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第12話
視界がぐらりと歪み、足元がおぼつかない。熱に浮かされた体は重く、一歩踏み出すたびに地面が底抜けるような感覚に襲われる。
這うような心地で自宅へ辿り着き、重い玄関の扉を押し開けた。朦朧とする意識の中、目の前に、あの人の姿を見つける。
「お疲れ様です、五十嵐さん……あの」
鼓膜を震わせるのは、かつて俺を救い、そして狂わせた声だ。一切の見返りを求めない、慈愛に満ちた彼の声。
その声が今、俺に対してだけ、明らかな恐怖を滲ませている。これでいい。これが欲しかった。誰にでも平等に分け与えられる、安っぽい聖母のような慈愛など、もういらない。俺だけがあの人の特別になれるなら、向けられる感情は好意でなくても、恐怖でも、憎悪でも何でもよかった。
こちらの様子を窺う怯えた視線にゾクゾクする。泥沼のような、深くて恐ろしい感情の底に突き落とされたあの日から、この目に、俺だけが焼き付く瞬間をずっと待っていた。
堪えきれず、目の前の頼りない体を力任せに抱き締める。腕の中から伝わる確かな鼓動と、緊張で強張る体。それが俺の妄想ではなく、この人が今、確かに俺の目の前に存在しているという事実に、深い安堵が込み上げた。
そのまま、熱に溶けるように意識が途切れる……——。
「あの、大丈夫ですか」
廊下で蹲る俺に、恐る恐るという様子で声がかけられる。重い頭を無理矢理顔を上げると、そこには見覚えのない男が立っていた。
くたびれたワイシャツ、だらしなく緩んだネクタイ、剃り残した無精髭。目の下には酷い隈が刻まれ、疲労の色を隠そうともしない、どこにでもいる冴えないサラリーマン。童顔のせいか一瞬迷うが、おそらく歳は俺よりは年上だろう。ネームプレートに視線を移すと、情報システム部、最上遼馬と記されていた。
——最悪だ。こんなところを、誰かに見られるなんて。
内心で舌打ちする。完璧に塗り固めた外面を、職場の人間——それも、この手のお人よしそうで、かつ仕事の出来なさそうなタイプの先輩に晒すなど、屈辱でしかなかった。すぐさま体に染みついた外面を張り付けて、立ち上がる。
「大丈夫です、すみませ……」
だが、普段は完璧に繕えるはずの外面が、今日は上手くいかない。割れるような頭痛に足元がふらつき、視界がぐるりと一回転する。倒れそうになった俺を支えたのは、その男の、予想外に細い腕だった。
「えっ、ちょ……すごい熱ですよ! 全然大丈夫じゃないですって!」
男にもたれかかった俺の額に、無遠慮な、ひやりと冷たい手が触れる。
大丈夫だと再度言い返そうとしたが、言葉は喉の奥でせき止められた。胃の底からどろりとした熱いものが逆流してくる。
「う……っ」
「!」
最悪の結果だった。朝から何も口にしていなかったおかげで、吐き出されたのはほとんどが苦い胃液だったが、それでも男のワイシャツを無惨に汚したことに変わりはない。
これまで築き上げてきたプライドが、自分の吐瀉物と共に足元へ崩れ落ちていく。俺はもつれる舌で、消え入りそうな謝罪を絞り出すことしかできなかった。
「すみま、せ……」
「そんなのいいから! まだ出そう? 全部出した方が楽になるかも、歩ける?」
男はシャツの汚れを気にする様子もなく、俺の体を支えた。そのままトイレへ連れて行かれ、手洗い場のシンクに寄りかからされる。背中をさする手のリズムに合わせて、喉の奥に押し込めていた不快感が、堰を切ったようにあふれ出した。
「苦しいよな。大丈夫、大丈夫……」
子どもをあやすような声だった。背中に触れる手から伝わってくるのは、こちらを気遣う気配だけだ。
どうやら本当に、この男は何の下心もない、ただのお人よしらしい。そう思った瞬間、ほんの少しだけ警戒が緩む。
緊張が途切れた途端、体調がさらに悪化した。入社して数ヶ月。ずっと、気を張っていたせいだろうか。これまで不調を誤魔化しながらなんとかして動かしていた体が、一気に崩れていく。
俺が配属された部署の上司は、社内でもハズレだと揶揄される人物だった。説明不足で起きたミスさえこちらの責任にされ、容赦なく責め立てられる。特に新人である自分には露骨だった。周囲も見て見ぬふりを決め込み、矛先が向かないように、生贄として俺を差し出しているような空気がある。
悔しくて、見返したくて、絶対に結果を出してやると決意した。弱味は見せない、作らない。小さなミスも先回りして潰してく。いつか立場が逆転した時に思い知らせてやると、その思いだけで突き進んできた。
その結果がこれだ……情けない。胃がからっぽになってもまだ込み上げる吐き気に、じわりと涙が滲む。
汚れた口を濯いで、蛇口を閉める。吐き切ったおかげか、さっきより体調はましになっていた。シンクに手をついたまま、なんとか声を出す。
「すみません……、服、汚して。弁償します」
「えっ、いいよそんなの、気にしなくて……! 吐き気は治まった? とりあえず、横になった方がいい」
借りを作りたくなくてわざと突き放したつもりだったが、そんなことには気づいていないらしい。
男はまた当然のように俺を支え、仮眠室まで連れて行った。いくつか並んだベッドの一つに寝かされ、布団を掛けられる。
「守衛さんに声をかけておくよ。所属はどこ? 明日の朝、誰かに手伝ってもらって、病院に——」
「……っ、やめてください!」
反射的に声が強くなる。あの上司に弱味を握られると思うと、その想像だけで、全身が強張った。
男は一瞬、言葉を失ったようにこちらを見た。強く否定したことで、変な勘繰りを生んだかもしれない。
しまったと思っても、もう遅い。これ以上追求されないように早口で捲し立てる。
「すみません、本当に、大丈夫なんで。……情シスの、モガミさん? 服、今度弁償します。すみません、ご迷惑をおかけしました」
「いや……本当に、気にしなくていいよ。ごめん、俺のほうこそ、余計なお節介だったかな。ゆっくり休んで」
弱々しく笑って、男は仮眠室を出ていった。ただ親切にしてくれただけの相手に、あんな顔をさせてしまった。胸の奥がチクリと痛む。だが、それを気にしていられる余裕はなかった。
体調はさらに悪化していく。目を閉じると、頭が割れるように痛む。吐き気もまたぶり返してきた。
逃げるように、意識を手放す。そのまま、無理矢理眠りに落ちた。
ふと、熱に浮かされる頭に、冷たい感触が落ちてきた。額に触れたそのひやりとした心地よさに、混濁していた意識が僅かに浮上する。
離れていこうとするその心地よさを逃したくなくて、重い腕を突き動かし、それを掴み取った。
「あ……っ」
誰かの驚いたような声がした。瞼を持ち上げると、ぼやけた視界の中に先ほどの男がいた。いつの間に戻ってきたのか、片手にミネラルウォーターのボトルを持っている。
「ごめん、どうしても気になって……これだけ置いていくつもりだったんだけど、あんまりにも苦しそうだったから」
さっきあれほど冷たく突き放されたことなど忘れたかのように、男は慌てて弁明を始めた。どれだけお人好しなんだ。この男には、見ず知らずの人間に醜態を晒し、踏みにじられたプライドをなんとか修復しようと足掻く、俺の虚勢なんて見えていないんだろう。
「熱、どんどん上がってるよ。やっぱり、病院に行った方がいい。……誰か、連絡の取れる人はいる?」
「……やめて、ください……誰も、いませんよ。俺の味方なんて、どこにも」
掠れた声で答えた瞬間、何かがぷつりと切れる音がした。
緊張の糸だったのか、何なのか。自分でも驚くほどに、堪えきれなくなった涙があふれ出す。
体調を崩したことが知られれば、あの無能な上司に、自己管理もできないやつとしてまた詰られるだろう。誰も俺を助けない。誰も俺の努力を見ない。鉄壁の仮面を被り、息を潜めて結果を出すことだけが、俺がこの地獄で生き残る唯一の手段だったのに。
体が言うことを聞かない。積み上げてきたものが、熱に溶けて指の間から零れ落ちていく。
——もう、疲れた。
「……っぅ、く」
こんな醜い泣き顔、誰にも見られたくない。それなのに、一度決壊した感情は嗚咽となってあふれ、止める術がなかった。
情けなくて、恥ずかしくて、消えてしまいたい。自分の手で顔を覆い隠し、静まり返った仮眠室に、俺の惨めな泣き声だけが響く。
——その時だった。また、あの冷たい手のひらが、遠慮がちに俺の額に触れた。
熱で火照った肌に伝わる、ひやりとした感触。それは、拒絶していたはずの俺の心を、暴力的なまでの優しさで解きほぐしていく。
俺が抵抗しないことが分かると、男の手はそのまま、幼い子どもをあやす親のように、ゆっくりと、けれど確かな体温を持って俺の頭を撫で始めた。
「大丈夫、大丈夫だよ……今は、熱のせいで、悪いことしか浮かばないかもしれないけど」
鼓膜を優しく撫でるような、穏やかな声だった。熱に浮かされ、ささくれ立った俺の意識の隙間に、その声は甘い毒のように染み渡っていく。
「ちゃんと熱は下がるし、元気になったら、今抱えてる問題も、きっと解決する方法が見つかるから。ほら、パソコンだって、熱でおかしくなっても、冷ませばちゃんと戻るだろ?」
なんて無責任な言葉だろうか。パソコンと一緒にするなと言いたい。俺の置かれた境遇も、あの執拗な上司の嫌がらせも、泥水をすするような思いで積み上げてきたプライドも、何一つ知らないくせに。
心の中で毒づきながらも、その空っぽな肯定に、震えるほど救われている自分がいた。
そうだ、今は熱で思考が鈍っているだけ。この熱さえ下がれば、俺はまた、いつも通りの完璧な自分に戻れる。誰にも弱味を見せることなく、俺を使い潰すだけの無能な奴らを見返すための、完璧な自分に。
この熱さえ下がれば。
「大丈夫だよ。大丈夫」
男は呪文のように優しい声を繰り返し、何度も俺の頭を撫でた。その手のひらの、ひやりとした心地よい感触を追いかけているうちに、俺の意識は深い闇の中へと落ちていった。
目が覚めた時、あれほど俺を苦しめていた高熱は、嘘のように引き去っていた。
病み上がりの怠さは残っているものの、視界はクリアだ。カーテンの隙間から差し込む朝の光が目に痛い。
仮眠室の中に、もうあの男の姿はなかった。俺の熱が引いたのを見届けて立ち去ったのだろう。ベッドのそばにパイプ椅子が置かれており、その上にミネラルウォーターのペットボトルだけが残されていた。
大の大人が熱に浮かされて情けなく泣き、見ず知らずの男に頭を撫でてもらう……昨夜の醜態を思い出し、激しい羞恥と自己嫌悪が込み上げる。
普段の自分であれば、そんな姿を見せた相手など二度と視界に入れたくないと思うはずだった。だが、今朝の感覚は、何かが決定的に違っていた。
ペットボトルを手に取ると、まだ少し冷たさが残っている。その微かな冷感が、昨夜、俺の額に触れていたあの手のひらの温度を鮮明に呼び起こした。
……胸の奥が、落ち着かない。まるで、完璧に作り上げた機械の中に、小さな砂利が紛れ込んでしまったような、不快な異物感。
熱は下がった。体はもう平熱だ。それなのに、あの男——最上という存在を思い出すたびに、鼓動が僅かに乱れ、体温が上がるような焦燥が募る。
きっと、病み上がりの不安定な体調のせいだろう。職場に戻り、いつも通り完璧に仕事をこなせば、こんな得体の知れない感情は、すぐに霧散して消えてしまうはずだ。
自分にそう言い聞かせて、逃げるように仮眠室を後にした。その時の俺はまだ、自分がもっと厄介な病を患いかけているということに、全く気づいていなかった。
——今度こそ、意識が浮上する。
懐かしい夢を見た。ゆっくり瞼を持ち上げると、目の前に最上の寝顔があった。
一瞬、思考が停止する。ここは俺の寝室だ。なぜ最上が同じ布団の中にいるのか。混乱する頭で昨夜の記憶を辿る。
昨日は今取り組んでいるプロダクトの納品日だった。ようやく辿り着いたゴール直前、クライアントから見当違いなクレームが入り、深夜まで対策会議が続いた。やっと会社を出ることができたのは終電間際だった。
日が沈みかけたころからじわじわと悪くなり始めた体調は、家に着く直前で限界を迎えた。自分のキャパを超えればこうなることは、嫌というほど分かっていたはずなのに、失態だった。
玄関を開け、最上の顔を見たところまでは覚えている。そこから先の記憶はない。
体を起こそうとすると、酷い怠さと共に、自分の服が楽なスウェットに着替えさせられていることに気づく。自分で着替えた記憶はないので、おそらく、最上が世話をしてくれたのだろう。
——看病してくれたのか。また、この人に助けられた。
その事実が、頭の奥に沈んでいた呪いのような記憶を呼び起こす。あの日、仮眠室で俺を救ってくれた、冷たい手のひらの感触まで鮮明に。
かつて、社内で体調を崩した俺が、最上に介抱された後。すぐに最上の所属を調べ上げ、汚したシャツの弁償という名目で彼に会いに行った。もちろん、あの日の失態を塗り替えるために、いつもの完璧な外面を整えて。
だが、あの日から俺の中でずっと疼いていた熱い期待は、気まずそうに笑った最上の一言で無残に打ち砕かれた。
——ええと……、すみません。どちら様でしたっけ?
最上は、何一つ覚えていなかったのだ。俺があの夜、喉を焼くような羞恥の中で流した涙も、それを宥めた彼の指先も、俺が内心、どれほどこの再会に執着していたかも。
少し話せば「ああ、あの時の」と思い出したようだが、あの日、最上が俺を個として見ていなかった事実に、自分が思った以上の衝撃を食らった。彼にとって、俺を助けたことは道端に落ちているゴミを拾うのと同程度の、無自覚で、平等で、価値のない善意に過ぎなかったのだ。
あの日、誰があの場所に倒れていたとしても、最上は同じことをしていた——俺じゃなくても。
その瞬間、俺の中で何かが音を立てて壊れた。誰にでも分け与えられる慈愛。誰に対しても等しく向けられる、安っぽい救済。そのなんとくだらないことか。
俺だけを見て欲しかった。俺を映さないその瞳に、二度と消えない俺だけの刻印を刻みつけてやりたい。 どれほど冷酷な手段を使おうと構わなかった。好意で満たされないのなら、恐怖でも、憎悪でもいい。俺という存在で、この男の人生を塗り潰したかった。
今の最上にとって、俺はもはや忘れていい他人ではない。自分の人生をめちゃくちゃにした、憎くて、それでも無視できない、唯一の存在だ。その事実だけが、俺の乾いた心に安らぎを与えてくれる。
「ん……」
最上が身じろぎして、ゆっくりその瞼を持ち上げた。
「……五十嵐さん」
俺を見つけて、最上が寝ぼけ眼のまま上体を起こした。狭いベッドの上で、互いの肩が密着する。その生々しい体温が、服を隔てていても伝わってくるようで、心臓が大きく跳ねた。
クソ、本当にかわいいな……。この人は、どうしてここまで無防備なんだろう。
まだ眠そうに目をこする仕草も、口の端にうっすら残った涎の跡も、年上の男としてはあまりに隙だらけだ。その子どもみたいな頼りなさに、守ってあげたいという強烈な保護欲と、徹底的に虐めて泣かせてみたいという、醜い加虐心が同時に湧き上がってくる。
この無防備さで、これまで何人狂わせてきたのか分からない。事実、社内では密かに最上へ思いを寄せる人間が、性別問わず存在する。俺がどれだけの労力をかけてそんなやつらを牽制してきたか、この人は知る由もないだろう。自分のような人間を惹きつけて止まない、その罪深いほどの無垢さが許せなくて腹立たしい。
——だめだ、重症だ。
胸の奥でどろりと疼く感情を押し殺し、俺はいつもの完璧な笑顔を浮かべて、穏やかに微笑んだ。
「すみません、最上さん。俺、昨日、迷惑かけましたよね。家に着いてからのこと、あんまり覚えてなくて」
ぼんやりしていた最上の瞳が、俺の言葉で衝撃を受けたように大きく見開かれた。
「……覚えて、ない?」
その場に凍りついたような彼の反応に、俺の背筋に冷たいものが走る
「え……俺、何か失礼なことしました?」
「………」
最上は答えない。だが、信じられないものを見るようなその目が、言葉より雄弁に何かがあったことを告げていた。
嫌な予感がした。俺の預かり知らないところで、俺自身が何か決定的な失態を犯したのではないか。せっかくあの男から引き剥がし、この部屋という檻に繋ぎ止めた最上を、自らの手で逃がしてしまうような何かを。
焦燥が、熱の引いたはずの体をじわじわと沸騰させる。
「何したんですか、俺」
「……いや、別に、何も」
「嘘だ。絶対、何かあったじゃないですか。……俺、最上さんに何か、変なこと言いましたか?」
「本当に、何でもないから。……気にしないで」
最上は視線を泳がせ、もごもごと口を濁した。あからさまに動揺している。その首筋が見る間に真っ赤に染まっていくのを俺は見逃さなかった。
「何て言ったんですか。教えて」
逃げ道を塞ぐように、最上の肩を掴んで自分の方へ引き寄せた。指先に伝わる彼の小さな震え。それを感じながら、俺は冷静さを装うことすら忘れ、逃がさないよう彼を強く睨みつけた。
「その……五十嵐さん、俺のこと好きだって言ってました。……本当に?」
重い口を開いて放たれた最上のその言葉に、俺は昨夜の自分を殴りつけたいほどの激しい後悔に襲われた。
視界がチカチカする。慎重に、慎重に事を運んでいたつもりだった。初めから、最上が自分の部署に異動になったところから、全部計画のうちだった。
自分の管理下に置いて、わざと周囲を扇動し、休職に追い込んで、逃げ場をなくす。そうして自分しか頼れない状況を作り出し、囲い込んで、彼が俺なしでは生きていけなくなるまで、じっくりと時間をかけるつもりだったのだ。
そのためには、俺の行動が恋愛感情なんて甘いだけの言葉で定義されるわけにはいかなかった。執着だと、愛ゆえの狂気だと知られれば、最上はこの家から逃げ出す正当な理由を得てしまう。それだけは、絶対に避けなければならなかったのに。
最上から目を逸らし、頭を抱えた。沈黙が肯定となって、重苦しく室内に満ちていく。
俺の反応を見て、最上はそれが真実であると悟ったようだった。
「全然知らなかった……好きなら、なんで、あんなことしたんですか」
最上の声に、明らかな怒りが滲む。
「俺をみんなから孤立させて、休職まで追い込んで……好きなら普通、相手に優しくしたいって思うものじゃないんですか?」
その純粋すぎる、あまりにも正論な問いが、俺の心の奥にある琴線を逆撫でした。
カッと頭に血が上る。
「最上さんには、分からないでしょうね」
絞り出すような声で、吐き捨てるように攻撃的な言葉を重ねた。
「こんな……自分でも自分が制御できない、おかしくなりそうなくらいに、誰かを好きになる気持ちなんて。アンタみたいに、誰にでも等しく、安っぽい慈愛を振りまけるお綺麗な人間には、一生理解できないでしょう」
誰に対しても特別ではない優しさを分け与える彼には、このドロドロとした執着という名の病は理解できるはずがない。そう確信して言い放った言葉だった。
だが、それを聞いた瞬間、最上はハッとしたように目を見開いた。
「……分かるよ」
その返答は、俺にとって予想だにしない衝撃だった。
「自分でも、自分が抑えられなくて、怖くなるくらい、誰かを好きになるって……そっか、五十嵐さん、そこまで俺のことを……」
物思いにふけるように視線を落とした、最上の横顔。その横顔に、熱がぶり返したような焦燥に駆られて、彼を見つめた。
どうして。なぜ、このお人好しの塊のような男が、俺の抱える狂気に共感できる?
その答えが、すぐに分かってしまった。
最上に、こんな恐ろしいほどの愛情を教え込んだ存在が、俺以外にいる。
——藤谷だ。
俺だけのものにしたはずのこの空間に、あの男の気配が混ざり込む。
最上の心が今、俺ではなく、過去の誰かをなぞっている事実に、吐き気を催すほどの嫉妬を感じた。
◆
シャワーの水流が床を打ちつける音がする。生温いその水に打たれながら、目の前にいるその人の感触をもっと味わいたくて、わざと肌を密着させる。
「ん……! 晴人くん……」
俺を呼ぶその声が、堪らなく愛おしい。こちらをじっと見つめる、熱っぽい視線も。誘うみたいに薄く開いた唇も。
夢みたいだと、もう何度も感じたことをまた思う。こんなにもずっと思い続けた人が、今、自分の腕の中にいるなんて。
「遼馬さん……」
だめだ、我慢できない。元々、無理をさせてしまった最上の体を清める手伝いのために、ここまで一緒についてきたのに。
薄暗い寝室の中で見る彼の体は扇状的だけど、二人きりのバスルームで見ても、堪らなく劣情を煽られる。思わず、その厚い唇を塞いだ。味わうみたいに食んで、舌を絡める。彼の唇を濡らすのが、シャワーの水滴なのか、お互いの唾液なのか分からないほどに。
——。
今度こそシャワーを浴び直して、再び寝室へ戻ってくる。日付はとっくに変わっていて、もうすぐ朝になるような時間だった。
昨夜の二人きりのクリスマスパーティーを思い出して、自然と頬が緩む。あまりにも幸せな一日だった。同じベッドの中で、温かくて愛おしい、その体温を腕の中に閉じ込め、幸せな気持ちで目を閉じる。
「おやすみなさい、遼馬さん」
囁いて、目元にキスをすれば、最上も微笑んで軽く俺にキスを返してくれた。その顔が、なんだか泣いてしまいそうに見えたのは、気のせいだろうか。
少しだけ、胸に不安の影が落ちたが、抗えない睡魔に塗り潰されてしまう。
「おやすみ、晴人くん」
遠くで最上の、穏やかで優しい声が聞こえた。
まさかそれが、最後に聞く最上の声になるなんて、思いもしなかった。
いつもより布団の中が冷たいように感じ、意識が浮上する。
瞼を持ち上げて隣を見た。最上がいない。寝室のカーテンから差し込む光はまだ薄暗く、眠った時間を考えても起きるには早すぎる時間だろう。
トイレだろうか。それにしては、シーツが冷え切っていた。嫌な予感がした。
「……遼馬さん?」
声に出して、名前を呼んだ。その時だった。
ガチャリと、こんな時間にするはずのない、鍵の解錠音がやけに大きく聞こえた。
玄関の鍵を開けている。誰が? ——おそらく、最上が。
現状を理解した俺は、一気に覚醒して体を起こした。
「遼馬さん?」
もう一度、名前を呼ぶ。なぜ玄関にいるのか。なぜ鍵を開ける必要があるのか。問いかけるようなその呼びかけの後、明確に、玄関の扉が開く音がした。
慌ててベッドから飛び降りる。何が起こっているのか分からない。けれど、最上がこの家から出て行ったという、その事実だけははっきり分かった。
もつれる足を必死に動かして玄関を飛び出す。
「遼馬さん!」
早朝のしんと静かな街に、俺の声が響き渡った。きっとマンション中に聞こえただろう。後で近所迷惑だと怒られても、一向に構わなかった。
廊下に最上の姿はない。後を追わなければと思って、無我夢中でエレベーターへ向かう。
しかしエレベーターは動いていなかった。このスピードで下へ降りたとは考えにくい。それなら、最上が向かったのは逆方向だ。
思考がいやに冴えていた。だからこそ、最上が自分から離れようとしているのが分かってしまった。ここで会えなかったら、きっと、二度と会えなくなるということも。
ずっと不安だった。同じ気持ちを返してくれながらも、最上は、俺の家に必要以上のものを持ち込もうとしなかった。最低限の荷物で、いつでも去ってしまえるような身軽さで。将来のことを話すときは、どこか、現実味がないような口調で。
そんなことに気づくたびに、最上のこの先に、俺は必要ないんだって思い知らされた。
——いやだ、そんなの。最上のいない未来なんて、俺にはもう考えられない。
見ているだけでよかったのに。あなたが笑って、幸せにこの先の人生を生きてさえいてくれれば、それだけで良かったのに。
あり得ないような偶然で距離が近づいたおかげで、最上が幸せに笑っている場所が、自分の隣であればいいなんて、分不相応な欲を出したから、罰が当たったのだろうか。俺なんかが、あの優しくて高潔な人の隣にいたいと願ったから?
だから、俺はあなたを失わなければいけないのか。
「遼馬さん!」
階段を駆け上がる足音がして、必死の思いでその名前を呼ぶ。どうしても顔を見て話がしたくて、夢中で足音を追いかける。
だが、ある瞬間を境に、ぴたりとその足音は消えてしまった。俺の足音以外何の音もしない、早朝の街の静寂だけが、マンションを包んでいる。
初めから、最上なんて人物はどこにも存在しなかったみたいに、辺りを見渡しても彼に通じる手がかりはなかった。
「……なんで……」
絶望的な呟きが、冷たい朝の空気に溶けて消える。呆然としたまま、ふらふらと自分の家に戻ってきて、玄関の扉を開けた。
——おかえり、晴人くん。
そんな幻聴が聞こえた。最上が出て行ったなんて気のせいで、俺を迎えてくれるあの人の姿まで、目前に見えた気がした。
現実は、真っ暗な静寂が広がっているだけだ。もう一度寝室にあの人がいないことを確認して、リビングへ入ると、電飾を消し忘れたクリスマスツリーの明かりが、色とりどりに光って輝いていた。
昨夜の、幸せなだけの時間が、洪水のように蘇る。
「……っ!」
視界が滲んで涙があふれる。
なんで、どうして、こんなに急に。様々な疑問が頭の中を埋め尽くす。
好きだって言ってくれた。ずっとそばにいてくれると言っていたのに。あの言葉は全部、嘘だったのだろうか。
——そうだ、最上は、いつだって人のために行動する。自分を犠牲にすることを何とも思わない、そういう人だった。
彼にしてみれば、俺に請われて、望む言葉を返しただけなのかもしれない。本心じゃなくても、きっと、俺を喜ばせるだけのつもりで。
ずっと、同じ気持ちでいてくれるんだと思っていた。でもそれは、俺の幻想だったんじゃないか。最上ほどの自己犠牲精神なら、あり得ない話じゃなかった。
もしかして、最初からずっと、最上はこうするつもりで……。
「……遼馬さん」
誰よりも大切な名前を、嗚咽とともに漏らす。
幸せだと思っていたあの時間が、もしも全部、俺の独りよがりだったとしたら。
——俺は、あの人を失った人生を、この先どうやって生きていけばいいのだろう。
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