11 / 18
第11話
「最上サン」
甘ったるいその声に、名前を呼ばれるだけで反射的に体が強張る。
自分の呼びかけで俺の肩が跳ねたのを見て、五十嵐は満足そうに微笑んだ後、これ見よがしに悲しそうな表情を浮かべた。
「傷つくなぁ、その反応」
「すっ……すみません、その、ええと」
責めるような口調に鼓動が嫌な音を立てる。何か言わなければと思うのだが、この男の前では、冷静な思考を保てない。
誰も彼もが俺を馬鹿にして嘲笑っていた、休職前の職場の空気を思い出してしまう。その中心にいた、五十嵐の態度を。
「だから、そういうのもやめてくださいって。敬語も使わなくていいですから。最上さんの方が年上で、先輩でしょ。……一応、ね」
以前、仕事中に言われた言葉を繰り返され、息が詰まる。まるで水の中にいるようだ。肺を動かしても、上手く呼吸することができない。
何故、ここへ来てしまったのだろう。藤谷から身を隠すためだとしても、もっと他に方法はなかったのか。
真っ青になって縮こまる俺に五十嵐が近づく。思わず後ずさる俺の腰に、五十嵐の手が回った。自分ではない他人の体温にゾッと背筋が冷える。
ますます青ざめる俺を面白そうに見つめながら、ただでさえ近い距離から五十嵐はさらに距離を詰め顔を近づけてきた。震える足が崩れ落ちそうになって、腰を抱く五十嵐に体を支えられる。
五十嵐は、心底嬉しそうに笑っている。しばらく俺の反応を楽しんだ後、急に体を離した。
「まぁいいか、徐々に慣れてくれれば。外、寒かったんじゃないですか。上がってください、コーヒーでも淹れますよ」
冷たい汗が背筋を伝う。逃げ出したい。でも逃げられない。
この男に逆らうことなど、できるわけがない。
五十嵐の家の間取りは藤谷の家と全く同じだった。あまり生活感の感じられない、極端に物の少ないリビングに通される。
かろうじて置かれていたテーブルとソファに案内される。五十嵐はキッチンへ向かうと、二人分のコーヒーを淹れて戻ってきた。リビングのテーブルにコーヒーを置き、L字ソファの対面に座る。
一連の動作を緊張しながら見守っていた俺は、勇気を振り絞って口を開いた。
「あの……っ、すみません、その、五十嵐さん。朝、早く……ご迷惑を、おかけして」
いやな緊張で鼓動が煩く動いていた。早くここから出たい思いで、震える唇を必死に開く。恐ろしくて五十嵐の表情を確認できないまま続ける。
「すぐ、出て行きますから……! 本当、すみません……っ」
そこまで話して、深く頭を下げる。五十嵐が納得すれば、すぐにでも出て行くつもりだった。
だが五十嵐は緩慢な動作でコーヒーに口をつけ、一口それを飲むと、コーヒーカップを置いて言った。
「やめたほうがいいと思いますよ。藤谷くん、しばらくは諦めないんじゃないかなぁ。今出て行けば、確実に見つかりますね」
ギクリ、と体が強張る。五十嵐の言うことは一理ある。まだ同じマンションにいる以上、外に出れば見つかる可能性は高い。
だが、この男は一体どこまでこちらの事情を把握しているのだろうか。全て見透かすかのような言動に、心臓を掴まれたような感覚が走る。
俺の反応を見て、五十嵐は満足そうに笑う。
「まあ、そのへんは俺に任せてください。ちゃんとあいつから逃げられるようにしてあげます。大丈夫、悪いようにはしませんから、しばらくここにいてください」
そう言うと、五十嵐は立ち上がって、俺のすぐ横まで近づいてきた。膝先が触れそうな距離に座られて、いっそう緊張する。五十嵐の手が俺の腰に回った。引き寄せられるような動きに、心臓がいやな音を立てる。
怖い、逃げたい、心の中で警鐘が鳴り響いている。だが、喉が貼り付いたように声が出ず、体に力が入らなかった。
五十嵐が耳元で囁く。
「何も考えなくていいって言ったでしょ、最上さん。全部俺に任せて」
五十嵐が別の部屋に消え、リビングに一人残された俺は、何をする気力もなく、ソファにぐったりと横になる。
時間の感覚が曖昧で、ここへ来てからどれくらい経ったのか分からない。張り詰めたままの神経が、じわじわと俺の体力を削っていく。逃げ場のない緊張に晒され続けて、気分が悪い。指先が冷え、背中を嫌な汗が伝う。
考えないようにしようと思っても、藤谷のことを考えてしまう。まだ、俺を探しているだろうか。それとも、もう諦めただろうか。スマホの着信やメッセージアプリは、家を出る前にブロックしている。連絡もつかないとなれば、とっくに諦めた後かもしれない。
自分の存在が、それだけ、藤谷にとって小さいものであればいいと思う。藤谷が心を乱される時間が、少しでも短ければいい。俺のことなんて忘れて、藤谷に相応しい人生を歩んでくれれば……——。
強く願う一方で、そんなはずはない、という否定的な思いも湧き上がる。藤谷の俺に対する思いは、数時間で諦めてしまえるような、そんな簡単なものではなかったはずだ。きっと、今も俺を探している。
こんな風に考えてしまうのは、何も告げずに姿を消そうと決めたことで、藤谷に対して抱いている罪悪感のせいなのか。それとも、そうあってほしいという自分勝手な願望なのか。
ぐるぐると、思考があちこちに分散して回り続ける。
——だめだ、気持ち悪い。
「顔色、ひどいですよ」
不意にかけられた声に、ビクリと体が強張る。ソファに横になったまま視線を向けると、五十嵐がこちらを覗き込んでいた。
「大丈夫ですか。何か、欲しいものはあります? 飲みたいものとか、食べたいものとか」
柔らかい声だった。だが、それが余計に気味が悪い。
元々、俺が休職する原因になったのは、ほとんどがこの男の存在だ。本人だってそれは分かっているはず。どうしてそんな顔で心配できるのか分からない。
もう、何も考えたくない。応答する気力もなく、現実から目をそらすように瞼を閉じると、五十嵐はそっと俺に毛布のようなものをかけて離れていった。
しばらく、寝ているような起きているような、曖昧な感覚で時間が過ぎた。時折物音がして、五十嵐が何か動いているのが分かった。
やがて食事の匂いが漂ってきた。柔らかくて温かい、和食の出汁のような香りだ。
「最上さん」
額に大きな手が乗せられる。放っておいてほしいのに、否が応でも覚醒を促されて、重い瞼を開いた。
目の前には五十嵐がいる。俺の額に乗せた手を、軽く撫でるように動かす。少なくとも表面上は、俺を心配するような表情と口調だ。幼いころ、病気のときに看病してくれた母親を思い出すような。
「食事作ったんですけど、食べられそうですか」
テーブルの上には、湯気の立ち上る器が用意されている。食欲はなかったが、体を支えて起こされるまま、素直に従う。
器の中は、卵でとじた雑炊だった。細かく刻まれた生姜とネギの香りが、ふわりと立ち上る。
五十嵐は俺を支えたまま、雑炊を掬った匙を俺の口に運んだ。されるがまま、それを飲み込む。やわらかい熱が、喉を通って落ちていく。
冷え切っていた体の奥に、じわりと温もりが広がった。強張っていたものが、少しだけ緩む。
「……おいしい」
思わず、息と一緒に言葉が零れる。
視線に気づいて横を見た。五十嵐が俺を見ている、その表情に、ハッと息が止まる。
蕩けるような、柔らかい笑み。まるで、どうしようもなく愛おしいものを見つめているような——。
見覚えのある顔だった。藤谷が、自分に向けていたものと、よく似ている。
理解が追いつかない。なぜ、この男がそんな目をするのか。思考が真っ白になる。逃げるように視線を落とした。心臓が嫌な音を立てる。速く、強く、うるさいくらいに鳴り響く。
五十嵐が何を考えているのか全く分からなかった。ここにいて、本当に大丈夫なのだろうか。そう思うのに、体が動かない。
果たして俺は、何から逃げようとしていたのだろう。
五十嵐に言われるまま、俺はそれから数日を五十嵐の部屋で過ごした。
体調は悪化する一方で、起き上がる気力もない。最初の夜はそのままリビングのソファで眠ったが、翌朝からは寝室のベッドへ移された。
馴染みのないシーツの香りと感触に包まれて目を閉じると、意識が沈んでいく瞬間、ふと、自分がまだ藤谷の部屋にいるような錯覚に襲われる。
あのベッドの感触。嗅ぎ慣れた体温の香り。隣に誰かがいる気配——。
「……っ、はぁっ、はぁ……」
だがすぐにここは違う場所だと思い出して、無理矢理現実に引き戻される。もう戻れないのだと突きつけられる、その一瞬が何よりも恐ろしかった。
この喪失感に慣れる日など来るのだろうか。何も考えたくなくて、目を閉じ毛布を手繰り寄せた。
その間も、五十嵐は甲斐甲斐しく俺の世話を焼いた。水を持ってきて、起き上がるのを手伝い、無理矢理にでも口に含ませる。
食事も同じだった。俺が食欲がないことを告げると、手ずから食べさせようとしてくる。
「無理しないで、少しでもいいんで。ほら、口開けて、最上さん」
そう言って差し出される手から、逃げる気力もなかった。自分が何もできないまま、世話をされているだけの存在になっている。その事実が、じわじわと心を削る。
まるで介護をされているようだと、ぼんやりと思った。
あれから何日経ったか分からない。ようやく少しだけ体を起こせるようになり、ベッドを抜け出した俺は、リビングへ向かった。
リビングには五十嵐の姿があった。ソファに座ってスマホを見ている。思い切ってその背中に向けて口を開く。
「あの……すみません、五十嵐さん」
自分の声が、やけに掠れて聞こえる。五十嵐がこちらに気づいて、顔を上げた。
「どうしたんですか、最上さん。起きて大丈夫ですか」
驚いた様子でこちらへやってくる。五十嵐との距離が詰まると、緊張で体が強張った。着ていたシャツの裾をぐっと握って続ける。
「すみません、世話になってばかりで……俺、できることがあれば、何でもしますんで」
言いながら、胸の奥がざわつく。何かしなければ、また仕事の時と同じように、価値がないと思われる。何か役に立たなければ。何か……。
五十嵐は、ほんの少しだけ目を細めた。
「ふぅん……何でも、ですか」
その言い方に、含みを持たせた視線に、ぞくりと背筋が冷える。
次の瞬間には、五十嵐はいつもの柔らかい笑みに戻っていた。
「いいんですよ、最上さん。俺がしたくてしてることなんですから」
軽く笑って、続ける。
「仕事のことで、色々あって、大変でしたよね。今はゆっくり休んでください」
その言葉に、息が詰まる。頭の奥に、休職する前の光景が蘇った。
——役立たず。時代遅れ。何の価値もない。
言葉にされたわけではない。だが、そう言われているのと同じだった。
あの視線、あの空気、皆が俺を馬鹿にして笑っている、その中心にいたのは——。
思わず顔を伏せた俺を、五十嵐は静かに見つめていた。不意に手が伸びてくる。
頬に触れられた。指先が、俺の輪郭を確かめるようになぞる。
「……すみません。何か、俺の態度が誤解させちゃったみたいで」
わざとらしいと感じるほどの、柔らかい声。その言い方に、胸の奥がざらつく。
「ずっと、謝りたかったんです。最上さんが仕事に来なくなって、本当に、心配してたんですよ」
——誤解?
その言葉が、頭の中で反響する。
そんな一言で済むものか。あの時間も、あの感覚も、全部。
吐き気がこみ上げる。気づけば、頬に触れていたその手を、強く振り払っていた。
「……っ」
一瞬、空気が止まる。五十嵐の表情が、僅かに歪んだ。傷ついたような、それでいて何かを押し殺したような顔。
「あ……っ、ごめ、いや、すみませ……」
慌てて言葉を重ねる。
だが、次に顔を上げた時には、五十嵐はもう何もなかったかのように、元の笑顔に戻っていた。
「言ったでしょう。気にしないでください」
穏やかな声。さっきの表情が、幻だったみたいに。
「それより、待たせてすみません。今日は、引っ越ししましょうか」
少ない俺の荷物をまとめて、部屋を出る準備をしている五十嵐を見ながら狼狽える。
「あの、五十嵐さん、引っ越しって……」
「ここにいるとどこにも行けなくて、最上さんも不便でしょう。別の部屋を用意してあるんで」
突然、引っ越しなんて言われても、状況を飲み込めない。別の部屋を用意してあるとはどういうことか。それに、引っ越しするということは、この部屋の外に出ることになる。
「でも、その……もし、鉢合わせたら」
このマンション付近では、藤谷に会う可能性がゼロではない。例え少ない確率だとしても、もし顔を合わせたらと思うと、冷静でいられる自信がなかった。
しかし五十嵐は気にしたそぶりもなく、余裕たっぷりに答える。
「安心してください。今、あいつと会うことは絶対ないんで」
「絶対……? なんで、そんな」
「言いきれるのかって? まあ、ちょっとした情報網ですかね」
荷物をまとめ終えた五十嵐に連れられて、ほとんど強引にマンションを出る。半信半疑のまま外に出たが、五十嵐の言う通り藤谷に出会うことはなかった。
最寄駅から電車に乗って三駅ほど離れたところで降りると、五十嵐は迷うことなくあるマンションに入っていった。後に続いて、そのマンションの一室に入る。
新しい部屋のリビングは、前の部屋よりずっと生活感があった。テーブルやソファなど木目調で統一された家具の他にも、小物や観葉植物がいくつか並んでいる。壁際には長机があり、ノートパソコンが置かれていた。在宅で仕事をするためのスペースのようだ。
所在なく立ち尽くしていると、五十嵐が軽く手を振る。
「どうぞ、座ってください」
促され、ソファへ腰を下ろす。柔らかく沈み込む感触に、僅かに体の力が抜けた。改めて部屋を見渡す。
家具はどれも真新しく、人が住んでいたような痕跡はないが、ここへ来る前の部屋に比べると、圧倒的に物が揃っていた。ソファにはクッションが置かれ、本棚にはいくつかビジネス書が並んでいる。キッチンには、調味料や食器もそろっていた。
ここ数日で用意したものとは思えない部屋だ。あまりにも出来すぎている。一体いつから準備していたのだろうか。
そもそも——前の家に、本当に五十嵐は住んでいたのだろうか。
そんな考えが浮かんだ瞬間、背筋がひやりとした。考えたくない。けれど、違和感がふつふつと湧いてくる。
五十嵐があのマンションにいたのは、本当に偶然だったのか。あのタイミングで俺が藤谷から逃れるのを助けたのは、偶然なのか。こんなに用意周到に、引っ越し先を用意していたのは本当に偶然なのか——いくつも重なる偶然に、底冷えするような恐ろしさを感じた。
キッチンの方からお湯の沸く音がする。やがて、五十嵐が二つのカップを持って戻ってきた。
「どうぞ」
差し出されたコーヒーを、今日は直接受け取る。湯気と一緒に落ち着くコーヒーの香りが立ち上っていた。一口含むと、冷え切っていた体の奥にじわりと熱が広がる。舌に残る苦みが心地よい。
沈黙の中、五十嵐がカップを持ったまま話し始めた。
「とりあえず、最上さんの家はもう解約していいですよね」
唐突な言葉に、顔を上げる。五十嵐は何でもないことのように続ける。
「必要な書類は揃えておくんで。荷物もここに送るように手配しておきます」
「えっ、いや、そんな、急に……」
戸惑いがそのまま声に出る。だが、五十嵐は首を傾げるだけだった。
「急に? そうですか? もう戻らないんだし、必要ないですよね。家賃ももったいないし」
淡々と続ける五十嵐に返す言葉が見つからない。間違っていることは何一つ言っていなかった。藤谷と同じマンションに戻ることは、もうないだろう。
だが、それでも、このまま流されていいのかという気持ちに押されて、言葉を振り絞る。
「あの……解約は、ありがたいんですけど。俺は、その、自分で新しい家を借りますんで……」
例え元の家を引き払うとしても、これ以上、五十嵐の世話になるわけにはいかない。辛うじてそう返すと、五十嵐は小さく息をついた。
「いやいや、無理でしょ。最上さん、休職中じゃないですか。簡単には見つからないと思いますよ」
返す言葉が出てこない。
現実的な話だった。今の自分に、まともに部屋を借りる余裕があるとは思えない。
二人の間に落ちた沈黙を破って、五十嵐があっさりと言った。
「まあ、その辺は全部こっちでやっておくんで。最上さんは、何も気にしなくて大丈夫です」
それで話は終わりだった。俺の意思は、最初から必要なかったようだ。
——アンタは何も考えなくていい。
五十嵐が、何度も俺にそう言っていたのを思い出しながら、カップの中のコーヒーを見つめる。黒い液面が、僅かに揺れていて、自分が震えているのが分かった。
どうして五十嵐がここまでするのか分からない。俺が藤谷から離れるのを助けて、新しい家を用意して、元の家を引き払うまで請け負って。
仕事での態度を謝りたいと言っていたが、それが理由なのだろうか。
違う。そんなはずはない。この男の言うことを信用できるはずがなかった。何を考えているのか、見当もつかない。
だがここから出ていく方法も思いつかなかった。逃げる場所がないという現実だけが、はっきりしている。諦めて、五十嵐の言う通り、考えることを放棄する。
そうして、五十嵐との奇妙な共同生活が始まった。
日付の感覚が曖昧なまま過ごしているうちに、いつの間にか年を越していたらしい。五十嵐に年始の挨拶を告げられ、今日が元日であることに気づく。
食卓には立派な重箱のおせち料理が用意されていた。新年の始まりにふさわしく、食材も色とりどりで華やかなものばかりだ。
「すごい……美味しそう」
あまり食欲のなかった俺も、思わずそう呟くほどだった。
「よかった。取引先に教えてもらった店のものなんですけど、味も保証しますよ。何から食べますか」
「あっ、いや、自分で取ります」
「いいから、最上さんは座って」
五十嵐の取り分けた料理が目の前に置かれる。手を合わせて挨拶をした後、祝箸を手に取って、まずは筑前煮の飾り切りされたレンコンから口に運んだ。
「……美味しい」
シャキッとした歯ごたえに、よく染みた優しい出汁の上品な味がする。いくらでも食べられそうな味だ。
次に、紅白なますを口に入れる。さっぱりとした味わいの中に、ほのかな柑橘が香った。箸休めで終わらせるには惜しいほどの、癖になる味だった。
しっかり身の詰まったエビに、甘い伊達巻、黒豆、栗きんとん。どれも本当に美味しく、食べるたび体に活気が戻ってくるようだ。
気づけば夢中で箸を動かしていた。ふと、顔を上げて、向かいに座る五十嵐を見る。
「……!」
見なければよかった。五十嵐は食事もせず、テーブルに肘をついて、いつか見たような表情を浮かべ俺を見ていた。
蕩けるような、柔らかい笑み。どうしようもなく愛おしいものを見つめているような、そんな顔。
心臓が嫌な音を立てて、思わず下を向き顔を背ける。
何故、五十嵐はこんな顔で俺を見るのだろう。藤谷が俺を見る時のような、そんな顔で。
藤谷が言っていた言葉を思い出す。
——あの人は俺と同類ですよ。遼馬さんのことが好きで好きで好きで堪らないって全身から滲み出てるじゃないですか。
そんなはずがない、藤谷の思い過ごしだと、今まで真剣に取り合っていなかった。
だが、もし本当にそうだとしたら? これまでの五十嵐の行動が、もし、俺に対する好意からくるものだとしたら……。
よくない方向へ転がりそうになった思考を、かぶりを振って追い出した。そんなわけない。もしそうなら、あそこまで執拗に職場から俺を排除しようとしたことに説明がつかない。
この短い共同生活の中で、いつの間にか、五十嵐への緊張は少しずつ薄れていた。だが、今だって意識すれば鮮明に思い出すことができる。この男が、俺を、どうやって追い詰めたのかを。
……何も考えたくない。今は、何も。
無心で、目の前の料理を口に運んだ。
正月休みが終わり、世間が日常を取り戻していく。五十嵐も仕事が始まったのだろう。日中は家にいないことが増えた。
心療内科から処方されていた薬が尽きたため、新しい家の近くで探した病院へ行くことにした。本来なら転院のための紹介状をもらうべきなのだろうが、藤谷との思い出が多い場所へ行くことがどうしてもできなかった。ただでさえ思い出さないようにと普段から気を張っている。前の生活圏内には近づきたくない。
新しく処方された薬はよく効いて、体調が落ち着いたこともあり、五十嵐が仕事に出ている間に、簡単な家事をするようになった。リビングに掃除機をかけ、買い出しをし、食事の準備をする。
最初のうち、五十嵐は俺が家事をすることにいい顔をしなかった。
「こんなこと、無理にしなくていいんですよ」
「いや、無理になんて……お世話になってるんで、これくらいは。自分のご飯を用意する、ついでなので」
相手が五十嵐でも、同じ家で生活している以上、お互いの協力が必要だ。俺にもできることをさせてほしいと頼むと、不服そうにしながらも了承してくれた。
初めて五十嵐が俺の作った夕食を前にした時は、なかなか箸をつけないのを見て不安になった。メニューは生姜焼きだった。ご飯、味噌汁と一緒に出したそれを、五十嵐はしばらくじっと見つめていた。
「すみません、苦手なものとかありました?」
「ちが……っ、います。いや、感動……っ、じゃ、なくて、えーと……誰かが作った料理、久々だなーと、思ったんで」
「えっ」
思わず大袈裟に驚いてしまった。五十嵐がムッとしたような顔になる。
「俺、何か変なこと言いました?」
「いや……五十嵐さんなら、喜んで料理作ってくれる人がたくさんいそうなので……ちょっと、意外でした」
職場で同じことを言えば、きっとすぐに五十嵐のために料理を作りたい誰かの手が挙がるだろう。だが五十嵐は俺の言葉を聞くと、ますます不服そうな顔になった。
「苦手なんですよね、人の手料理って。何が入ってるか分からないし」
「えっ、すみません……! あの、そういうことなら、無理して食べなくて大丈夫です」
他人の作った料理自体が苦手な人もいる、という視点が、すっかり抜け落ちていた。しかも、ただの他人ではなく、五十嵐が職場で疎ましく思っていたであろう、俺が作ったものなら尚更だ。
慌てて食器を片付けようとすると、五十嵐も珍しく焦ったように口を開いた。
「違います! 今のは、信用できない人って意味で……最上さんは、そんなことする人じゃないって、分かってます」
真剣な表情でそう告げられ、心臓がドキリと動く。五十嵐が自分に対して、そんなことを言うとは思わなかった。
「じゃあ、いただきます。……美味しい。ありがとうございます、最上さんって、料理上手いんですね」
食事を始めた五十嵐が、本当に嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。少なくとも、無理をして食べているわけではなさそうだ。
その日から、体調の良い日は俺が料理を担当することになった。
五十嵐が帰宅する時間はまちまちだ。仕事が長引き、終電近くになることも多い。
この日も五十嵐が帰宅したのは終電間際だった。本来なら自分も所属しているはずのチームだ。何の役にも立てていなかったとはいえ、チームは一人欠けたままのはず。その中で多忙にしている五十嵐を見ると、焦燥に駆られる。
自分のせいで、まだ五十嵐に迷惑をかけているのではないか。五十嵐は、そんな俺を恨んでいるのではないか。同じ家で顔を合わせる時、五十嵐は、俺に対して何を思うのだろうか。
玄関を開けてリビングに入ってきた五十嵐を出迎える。
「お疲れ様です、五十嵐さん。……あの、一応ご飯取ってあるんですけど、食べてきました? それか、仕事中に何か食べましたか」
この時間であれば、何か食べてきていてもおかしくはない。尋ねると、五十嵐は疲れ切った顔で呆然と俺を見た後、何の前触れもなく両手を広げて俺を抱き締めた。
「えっ、ちょ……っ、五十嵐さん⁉」
突然の行動に訳も分からず硬直する。五十嵐は長身で体格もいい、それなりに身長のある自分でもその両腕にすっぽり収まってしまうほどだ。
ムスク系の甘い香りが強く香る。驚くほどサラサラの長い髪が、頬や首筋に当たってくすぐったい。何が起こっているのか分からない緊張からどぎまぎしてしまう。
「最上さん……」
「い、五十嵐さん……?」
普段の甘い声音に、更に色気を増した掠れ声で名前を呼ばれいよいよ緊張する。気のせいか呼吸が速い。素肌の触れる部分から熱いほどの体温が生々しく伝わってきた。
——いや、あまりにも熱い。熱すぎる。これは……まさか!
「五十嵐さん!」
五十嵐はそのままずるずると床に崩れ落ちてしまった。額に手を当てると、明らかに熱がある。
とにかく休ませなければと思って、五十嵐の体を抱え起こす。筋肉質の五十嵐はかなり重い。非力な俺が抱えるのは難しく、体を支えながら引きずるようにして寝室へ向かう。
新しいこの家にはリビングの他に二部屋あり、俺と五十嵐とで一部屋ずつ寝室として使っていた。五十嵐の寝室に勝手に入るのは気が引けたが、非常事態だと割り切ってドアを開ける。
俺の部屋にあるものと同じ、シングルベッドが一つ置かれていて、そこになんとか五十嵐を寝かせた。
一仕事終え、上がった呼吸を整えながら、五十嵐の様子を観察した。横になった五十嵐は、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。きつく閉じた瞼の上、眉間に深いしわが刻まれていて、見るからに苦しそうだ。
苦しげな五十嵐の表情を見ていると、ふと、既視感に襲われた。前にもこんなことがなかっただろうか。こうして、苦しむ五十嵐を介抱したことが——。
「……っ、はぁ……」
五十嵐が苦しげな吐息を漏らし、ハッとする。今は考えごとをしている場合じゃない。
楽に休めるようにと、ひとまずコートを脱がせる。続けてスーツのジャケットを脱がせ、緩んだネクタイを抜き取ったが、ワイシャツのままではまだ寝苦しそうだ。
寝室の中を見回して、クローゼットから寝巻に使えそうな楽な衣類を取り出す。
「五十嵐さん、着替えられますか」
呼びかけるが、返事はない。俺が何とかするしかない。
ベッドの上に片膝をついて上がり、ワイシャツのボタンを外していく。時折指が五十嵐の着ているインナーに触れた。汗で湿っている。このまま寝かせたら体が冷えて悪化するかもしれない。
腹筋のあたりまでボタンを外し終えたところで、突然、五十嵐に腕を掴まれた。
「!」
その手の熱さに驚いて五十嵐を見る。いつの間に意識が戻ったのか、五十嵐が瞼を開いてこちらを見ていた。苦しそうな表情だ。
「……最上さん?」
呼びかけられて、自分の今の格好がどう見えるのかを意識する。ベッドで横になる五十嵐のシャツを脱がせているのだ。相手が病人でなければ、変態だと罵られても仕方のない行為だろう。
「いや、その、五十嵐さん、苦しそうだったので……! すみません、着替え、できます……か」
言い終わらないうちに、強い力で腕を引かれて、世界が反転した。背中がシーツに押し付けられて、ベッドマットが大きく揺れた。
顔の上に大きな影が落ちる。目前に、俺を見下ろす五十嵐の顔があった。いつもニコニコと余裕のある笑みを浮かべている、その顔は、余裕なく歪んでいる。気だるげな目元は紅潮して、額には汗が浮かんでいた。
「い、五十嵐さん……?」
両腕を強く掴まれている。その手から伝わる体温はとんでもなく熱い。きっと、今、五十嵐は正気じゃない。でなければ、こんなことをするはずがない。
五十嵐の膝が、俺の両足の間に差し込まれる。熱い体を押し付けるようにのしかかられ、その重みが生々しい。途中まで外したシャツのボタンの隙間から、鎖骨と肌に貼りついたインナーが覗いている。
「最上さん……」
朦朧とした様子の五十嵐が顔を近づけてきて、思わず、ガバリと横を向いて顔を背ける。すぐに五十嵐の熱い手が俺の顎をつかんで、自分のほうへ引き戻した。
「……っ!」
間髪入れずに唇を塞がれる。あまりにも熱い唇が押し付けられて、何が起こっているのかも分からず、目を見開いた。
目前に五十嵐の閉じられた瞼がある。唇には、熱く、柔らかい感触。
——キスをされている。理解したその時、唇よりもっと熱い舌が、俺の口の中に侵入しようとしてきた。
「っ、やめ、五十嵐さん! 落ち着いて……!」
その刺激で我に返り、必死で抵抗する。自分の口を覆い隠すように五十嵐との間に手を入れると、今度は五十嵐が俺の手のひらに唇を押し当て、舌でその手のひらを舐め上げた。
「ひ……!」
ゾワゾワと背筋が粟立つ。振りほどこうとしてもびくともしない。
五十嵐は俺の反応を楽しむように、目を細めてこちらを見ている。馬鹿にしているのか、からかわれているのか。こっちは心配しているというのに、考えると、遅れて怒りが込み上げてくる。
「なんで……っ、こんな」
「なんで? 分かりませんか、本当に」
呆れたような口調だった。病人相手だと思って気を遣っていたが、一気にカッとなる。
「分からないよ、だって、五十嵐さんは俺のことが嫌いだろう。嫌いな相手に、ここまでするのか。どこまで俺を馬鹿にしたいんだ……っ」
ずっと、腹の底で燻っていた思いがあふれて止まらなくなる。五十嵐のことが恐ろしい。そして、同時に憎くもあった。
嫌いなら放っておいてくれればいい。俺みたいな、何の役にも立たない人間なんて、視界に入れなければいいのに。
どうしてわざわざ、劣等感を煽って、人を使って攻撃させて、そのくせ優しい言葉をかけるのか。五十嵐のことが、分からない。
憎しみを込めて五十嵐を睨みつけると、五十嵐は口の端を歪ませて笑った。
「嫌い? 俺が? 最上さんのことを嫌いだって?」
心底面白いことを聞いたというように、五十嵐は声を上げて笑う。
「そんなわけないじゃないですか。好きですよ。誰よりも。あんなやつよりも。俺が一番、ずっと、ずーっと、最上さんのことを見てるのに」
自棄になったような態度の五十嵐の言葉に、身動きが取れない。
俺が、好きだって? 本気で言っているのか。ずっと見ていた? 一体、いつから。
五十嵐とまともに関わるようになったのは、去年の春、同じチームになってからだ。一際強調して言うほど、以前から親交があるわけではない。
疑問符ばかり浮かべる俺の顔を、五十嵐は嘲笑うように見下ろしている。
「アンタは覚えてないでしょうね。……そういう人ですよね、最上さんって。みーんなにいい顔して、いっつもヘラヘラ笑ってて、本当に、好きで好きで、見ててムカついてました、ずっと」
俺の腕を掴む五十嵐の手に、力が込められる。痛みに顔が歪む。
だが痛みに顔を歪める俺よりずっと苦しそうな顔で、五十嵐は続ける。
「何で俺だけじゃないんだろう、なんでアンタの特別になれないんだろう。アンタの周りにいるやつら、全部消したら、俺のものになるかと思ったのに。ちょっと目を離した隙に、またあんなやつを引っかけてんだから、本当に」
いつも気だるげに、無気力に見える五十嵐の目が、妖しく光っている。クリスマスのあの朝、その目に見た執着が、俺の体に絡んでいくような錯覚を覚えた。
五十嵐が再び顔を近づけてくる。湿った熱い吐息が肌にかかるほど近くで、吐き捨てるように、言った。
「本っ当にムカつきます、最上さんって」
言葉を許さないという意志が込められた口づけで、唇を塞がれる。熱い舌が侵入してくるのに、今度は抗えなかった。
ともだちにシェアしよう!

