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第8話

 集中すると周りが見えなくなると、子どもの頃からよく言われていた。  プログラミング入門と書かれた分厚い指南書を片手に、独学でコーディングを勉強していた中学生の頃は特に顕著だった。親が食事や入浴の時間を知らせに声をかけても聞こえておらず、全く返事をしないので、怒りを通り越して呆れさせていた。  ロジックを組んでいると、時々、自分の頭がコンピュータそのものになったような錯覚に陥る。推論を組み立て、演算を重ね、想定されるエラーを修正する。思考を複雑に分岐させ膨大な情報を処理していると、回転ディスクの上をヘッドが往復するような音がカリカリと鳴って、排熱の焦げ臭い匂いさえするような気がした。  ちょうど大きな機能の実装が完了し、テストコードが通ったところで、絶えず回し続けていた思考を中断させた。ディスプレイを睨み続けて疲れ切った目を休めるように、目を閉じてこめかみを軽く押さえる。  藤谷の意見を取り入れた、タスク管理アプリの開発は順調だ。締切のカレンダー表示はもちろん、特定のタスクを選択するだけで、必要なツールやファイルを瞬時に揃え、作業環境を構築できる。  作り始めるうちにあれもできたほうが便利なんじゃないか、これはこうしたほうがいいんじゃないかと、新しい機能のアイデアが次々にあふれ出してきた。おかげで、思ったより開発に手こずっているが、そのぶんいいものができるという自信があった。  なるべく簡単な操作で、なるべく効率的に。アプリを使用する人を——藤谷を想像して考える。少しでも藤谷の仕事の役に立つといい。このアプリを使用した時の、藤谷の喜ぶ顔を想像すると、自然と笑みが浮かんだ。  ふと、ディスプレイの隅に表示されている現在の時刻が目に入る。 「……え! もうこんな時間!」  時計の表示は十九時過ぎ。いつも十八時前後に夕食を食べているため、開発を切り上げようと思っていた時間から一時間以上も過ぎていた。  慌ててディスプレイから顔を上げる。自分が座っているダイニングテーブルの向かい側に、藤谷が座って俺の作業が終わるのを待っていたことに、やっと気づいた。 「晴人くん! ごめん、今気づいた。夕食の準備の時間だったよね」  今日のメニューはクリームシチューの予定だ。藤谷がクリームシチューを作るので、俺がガーリックトーストとサラダを作るという役割分担を、朝のうちにしていた。  すっかり忘れて作業に没頭していたことを申し訳なく思う。もしかしたら声をかけてくれたのかもしれないが、集中するあまり全く気がつかなかった。  青ざめる俺と対照的に、藤谷はニコニコと目を細めて満足げだ。 「いえ、集中してるカッコいい遼馬さんを十分堪能できたので、気にしないでください」 「何言ってるの……ごめん、すぐ作るから」 「下ごしらえはしておいたんで、後はバゲットを焼くだけですよ。ご飯にしましょっか」  ガーリックたっぷりのソースを塗って、下ごしらえを済ませたバゲットを自慢げに見せてくる。食欲をそそるバターとニンニクとオリーブオイルの香りがした。  俺が作業していたダイニングテーブルのすぐ横がキッチンだ。こんなにいい香りがしていたら気づきそうなものを、全く気づかないで作業していた自分が情けない。肩を落として藤谷に謝罪する。 「本当にごめん。お詫びに、明日のご飯は全部俺が作るから」 「俺の仕事が忙しい時は遼馬さんが作ってくれてるし、気にしないでください。お互い様じゃないですか」  言葉通り全く気にしていない様子の藤谷に、ますます申し訳なくなる。藤谷は俺を甘やかしすぎだ。こんなに甘やかされたら、自分が何もできない人間になってしまいそうで恐ろしい。彼の優しさに甘えるばかりではいけないと、気を引き締める。  ガーリックトーストをトースターに入れて香ばしく焼き、シチューを温め直して食事の準備をする。サラダの準備はまだだったため(藤谷曰くサラダも準備するつもりが、俺の作業しているところを見始めたら目が離せなくなった、らしい)、レタスをちぎってミニトマトを添え、簡単なサラダを用意した。  パソコンを片付けたダイニングテーブルに、出来上がった料理を並べる。 「いただきます」  二人で手を合わせた後、温かいクリームシチューを口へ運ぶ。まろやかなホワイトソースは甘みと塩味が丁度良く、長時間パソコンと睨み合って疲れた体がホッと安心するような、優しい味がした。  思わず頬が緩む。 「美味しい」 「ですね! やっぱり冬はシチューですよ」  ガーリックトーストも美味しくできている。サクッとした食感の後、バターとニンニクとオリーブオイルのソースが鼻から抜けるように香って、手が止まらなくなる味だ。 「晴人くんの料理は、何を食べても本当に美味しいな。俺も頑張らないと」 「遼馬さんの作ってくれる料理も美味しいですよ! 特に親子丼が好きです」  俺が作る親子丼は味付けが市販の出汁だ。褒められるのは嬉しいが、藤谷なら出汁から作るかもしれない、と思って、ちょっと居心地が悪くなる。勿論、藤谷本人はそんなこと気にしていないだろうが。 「そうだ、もうすぐクリスマスじゃないですか。クリスマスといえば、パーティーですよね!」 「パーティー?」 「はい! ツリー飾って、ご馳走作って、ケーキ食べて……遼馬さんは何が食べたいですか?」 「ええと……そっか、クリスマスパーティー、か」  これまでの人生でクリスマスに何を食べたか思い出そうとするが、上手くいかない。子どものころは、父が他国の文化に否定的だったため、我が家にクリスマスパーティーなんてものはなかった。  見かねた母がこっそり、小さなケーキを用意してくれたことはあったが、パーティーと呼べるような経験はない。せいぜい学生時代に、友人と持ち寄ったスナック菓子を食べたり、宅配ピザを頼んだり、コンビニのケーキを食べたりしたのが、俺の人生におけるクリスマスパーティーの思い出の全てである。  働き始めてからは、ここで仕事を片付けられるかどうかが年末年始休みを取れるかどうかの瀬戸際だったので、ほとんど毎年仕事に追われていた気がする。幸せそうに笑い合うカップルたちを横目に、仕事でふらふらになりながらクリスマスの街並みを歩いていた記憶しかない。  あの頃は、誰かとパーティーをするようなクリスマスが自分にも訪れるなんて想像もできなかった。今の自分を知ったら昔の自分は驚くだろうな、と考えて、嬉しいような、気恥ずかしいような気持ちになる。 「クリスマスといえば、やっぱりチキンじゃないかな」  頼りない記憶を掘り起こし、クリスマスのご馳走が何かを考える。特にこの時期はコンビニやスーパーの惣菜コーナーにも、クリスマスチキンが並んでいたような気がする。 「いいですね。本場だとターキーみたいですけど、日本ではやっぱりローストチキンが定番ですよね。他にリクエストはありますか? 遼馬さんに喜んでもらえるように、俺、完璧に準備します!」  自分を喜ばせようと真っ直ぐに伝えてくれる藤谷の言葉に、胸の奥がじんわりと温まる。かつて、仕事でふらふらになりながら冷たい夜道を歩いていた孤独な自分が、報われた気がした。 「ありがとう、晴人くん……嬉しいけど、準備は二人で一緒にしよう。そのほうが、きっと楽しいよ」  しばらくきょとんと驚いた顔をしていた藤谷が、やがて幸せそうに微笑む。藤谷が作ってくれたシチューの優しい味と同じような、優しい時間だった。  夕食の食器を片付けた後、二人でパソコンのディスプレイを覗き込み、ショッピングサイトでツリーを選んで注文した。藤谷は一番大きいものを注文しようとしていたが、飾り付けも片付けも大変だからと説得してもう少しコンパクトなサイズのものにした。  順番に入浴を済ませて寝室に入る。セミダブルのベッドに二人で横になって、眠る前にとりとめのない話をする。俺が一番好きな時間だ。 「うちは父親が、日本にクリスマスなんて文化はない、ってタイプだったからさ。子どもの頃はクリスマスに何かした記憶がなくて。だから、友だちの家にあったクリスマスツリーがすごく羨ましかったな。ほら、四角いプレゼントの形をした飾りがあるだろう?」 「クリスマスツリーに飾る、小さいプレゼントみたいなやつですか」 「そう。キラキラした包み紙の、あの飾りが、すごく気になってたんだよな。何が入ってるんだろう、きっと素敵なものに違いないって」 「分かります。俺も気になってました」  当時のことを思い出して目を細める。あの小さなクリスマスプレゼントのオーナメントは、自分には決して手が届かないものの象徴のように思えた。 「五つ年下の弟がいるんだけど、五歳くらいの頃かな。一回、すごく泣いたことがあるんだ。なんでうちにはサンタさんが来ないの、って。俺もずっとそう思ってたけど、その時にはもう、子どもにプレゼントを用意してるのが誰かも知ってたから、言えなくてさ……実際、あの時母親が見せた悲しそうな顔が、今でも忘れられないよ。何とかしなきゃって思って、咄嗟に出た言葉が、お前が悪い子だから来ないんだろ、だったから、弟をますます泣かせちゃってさ」 「それは……ええと」  藤谷が気まずそうに口ごもる様子に、ふっと笑みがこぼれる。 「可哀想なことしたと思うよ。それで、見かねた母親がその年はこっそりクリスマスプレゼントを用意しようとしてくれたんだ。俺と弟にそれぞれ、サンタさんに届けてあげるから、欲しいものを書いてごらんって便箋をくれて。それに書いたのが」 「もしかして、ツリーに飾ってあるクリスマスプレゼントですか?」 「そう! 母さん困っただろうな。クリスマスプレゼントのリクエストに、クリスマスプレゼントって書いてあるんだから」  当時を思い出して笑みがこぼれる。俺の話を聞いていた藤谷も優しく笑う。 「どうしよう、十歳の遼馬さんがかわいすぎる……」  言っていることはいつも通りだ。俺も慣れたものでスルーである。 「結局、クリスマスの日は枕元に小さいプレゼントボックスが置かれてたよ。手紙に書いた通りの、ピカピカの包み紙で、クリスマスツリーに飾るには、ちょっと大きいくらいの」  ベッドの中で身じろぎして、当時のプレゼントの大きさをジェスチャーで示す。大人の手なら片手ですっぽり包めるくらいの大きさだ。 「何が入ってたんですか?」 「小さなスノードームだったよ。球体の中にサンタクロースがいて、ひっくり返すと粉が舞うやつ」  十歳の子どものプレゼントとしては、少し地味なものだったかもしれない。弟は当時流行っていた携帯ゲーム機とソフトを頼んでいたし、俺も普段なら同じようなものを選んでいたと思う。  でもその時は、ただ嬉しくて仕方がなかった。憧れてやまなかった『クリスマスプレゼント』を手に入れて、キラキラの包装紙を開けるだけで胸が高鳴った。箱の中から出てきた小さなスノードームの中には、クリスマスをそのまま閉じ込めたような世界があった。  赤い鼻のトナカイ、ソリに乗ったサンタクロース、雪の積もったもみの木に、枝の手を広げ帽子をかぶったスノーマン。雪みたいにキラキラと舞う粉を、飽きもせずにずっと眺めていた。  念願のゲーム機を手に入れた弟には「兄ちゃん、悪い子だから欲しいものがもらえなかったんだね。俺のゲーム貸してあげるから、元気出してね」と哀れみの目を向けられたが、本当に嬉しかったことを、よく覚えている。 「素敵なプレゼントですね」  思い出を振り返る俺を、眩しいものを見るような優しい目で見つめながら、藤谷がそう声をかけてくれる。 「晴人くんは、何かクリスマスの思い出はあるの?」 「俺ですか? うーん……うちは姉が二人いたので、俺はずっと後回しで……親が焼いたクリスマスケーキに飾り付けをする時、姉二人に、お前は手を出すなって言われたのが悔しかったですね……ケーキの上にイチゴを乗せるのが夢でした」  遠い目をした藤谷が言う。その顔が妙に達観していたので、悪いと思いながらも笑ってしまった。姉二人に気圧される藤谷を想像すると、可哀想だが可愛らしい。 「じゃあ、ケーキの飾り付けもしよう」 「ほんとですか! やった! 遼馬さんと作るクリスマスケーキ、楽しみ」  嬉しそうに言って、藤谷がぎゅっと俺を抱き締める。ついでに目元に何度かキスをされた。 「プレゼントも用意しなきゃ。リクエストはありますか? それとも、お楽しみがいいですか?」 「お楽しみがいいな。晴人くんは?」 「俺もです! 遼馬さんが選んでくれるプレゼント、楽しみ!」  戯れるように擦り寄ってくる藤谷が可愛らしい。思い切って自分からも藤谷の頬に唇を寄せてみたら、感極まったような藤谷にぎゅうぎゅうと抱き締められた。  寒い夜に、温かい布団の中で、少し未来の話をする。今夜もやはり、泣きたくなるほどに幸せな夜だった。  ほとんどが在宅で仕事をしている藤谷にも、稀に仕事のミーティングで家を空けることがある。  この日も、藤谷は遅めの朝食を食べた後、今日は夜まで帰れないと悔しそうに言って、昼前に家を出て行った。俺の昼食と夕食の心配をしていたが、さすがにそこまで心配されるような歳ではない。大丈夫だからと言って送り出した。 「何か困ったことがあったら連絡してくださいね。何を置いても帰って来るので。絶対絶対、一人で外に出ちゃダメですからね!」  家を出る前、藤谷は念を押すようにそう言っていた。さすがに過保護では、と思う。元より一人で外出する予定などない。いらぬ心配だ。  開発中のアプリを少し進めたあと、パソコンでショッピングサイトを開く。藤谷のクリスマスプレゼントを選ぶためだ。  俺の選ぶプレゼントが楽しみだと言って、期待していた藤谷の様子を思い出す。藤谷なら何を贈っても大袈裟に喜んでくれそうだが、万が一にもガッカリはさせたくない。  二十代、男性、クリスマスプレゼント——適当にキーワードを入れて検索をかける。財布、腕時計、アクセサリーなど、画面に並ぶそれらを眺めてみても、どれもいまいちしっくり来ない。  ディスプレイから顔を上げ、リビングを見渡す。藤谷と出会って過ごした時間は、ほとんどがこの部屋の中だ。藤谷好みのプレゼントを見つけるならば、そのヒントはきっとここにあるだろう。  仕事中、パソコンに向かう真剣な背中を思い浮かべる。上手くいかない時に、髪をくしゃくしゃにするのは癖だろうか。運動不足を気にしていて、部屋の中で体を動かせるような健康器具を買おうか迷っていた。まだ買っていないのなら、プレゼントの候補にできるかもしれない。  それから、スパイス系の爽やかな香りの香水をつけている。たまにシンプルなデザインのシルバーアクセサリーをつけることもある。服はほとんどモノトーンで、紫色をポイントカラーに選ぶことが多い。小物を選ぶならこの辺りだろうか。  他には……とにかく優しい。俺に甘くて、でも時々、子犬みたいな顔で「ダメですか?」と迫ってくる。そういうところに、いつも翻弄される。  きっとこれから先も、俺が藤谷に敵うことはない。でも、それは藤谷が俺の意思を踏み越えるようなことはしないと、ちゃんと分かっているからだ。 「………」  なんだか妙に寂しくなって、パソコンのディスプレイに視線を戻した。部屋はしんと静かだ。藤谷と二人で過ごす時間の多いこの部屋は、あまりにも藤谷との思い出にあふれている。  プレゼントを選び、アプリ開発を進め、簡単な夕食を食べて一日が過ぎた。  時刻は二十二時。藤谷が帰宅を予定していた二十時はとっくに過ぎていたが、仕事の付き合いでなかなか帰れないということはよくあるため、元より時間通りに帰ってくるとは思っていない。先に眠る準備を整えておき、パソコンを眺めて藤谷の帰りを待った。  普段は周りの声が聞こえなくなるほどに集中するコーディングにも、あまり身が入らない。一日会えないだけなのに、こうも心細くなるとは思わなかった。さっきから何度も時計を確認してしまう。  そろそろ二十三時になる。終電も気になる時間だ。 もしかして今日中に帰れないということもあるのだろうか。スマホを見るが何の連絡もなく、さすがに心配になってきた、その時だった。  玄関の扉に、鍵が差し込まれる音がした。ガチャリと解錠される音がいやに大きく響く。  帰ってきた——そう思った瞬間、胸が軽くなる。浮かれた思いで藤谷を出迎えるために玄関へ急いだ。  だが目の前でゆっくりと玄関扉が開き、そこに現れた人物を目にした俺は、それ以上身動きできずにそのまま固まってしまった。 「もう、晴人重いよ。自分で歩いてよ」  文句を言いながらも、どこか期待を含んだような甘く高い声が響く。  扉の向こうから現れたのは、ぐったりとして気分の悪そうな藤谷一人ではなかった。その藤谷を支えるように肩を貸す、華奢な女性が一緒に立っていた。  内側だけ淡いピンク色のボブヘアー。裾の広がった、ワンピースのような可愛らしいデザインの白いコートに、厚底のブーツ。ぱっと見は西洋人形のような、可愛らしい出立ちの女性だ。  ——そう、藤谷の隣に並んでいると、それだけで絵になるような、お似合いの二人。  藤谷に肩を貸しながら、扉を開けたその人物は、やがて家の中に向けた目で俺の姿を捉え、すぐに表情を険しくした。 「え、誰」 「えっ……」  驚きのあまり、すぐには声が出てこなかった。  心臓が凍りついたようだった。固まったまま動けない俺を見る女性の目にみるみる警戒心が浮かび、その口を悲鳴の形にした、その時。 「りょーまさん!」  酔っ払っているのだろう、トロンとした目で俺を見つけた藤谷が、それまで朧げだった意識を一気に覚醒させて俺に抱きついてきた。 「おそくなってすみません……! 今かえりました!」  呂律も上手く回らない様子で喋る藤谷から、強いアルコールの香りがする。かなり飲んでいるようだ。  俺に合わせてかどうかは分からないが、藤谷がアルコールを摂取したところはこれまで一度も見たことがない。この様子を見るに、あまりお酒に強い方ではないのかもしれない。 「さみしかったですよね。すみません。はやくかえりたかったのに、なかなかかえしてもらえなくて」 「う、うん……晴人くん、あの」  俺に抱きつく際に、突き飛ばされた格好になった女性はしばらく呆然として俺たちを見ていた。藤谷は今にもキスの一つでもしてきそうな勢いだが、彼女の手前、どうしていいか分からず狼狽える。  次第に状況を理解したのか、女性の顔つきがまた険しくなる。こちらを睨みつけ、警戒心をあらわにしながら口を開いた。 「晴人? ……誰、それ」 「は? ……美優? 何でここにいるの」  今気づいたように藤谷が女性へ視線を向けるが、その視線は冷ややかで、口調も藤谷が発しているとは思えないほどに冷たかった。  藤谷の反応に女性はカッと顔を赤くする。 「ちょっと! せっかく家まで連れてきてあげたのに……! 何その言い方! ひどい!」 「いや、頼んでないし……悪いけど帰って」  俺から離れた藤谷は少々強引な手つきで女性を玄関の外へ追いやる。 「晴人!」 「仕事のことで何かあったらDMのほうに連絡ください。じゃあ、お疲れ様でした」  最後の方の口調はやや丁寧ではあったが、それでも普段の藤谷の態度に比べたら十分冷たく、呆気に取られてしまう。目の前の人物が本当に藤谷なのかと疑ってしまうほどだ。  扉の向こうでまだ女性が不満そうに何か言いながら、ドンドンとドアを叩いている。藤谷はそれを気にすることなく、しっかりと施錠すると、こちらを振り向いた時にはもういつもの笑顔だった。 「ごめんなさい、りょーまさん。遅くなりました!」  酔っぱらい特有の、まだ少し舌足らずな口調で、元気に藤谷が言う。いつもなら可愛いと思うばかりだが、今は彼の背後でドンドンと音を鳴らす扉の向こうが気になって仕方がない。 「晴人くん……その、大丈夫かな。あの子、美優、さん?」  恐る恐るその名を口にする。声に出すと余計に、ズキリと胸が痛んだ。  本当にお似合いだった。並んだ時の年齢も、雰囲気もぴったりだった。自分なんかよりよほど恋人同士のように見えた。嫌な妄想が真っ白な紙に落とした墨汁のように、じわじわと広がって胸がざわめく。  気にしてほしくない、けれど、こうして今も扉の向こうで何か伝えようとしている以上、無視もできない。  話の流れから、おそらく今日のミーティングに関わりのあった仕事の関係者だろうが、明らかに藤谷に気のある様子だった。こんな扱いを受けたことで、仕事に支障があるのではないかという心配もある。  だがそれまで笑顔だった藤谷は、俺の言葉を聞いて一瞬で色を成した。 「なんで遼馬さんがそんな名前を知ってるんですか」 「えっ……いや、だって、今さっき」 「俺以外の名前呼ばないでください。俺以外見ないで。俺だけ見てて、遼馬さん」 「晴人く……んっ、」  ゆらりと大きな影が俺に覆い被さる。かがんだ藤谷が強引に俺の口を自分の口で塞いだ。 「……っ、はぁっ、晴人くん……!」  藤谷の口からは強いアルコールが感じられた。長く口を塞がれて、やっと解放されたと思ったら、強く腕を掴まれ寝室へと引っ張られる。  寝室の扉が閉まる頃には、玄関の扉を叩く音も消えていた。  ——。  ベッドの中で意識が覚醒する。寝起きだというのに、体中がひどく気だるい。沼の底に沈んで身動きが取れないような感覚だった。 「ん……」  重い体を持ち上げて、ゆっくりと起き上がる。しばらくぼんやりと何もない空間を見つめた後、隣に寝ているはずの藤谷を探すが、いつも藤谷が寝ている場所は既にもぬけの殻だった。改めて見渡しても、ベッドには自分しかいない。  藤谷が、いない——。  ふと、昨晩帰宅した藤谷に寄り添っていた女性、美優の存在を思い出して、ゾクリと寒気がした。いつか感じていたように、藤谷の隣にいるべき存在が現れたのだろうか。このベッドの中が、自分の居場所ではなくなってしまったのかもしれないと、嫌な想像が一瞬で頭を駆け巡る。  慌ててベッドを出ようとして、そこに見慣れないものがあることに気づき、ギョッとする。 「晴人くん⁉︎」  藤谷はベッドの横で正座していた。なぜか上半身は裸、下着姿で俯いており、その表情は分からない。  俺が名前を呼ぶと、ビクリと肩を跳ねさせた後で、勢いよく頭を床まで下げ、土下座の格好になる。 「すみませんでした、遼馬さん‼︎」  藤谷に土下座されるのは二度目だ。七年前から俺を知っていたと告白されたあの時と同じように、何故謝られているのかさっぱり分からず、狼狽えてしまう。  とにかく土下座をやめさせようとベッドから下り、藤谷の目の前に立つ。  そこで、ハッと気づいた——もしかして、これから俺は、別れ話をされるのではないか。  心臓が嫌な音を立てた。そうだ、きっと俺は振られる。昨夜、藤谷を連れて帰ってきた彼女の存在を目にしてから、嫌でも想像してしまう瞬間が、現実になろうとしている。  自分のようなおじさんは、藤谷のような若者に相応しくないのだと、よく分かっている。いつか藤谷が正気に戻ったら、別れが訪れるのだろうと、ずっと覚悟をしていたつもりだった。  鼓動がうるさい。喉がカラカラに渇いている。  ——覚悟は、していた。でも、こんなに早いなんて思っていなかった。  もう少し。あと少しだけ、このままで。毎晩祈るように願っていた。だが終わる瞬間は、こんなにも呆気ない。  視界がじわりと滲む。往生際の悪いことに、その先を聞きたくないと思ってしまう。  世の中の恋人も、別れる時はこんな身の引き裂かれるような思いをするのだろうか。それなら、二度と誰も好きになりたくないと思った。  こぼれ落ちる涙を止められず、手で拭う。俺が泣いていることに気づいた藤谷が、顔を上げて絶望的な表情になった。  いけない、このままでは優しい藤谷に気を遣わせてしまう。早く止めなければと思うのに、どうしても止まらない。 「遼馬さん……そんなに……」 「ごめ……っ、ぅ」  しゃくり上げて言葉すらままならない。最近、こんな風に泣いてばかりだ。どうしてこんなに涙もろくなってしまったのだろう。いい年した大人が情けない。  何とか涙を止めようとする俺に、藤谷は絶望的な声で言う。 「そんなに昨日、俺がひどいことをしたんですね……すみません、本当に、すみません‼︎」 「……へ……?」  藤谷は再び、額を床に擦り付けんばかりの勢いで頭を下げた。話が噛み合わない状況にポカンとして、止められない涙をボロボロとこぼしたまま、藤谷の後頭部を見下ろす。 「俺、昨日自分が何したか全然覚えてなくて……! ていうか昨日は、ミーティングの後の食事会で、断れなくて結構飲んじゃって、途中から何の記憶もなくて……朝起きたら隣に遼馬さんが寝てて、それが、その、すごい状態で……!」  そう言われ、改めて自分の状態を確認してみる。昨夜は確かに、俺も途中で気を失うように寝てしまったため、かなり散々な状態だったと思う。衣類は藤谷に脱がされてほぼ裸、加えて体中に激しい行為を思わせる跡がおびただしく残されていた。気づいた瞬間、急激に恥ずかしくなる。  慌てて脱ぎ捨てられた服を探す。くしゃくしゃになってベッドの外に放り投げられていたインナーを着て、ひとまず肌の露出を隠した。一刻も早くシャワーを浴びたい。 「すみません! 遼馬さん! 俺何したんですか……⁉︎ そんなにひどいことを……⁉︎ 許せない、俺自分が許せないですよ、何で何にも覚えてないんだ……!」  最後の方は謝罪というより本音が漏れているような気がしたが、思ったような展開ではなかったことに安心するあまり、呆然としてしまう。  ——別れ話では、なかった。  ホッと安堵するものの、一度流れ始めた涙はすぐには止まらない。 「遼馬さん、ごめんなさい……! 許してください、もう二度とお酒は飲みません……!」  藤谷の方も泣きそうな勢いで、必死に懇願している。そのあまりにも必死すぎる様子に、とうとうふっと吹き出してしまった。 「遼馬さん……?」 「大丈夫だよ、晴人くん。嫌なことなんて、何もなかったから」 「え……、でも、じゃあなんで泣いてるんですか……?」  心配そうに尋ねてくる藤谷の首筋に、昨日自分が噛み付いた跡を見つけてしまう。気恥ずかしくて視線を逸らし、未だにこぼれる涙を拭いながら正直に口を開く。 「いや、晴人くんが、別れ話をするんじゃないかと、思って」 「俺が遼馬さんに別れ話を……? あり得ない、毎小節転調して、どこにも帰ってこないまま終わる曲くらいあり得ないですよ」  例えはよく分からないが、あまりにも真剣に藤谷がそう言うので、とにかくあり得ないことだというのは伝わってきた。  安心して、やっと肩の力を抜く。  まだ、大丈夫だ。いつかはその時がくるとしても、今日は、まだ——心の中で自分に言い聞かせるように繰り返す。 「よかった……遼馬さんに嫌われたわけじゃなかったんだ……うぅ……安心したら二日酔いで気持ち悪くなってきた……」  頭を押さえた藤谷がフラフラとその場に崩れ落ちる。 「大丈夫? もう一度寝なよ、水持ってくるから」 「すみません……遼馬さん優しい……神様……!」  相変わらず大袈裟だな、と思いながら、藤谷がもう一度ベッドで横になれるよう手を貸す。その後、キッチンの冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをコップに注いで、藤谷の待つ寝室へ戻った。 「ありがとうございます……そういえば、俺、昨日どうやって帰ってきたんですか? マジで何の記憶もなくて……」  藤谷に尋ねられ、ドキリとした。昨日、玄関の扉が開いた瞬間の光景を、また思い出す。 「ええと……」  言葉を続けられず、口ごもる。真実を伝えれば、藤谷はきっと誤解だと、彼女とは何の関係もないことを教えてくれるだろう。藤谷の自分への気持ちに疑いはない。だからこそ、何となくその事実を伝えられなかった。  何を聞いても、俺のこの不安は晴れないと、分かっているから。 「すみません、遼馬さんにも分からないですよね。後でお詫びついでに取引先の人に確認してみます」  申し訳なさそうに謝る藤谷の顔に、胸がざわめいた。昨日、藤谷から香った甘い香水の香りが、まだ残っているような気がした。    ◆ 「じゃあ、お疲れ様でした」  バタン、と目の前で閉められた扉に、しばし呆然としてしまう。冷たい北風が私を馬鹿にするようびゅうっと吹き抜けた。 「……は⁉︎」  やっと状況を理解して、沸々と怒りが込み上げてきた。成人男性一人分という、女の自分が支えるのは容易でない存在をここまで必死に連れてきたというのに、この仕打ちはあんまりじゃないか。 「ちょっと! 晴人! 開けてよ、意味分かんない!」  ガチャリと施錠音まで聞こえた玄関扉を、再び開けて欲しくてドンドンと拳で叩く。元はと言えば自分が事務所の社長に、晴人はお酒に弱いから、酔わせれば望む返事を聞けるかも、なんて吹き込んだのが、晴人が自分で歩けなくなるくらい泥酔した原因なのだが、そんなことは棚上げだ。  七年。七年である。私が藤谷晴人という男に、片思いをしている期間は決して短くない。  元々、藤谷は自分と自分の作る音楽以外、他人に興味のなさそうな、クールな性格だった。そこがストイックで素敵だと思って始まった恋だった。  いつだったか、藤谷の作る曲が大きく変化した時期があった。作詞もしている曲では特に分かりやすかった。叶わぬ恋に身を焦がすような、一人の人を一途に思い、報われない思いを、それでも神聖な何かへ昇華するような、そんな曲が明らかに増えた。あまりに露骨なので、こいつ人妻に片思いでもしてるんじゃないか、と疑ったほどである。  幸い、叶わぬ恋なら付け入る隙がある。すぐには無理でも、絶対に振り向かせてやるという自信があった。  その時の私は知る由もない。まさか藤谷のその『叶わぬ恋』が、あまりにも執念深く、付け入る隙なんて一ミリもないということを。  藤谷の気持ちをこちらに向けることができないまま七年が過ぎた。  もう一度言う。七年である。こんなにも長い期間、健気に藤谷だけを思い続けた自分を褒めてあげたい。  相変わらず藤谷の作る曲はたった一人に向けられた、崇拝ソングばかりだ。いかにその人が素晴らしいか、たとえ自分が手に入れられなくても、その人に幸せでいてほしいかを恥ずかしげもなく歌っている。  どうやらその献身的な片思いソングは世間の評判もいいようで、中には『究極の愛』なんて評価され、SNSで評判になったのを皮切りに大ヒットした曲もあるくらいだ。  ちなみに、私が所属している事務所は藤谷に曲提供してもらうことが多いので、そのうちの何曲かは私自身が歌っていたりもする。好きな相手が好きな相手に向けて作った曲を歌っているのだ。なんともクソッタレなことに。  だが、そんな崇拝を歌っているあいだはまだましだった。  ほんの最近だ。藤谷の作る曲が、再びガラリと変わってしまったのは。  最初に聞いた時は耳を疑った。よく言えば崇高な、悪く言えばジメジメした感情を乗せた曲を作ることの多かった藤谷が、突然、恋愛脳全開な曲を作ってきたのだから。  ゴリゴリのアイドルソング調のものから、甘すぎるバラードまで。最近の藤谷が作る曲は、ありとあらゆるジャンルのラブソングばかりだ。しかも、その意外性がいいとかで世間にも受け入れられているし、事務所の社長も「一皮剥けたな」なんて満足気なのが、いっそう気に入らない。  そう、納得できない。なぜ、急にそんな曲を作るようになったのか。もしかして、そうだとしたら、そんなの絶対、許せるわけがない……!  曲の提供だけでなく、ビジュアルもいい藤谷をアーティストとしてスカウトしたいと、以前から事務所の社長がこぼしているのを知っていた。その気持ちを利用して社長を唆し、藤谷を泥酔させて——ちなみに、そのスカウト自体は全く意味をなさなかった——一人で立てなくなった藤谷の家まで付き添うところまでは、よかった。  結果がこれだ。既成事実とまではいかなくても、こうして恩を売っておけば、後々こちらを意識させる材料になるんじゃないかという下心を見透かされたのだろうか。まさかこんな形で、ただ追い出されて終わるなんて、納得できるわけがない。  ——しかも、あんな誰かも分からない、妙な男は家に上げておいて! 「晴人! 晴人ってば!」  冷たいもの言わぬドアに拳を打ちつける。扉は沈黙したままだ。  寒くて惨めで、涙が溢れそうになった。何してるんだ、私。 「——うるさいな。今、何時だか分かってる?」  突然、背後から声をかけられた。扉を叩いていた手を止め、ハッとして振り向く。  エレベーター前の通路に男が立っていた。長髪を後ろで束ね、スーツの上にコートを着た、背の高い男だった。  歳は私より少し上くらいだろうか。会社帰りのサラリーマンという風貌だ。気だるげな目が鬱陶しそうにこちらを睨んでいる。  男の片手にはコンビニのレジ袋が下がっていた。このマンションの住人だろうか。もうすぐ日付も変わろうという時間だ、確かに、私の行動は近所迷惑以外の何物でもないだろう。  男の威圧感にゾクリと背筋が凍る。こんな体の大きな男の気分を害して、手でも上げられれば自分などひとたまりもない。  まだ学生だった頃、藤谷に会いたいばかりにバイト先である深夜のコンビニへ押しかけ、帰り道で酔っ払いに絡まれたことがあった。あの時は自分に怪我こそなかったものの、通行人が殴られる傷害事件にまで発展し、散々な恐怖を味わった。  逃げたい……けれど、唯一の逃げ道であるエレベーターへの通路は男が塞いでいる。背中で沈黙している藤谷の自宅の扉も、私のために開かれることは期待できない。  緊張で背筋を嫌な汗が伝う。どうすれば逃げられるだろうか。必死に考えを巡らせていると、それまで私を睨んでいた男が不意に面白いものを見つけたと言わんばかりの顔で笑った。 「きみ、藤谷くんの知り合い?」 「……!」  藤谷を知っているのか。ご近所付き合いでもしているのだろうか。——あの藤谷が? まさか、そんなことするわけがない。  怪しい男だ。騙されてはいけない。警戒を解かず、何も言わない私を、男はますます面白そうに見て目を細める。 「へぇ。そっかそっか。藤谷くんも悪い男だなぁ。こんな可愛い子をキープしておくなんて……ねぇ、きみ、藤谷くんのことが好きなんでしょう」  見ず知らずの男に、いとも簡単に自分の気持ちを言い当てられ、恥ずかしさと怒りでカッとなる。思わず、危険も顧みずに男の横をツカツカと通り抜けて、一刻も早くこの場から立ち去ろうとした。  だが男は私の腕を強引に掴んで引き止めると、その面白くて堪らないと言うような目を私に近づけて、言った。 「いいことを教えてあげるよ。君にとって、とってもいいこと。聞いた方がいいと思うなぁ。藤谷くんの家に居座ってる、あのおじさんについてなんだけど」  先ほど、藤谷の家の中にいた、正体不明の男について思い出し、目の前にいる男に対する不快感を忘れ、足を止めてしまう。  リョウマさん、と呼んでいた……藤谷が、まるで自分の帰りを待っていた恋人に向けるような、私が一度も見たことのない笑顔で、声で、話しかけて抱き締めていた、あの謎の男の正体が分かるのだろうか。  私の興味を惹けたと分かって、満足そうに男が笑う。 「どこかでゆっくり話そうか。勿論、人目のあるところでいいよ。近くのファミレスがいいかな」  その誘いを断ることができない。  七年は、長い。その思いはもはや恋なんて生易しいものではなく、執着と名付けた方が相応しいのだから。

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