遼馬さんを好きだったのって、七年前からなんですよ」 「う、うん……そう、だったね」  改めて言われると、気恥ずかしい。七年は長い。しかも、ほんの一時コンビニで見かけた客相手には、なかなか続かない感情だ。先ほど自分を執着系と言い表した表現にも、申し訳ないが頷ける。 「だから、俺は今、本当にすごく嬉しくて、幸せで、遼馬さんにもっともっと触れたくて、声が聴きたいし、いっぱいキスしたいし、抱き締めたいし、それから……」 「ちょっ……、ストップ、晴人くん、ストップ、あの、だいぶ恥ずかしい」  あまりにも率直な思いをぶつけられて、恥ずかしさでぐんぐん顔の温度が上がっていく。これ以上詳しく聞いていたら頭の中が沸騰しそうで、慌てて止めると、藤谷はますますシュンとして続けた。 「遼馬さんが俺のこと意識してくれたのは、つい最近なんですよね。だから、気持ちの大きさが違っても仕方ないなって、焦らないように、遼馬さんを怖がらせないようにって、気を付けてたつもりなんですけど、最近それが全然できてなかったなと思って、めちゃくちゃ反省してました」 「……そっか、それで……」  あの帰り道からちょっと距離があるように感じたのはそのせいだったのかと、腑に落ちる。藤谷が俺を思って距離を取ろうとしてくれたのが嬉しくて、胸の奥にじわりと熱が広がった。  同時に、申し訳なく思う。藤谷は常に俺のことを考えてくれている。それなのに、俺が考えているのは自分ことばかりだ。  藤谷の隣に並ぶ自信がなかった。自分のような人間が恋人だなんて、周囲に白い視線を向けられるのが恐ろしかった。  変わりたい。変われるだろうか。彼の隣にいても、恥ずかしくないと思えるような人間に。 「ごめん、晴人くん。俺が恥ずかしいのは、俺自身なんだ。だから、今はまだ、外で手をつないだりとか、そういう……距離が近いのは、やっぱり、恥ずかしいんだけど」  藤谷は、俺が自分を恥ずかしいと思うことに、やや不服そうな表情を浮かべたが、静かに俺の話に耳を傾けてくれた。 「でも、二人きりの時は……気にしないで、もっと、触れてほしい。時間なんて関係ないよ、俺だって、晴人くんのことが……」  自分の感情を率直に言葉にするのは、恥ずかしい。なかなか藤谷のように上手くはできない。  肝心なところで言い淀んでしまったが、それでも言いたいことは伝わったらしく、藤谷はガバリと俺の体を包んで、抱き締めた。 「遼馬さん……ありがとうございます」 「うん、色々不安にさせてごめん、晴人くん」 「いえ……! 二人きりなら、つまり、今はいいってことですよね……⁉」 「えっ、う、うん、そう、だね」  切羽詰まったような物言いに、ちょっとたじろいで答える。  藤谷は、ハァ、と熱のこもった吐息を漏らして、ちょっと体を離すと、上目遣いに俺を覗き込みながら、ギラギラと、あの欲情しきった目で俺を見ていた。 「すみません……! 今日ずっと、遼馬さんに触れたいの、我慢してたんで……」 「………!」 「ちょっともう、無理かも……すみません、遼馬さん、すみません!」  謝りながら、性急に口を塞がれる。いつもより余裕のない口づけに、驚きながらも喜んでいる自分がいて、されるがまま、藤谷に身を任せた。  二人で食べた朝食の後。藤谷が淹れてくれたコーヒーを、ダイニングテーブルに置く。  コーヒーの横でパソコンを起動する。家事がひと段落した後、体調がよければ、こうしてパソコンで簡単なコーディングのリハビリをするのが日課になっていた。  コーディングは、やはり楽しい。最近では藤谷と共有する買い出しリストを、クラウド上で動く簡単なツールとして自作して、お互いのスマートフォンに入れていた。  それぞれ気づいた時に必要なものをボタンで選択して、買い物リストを自動生成するツールだ。よくあるアプリではあるが、無料のものには当然広告表示があるし、自由度も限られている。自分用に使いやすくカスタマイズしたいと思い、作ったものだった。  最初、スマートフォンでこのアプリを動かして見せた時、藤谷は大袈裟に驚きすごいすごいと喜んでくれた。藤谷が普段楽曲を提供しているようなゲームアプリに比べたら、大したことのない単純なプログラムだが、それでも、そう言われて悪い気はしない。 「今度はどんなアプリを作るんですか」  藤谷が隣の席に座って、立ち上がったばかりのパソコンを覗き込んでくる。 「そうだなぁ……ワークアウトの記録アプリとかどうだろう。晴人くん、運動不足を解消したいって言ってたし」 「いいですね! 遼馬さんが作ったアプリなら、トレーニングも捗ると思います!」 「あとは……晴人くんの、仕事のスケジュール調整とか、タスク管理とか。もう何か使ってるかもしれないけど」 「そうですね。無料で使えるスケジューラーを使ってますけど、もっとこうだったらいいなっていうのはあります」 「そうなの? じゃあ、ユーザーインタビューから始めようか。えーと……今のサービスで、困っていることはありますか」 「本格的ですね! 楽しそう。はい、今困ってるのは……」  真剣に考えて答えようとしてくれる藤谷を微笑ましい気持ちで見つめて、ハッとする。自分が、ごく自然に、あれだけ避けていた仕事と、全く同じことをしようとしていると気づいたからだ。 「……なので、案件ごとのメモとか、実際のデータファイル、スケジューラーを全部個別に開かなきゃいけないのが、ちょっと手間で……遼馬さん?」  藤谷の呼びかけが遠く聞こえる。心と体がバラバラになったような違和感に襲われ、その声に応えることができない。  少し前まで、仕事のことを思い出すだけでも動悸がした。息苦しくて倒れそうになっていた。それなのに、俺は今、楽しいと思っていなかっただろうか。  会話が途切れ、固まってしまった俺を見て、藤谷は不思議そうな顔をしている。何か言おうとするが、言葉が出なかった。ここまで過去の仕事を切り離して考えられることに、自分でも戸惑い、驚いているからだ。  コーディングは、楽しい。ただコードを打ち込むだけでも楽しいが、自分が作ったものが、誰かの役に立って喜んでもらえるなら、これ以上の喜びはない。  この人がどんなことに困っているのか、どうすれば楽になるのか、考えて形にすることにやりがいを感じる。それが大切な人であればなおさらだ。  何か見つかりそうな気がした。この気持ちの先に、自分にとって大切なものがあるように思う。 「晴人くん……」 「はい」  呆然とした俺に名前を呼ばれ、藤谷も何事かと身構えて真剣に返事をする。 「ちゃんと……形にしてみてもいいかな、このアプリ」 「勿論です! 遼馬さんが俺のために作ってくれるってことですよね、うわ、楽しみ!」  屈託なく笑う藤谷につられて、俺も自然と笑顔になる。ずっと逃げることしかできなかった、あの辛い記憶と向き合おうとしているのに、こんなにも穏やかな気持ちでいられる理由は、もう分かっている。  君の隣に立っても、恥ずかしくない人間になれるように。この先、俺がまた一人になった時も、前を向いて歩けるように。

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