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第13話
繋がらない着信、既読のつかないメッセージ。それらが、嫌でも最上が自分の元から去ったという現実を突きつけてくる。
部屋の中に最上の私物は何一つ残ってはいなかった。元々、最上はいつでも立ち去れるような、最低限のものしかここに持ち込まなかった。俺が贈ったブレスレットや、彼からもらったプレゼントが手元になければ、あの時間は全て夢だったのではないかとさえ思えてしまう。
数日間、食事も喉を通らないまま呆然自失として過ごしていた。だが生存本能には抗えず、何日目かに重い体を引きずって冷蔵庫を開けた時——呼吸が止まった。
そこには、クリスマスの日に二人で作った料理の残りと、最上が用意してくれていた親子丼の具が入っていた。
「……っ」
二人でラップをかけてしまった、あの時のまま。幸せだった時間が、そこだけ時が止まって保存されているような光景に、鮮烈な記憶が蘇って脳裏を埋め尽くす。冷蔵庫から漏れてくる冷気に晒されて料理を見つめたまま、しばらく動けなかった。
閉じたカーテンの隙間から、日差しが差し込んでいる。
今が何時なのか、今日が何日なのかも分からない。昨夜はソファに倒れ込むようにして眠ってしまった。電源を落とし損ねたパソコンのディスプレイだけが、薄暗い室内で青白く光っている。
年明けに締め切りのある仕事を片付けようと、机に向かったまでは良かった。だが、デスクトップに見慣れないアイコン——最上が俺のために作ってくれた、タスク管理アプリのショートカットを見つけた瞬間、指先が凍りついた。結局何も手につかず、ぼんやりとそのアイコンを見つめて一晩を明かしてしまった。
この部屋は、幸せだったクリスマスの残骸であふれている。片付けられないクリスマスツリーもその一つだ。視界に入るだけで、二人で飾り付けした時に触れた、彼の温もりまで思い出してしまう。あまりに辛くて目を逸らしたいのに、これを片付けてしまったら、彼がここにいたという最後の証明まで失われるような気がして、触れることすらできなかった。
「遼馬さん……」
空っぽの空間に、返事のない名前を零す。あんなに近くで聞いていたはずの声が、記憶の中で霧のように霞んでいく。輪郭を繋ぎ止めようとすればするほど、指の間からこぼれ落ちていく感覚に、視界が滲んだ。
その時、静寂を切り裂いてスマホのバイブ音が鳴り響いた。思わずガバリと起き上がり、テーブルの上に投げ出されていたスマホを掴み取る。
最上からの返信か、あるいは彼からの着信であってくれと、祈るような思いで画面を見る。だが、表示された名前は期待していたものではなかった。すぐに興味をなくして、再びスマホを放り投げた。
ソファに沈み込み、目を閉じる。何も考えたくない。いっそこのまま、砂になって消えてしまいたい。
最上が自分の意思でここから去った現実を直視できなかった。彼のいない生活なんて、自分にとって何の意味もない。
混濁した意識の中で、インターホンの音を聞いた。それがエントランスからではなく、玄関のインターホンが直接鳴らされたものだと理解した瞬間、心臓が跳ねてソファから飛び起きた。
もつれる足で、転がるように玄関へ急ぐ。冷え切ったドアノブを掴み、祈るような心地で扉を開けた。
「遼馬さん……!」
叫ぶように呼んだその先に立っていたのは、待ち望んだ人物ではなかった。
先ほどメッセージ通知のあった人物、美優だ。
「晴人!」
こちらの絶望など露知らず、嬉しそうな顔で笑っている。甘ったるい香水を漂わせる美優を見た瞬間、取り繕うような余裕もなく顔を顰めてしまう。
無言で、そのまま扉を閉めようとした。
「ちょ……っ、待ってよ! なにその反応! 傷つくんですけど!」
美優が強引にドアの隙間に身体を割り込ませる。
「……なんでここにいんの。どうやって入ってきたわけ」
エントランスからの呼び出しなら、カメラで確認して無視できたはずだ。玄関のインターホンを鳴らせる人物、つまり、同じマンションの住人だと思い込んだからこそ、無防備に扉を開けてしまった。
低く、地を這うような声で問い詰めると、美優は気まずそうに、けれどどこか開き直ったように口ごもった。
「いいじゃん、そんなの。……晴人が、返信くれないのが悪いんでしょ」
この反応から想像するに、正直に話せば糾弾されるような方法で入ってきたのだろう。例えば、他の住人の出入りに合わせてエントランスの扉を抜けた、とか。
普通に犯罪だ。勘弁してほしい。
目の前の存在がひどく疎ましかった。仕事上の付き合いもある相手だが、今の俺にとって、最上以外は何の価値もない。切り捨てるように、冷たい声で返す。
「何の用? 仕事の依頼なら、DMで送ってくれれば対応するけど」
「えっと、その……ちょっと、話したいことがあって。時間もらえないかなって」
美優はもじもじとした態度で、そう言った。
「ごめん、忙しいから」
「あっ……」
これ以上、一秒たりともこの女に時間を割きたくない。いよいよ力任せに扉を閉じようとした、その時だった。
焦燥に駆られた美優が、鋭い声を上げた。
「あの、最上とかいう人のこと!」
体が固まる。
全身の血が、一瞬で凍りついた。
今、美優は何と言った? なぜ、その名前を知っている。存在すら教えていないはずの彼女が、なぜ。
——最上が、何も言わず突然ここを去ったことに、関係があるのか。
疑念が湧き上がる。刺すような敵意を込めて美優を睨みつけた。
美優は一瞬怯んだが、すぐに自分を立て直してこちらを睨み返した。その瞳に、勝ち誇ったような確信が宿っている。
「聞いた方がいいと思うよ。私、晴人が知らないことを知ってるから。あの人の」
美優の言葉が、静かな部屋に呪いのように響く。最上の消えた理由が、もし彼女にあるとしたら。
選択肢なんて最初から存在しなかった。
美優が話をする場所に選んだのは、近くのファミリーレストランだった。
年末特有の浮き足立った喧騒が店内に満ちている。お昼時を過ぎた時間帯とはいえ、周囲のテーブルからは食器の触れ合う音や取り留めのない笑い声が絶え間なく聞こえてきて、ひどく耳障りだった。
ドリンクバーを注文した美優は、運んできたグラスをテーブルに置いたものの、それに口をつける様子はない。ただ、所在なげにストローの袋を指先で弄りながら、気まずそうに視線を彷徨わせていた。
「晴人も何か取ってきたら」
促す彼女の声には、どこかこちらの機嫌を伺うような響きがある。
何も必要ない。目的さえ果たせばただちにここを去りたかった。
「いい。いらない。……で、話って何。なんで美優が遼馬さん……最上さんを知ってるの」
すぐに本題へ移る俺に、美優はさらに気まずそうな顔になった。話し出す様子のない美優に苛立ちが募る。
本当に彼女は、彼の行方に繋がる何かを知っているのか。それとも、単に気を引くためのはったりなのか。
「話がないなら帰るけど」
席を立とうとすると、美優は慌てて身を乗り出した。
「待って! 話す、話すから!」
彼女は一度、深呼吸をするように胸を上下させた。そして、縋るような、それでいて諭すような奇妙な熱を帯びた瞳でこちらを見つめた。
「晴人は、なんであんな人と一緒に暮らしてたの」
「………」
あんな人、という失礼な呼び方に、思わず敵意を抱いて彼女を睨みつける。美優は少し怯んだが、臆することなくこちらを睨み返した。
美優がどこまで知っているのか、探るように観察する。少なくとも、最上が俺の家で暮らしていたことは知っているようだ。
どこでその情報を手に入れたのか……思い当たるふしといえば、彼女の参加していた食事会の夜だ。酷く酔ってしまったあの夜、自分がどうやって帰宅したかの記憶がない。
後で主催者に確認したら、美優に託したとだけ言っていた。嫌な予感がしたので、彼女には直接確認しなかったのだ。あれが原因かもしれないと思うと、放置していた自分に舌打ちが漏れる。
美優は続ける。
「仕事もしないで、人の家に入り浸って、最低だよ。晴人、目を覚ましてよ。あんな人に寄生されて、晴人が迷惑かけられる必要ないよ」
「……そんな話のために、わざわざ?」
美優に対して、自分でも抑えきれないほどの怒りが込み上げる。最上はいつも、今にも消えてしまいそうな身軽さで、遠慮がちに、申し訳なさそうに、あの部屋にいてくれた。引き留めていたのは俺のほうだ。
それなのに、寄生なんて言葉で彼を侮辱する美優が許せなかった。
「余計なお世話……」
強い口調で反論しようとしたとき、ふと思い当たる。
わざわざこんなことを俺に言いに来る彼女が、その事実を知っていて、大人しく俺だけを説得しに来るだろうか。
このタイミングで姿を消した最上。その裏に、目の前の女が関係していないはずがない。
「……美優。遼馬さんに、何か、した?」
「っ」
低く押し殺した声で問いかけた瞬間、美優の肩がびくりと跳ねた。
彼女は答えられないまま黙り込んだ。周囲の喧騒だけが耳にうるさい。決定的な反応を得て、沸々と込み上げる嫌悪感を何とか飲み込む。
今、美優が俺に投げつけたような無遠慮な言葉を、もし最上に直接ぶつけたとしたら……あの、自分を犠牲にすることを何とも思わない、常に人のためを思う彼がどんな行動に出るか。安易に想像がついてしまった。
最上はきっと、美優の言葉を真に受けて、自分を責めたに違いない。自分がいることで、俺に迷惑をかけていると感じたなら、黙って姿を消すだろう。
彼を追い詰めた美優への激しい怒りと、最上が俺を思うがゆえに身を引いたのだという、彼の愛が偽りではなかったことへの安堵感が胸を熱く満たしていく。
ここで怒鳴りつけても逆効果だろう。込み上げる怒りを無理矢理抑え込んで、一番肝心なことを聞いた。
「最上さんが今、どこにいるか知ってるの」
「知らないよ。知ってるわけないじゃん、そんなこと」
目を逸らしながら返された言葉に、静かに息を吐く。
これ以上、美優と話す意味はない。美優が最上を快く思っていない以上、本当に居場所を知らないのかもしれないし、知っていたとしても素直に話すとは思えなかった。
でも収穫はあった。最上の気持ちが自分にあるというなら、躊躇う必要はない。後は居場所を見つけて、誤解を解くだけ。
気持ちが逸る。早く会いたい。会って、自分にはあなたが必要なんだと伝えたい。俺のことを思うなら、離れないで、ずっとそばにいてほしい。
一刻も早く探さなければと、既に興味を失った女を視界から消し、急いでファミレスの席を立った。その時だ。
「だって! おかしいじゃん、そんなの……!」
背後で、美優の悲鳴のような叫びが響いた。周囲の客がぎょっとしてこちらを振り返るが、彼女はそれすら構わずに身を乗り出す。
「私、ずっと、ずっと晴人のこと見てたのに! なんでいきなり、あんな得体の知れない人に、私の居場所を奪われないといけないの⁉︎」
あまりの取り乱しように、呆れて振り返る。彼女の瞳には、妄信的なまでの独占欲が宿っていた。元から美優の居場所なんてありはしないが、そんなことにも気づいていないのか。目元を真っ赤に染め、涙をいっぱいに溜めた目で縋るようにこちらを見ている。
「私、晴人が好き。ずっとずっと好き。私なら晴人を、あんな男よりずっと幸せにしてあげられるよ。私を選んでくれたら……!」
必死な彼女を見ていても、俺の心には一欠片の同情も湧かなかった。むしろ、最上をあんな男と蔑み、自分のほうが俺を幸せにできると信じ切っている、その傲慢さに嫌悪感が募っていく。
勘違いも甚だしい。俺のことは何と思われても構わないが、最上を侮辱されるのだけは許せない。
どうしても、彼女に現実を突きつけてやりたくなった。
「美優、覚えてないの。昔、俺がバイトしてたコンビニに来た時、酔っ払いに絡まれたこと」
不意を突かれたように、美優が瞬きを繰り返す。
「え……お、覚えてるよ。怖かったし。……晴人が、助けてくれたじゃん」
「俺じゃない。あの時、美優を庇って間に入った人がいたの、本当に覚えてない?」
俺がレジから飛び出すより早く、躊躇なく彼女を庇って助けに入った人がいた。
美優は怪訝そうに眉を寄せ、記憶を探るように視線を泳がせる。
「……通りすがりの、おじさんのこと? なんか、割って入ってきたのに殴られて……正直、何の役にも立ってなかった人だよね」
鼻で笑うような彼女の言葉に、こちらまで思わず笑ってしまいそうになった。
冷笑を隠す気にもなれない。自分を守ろうとして傷ついた他人の献身を、そんな風に切り捨ててしまえる彼女の人間性を、どうしたってあの人と比べてしまう。
自分が傷つくことすら厭わず、誰かのために動ける、あの優しくて高潔な人と。
「本当に分かんないんだ。あの時、美優を守った通りすがりのおじさんが誰なのか」
「え……?」
怪訝な表情をしていた美優が、ある可能性に思い至ったのか、その顔から急に血の気が引いていく。
「遼馬さんが、得体の知れない人だって? 自分を守ろうとしてくれた人に、よくそんなことが言えるね」
「……うそ」
「責めるつもりはないよ。美優も被害者だったし。でも、あの時、自分を守ろうとしてくれた遼馬さんに、美優は最後までお礼も言わなかった。それどころか、怪我をした彼を自分に絡んできたやつらと同じように警戒して、不審者でも見るみたいな態度で」
言葉が届いているのかも分からない。美優は呆然とした表情で、「うそ、だって、そんな前から……」と呟いている。
ため息をついて、俺は一歩、彼女へ歩み寄った。逃げ場を奪うような、静かで重い宣告。
「悪いけど、俺が美優を好きになることはないよ。絶対に」
背を向け、そのまま立ち去ろうとした瞬間だった。
背後で、テーブルを激しく叩く音が響く。
「……っ、見てよ、この写真!」
金切り声に近い叫びに、足を止める。美優の手には、青白く光るスマホの画面が握られていた。そこに映し出されたものを見た瞬間、思考が凍り付いた。
「これ、ネットに流したらどうなると思う?」
美優の瞳からは先ほどまでの弱々しさが消え、代わりに粘着質な狂気が宿っていた。彼女は震える指先で画面をこちらへ向け、歪んだ笑みを浮かべる。
「私、そんなに有名なわけじゃないけど、でも、それなりにファンいるし……『おじさんに連れ込まれそうになった、怖かった』って発信したら、きっといい話題になるんじゃないかな。今の世の中、相手を特定しようとする暇人なんて、いくらでもいるしね」
ゾッとした。
人はこんなにも醜悪な生き物なんだと思い知らされる。
最低の提案だった。たとえ真実が違ったとしても、彼女が被害を訴えれば、社会的基盤を持たない彼は、一瞬で暇な人間たちの悪意に食い潰されてしまうだろう。
すぐにでもその忌まわしい写真を消してやりたくて、手を伸ばす。だが美優はスマホを庇うように隠して、尚も言う。
「消しても無駄だから! これ撮ったのは、私じゃないし……その人のスマホにも、データが残ってるから」
用意周到な言葉に、吐き気がした。
もう、美優は俺を振り向かせることを諦めている。代わりに、俺の一番大切なものを人質にしたのだ。
悔しいほどに効果的だった。逆らえるわけがない。自分がどうなったって一向に構わない、でも彼の笑顔が曇るようなことを、俺ができるわけないんだから。
「晴人が私のものになってくれるなら、この写真はなかったことにしてもいいけど。……どうする? あのおじさんが社会的に死ぬところ、見たくないよね?」
年末の家族連れで賑わう、平和の象徴みたいなファミレスの中。ここだけ、別の世界に切り取られたようだ。
息苦しく、上手く息もできないまま、俺は黙って拳を握り、美優の前に座り直した。
◆
まな板の上で包丁を動かす。手際がいいとは言えないが、なるべく丁寧に食材を刻んでいく。まな板を打つ小気味いい音が、静かな室内に響いた。
刻んだ大根を沸騰しただし汁の中へ入れ、ゆっくりと煮込んでいく。湯気の立ち上る鍋をお玉でかき混ぜながら、ぼんやりと、ここ最近の出来事に思いを巡らせた。
五十嵐の行動原理が、自分への執着に近い恋愛感情だと知って、一週間ほど経った。俺は今もなお、五十嵐の用意した家に居座り続けている。
これでは迷惑をかける対象が藤谷から五十嵐に代わっただけだ。自立のためにも早くここを出なければと焦りが募るが、現実的な問題として、もともと住んでいた家は既に解約してしまった。
休職中の身では、新しく部屋を借りられるほどの信用もない。復職するのか、退職するのかをまだ決めかねているため、実家に戻る決心もつかなかった。
様々な結論を先送りにして、どこにも行く当てのない宙ぶらりんな状態だ。
カウンターキッチンから顔を上げ、リビングの隅にある作業スペースへ視線を向ける。そこでは五十嵐が、パソコンの画面を見つめながら仕事をしていた。
大きなプロジェクトが一段落したらしく、五十嵐はここしばらく在宅勤務が続いている。一度仕事を始めるとほとんど口を開くことはなく、驚くほどの集中力で黙々と作業をしていた。
リモート会議がある日はワイシャツにスラックス、時にはネクタイまで締めていることもあるが、今日はラフなスウェット姿だ。長く伸びた髪を後ろで無造作に結び、細いスクエアフレームの眼鏡をかけている。レンズには、絶え間なく明滅するディスプレイの光が淡く反射していた。
同じチームに所属していた頃、ミーティングアプリ越しに見ていた彼は、いつだって隙のないスーツ姿で、余裕たっぷりの笑顔を浮かべていた。仕事も早く、的確で、俺みたいに必死にならなくても、何でもできてしまう完璧な人物に見えた。
その人が、隙のあるラフな格好で、ニコリともせず、真剣な表情で仕事をしている。意外な一面だった。創作の中にいるキャラクターが、物語の裏で普通に生活しているような、自分だけがその生活を盗み見てしまったような、妙な気分だ。
意外性を感じたのは、外見だけではない。内面もだ。
五十嵐は俺より年下でありながら、一つのチームを任されるほど優秀な人間だ。その彼が、俺みたいな取るに足らない人間へ執着し、ただ関心を惹きたい一心で愚かな行動に走ったという。その事実が、未だに信じられなかった。
いつも完璧で、絶対的で、正論で俺を追い詰めてくる恐ろしい存在だった五十嵐もまた、恋愛感情なんてものに振り回される、愚かな人間だったとは。
自分のような人間は藤谷には相応しくないと分かっていても、それでも離れられなかった愚かな自分が重なるようで、同情や、共感のような気持ちが湧いてくる。
五十嵐への感情が変化したせいなのか、散々俺を苦しめた睡眠障害や、幻覚、幻聴といった症状は、不思議なほどに改善を見せている。以前なら恐怖の対象だった五十嵐の仕事姿を見ていても、心が凪いでいるのはそのせいだろう。
もっとも、五十嵐の感情を知ってしまった今となっては、以前とは別の意味で、ますます同じ職場へ戻りづらくなってしまったのだが。
大根と小松菜の入った味噌汁と、少し形の崩れたハンバーグ。千切ったレタスとトマトのサラダを用意して、カウンターキッチンから声をかける。
「五十嵐さん、食事の用意ができたんですけど、すぐ食べますか」
声をかけると、五十嵐は長い溜息をついてパソコンから目を離した。眼鏡を外し、凝り固まった眉間を指で揉んでから、よく見慣れた完璧な笑みをこちらへ向ける。
「ありがとうございます。いい匂い。すぐ食べます」
二人分の食事が並んだダイニングテーブルに向かい合って座る。
五十嵐の食べ方は綺麗な割に一口が大きく、食べ終わるのも驚くほど早い。皿の上の料理が、あっという間に減っていく。
「美味しい。これ、ソースは最上さんが自分で作ったんですか」
「はい、ネットで調べたやつですけど……」
「市販のよりずっと美味しいですよ」
「そんなことは……でも、気に入ってもらえたなら良かったです」
ネットのレシピを見ながら作ったハンバーグは、水気が多かったのか上手くまとまらず、焼いてる間にボロボロと崩れてしまって不恰好だ。そんな料理を嬉しそうに褒めてくれるものだから、何となく居心地が悪い。
「そうだ、最上さん。明日買い物に行きませんか」
「買い物……ですか」
「はい。ずっと家に篭りきりで退屈でしょう。たまには外に出たほうがいいし、生活に必要なものも買いたいんで」
食事をしながら、五十嵐にそう提案される。気は進まないが、断る理由も見つからなかった。
「……分かりました」
答えると、五十嵐は満足そうに微笑んだ。それは職場で俺を追い詰めた時のような、底知れぬ悪意を感じる笑顔だった。
ゾクリと嫌な予感が胸を掠めたが、視線を逸らしてその予感を頭の隅に追いやる。今更、五十嵐が俺に何をするというのだ。警戒するだけ無駄である。
——どうせ俺に、これ以上落ちる場所なんてないんだから。
冬の寒さはまだ厳しく、コートを着ていても冷たい風に体が震える。無意識に背中を丸め、身を縮こませながら最寄り駅へ向かった。柔らかな冬の日差しが、やけに眩しい。
電車に乗り、この辺りで一番大きな駅へ向かう。平日のラッシュほどではないが、休日の車内はそれなりに混み合っていた。座席は埋まっていて、窓際で手すりを掴んだまま立つ。
すぐ隣では、五十嵐が腕を組み、壁にもたれていた。無地のタートルネックにスラックス、その上からダウンジャケットを羽織っただけのラフな格好。それなのに、自分が着れば野暮ったくなりそうな服も、五十嵐が着ると妙に様になって見える。結局、服は着る人間次第なのだろう。
目的の駅で降車して、駅直結のショッピングモールへ入る。
「何を買うんですか」
「そうですね。収納が足りないんで、収納ケースと、あとはタオルも新調しましょう。それから、春服も買いたいかな」
荷物になりそうな大物は後回しにして、先に服を見ることになった。
二人分の薄手のルームウェアを、当たり前のようにレジへ持っていく五十嵐を見て気まずさが募る。いつまで一緒に暮らすかも分からないのに、この先も二人で暮らすことを前提にした買い物だ。五十嵐は今の家の家賃を受け取ってくれないので、世話になっている身で口を挟むこともできず、居心地悪く見守るしかない。
衣類と日用品を買った後、インテリア用品を見る前に食事を取ることになった。
駅構内にある、見通しのいいカフェのテラス席へ座る。五十嵐はコーヒーとパスタを、俺はコーヒーとホットドッグを注文した。
料理が運ばれてきても、五十嵐はすぐには手をつけず、スマホを操作していた。
妙に機嫌がいい。小さく鼻歌まで歌っている。何かいいことでもあったのだろうか。
視線に気づいた五十嵐が顔を上げた。一瞬だけ、自分を観察されていたことに驚いたような顔をした後、すぐに隙のない笑みを浮かべる。
「どうしました、最上さん」
「いや……五十嵐さん、楽しそうだなと思って」
「そりゃ楽しいですよ。最上さんとデートしてるんだから」
「デ、デートって……」
あまりにもあけすけな言い方に、気恥ずかしさで言葉を失う。
五十嵐は普段、自分の恋愛感情を表に出さない。むしろ、巧妙に隠していた節すらある。こんなふうに堂々と口にするのは珍しかった。よほど浮かれているのだろう。
本当に、居心地が悪い。五十嵐の視線から逃げるように、皿へ視線を落とした。
「最上さん、それだけで足りるんですか」
食事を始めた五十嵐が、こちらを見て言った。相変わらずの食事スピードで、食べ始めたばかりなのにパスタ皿の中はもう二分の一くらい減っている。
「……あんまり食欲がなくて」
「心配だな。俺のサラダあげますよ」
「そんなこと言って……五十嵐さん、野菜が苦手なだけじゃないですか」
にこやかな笑顔のまま、一瞬だけ五十嵐の動きが止まる。図星らしい。
やっぱり、と思いながら、少しやり返すような気持ちで続けた。
「野菜苦手ですよね。昨日も、サラダ食べる時ちょっと無理してたし。五十嵐さん、食べるの早いけど、野菜の時は特に、味わわないで一気に食べるというか」
俺の指摘に五十嵐はしばらく笑顔のまま固まっていたが、やがて大きく溜息をつき、諦めた顔で前髪を掻き上げた。
「まさかバレるとは……気を付けます」
心底悔しそうなその様子に、ふっと笑みがこぼれる。完璧そうに見えて、五十嵐は案外弱点が多い。
「職場の人は、誰も気づいてないと思いますよ。俺だけじゃないですか」
仕事だけの付き合いなら、きっと俺も気づかなかっただろう。励ますつもりでそう言うと、五十嵐は一瞬目を見開いた。
その後視線を逸らし、遠くを見るように目を細める。その横顔があまりにも幸福そうで、不意に心臓が跳ねる。妙な感情に飲み込まれそうになって、逃げるように俺も反対側へ視線を逸らした。
その時だった。
「……!」
逸らした視線の先、カフェのある駅前通りとは反対側の雑踏の中に、見つけてしまった。
休日の駅前は人で溢れている。この人混みの中を通り過ぎていく誰かなんて、普通は記憶にも残らない。
けれど、どれだけ大勢の人間がいても、たった一人だけ、俺が見つけてしまう人がいる。黒のダウンジャケットに、見覚えのある、紫のマフラー。周囲より頭一つ抜けた長身と、紫色のメッシュが入った前髪。
——藤谷だ。
見間違うはずがなかった。
その姿を捉えた瞬間、息が止まる。あの部屋で過ごした幸福な記憶が、一気に胸の奥へ押し寄せてきて、叫び出したい気持ちになった。藤谷の視線をこちらに向けたくて。もう一度、自分を見て笑ってほしくて。
けれど、その感情があふれかけたのはほんの一瞬だった。藤谷が、隣にいる相手へ優しく微笑みかけたからだ。
藤谷の隣には、小柄な女性がいた。
見覚えがある。以前、俺に忠告をしに来た女性、美優だった。
「っ」
反射的に顔を伏せる。膝の上で握った拳が、小さく震えていた。
藤谷と美優は、腕を組んで歩いていた。並んでいるだけで絵になると、かつて感じたままの姿で。周囲の人間も、二人を特別気に留めたりはしない。最初からそこにいるのが当然みたいに、自然に馴染んでいた。
耳鳴りがする。世界がぐらりと揺れた気がした。胸の奥から不快感がせり上がってくる。
体の中で、あの怪物が暴れていた。
こうなるべきだと思って、自分から離れたはずなのに。望んだ通りの形になっただけなのに。彼女に嫉妬する資格なんて、俺にはない。
——それなのに。
醜い感情が抑えられなくて、自己嫌悪で吐き気がした。
もともとなかった食欲は、完全に失せていた。目の前の皿に、もう手を伸ばす気にもなれない。
五十嵐が微笑みながら、そんな俺の様子を満足そうに眺めていたことにも、気づかなかった。
食欲のない俺を気遣って、カフェを出た後はそのまま帰宅することになった。
家に着くなり寝室へ向かい、着替える気力もないままベッドへ倒れ込む。さっき見た光景を、記憶ごと消し去ってしまいたかった。
この先の人生、もう二度と藤谷に関わるつもりはない。藤谷がどんな人生を歩もうと、本来なら俺には関係ないはずだった。
自分のような人間は、藤谷の隣には相応しくない。そう分かっていたからこそ、何も告げず、彼の前から姿を消すことを選んだのだ。藤谷のために。
望んだ通りの結果になった。それでよかったはずなのに。
——自分以外の人間が、藤谷の隣にいることが、許せない。
誰にも笑いかけてほしくない。俺に向けていたのと同じ顔で、他の誰かを見るなんて耐えられない。
抱く資格すらない、身勝手な嫉妬だ。あの光景さえ目にしなければ、きっと穏やかに過ごせた。遠くから、ただ藤谷の幸せだけを願っていられたはずだった。今さら何を後悔しているのか、自分でも分からない。
体の奥で、恐ろしい怪物が暴れている。自分でも制御できなかった。
一人きりの暗い寝室で、どれだけ時間が経ったのだろう。
込み上げる醜い嫉妬を、必死に押し潰そうとしては失敗する。その繰り返しに疲れ果てていた時、寝室のドアの向こうから声がした。
「最上さん、調子はどうですか」
ノックの後、五十嵐の声が響く。返事ができずに黙っていると、ゆっくりと寝室のドアが開いた。
暗い部屋に、廊下の明かりが差し込む。逆光の中、五十嵐の長い影が床へ伸びていた。
眩しさに目を細めた瞬間、視界が滲んでいることに気づく。自分がずっと泣いていたのだと、その時ようやく理解した。
「最上さん」
ベッドが軋み、沈む。
隣へ腰掛けた五十嵐が、俺の顔を覗き込んできた。
「可哀想に。つらいですよね。泣かないで、最上さん」
憐れむような声音。けれどその奥に、この状況をどこか楽しんでいる気配を隠し切れていない。
俺を気遣う表情の裏で、この男は何かを隠している。街中で藤谷のあんな姿を見かける偶然が、本当に偶然なのか。もしかして、またこの男の策略だったのではないかと疑いが芽生える。
けれどもう、それを追及する気力すら残っていなかった。この男の策略だったとしても、俺の見たあの光景は事実なんだから。
毒がじわじわと染み込むみたいに、五十嵐は今の俺が一番欲しい言葉を口にする。
「最上さんは、何も考えなくていい。俺の言う通りにしていればいいんです」
何も……何も考えたくない。五十嵐に言われるまま、思考に蓋をする。
五十嵐の指先が、頬を濡らした涙をそっと掬った。撫でるように動くその感触が、不思議と心地いい。
「最上さん」
身を屈め、顔を近づけた五十嵐の吐息が頬を掠める。
笑みの形に歪んだ唇が、自分の唇へ重なるのを、俺は抵抗せず受け入れた。
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