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第10話

 クリスマスイブの朝。軽い朝食を食べた俺と藤谷は、早速夜のクリスマスパーティーの準備を始めていた。  藤谷は買い出しへ行き、俺は家でできる準備をする。飾り付けとか、他にも色々な準備だ。  一昨日の夜、調子が悪そうだった俺を藤谷は昨日からずっと心配してくれている。今日もパーティーは延期してもいいから、調子が悪いなら無理しないでくださいと直前まで気遣ってくれた。  大丈夫だと何度も伝えて、やっと納得してくれたが、二人で行く予定だった買い出しは心配だからと留守番係になったというわけだ。  別行動になったのは幸いだった。藤谷に知られず準備をしておきたいことが山ほどある。俺はここ数日、藤谷の不在に合わせて宅配で送られてきた荷物が入った段ボール箱を引っ張り出し、中の商品をラッピング用の袋で包んだ。  やはりプレゼントは見た目も重要だ。大きなクリスマスカラーのラッピングは、見ているだけで気持ちを盛り上げてくれる。  藤谷が帰ってくる前に昼食の準備をした。玉ねぎと鶏肉を丼つゆで煮詰めて、卵を落とす。  炊飯器からご飯の炊けた音が鳴る。しばらくして、藤谷が帰ってきた。 「おかえり。買い出しありがとう、晴人くん」 「ただいま、遼馬さん。いい匂い。もしかして親子丼ですか?」 「うん。ちょうどご飯が炊けたから、すぐ食べられるよ」 「やった! ありがとうございます!」  買い出ししてきた食材を冷蔵庫に詰めて、まずは昼食にする。  丼鉢に注いだ炊き立てのご飯の上に、卵が半熟になるよう仕上げた親子丼の具を乗せる。上から刻みのりをふりかけて、完成した二人分の親子丼をダイニングテーブルに置いた。 「いただきます!」  待ちきれないというように、手を合わせて元気に藤谷が言う。丼鉢を丁寧に片手で持ち上げて、一口分を口へ運ぶと、顔を綻ばせた。 「美味しい……! めちゃくちゃ美味しいです、遼馬さん!」 「ありがとう。……そういえば、夜もチキンだったね。卵丼にすればよかったかな」 「俺は鶏肉好きなので、入ってた方が嬉しいです。おかわりはありますか?」 「あるけど、そんなに食べたら夜食べられなくなるよ。ケーキも焼くんだろう?」  笑いながら尋ねると、藤谷はうぅんと唸り、真剣に悩む表情になった。 「夜も楽しみですけど、せっかく遼馬さんが作ってくれた親子丼なので……もっと食べたい……!」 「……また、明日食べればいいよ。冷蔵庫に入れておくから」  俺の提案に、藤谷はパッと顔を明るくする。 「そうですね。そうします!」  藤谷の笑顔に微笑んで返す。こんなに喜んでもらえるなら、もっとたくさん作っておくんだった。  昼食の後は藤谷が母親直伝のスポンジケーキを焼いた。手伝える工程は俺も手伝ったが、とにかく手間がかかった。材料の下拵え、加えるタイミング、混ぜる時間、何もかもが細かく精密な技術が必要だ。  しかし藤谷は初めて作ったとは思えないほど手際よく、その工程をこなしていった。 「すごいね、晴人くん。本当に何でもできるなぁ」 「何でもはできないですよ。これは、母が作るのを見ていたので、何となく……」  照れ臭そうに言いながら、ボウルの中の生地を混ぜている。 「晴人くんのできないことって?」 「えぇ……言いたくない……遼馬さんをガッカリさせたくない、カッコいいところだけ見ててほしい」 「いやいや、完璧な晴人くんにできないところがあったら、あれだよ、ギャップ萌えっていうやつだよ」 「絶対嘘だ。騙されません!」  本気で言っているのに信じてもらえない。教えてくれないようなので、藤谷のできないことを想像してみる。  ……何も思い浮かばない。本当にそんなものがあるのだろうか。  熱したオーブンに生地を入れて数十分。二人で洗い物をしていると、溶けたバターと砂糖の甘く香ばしい匂いが部屋中に広がった。  オーブンから取り出されたケーキスポンジは、ふんわりと膨らんで焼き色も綺麗だ。藤谷が丁寧に型から外して、熱を冷ます。  粗熱が取れた後はラップをして、更に冷蔵庫で冷やし、その間に食事の準備をする。  話し合って決めたメニューはローストチキン、パエリア、マカロニサラダだ。ローストチキンは昨夜からタレに漬け込んでおり、後は焼くだけなので、まずはサラダから完成させる。  二人でキッチンに立つ。役割分担をしているとはいえ、男二人で動き回るにはキッチンは少し狭い。一人が食材を切る間に、一人が鍋でマカロニを茹でていると、コンロの後ろにある冷蔵庫が塞がってしまう。 「晴人くん、冷蔵庫からきゅうり出せるかな」 「任せてください!」  張り切って冷蔵庫から取り出したきゅうりをこちらへ手渡しながら、藤谷はニコニコと嬉しそうにしている。 「なんか、その……新婚さんみたいですね」  藤谷が急に照れた顔でそんなことを言うので、こちらまで照れ臭くなる。二人一緒にキッチンに並んで、これから一緒に食べる料理を作る。確かに、新婚のようだと思って、胸が締め付けられた。  パエリアとローストチキン、温かい料理の出来上がりを待つ間に、クリスマスケーキをデコレーションした。  よく冷やしたスポンジを冷蔵庫から取り出し、二等分して、生クリームを乗せていく。俺が塗った生クリームはでこぼこだが、藤谷の塗った生クリームは綺麗に均一だ。やはり器用だと感心する。 「ごめん、上手くできない……晴人くんにやってもらった方がよかったかな」 「そんなことないですよ。遼馬さんの作った部分は俺が食べます、遼馬さんは俺の作った部分を食べてください! 気持ちを込めて作るので!」  言いながら、藤谷は器用にハート型に切ったイチゴをせっせとケーキに飾り付けていた。もはやプロと疑うほどの出来栄えだ。  藤谷に食べてもらうことを考えて、俺も下手なりに自分の気持ちを込めてケーキを飾りつけていく。イチゴとブルーベリーを乗せた後、もみの木のデコレーションピックを挿して、傍にサンタとトナカイの砂糖菓子を乗せた。その昔、母親にもらったスノードームの中にあったような、そんな景色だ。  真剣に飾りつけていたら、隣でシャッター音が鳴った。見ると藤谷がこちらへ向けてスマホを構えている。 「えっ、今、撮った?」 「はい、真剣な遼馬さんがあまりにも可愛くて」 「いやいや、恥ずかしいよ……」  真剣にケーキを飾りつける四十手前のおじさんの写真、あまりにも痛すぎる。消してほしいと頼んだが、また藤谷に「ダメですか」と悲しそうな顔をされて、いつもの流れだ。 「じゃあ、晴人くんの写真も撮らせて」 「勿論! どうぞ!」  満面の笑みでピースをしてカメラ目線をくれる。せっかくなら俺も不意打ちで撮りたいところだが、今は無理そうだ。忘れた頃に撮ろうと思って、ひとまず、今の藤谷をスマホのカメラに収めた。  ダイニングテーブルにクリスマスカラーのテーブルクロスをかける。  ホットプレートで作ったパエリア、オーブンで焼いたローストチキン、それにマカロニサラダを並べる。それだけでも十分にクリスマスディナーらしくなったが、少し物足りない。 「ケーキも一緒に並べてみようか」 「そうしましょう!」  完成したケーキをダイニングテーブルに並べて、卓上の小さなキャンドルに火を灯す。暖かな灯りがクリスマスの豪華な食卓を彩ってくれる。  ふと、藤谷が何か思いついたような顔をして、仕事用のパソコンを起動した。カチカチとマウスを操作する様子を見守っていると、大きなスピーカーから音が流れ始める。  その曲は、誰でも知っている有名なクリスマスソングのアレンジだった。聞くだけでワクワクするようなメロディを、大人っぽい、ジャズ調にアレンジしている。いかにも恋人たちが幸せに過ごすクリスマスの情景が浮かぶような曲調だ。 「BGMがあると、一気にパーティーって感じがするね」 「この曲は、遼馬さんとのクリスマスが楽しみすぎてできた曲です……」 「えっ、晴人くんが作ったの⁉︎」 「あまりにも楽しみすぎたので、仕事に身が入らなくて……今日のことばかり考えてたら、いつの間にか、手が勝手に」 「そんなことあるんだ⁉︎」  大事な仕事の最中に、ソワソワしながらこの曲を打ち込む藤谷を想像すると可愛らしい。 「せっかく作ったので、供養も兼ねてBGMにさせてください……」 「オリジナルアレンジのBGM付きなんて、贅沢なパーティーだなぁ」  藤谷が用意していたノンアルコールのシャンパンを開けてシャンパングラスに注いだ。  お互い席に着くと、ムードたっぷりのBGMに、テーブルの上で揺れるキャンドルの明かり、賑やかなディナーとケーキ、絵に書いたようなクリスマスらしい雰囲気に二人で少し笑い合った。 「メリークリスマス」 「メリークリスマス!」  軽くグラスを鳴らして乾杯し、シャンパンを口に含む。果物の芳醇な香りが鼻から抜けて、アルコールは入っていないのに、雰囲気だけで酔ってしまいそうだ。  二人で作った料理はどれも美味しかった。ほとんど俺が下拵えや洗い物担当、藤谷が味付けや仕上げ担当だったが、パエリアのような凝った料理の味付けは、自分では上手くできる自信がない。きっとこの味は藤谷にしか作れないだろうと思って、ゆっくりと、舌に刻みつけるように味わって食べる。 「こんなクリスマスらしいパーティーするの、初めてだ」 「そうなんですか。じゃあ、俺が遼馬さんのクリスマスパーティーの思い出、第一号ってことですね」  嬉しそうに藤谷が言う。 「うん。多分、この先一生忘れないよ」  半分ずつ分けてデコレーションした、俺の作った部分だけ不恰好なクリスマスケーキ。このままお店に出しても遜色ないような、プロ顔負けの藤谷が味付けした料理。藤谷が作った曲をBGMに、向かい合って座る藤谷の目に映る、キャンドルの暖かな灯りまで全部。  この先何年経っても、クリスマスが来るたびに、きっと思い出す。 「……そうだ、プレゼント!」  席を立ち、昼間ラッピングしてクローゼットに隠しておいたプレゼントを取り出す。 「メリークリスマス、晴人くん」 「ありがとうございます! でも、いつの間に用意したんですか……⁉」 「秘密」 「まさか遼馬さん、俺がいない間に一人で外出を……?」 「してないしてない。ほら、開けてみてよ」  プレゼントを受け取った藤谷は、しばらく感激したようにしみじみとそれを見つめた後、丁寧に、大切に袋を留めているリボンを解いた。 「これは……!」  中から出てきたのは腹筋ローラーだ。室内で使える、運動不足を解消できそうなものを探して見つけた品物だった。 「その、晴人くん、運動不足が気になるって言ってたし……ちょうどいいかなと思って」 「覚えててくれたんですね……! 嬉しい」  感動した様子の藤谷に、もう一つ、背中に隠していたプレゼントを取り出す。 「それから、これ」 「え! 二個ですか⁉︎」 「うん、さすがにそれだけじゃ色気ないかなと思って……」  今度のプレゼントは紙袋の中に入っている。受け取った藤谷はいそいそと紙袋を開けて中にあるものを取り出した。 「マフラー! すごい、めちゃくちゃ好きです、この色!」 「良かった。晴人くん、よくこの色の服着てるから、似合うかなと思って」  二つめのプレゼントは大きめのマフラーだ。落ち着いた紫色で、藤谷が好んで身につけている色に近いものを選んだ。少し奮発して購入したものなので、生地もしっかりしている。  藤谷は喜びながら早速首に巻いて見せてくれた。想像通り、よく似合っていた。 「それと……」 「えっ、まだあるんですか⁉︎」 「いや、晴人くんのこと考えながら選んでたら、一つに決められなくてさ……」  もう一つ、取り出したプレゼントを藤谷に差し出す。今度は両手のひらに乗るくらいの、小さめのサイズのプレゼントだ。ラッピングバッグに入っている。 「何だろう」  ワクワクした様子で藤谷が包装のリボンを解く。中から出てきたのは、小さな子犬のぬいぐるみだ。 「犬……⁉︎」 「晴人くんに似てるかなと思って……あの、やっぱり、ぬいぐるみはさすがになかったかな」  藤谷といえば子犬のような可愛さ、ということで、犬、可愛い、で検索した結果出てきたぬいぐるみだ。犬種は多分秋田犬だと思う。  シュンとしたような顔つきと、首に巻いていた紫色のスカーフが藤谷に似ていると感じて、思わず買ってしまったが、成人男性に犬のぬいぐるみをプレゼントしていいのかという葛藤もあった。不安に思って尋ねる俺に、藤谷は慌てて言う。 「いや、嬉しいですよ! 可愛いし……でも、これが俺……⁉︎ 遼馬さんから見た俺ってこんな感じなんですか……? 可愛すぎません⁉」 「晴人くんは可愛いよ」 「カッコいいと思われたかった……」  ぬいぐるみを手に持ったままシュンとする様子が可愛らしく、完全にぬいぐるみの表情と一致していた。思わず、スマホを取り出してシャッターを切る。 「え! 遼馬さん、今」 「うん。さっきのお返し」 「情けない顔してませんでした……⁉︎ 恥ずかしい、消してください!」 「じゃあ、さっきの俺の写真も消してもらわないと」  交換条件にすると、藤谷は散々悩んだ後、お互いに写真は消さないという結論を出した。おかげで俺のスマホにはしょんぼりした表情の犬のぬいぐるみと、同じようにしょんぼりした藤谷の並ぶ写真が残った。 「それから……」 「まだあるんですか⁉︎」 「うん、これで最後」  ノートパソコンを取り出し、画面を開いて表示する。 「晴人くんの、仕事で使ってもらえそうなアプリ、完成したんだ。まずは見てもらってもいいかな」 「はい、勿論! 完成したんですね、嬉しい」  アプリケーションを起動すると、カレンダーとタスク管理画面が並んで表示される。カレンダーは月表示、週表示、日表示と切り替え可能で、そこから予定の登録や編集ができる。  登録した予定は終了日時に応じて自動で優先度が設定される。期限が近いものほど優先度が高くなり、その順にタスク管理画面へ一覧表示される仕組みだ。もちろん予定を編集すれば、タスクの内容もすぐに反映される。優先度は手動で変更することもできる。 「見易いし使いやすそう。これを遼馬さんが作ったんですか…⁉︎」  藤谷の目が、信じられないというように見開かれる。 「うん。それと、予定ごとにファイルを紐付けて開けるようにしたんだ。こんな風に」  予定の下に登録されたファイルのボタンが並んでいる。一つずつ起動もできるし、一括起動も可能だ。 「どうかな。なるべく、このアプリさえ起動していれば、仕事が進められるように作ってみたんだけど……」  ユーザーの反応を確かめる瞬間、おそらく、全エンジニアが最も緊張する瞬間だろう。恐る恐る、画面を覗き込んでいる藤谷の様子を窺う。  藤谷は画面を見たまま固まっていた。何を考えているのか、その様子からは読み取れない。  緊張して待っていると、藤谷は突然「遼馬さん!」とほとんど叫ぶみたいに俺の名前を呼んで、勢いよく抱きついてきた。 「嬉しいです……! すごい、このアプリ、めちゃくちゃ遼馬さんって感じがします。使う人のことを考えて、遼馬さんの優しさが詰まったみたいな……!」 「は、晴人くん、大袈裟……」  今にも泣いてしまいそうな勢いで感激してくれて、嬉しいのに、どこか居た堪れない。  事実、俺の作ったアプリは、さほど革新的な機能を備えたアプリというわけではない。探せば似たようなアプリはきっとあるだろう。ただ、藤谷のことを考えてカスタマイズしたという点では、他の何にも負けない自信があった。俺が藤谷のためだけに、ずっと藤谷のことを考えて作ったアプリだ。 「大袈裟じゃないです。遼馬さんが、俺のことを考えながらこれを作ってくれたなんて、嬉しくて……ありがとうございます、大切に使います」 「……こちらこそ、ありがとう」  本当に、心から喜んでくれる様子に、俺の胸もじんと震えた。  ——ああ、いいな。もし、またコーディングができるなら、こんな仕事がしたい。  誰かを助けて、喜んでもらえるような。そんな仕事が。  早速藤谷のパソコンにインストールして、実際に使ってもらう。昨日、念入りに細かなエラー修正を行っただけあって、目立った不具合なく、スムーズに起動した。 「すごいですよ、これ! 仕事効率爆上がりだと思います! 絶対他にも使いたい人いますよ、このまま売れるんじゃないですか……⁉︎」 「いや、大袈裟だよ、本当に」  照れ隠しでそう言って見せるが、内心、自分でも達成感に満ちあふれていた。  よかった。本当によかった。  何とか今日までに完成することができて、本当に。 「じゃあ、次は俺の番ですね」  藤谷もどこかに隠していたらしい、プレゼントを持ってやって来る。 「遼馬さん、メリークリスマス!」 「何だか照れくさいな……ありがとう、晴人くん」  受け取ったのはやや大きめの箱だ。ニコニコ顔の藤谷に見守られながら、赤と緑の包装紙を丁寧に剥がしていく。  中から出てきたのは温熱マッサージ機だった。首にかけるタイプのもので、椅子にもたれて使えるようだ。 「遼馬さん、パソコン使ってる時首が辛そうだったので……口コミとか見て、良さそうなのを選んだつもりなんですけど」  普段パソコンを使っているときは、藤谷の言う通りしょっちゅう首を回したり、手で肩回りを揉んだりしている。見られていたのかと思うと恥ずかしいが、藤谷が俺のことを考えて選んでくれたことがよく分かるプレゼントだと思った。 「嬉しいよ、ありがとう。早速使ってみようかな」  箱を開け、中からマッサージ機を取り出す。先に充電が必要だったため、充電コードにつないで、しばらく置いておくことにした。 「それと、これも」 「えっ、晴人くんも二個用意したの?」 「はい、遼馬さんと一緒で、一つに決めきれなくて」  続いて藤谷は小さなプレゼントボックスを取り出した。深い緑の包装紙に、赤いリボンがかけられている。大きさは、両手のひらにちょうど収まるくらいだ。  まさか藤谷も複数のプレゼントを用意しているとは思わなかった。同じことを考えていたのだと思うと、嬉しくなる。  ラッピングを開けると、中には高級感のある箱が入っていた。表面に刻まれているのはブランド名だ。ファッションに疎い俺でも知っているそれに、思わず手に力が入る。箱を持つ手が僅かに震えた。  恐る恐る蓋を開けると、中にはレザーブレスレットが入っていた。革部分は濃いブラウンで、金具に控えめな装飾が施されている。その飾り気のなさが、かえって品の良さを際立たせていた。 「すごい……こんなアクセサリー、自分では絶対買えないよ」  自分のようなおじさんがつけていいのか躊躇うほどの品だ。身につけたら、この部分だけ妙に浮いてしまう気がする。  不安に思う俺と対照的に、藤谷はどこか落ち着かない様子で「実は……」と言ってもう一つ箱を取り出した。 「俺とお揃いなんです」 「お揃い……⁉」 「はい、遼馬さんに絶対似合う! と思ったら、同じものがつけたくなって」  藤谷の取り出した箱には、俺がもらったものと同じデザインの、革部分が黒色で色違いのレザーブレスレットが入っていた。 「あ、ありがとう、晴人くん」  普段身につけないアクセサリーというだけで、どこか気後れしてしまう。それに加えて、お揃いだと分かった途端、余計に落ち着かなくなった。藤谷のような若い人と同じものを、自分が身につけていいのだろうか。  箱を見たまま固まっている俺に、藤谷が言う。 「遼馬さん、俺がつけてあげてもいいですか?」 「う、うん……でも大丈夫かな、こんなすごいもの、俺みたいなおじさんには似合わないんじゃ」 「絶対似合いますよ! これ見た時、すぐ遼馬さんが思い浮かんだんで」  箱の中から取り出したブレスレットを、藤谷が俺の左手首につけてくれる。  無駄のないシンプルなデザインのアクセサリーは、見た目に華のない俺の手首にもよく馴染んでくれた。心配したほど浮く感じもなく、ホッとする。 「ほら、やっぱり似合う! めちゃくちゃカッコいいです! ちょっとこの手をここに持ってきてください」 「え……こ、こう……?」 「はい、最高です……! 神はここにいた……最高にカッコいいです、遼馬さん!」  言われるまま、ブレスレットをつけた左手を自分の首に添える。首の凝りを確かめるような、なんでもない仕草のはずなのに、藤谷は今にも泣き出しそうな顔で見つめてきた。……まあ、いつものことといえばいつものことだが。 「晴人くんのもつけてあげるよ」 「いいんですか……⁉ ぜひお願いします!」  差し出された腕に、同じデザインの黒いブレスレットをつける。さっきは自分にも馴染んだ気がしたけれど、見比べてしまうとやはり違う。骨ばった藤谷の腕に乗ると、同じものとは思えないほど映えて見えた。  ふと、思いついて藤谷の手を取る。 「ええと、この手をこうして……?」 「りょ、遼馬さん……?」 「……うん、確かにこれは」  さっき自分がさせられたポーズを、今度は藤谷にやらせてみる。首に手を添えるだけの仕草なのに、妙に様になる。その腕にちらりと覗くレザーブレスレットが、やけに色っぽい。  ファッションモデルより藤谷の方が絵になるのでは? なんて、恋は盲目を体現したようなことを考え、自然と口元が綻んでしまう。 「格好いいよ、晴人くん」 「……っ、遼馬さん!」  感極まったような藤谷が勢いよく抱きついてくる。あまりの勢いに数歩後ろによろめいてしまった。  そのまま、額や目元に何度か軽くキスをされる。 「はぁ、俺、今最高に幸せです……」  本当に、幸せを噛み締めるように言うものだから、思わず笑ってしまった。 「俺も」  同意すると、藤谷は俺と視線を絡めて甘く囁いた。 「遼馬さん……」 「!」  長いまつ毛を伏せ、藤谷がそっと顔を近づけてくる。思わず顔を背けてその視線から逃げた。 「じゃっ、じゃあ、まだ料理も残ってるし! パーティーの続きをしよう。ね、晴人くん」 「………」  少し露骨に避けすぎただろうか。藤谷の反応を恐る恐る窺うと、一瞬、ポカンとしていた藤谷だったが、すぐにパッと笑顔に戻って、「そうですね!」と元気に言ってくれた。  危なかった。今はまだ、そういう空気になるわけにはいかない。  この後に待っていることを考えて、緊張で体が僅かに強張る。藤谷が気づいていないといい。祈るような気持ちで、残った料理に手をつけた。 「うぅ……苦しい」 「遼馬さん、食べ過ぎたんじゃないですか? ……まあ、俺もですけど」  張り切りすぎたクリスマスディナーは量が多く、二人とも食べ過ぎて満腹をゆうに超えていた。それでも食べきれず余った料理にラップをかけて、冷蔵庫へ戻す。 「でも遼馬さん、さすがにケーキ半分は食べ過ぎですって!」 「うーん……でも、せっかく晴人くんが作ってくれたし」  スポンジから焼いた藤谷のクリスマスケーキは絶品だった。甘すぎないふわふわのスポンジと相性ぴったりの生クリームに、みずみずしく甘酸っぱいイチゴが美味しくて、いくらでも食べられそうな味だった。  サイズは二人分なのでさほど大きくはないにしろ、半分は食べ過ぎという指摘は尤もだった。藤谷が自分のためにデコレーションしてくれたかと思うと、どうしても勿体無くて、残すことができなかったのだ。 「嬉しいですけど……! でも、無理しなくても、明日残った料理でもう一回クリスマスパーティーっていうのも、楽しそうじゃないですか?」 「……うん、そうだね。そうすれば良かったかな」  そんな会話をしながら、洗い物は役割分担して行った。最後の一枚を食洗機へ入れて、スイッチを押す。 「晴人くん、先に風呂入っておいでよ」 「俺ですか?」 「うん。ほら、晴人くんのくれたマッサージ機、充電が終わったみたいだし。少し使ってみたいから」  この時間、藤谷は大抵仕事のためパソコンに向かっているので、先に俺が入浴を済ませることが多い。  ただ、今日はこの後仕事をする必要はないと言っていた。マッサージ機を使ってみたいと理由を告げれば、特に訝しがることもなく、藤谷は先にバスルームへ向かってくれた。  理由にした手前、マッサージ機を試してみる。温熱と低周波で凝りをほぐしてくれるそれの使い心地は抜群だった。ありがたく思いながら、丁寧に箱へ仕舞い直す。 「……よし」  入れ替わりで入浴を済ませリビングへ戻ると、藤谷は自分のパソコンに向かっていた。  仕事をする必要はない、と言っていたが、急ぎの案件でも入ったのだろうか。不安に思いながら近づくと、俺に気づいた藤谷は嬉しそうに、目を輝かせて口を開く。 「遼馬さん、このアプリ、本当にすごいですよ! やっぱり売りましょう、俺が保証します!」  どうやら藤谷は、俺の作ったアプリの機能を色々試しているようだった。横に立ってディスプレイを覗き込み、自分の作ったアプリが意図通り動いているのを見てホッとする。  プロダクトのリリース時は、どれだけ念入りにエラーを潰したつもりでも、思いもよらないところに見落としがあるものだ。しかし今回ばかりは、そんなエラーを残すわけにはいかない。 「俺、特にここに感動しました……! 画面を分割してウィンドウの表示サイズを変えた時、タスクの表示レイアウトが見やすく変わるところ」  藤谷が挙げたのは特にこだわった部分だった。自分もそうだが、複数のウィンドウを開いて作業を行う時、サイズを変えたウィンドウの表示が崩れたり、省略されたりすると、地味なストレスになる。  アプリを使う、その人に合った環境を、なるべくストレスなく構築できるように。自分の思いが伝わったようで嬉しくなった。少し目頭が熱くなる。 「……遼馬さん、フリーランスに興味はありませんか」  俺の横顔を見ていた藤谷が、パソコンデスクのチェアから立ち上がり、俺の両手を取って、思い切った様子で口を開く。 「ずっと思ってたんですけど……遼馬さんぐらいスキルがあるなら、フリーでもいけるんじゃないかなって……遼馬さんの仕事のこと、何も知らない俺が言うことじゃないから、言えなかったけど。でも、俺も似たような働き方してるし、力になれることもあると思うから……!」 「ありがとう、晴人くん。……うん、実は、俺も少し考えてて」  藤谷のおかげで体調が回復してきて、またコーディングができるようになってから、ずっと考えていた。  休職期間が終わったら会社に戻らなければいけないと漠然と考えていたが、もしかして、他の道もあるのではないか、と。  コーディングが好きだ。このスキルで、困っている誰かの役に立てるような、そんな仕事がしたい。何百人、何千人のユーザーを想定するような、大きな仕事でなくていい。俺の手が届くような範囲で、困っている誰かを助けられるような、そんな仕事が。 「今、少し、考えがまとまってきたところなんだ。……こんな風に、仕事のこととか、先のことを考えられるようになったのは、全部、晴人くんのおかげだから」  一人きりの孤独な部屋で、悪夢に怯えて過ごしていた時は、仕事のことも、この先の未来のことも、何も考えられなかった。  ただ毎日、自分に生きる価値はあるのかと、そんなことばかり考えていた。こんな自分が生きていていいのかと。もし、あのままだったら、今俺はこうして存在していなかったかもしれない。  俺の両手を握る藤谷の手に、指を絡めて握り返す。初めの頃、俺の反応を確かめながら、遠慮がちに、優しく触れてくれたこの手の感触を思い返す。  藤谷のこの手が、俺をあの地獄みたいな冷たい場所から救ってくれた。絡んだ指から伝わる温もりが、あまりにも愛おしくて泣きそうになる。 「ありがとう、晴人くん。本当に……君が、いてくれてよかった」  七年前のあの頃から、ずっと、俺なんかを気にしてくれて。隣に住み始めてからも、陰ながらずっと、気にかけてくれて。  君がいたから、俺は今、ここにいる。前を向くことができる。もし、この世に本当に神様のような存在がいたとして、こんな奇跡を与えてくれたのだとしたら、その存在に感謝せずにはいられない。  ——君に、会えてよかった。 「遼馬さん……!」  握った手を強く握り返されたかと思うと、体を引き寄せられた。藤谷の手が背中に回って、きつく抱き締められる。 「俺の方こそ……! 俺の方が、遼馬さんにたくさん助けられてます。遼馬さんがいてくれるから、ずっと、自分の音を見失わないでいられるんです。……俺、昔からあんまり、他人に興味が持てなくて。好きとか嫌いとか、誰かに憧れるとか、そういう、音楽以外で他人に感情が揺さぶられることってなかったんですけど、遼馬さんだけは別で。だから、遼馬さんがいなかったら、今の俺はいません」 「晴人くん……」  藤谷の必死な思いが伝わってきて、胸が苦しくなる。大きな体を屈めて、俺にしがみつくような格好の背中に腕を回し、抱き締め返す。 「あのさ、晴人くん……その、実は、もう一つ、今日のために準備してたことがあって」  いよいよだ、と思うと、緊張で鼓動が速くなった。伝えるのも恥ずかしく、口調がしどろもどろになってしまう。  俺の様子を不思議に思った藤谷が、僅かに体を離して俺の顔を覗き込んできた。きっと俺の顔は今、真っ赤になっているだろう。恥ずかしさのあまり藤谷の目を見ることができない。 「遼馬さん……?」 「ええと、だから、その……!」  もうどうにでもなれ、と思って、藤谷の首に腕を回し、抱きつくように引き寄せる。耳元へ口を近づけて、消え入りそうな声で囁いた。 「準備、してるんだ。晴人くんに……俺を全部あげる、準備」 「………⁉︎」  藤谷の体が衝撃のあまり固まるのが分かった。こんなセリフ、自分のようなおじさんに似合うわけがなくて、恥ずかしさのあまり藤谷が今どんな顔をしているのか確かめることができない。  もしかして引いているのではないか。とはいえ、もう後戻りはできない。するつもりもない。どうにでもなれと思ってぎゅっと目を瞑り、藤谷の反応を待っていると、突然、足が床から離れて体を浮遊感が襲った。 「晴人くん⁉︎」  藤谷は俺を抱き締めたまま、俺の体を持ち上げていた。身長差があるとはいっても、体の大きな男同士である。抱え上げるのは一苦労だろう。  だが藤谷はそのまま、俺を抱えて一直線に寝室へ向かった。扉を潜る前に下ろされて、その先は手を引かれて導かれる。  寝室へ入ってすぐ、ベッドへ押し倒された。明かりはつけないままここへ来たため、まだ暗闇に目が慣れていない。  だが俺の上に覆い被さるような格好の藤谷が、肩で息をして、必死な、切羽詰まった表情を浮かべているのだけは分かった。少なくとも、引かれてはいないということも。 「遼馬さん……! 全部って、その……全部、ですか」  確認するように、緊張した声で藤谷が言う。俺も緊張しながら、藤谷の目を見て頷いた。 「うん……全部」 「………っ」  藤谷が感極まったように天を仰いだ。ついでに、何か独り言を呟いたようだ。小さくて全ては聞き取れなかったが、「神よ……! 違った、神は遼馬さんだった……」みたいなことを言っていたと思う。  さすがに今日この日にそんなことを言っていたら、色々問題なんじゃないだろうかと心配になった。おかげで、少しだけ笑ってしまい、さっきまでの緊張は解れたけれど。  ——。  離れ難い気持ちで二人、シャワーを浴び直してベッドに入る。日付はいつの間にか変わっていた。もう少ししたら空が白み始める時間だ。 「おやすみなさい、遼馬さん」  幸せそうに笑って、俺を抱き締めたまま、藤谷が眠りに落ちるのを見守った。 「おやすみ、晴人くん」  藤谷が完全に眠ったのを確認して、独り言のように彼に囁く。眠ると少し幼く見える藤谷の顔を見つめた。きれいな若者だと思った。最初から、自分とはあまりにも住む世界が違う人物だと分かっていた。見た目も中身も、こんなに完璧な彼と恋人になるなんて想像もできなかった。  ずっと、口にできなかった言葉がある。もうずっと前から、心の中では何度も強く思っていたのに。今夜、初めて藤谷からその言葉を聞いた時でさえ、同じ言葉を返せなかった。  好きだよ、なんて言葉では全然足りない。藤谷に対するこの気持ちは、もう、ずっと前から。 「……愛してるよ」  口に出してみると、まだ全然足りないと感じた。こんなにも愛おしくて、大切で、自分でも自分の気持ちを制御できなくなるような、狂おしいほどのこの気持ちを、他にどんな言葉で表せるというのだろう。  目頭が熱くなって、何かがこぼれ落ちる前に目を閉じ、最後に残った未練を断ち切った。穏やかな寝息を確認した後、そっと、俺を抱き締める彼の腕を解いていく。  起こさないように慎重にベッドから抜け出した。昨日、慣れないことをしたせいか、体が言うことを聞かずふらついてしまう。薄暗い寝室をなんとか手探りで移動して、そこに残った自分の荷物をかき集める。  ここにある俺のものはそれほど多くはない。スマホ、充電コード、それから……。  昨日、藤谷からもらったクリスマスプレゼントの箱を手に取る。お揃いのブレスレットを、お互いに付け合った時の嬉しそうな藤谷の笑顔が浮かんだ。  せっかく藤谷の選んでくれたプレゼントだ。迷ったけれど、やはり、こんな高価なものをもらうのは気が引けた。サイドテーブルに置いて、寝室を後にする。  リビングに残した自分の荷物をまとめる。ほとんど外出していなかったため、衣服はさほど多くない。一枚だけ持ち込んでいたコートを羽織り、ノートパソコンをソフトケースにしまう。マッサージ機は迷ったが、こちらは持っていくことにした。藤谷が俺を思って選んでくれたプレゼントだ。パソコンと同じケースに箱ごと押し込む。  ふと、クリスマスツリーが目に入った。電飾を切り忘れていたのか、まだカラフルなライトが静かに瞬いている。その光景に、さっきまでの時間が胸に蘇って、息が少し詰まった。  ——これくらいは、許されるだろうか。  ツリーに飾られた小さなプレゼントのオーナメントを、一つ手に取る。楽しかった時間が、その中に閉じ込められているような気がした。心の中で藤谷に謝りながら、それを持ったままコートのポケットに手を入れる。 「……?」  指先に紙のような感触が触れた。捨て忘れたレシートだろうか。  取り出してみると、小さなメモ用紙だった。そこには三桁の数字が書かれている。  暗号のようなそれに首を傾げる。見覚えはない——そう思いかけて、すぐに気づいた。  ——そうだ。これは、五十嵐から渡されたものだ。  あの悪意を孕んだ笑顔が脳裏に浮かび、体が強張る。振り払うように紙をポケットへ押し戻した。ここに置いていくわけにはいかない。どこか別の場所で処分しよう。  荷物をまとめ終え、玄関へ向かう。藤谷を起こさないように、慎重に。物音を立てないように。  ここから出た後のことを考える。まずは少し離れた駅まで移動して、しばらくはビジネスホテルで生活するつもりだ。その後のことは、まだはっきり決められていない。実家へ帰るにしても理由がいるし、休職中であることを親に話せていない俺にとって、今すぐに身を寄せられる場所はどこにもなかった。  とにかくここから離れて、これからのことはゆっくり考えよう。そう思って玄関の鍵を回し、扉を開けようとした、その時だった。  ——……遼馬さん?  しんと静まり返った早朝に、その声は寝室から玄関まではっきりと届いた。まだ起き抜けのような、寝ぼけた声だった。  藤谷が起きた……思った瞬間、慌てて扉を開けた。ガチャリ、大きな音がして、すぐに後悔した。これでは藤谷に気づかれてしまう。 「遼馬さん?」  今度はもっとはっきり、俺を呼ぶ声が聞こえた。すぐに藤谷はここへ来るだろう。急がなければいけない。もし顔を見てしまったら、自分の決心が揺らいでしまうことが簡単に想像できた。  ——それじゃダメだ。  美優の言うとおり、俺は消えなきゃいけない。藤谷の前から。  もう物音を気にしている場合じゃなかった。玄関を飛び出して、廊下を見渡す。  エレベーターを待っているような時間はない。逆方向にある階段へ向かい、廊下の角を曲がって身を隠す。間一髪、階段の陰に隠れたところで、玄関の扉が開いた。 「遼馬さん!」  クリスマスの早朝、藤谷の張り上げた声はサンタクロースの訪れを心待ちにしながら眠った子供が飛び起きてしまいそうな声だった。焦燥を滲ませたその声に胸が悲鳴を上げる。会いたい、会いたくない、せめぎ合う感情に身を引き裂かれそうだった。  藤谷の焦った足音がエレベーターのある方へ向かい遠のいていく。ホッとしたのもつかの間、すぐに方向を変えてこちらへ近づいてくるのが分かった——逃げなければ!  運の悪いことに、俺が身を隠していたのは上り階段だった。先へ進んだところで逃げ場がない。だが他に方法もない。 「遼馬さん!」  階段を駆け上がる足音に気づいたのか、藤谷の足音が速くなる。自分と藤谷の歩調では圧倒的に藤谷の方が速い。きっとすぐに追いつかれてしまう。どうしたら……!  咄嗟に目に入ったのは、駆け上がった先のマンションの階数。そして、その階の部屋番号だった。  数字の三桁。ついさっき見かけたばかりのそれに足が止まる。    ——何か困ったことがあるなら、俺に教えてください。  あの男の、甘ったるい声色が思い出される。  まさか、と思う。まるでこうなることを見越していたかの状況に、様々な思いが浮かんだが、だんだんと近づく藤谷の足音に、冷静な思考を奪われていく。  考えている余裕はない。駄目で元々だ。震える指を伸ばして、メモと同じ部屋番号のインターホンに手を伸ばす。 「——……っ!」  一瞬だった。  俺の指がインターホンに届く、本当に寸前、待っていたかのようなタイミングで、その部屋の扉が開いた。  強く腕を引かれる。何が起こったのか理解もできない間に、音もなく、背中で扉が閉まる。  冷たい外気と隔絶された室内で、藤谷の足音が遠くなる。知らない香り、知らない体温に包まれて動けない。  しばらく呆然とした後、外から藤谷の足音が完全に消えて、静寂に包まれてから、俺はゆっくりと顔を上げた。緊張と、嫌な予感で心臓がうるさく鳴っていた。指先が恐怖で震えてしまう。 「………!」  想像したとおり、俺をここへ招き入れたのは五十嵐だった。いつも後ろで束ねている髪を下ろし、その長い前髪の隙間から気だるげな目を細めて俺を見下ろし、満足そうに笑っている。俺の逃げ場を塞ぐように両手を玄関の扉について、じっと、至近距離で俺を見つめていた。 「……ふっ」  あはは、と五十嵐がとうとう声を上げて笑い出した。何を考えているのか分からない、その男を前に、恐怖で体が強張る。 「やっと来てくれた……ずっと待ってたんですよ、最上さん。最初からこうしてくれればよかったのに。あいつのせいで予定が狂ったな」  いつもの五十嵐の笑顔だった。ニコニコと笑っているのに、人を見下しているような、その目。  だがその目の奥に、初めて、違う光を見つけてしまう。それがいつか藤谷の言っていたような、ドロドロした執着のようなものだと分かって、息を飲んだ。  俺の怯えを読み取った五十嵐が、笑みを深める。 「大丈夫ですよ、最上さん。ぜーんぶ俺に任せてくれていいんで。前にも言ったでしょ? アンタは何も考えなくていい」  おそらく俺は、考えうる限り、一番最悪な選択をしてしまったのだろう。  後悔してももう遅かった。罠にかかった獲物を眺め、五十嵐は満足そうに笑っている。カラカラに渇いた喉を鳴らして、コートのポケットに手を入れた。  指に触れた小さな箱の中には、多分、昨日の幸せな思い出が全部詰まっていた。

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