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第9話

  深夜のファミレスの客はまばらだ。私たちの他にテーブルを埋めているのは三組くらい。  店員もやる気なく、席を案内した後は顔も見せなかった。目の前に座る男が注文用のタブレットを操作しながら話しかけてくる。 「ドリンクバーでいい? 君も何か取っておいでよ。長くなるかもしれないし」  注文を終えた男が席を立ち、ドリンクバーコーナーへ向かう。男はホットコーヒーを淹れていた。私もドリンクを選ぶ。  外は寒いが、ずっと気を張っているせいか喉がカラカラだ。アイスジャスミンティーを淹れて、席へ戻る。  男と向かい合って座る。すぐに本題に入ればいいものを、男は勿体ぶるようにホットコーヒーへ息を吹きかけ、冷ましてから、ゆったりした動作でそれに口をつけた。  改めて男を観察する。茶色に近い、明るい髪色。長い髪を後ろへ撫で付けるようにして一つに束ねており、やや軽薄な印象はあるが、きちんとしたスーツを着ていて清潔感もある。見るからにヤバい人という風貌ではない。気だるげな目元に妙な色気があり、顔立ちも整っているほうだろう。性別問わず、様々な人に好かれるタイプだと思う。  まあ、それでも藤谷の魅力には敵わない。考えて、長く思いを寄せる藤谷の顔を脳裏に思い浮かべた。  ——じゃあ、お疲れ様でした。  バタンと扉を閉められる前の、藤谷の冷ややかな表情を思い出す。藤谷が冷たいのはいつも通り。むしろ、その素っ気ないところが魅力ですらある。だからこんな扱いにいちいち傷ついたりはしない。  私の心が今、ざわめいて落ち着かないのは、藤谷があんな表情を誰かに向ける姿を、初めて見たからだ。  そう、初めて見た。あんな、好きで好きで堪らない、みたいな、藤谷の緩みきった顔……! 「で、えーと……そう、藤谷くんの家に居座ってる、あのおじさんの話だよね」  私が考えていることを見透かすみたいに、唐突に男が口を開いた。  思考を中断して男の顔を見る。男は相変わらず、人を面白がるような笑みを浮かべている。こちらに対する明確な敵意を感じるわけじゃない。だけど、どこか悪意を感じる笑顔だと思った。  ずっと、人のことを小馬鹿にしているみたいな、そんな笑顔。 「その前に自己紹介しようか。俺は、五十嵐迅って言います。あのマンションに住んでて、藤谷くんのご近所さんってことになるかな。よろしくね」  ニコニコ笑って話す男の自己紹介を聞く。相手が名乗った以上、自分も名乗るのが礼儀だろうが、生憎まだ私はこの男を信用していない。自分の個人情報を明かす気には到底なれなかった。  私が黙っているのを、男は気にしたそぶりもなく続ける。 「で、今藤谷くんのマンションに居座ってるのが、最上さんっていう、俺の会社の先輩。まあ、今は病んじゃって、会社に来れてないんだけど」  モガミ、リョウマ。藤谷が呼んでいた名前と繋ぎ合わせて、男の名前を心の中で繰り返す。  病んで、会社に来ていない? なんでそんな男が藤谷の家にいるのだろう。今の藤谷は学生の頃ほど内向的ではないが、人と深く関わることを嫌う性格は変わらない。たとえ友人であっても、私生活にまで踏み込ませるような真似をするとは思えなかった。  私の頭に浮かんだ疑問に、男は的確に答えていく。 「元々、最上さんは藤谷くんの隣の家に住んでたんだけど、心が弱ってるところに、藤谷くんに優しくしてもらってさ……なんか、勘違いしちゃったみたいなんだよね。藤谷くんも困ってるんじゃないかなぁ。俺も同僚として、最上さんに忠告したんだけど、聞いてもらえなくてさ」  男が呆れた口調で話すのを聞き、静かな怒りが湧いてくる。  つまり、こういうこと。心の病気で弱ってるおじさんを、藤谷が気にしてあげたら、勘違いしたおじさんが、藤谷の私生活にまで纏わりついている、と。  私に冷静な思考が残っていれば、きっと、藤谷が無条件で何でもない人に優しくするなんてあり得ないことに気づいただろう。迷惑している相手なら、あんな顔を、声を向けるわけがないってことにも。  だけど人は、都合のいいものを信じる生き物だ。ましてや七年も募らせた執着は、いとも簡単に人を盲目にする。  許せない。許せるわけがない。だってそんな、可哀想な自分を武器にして、藤谷が手に入るのなら、私のこの七年の思いが、あまりにも報われない……!  静かに嫉妬の炎を燃やす私を見て、男の笑みが深くなる。 「助けてあげなきゃね。藤谷くんを」  そうだ、助けなきゃ。藤谷はあのおじさんに騙されている。  ——私が、助けてあげなきゃ。    ◆  なるべくコンパクトなものを選んだつもりだったクリスマスツリーは、実際に届いて組み立ててみると、思った以上に大きく、俺の背と同じくらいの高さだった。ということは、最初に藤谷が買おうとしていたサイズは、これよりもっと大きかったということだ。 「このサイズにしておいてよかったね、最初に買おうとしていたツリーは、部屋に入らなかったかも」 「天井よりは低かったので、入らないことはないと思いますけど……でも、確かにこのサイズもいいですね。遼馬さんと同じ高さっていうところが気に入りました」  ツリーと俺を見比べて、何が嬉しいのか藤谷はニコニコしている。理屈はよく分からなかったが、藤谷がこのサイズで納得してくれたなら良しとしよう。  ツリーに付属していたオーナメントを飾り付けている最中、不意に藤谷の姿が見えなくなった。しばらくして戻って来ると、その手に真新しい紙袋を抱えている。 「遼馬さん、これも飾りましょう」  藤谷から紙袋を受け取り、中を見る。 「これ……」  紙袋の中には、小さなプレゼントの形をしたオーナメントが入っていた。キラキラ光る包装紙に、可愛いリボンがついたオーナメントだ。  子どもの頃、家にクリスマスツリーのなかった俺が、一番憧れていたもの。あの話を覚えていて、藤谷が探してきてくれたのだと思うと、感動で胸がジンと震える。 「ありがとう、晴人くん。すごい、子どもの頃に見たのとおんなじだ」 「ほんとですか? 良かった!」  小さなプレゼントのオーナメントを手に取ると、幼い頃、母親が用意してくれた唯一のクリスマスプレゼントを思い出した。 俺にとってはクリスマスの象徴みたいなもの。キラキラ輝くこの包装紙の中には、きっと、世界中の誰もが待ち遠しく思うようなクリスマスが、すべて詰まっている。  用意した飾りをツリーに飾り付けて、最後にツリーの頂上に飾る大きな星だけが残った。 「これは一緒に飾りませんか」 「一緒に?」 「はい! 二人の共同作業で完成させましょう!」  藤谷が星を持つ手に自分の手を添え、二人で一緒にツリーの頂上にそれを飾る。共同作業、なんて言うものだから、少し照れ臭く感じた。お互いの顔を見て気恥ずかしく笑い合う。  飾り付けが終わったので、電飾のスイッチを入れる。クリスマスツリーに煌びやかな灯りがともると、一気にクリスマスらしさが増したようだ。 「きれいだな」  しばらく、その美しさに見惚れてしまう。電飾の灯りで先ほど飾ったプレゼントの包装紙が、いっそうキラキラと輝いていた。クリスマスの訪れを感じさせる光景だ。 「電気も消してみますか?」 「いいね、やってみよう」  リビングの明かりを消すと、クリスマスツリーの明かりだけが残る。赤や緑、黄色、青色と、様々な色に変わって輝くイルミネーションが幻想的だ。いつまでも眺めていたい気持ちになる。 「遼馬さん」  ぼんやりとツリーを見ていたら、背後から藤谷に包み込むようにぎゅっと抱き締められた。 「クリスマス、もうすぐですね。楽しみにしててくださいね。俺、ちゃんと母からスポンジケーキの焼き方も教えてもらったんで」 「えっ、スポンジから作るの?」 「勿論!」  クリスマスケーキの飾り付けをしよう、とは話していたが、なんとなくスポンジは市販のものを買うと思っていた。自分で作るつもりだったとは驚きだ。 「難しそうだなぁ……晴人くんは、作ったことがあるの?」 「いえ、初めてです。でも大丈夫、俺、今なら何でもできる気がするんですよ。何しろ遼馬さんがいてくれるので。多分、今なら空も飛べます」 「うん、絶対やめてね。無理だからね」  藤谷なら本気で試しかねないと思って、つい真剣に止めてしまう。流石に冗談だったらしく笑っていたが、油断はできない。  何故なら口には出さないが、俺だってそう思っている。今なら、何でもできる気がする——藤谷が、そばにいてくれるなら。  二人で相談しながら準備を進め、いよいよクリスマスの三日前になった。パーティーはイブに行うので、正確には明後日の夜のための準備だ。  この日、藤谷は再び仕事のミーティングで夕方まで外出することになっていた。先日の食事会で飲みすぎた反省から、今日はミーティングだけで帰ってくるので、夕食は一緒に食べましょう、と言い残し、昼過ぎに藤谷は家を出て行った。  仕事の話なので詳しくは聞いていないが、今日のミーティング相手もやはり、この前と同じなのだろうか。だとしたら、あの美優という女性にも会うのかもしれない。  考えると胸がザワザワした。これが嫉妬というものなのだろう。まともな恋愛経験のない俺にとっては、初めての感情だ。自分の中で未知の怪物が暴れているみたいだ。あまりにも苦しく、恐ろしい。  なるべく考えないようにしようと思って、パソコンを開いた。タスク管理アプリはほぼ完成している。後は細かいエラーを潰して、入れっぱなしになっているデバッグ用のログを整理するだけ。クリスマスには間に合うだろうか。  キーボードを叩く音がやけに大きく感じる。考えないように、考えないようにと、思考のリソースを無理矢理コーディングに割り当てる。  どのくらい時間が経っただろう。作業の手を止めて、一息ついたその時だった。  部屋のインターホンが鳴った。静まり返った部屋に響くその音に、驚いて心臓が跳ねた。  このマンションはエントランスと玄関でインターホンの音が違う。今鳴ったのは、玄関の横についているインターホンの音だった。  つまり、エントランスを通ることのできる誰かが、今この部屋のインターホンを鳴らしている。  最初に思い浮かんだのは藤谷だった。藤谷が帰ってきたのだろうか。  だが時計を見ると時刻は十五時過ぎ。帰ると言っていた時間よりかなり早いし、そもそも、家主がわざわざインターホンを鳴らすとは考えにくい。  ——だとすれば、まさか……。  次に思い浮かんだのは五十嵐だった。その顔が浮かんだ瞬間、ヒュ、と喉の奥が鳴った。心臓がばくばくと嫌な音を立てる。  このところ何の音沙汰もなかったのですっかり忘れていたが、このマンションに住んでいる五十嵐であれば、エントランスを通って玄関のインターホンを直接鳴らすことができる。  もし本当に五十嵐が鳴らしているのであれば、用があるのは、きっと、この俺だ。  ——落ち着け、落ち着け落ち着け落ち着け。大丈夫、大丈夫だ。  煩い鼓動を聞きながら、自分に言い聞かせる。この前は上手くできなかったけれど、今日は大丈夫だ。あの後、もしまた五十嵐と顔を合わせた時に何をするべきか、何度もシミュレートした。挨拶をする。仕事で迷惑をかけていることを謝る。社会人として、常識的なことをすればいい。大丈夫、大丈夫大丈夫……。  自分に言い聞かせながら、フラフラと玄関へ向かう。俺はこの行動を、後から後悔することになる。  室内で先にインターホンに出て、相手が誰かを確認していれば、きっと、心の準備ができたはずだった。例え結果は同じだとしても、多少は、冷静な対応ができたかもしれない。  今更後悔しても、もう遅い。ガチャリ、と音を立てて開いた玄関扉の向こうに、想像していた五十嵐の姿はなかった。  そこに立っていたのは、いつか藤谷に寄り添いこの家を訪れた女性——美優だった。 「え……っ」  予想もしなかった訪問者に、頭の中が真っ白になる。この前のように藤谷が一緒ということもない、廊下に立っているのは彼女一人きりだ。  何故彼女がここにいるのか分からなかった。美優は鋭い視線でこちらを睨みつけている。明らかな敵意を含んだその視線を真っ向から受け止め、身動きが取れない。 「最上、遼馬さんですか」  刺々しい口調で美優が尋ねてくる。 「えっ……あの、はい……」  混乱して思考がまとまらない。美優が自分の名前を知っていることに疑問を覚えたが、それを尋ねることもできなかった。ほとんど無意識に返事をする。 「最上さん、なんで晴人の家にいるんですか。自分の家は隣なんですよね? なんで?」 「なん、で、って……ええと……」 「恥ずかしいと思わないんですか? いい歳した大人が、仕事もしないで、人の家に入り浸ったりして!」  悲鳴のような叫びで、声を張り上げ、美優が俺を責め立てる。  言葉で殴られたような衝撃だった。いつか五十嵐に言われたような、何も言い返せなくなるような正論だ。  いい歳して、真面目に働きもせずに、年下の彼に甘えて、彼の生活まで侵食して。恥ずかしくないのか……と問われれば、恥ずかしい、以外の答えは許されない。自分のような人間が藤谷の隣にいるのは、恥ずかしいことだと、自分でもよく分かっていた。  美優の言うことは全部正しい。だけど、間違っていてもいいから、今だけはと、俺はここにいることを選んだ。  ……そんな自分勝手な言い訳を、口に出せるはずがない。  美優は大きな目に涙をいっぱいに溜めて続ける。 「晴人だって迷惑してますよ。さっさと消えてくれませんか。ねえ、消えて! いなくなってよ! なんであんたなんかが……っ」  悲痛な美優の叫びが頭の中でこだまする。視界が揺れて立てなくなる。ふらつく俺を見て、更に美優が叫ぶ。 「そういうのもやめてよ! そんな、弱いふりして晴人の気を引こうとしないで! 卑怯者! 晴人が優しいからって、勘違いして、あんたなんか、あんたなんか晴人の隣に相応しくない……っ!」  それだけ言うと、美優は俺の胸ぐらを掴んで力いっぱい自分の方へ引き寄せた。  ふらついていた俺の体はいとも簡単に美優のほうへ倒れ込む。ぶつかる寸前、かろうじて壁に手をついて自分の体を支えることができた。  美優は至近距離で俺を睨みつけると、すぐにドンと俺の胸板を押して突き飛ばし、踵を返して去っていった。美優の背中がエレベーターの中に消えていく前に、目の前でバタンと、玄関の扉が閉まった。  ——なんであんたなんかが……。  ——卑怯者……。  ——晴人の隣に相応しくない……! 「——…まさん、遼馬さん!」  ハッとして、意識を取り戻す。  ここは、キッチンだ。いつの間に帰って来たのか、目の前に藤谷が立っている。  藤谷が帰って来る前に夕食を作るつもりだった。ぼんやりした頭で、無意識に料理を始めていたようだが、味噌汁を作ろうと思っていた鍋の中は出汁も何も入っていないお湯のまま、ぐつぐつと沸騰している。まな板の上には具材に使おうと思っていたニンジンが乱切りになっていた。なぜこんな切り方をしたのか、全く記憶にない。 「遼馬さん、大丈夫ですか……? 顔色が悪いです。夕食は俺が作るんで、少し休んでください」  藤谷の大きな手が、俺の両頬を包んだ。顔を近づけて、心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。  外から帰ってきたばかりだからだろうか。藤谷の手は少し冷たい。至近距離で俺を見つめる藤谷の瞳に、俺を心配する優しさだけを感じて、胸が締め付けられる。 「遼馬さん……?」 「ああ……うん、大丈夫……大丈夫だよ」  藤谷の手に自分の手を重ねて、そっと引き剥がす。これ以上藤谷の目を見ていられなかった。逃げるように顔を背ける。 「ごめん、すぐ作るから……待ってて」  そう言って料理を再開する。味噌汁の具材にして大きすぎるニンジンを小さく切り直して、玉ねぎと刻み揚げを加えて味噌汁にする。  次は……何を作るつもりだったろうか。上手く頭が回らない。  美優が訪れ、俺に向けて放った言葉が、ずっと頭の中を占領している。彼女の言う通りだと思った。なんで俺なんかがこの場所にいるのか。こんな俺は藤谷の隣に相応しくない。どれだけ相応しくなりたいと願って、足掻いたって、きっと世間の意見は美優の言った通りで、変わることなんかない。  味噌汁をかき混ぜる手がぶるぶると震え出した。俺は駄目な人間だ、夕食一つまともに作れない。こんな俺が、藤谷の隣にいていいわけない……! 「遼馬さん!」  ぐらり、と傾いた体を藤谷が受け止める。 「やっぱり大丈夫じゃないですよ! どうしよう、病院……⁉︎ 救急車⁉︎」  足に力が入らず、立っていられない俺を支えて藤谷が狼狽えている。これ以上迷惑をかけたくなくて、休めば大丈夫だと言うことを伝え、藤谷に支えられながら寝室へ向かった。 「遼馬さん、本当に大丈夫ですか……?」  不安そうな声で言いながら、藤谷が俺に毛布をかけてくれる。 「大丈夫、ごめん……ちょっと休めば大丈夫だから」  離れ難そうにしながらも、一人の方が休めるだろうと、藤谷はこちらを気にしながら寝室を出ていった。眩しくないようにと気遣って、照明を落としてくれる。  薄暗い寝室で、毛布に包まるように体を丸めた。温かいはずの毛布の中にいるのにひどく寒かった。体の震えを止めることができない。    ——弱いふりして、晴人の気を引こうとしないで……。  美優が俺を責める声が聞こえる。こうやってまた、藤谷に心配をかけて……彼に優しく、甘やかされて、どこかでそれを嬉しく思う自分がいる。 「………っ」  自分で、自分を軽蔑する。  そうだ、全部美優の言う通りだ。俺は卑怯だ。こんな、人として最低限のこともできないような状態で、ずっと、藤谷の隣に居座っていていいわけがない。分かっているのに。  それでも、隣にいたいと叫ぶ自分がいる。もう一人には耐えられないと泣き叫ぶ自分が、確かに存在する。  自分の気持ちが、自分でも制御できない。その恐ろしさに震えながら、もっと深い暗闇に落ちるように、きつく目を閉じた。    ◆  興奮で息が上がっているし、涙も止まらない。  言った、言ってやった。言いたいことは全部言えた。これであのおじさんが身を引けばいい。まだ居座るようなら、力づくでも私が追い出してやる……!  エレベーターに乗り込むと、そこには五十嵐がいた。片手に持ったスマホをこちらに見せて、ニコニコと満足げに笑っている。 「ありがとう、すごくいい写真が撮れたよ」  五十嵐が持つスマホには、写真が表示されていた。  先ほど、藤谷の家の前で最上と言い争っていた時の写真だ。争うと言っても、一方的にこちらが言いたいことを言ってやっただけだが。  その写真は、私が無理矢理最上の胸ぐらをつかんで引き寄せた瞬間のもの。五十嵐が画面を指でスワイプすると、次に、私が泣きながら最上を突き飛ばす写真が現れた。  私が最上の胸ぐらを掴んだ部分は、上手く体で隠れて写っていない。つまり、この写真は説明次第でどうとでも取れるものだった。  ……例えば、おじさんが年下の女性に無理矢理言い寄って、嫌がる女性がそれを拒んでいるところ、とか。 「この写真、送っておくね。好きに使うといいよ。上手く使えば、きみは藤谷くんを手に入れられるんじゃないかな。上手く使えば、ね」  鞄の中に入れていたスマホから、メッセージアプリの通知音が鳴った。  まるで悪魔の囁きだ。肩にかけた鞄の中身が、急に重く感じられる。  悪魔のように笑う男は、それ以上何も言わなかった。この写真を、切り札をどう使うのかを、全て私に委ねたのだ。

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