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第14話
オフィスのフロアには空調の乾いた音と、誰かの話し声、キーボードの打鍵音が響いていた。俺もまた、自分のデスクで次のコンペ用の資料が映るディスプレイを眺めながら、流れるようにキーボードを叩く。
「珍しい。鼻歌ですか、五十嵐さん」
向かいの席に座る部下の声に手を止める。入社二年目の青年が、自身の作業用パソコンから顔を上げて驚いたような表情を浮かべていた。若さゆえの無邪気な好奇心が、その瞳に宿っている。
「ごめん、声に出てた?」
浮かれていた事実を見透かされ、苦笑して答える。自覚もないまま鼻歌なんて相当だ。
俺が認めたことで気をよくしたのか、彼は人懐っこい笑顔になる。
「出てましたよ。気づいてなかったんですか? 本当に珍しいですね。よっぽどいいことでもありました?」
「まあね」
曖昧に答えて、無意識に鼻歌を口ずさむ原因となった人物を思い浮かべる。身も心も完全に壊して、やっと俺に屈した人のことを。
思わず口元が緩みそうになった。その様子を目ざとく見ていた部下は、より一層興味を惹かれたようだ。
「え! 何ですか気になる! まさか恋愛関係じゃないですよね」
「秘密」
「ええ〜! 教えてくださいよ! 俺、こないだ他の部署の女の子に、五十嵐さんに恋人がいるかどうか探ってこいって言われたんですよ」
「それで失恋したんだ、可哀想に」
「しましたよ! 五十嵐さんと一緒に仕事してたら、俺一生彼女できないかも」
大袈裟にパソコンの上に崩れ落ちる部下を、冷ややかな目で見つめた。この青年のような、感情を隠しもしない若さ特有の眩しさを見ると、どうしてもあの男を思い出した。
藤谷晴人。一見すると爽やかで、人懐っこくて、裏表なんてなさそうな顔をしているくせに。その実、俺と同じくらい、どうしようもなく執着深いあの男を。
——まあ、結局最後に笑うのは俺だったわけだけど。
喉まで込み上げた嘲笑を飲み込み、いつもの愛想のいい仮面を貼り付けた。
「まだ望みはあるよ。その子に、俺は職場恋愛しないから、諦めるように伝えて」
「そうなんですか⁉ じゃあ、五十嵐さんの彼女は、うちの会社の子じゃないんすね」
何も知らない部下は、気軽にそんなことを言う。まさかその相手が、少し前までこのフロアで、周囲の嘲笑に震えていた元先輩だとも知らないで。
「そう。俺、嫉妬深いから」
彼の調子に合わせ、冗談めかして笑いながら、真実をそっと織り交ぜる。
「好きな人が他の男と話してるのを見るとか、耐えられないんだよね。もし同じ職場だったら、どんな手を使っても追い出しちゃうな……二度と戻ってこられないように」
静かに、甘ったるい声で告げられたその言葉に、部下の顔が引きつった。
「えっ、怖……五十嵐さんて意外とヤンデレ系……?」
「くだらないこと言ってないで、手動かそうか。コンペで提出する試作アプリのUI、フィードバック反映できた?」
「は、はーい。すぐやりまーす」
部下は気圧されたように再びディスプレイに向き直った。カタカタと響くキーボードの打鍵音が再開される。俺もディスプレイへ視線を戻して、ふっと笑う。
藤谷へ執着していた、あの美優とかいう女は、結果的にはいい働きをしてくれた。おかげで藤谷に見つかることなくあのマンションから最上を連れ出すことができたし、最上の中の藤谷への未練も叩き潰せた。
尤も、やり方は甘い。もし俺なら、もっと徹底的に囲い込むだろう。脅迫で縛り付けるだけの関係なんて、長続きするはずがない。いつ壊れるかも分からない曖昧な繋がりで満足できる彼女の詰めの甘さが、到底理解できなかった。
……とはいえ、もうどうでもいい。
あの二人が今後どうなろうと興味はない。最上さえ手に入れば、それ以外は些末な問題だ。
忌々しい男の存在を意識の外に追い出して、仕事に戻る。今日も家へ帰れば、自分を待っているあの人を思い出して、また無意識に鼻歌が漏れそうになった。
帰宅の目途が立ったのは午後八時過ぎだった。
オフィスの喧騒を後にし、自宅へ向かう足取りが、無意識のうちに軽くなる。
マンションへ辿り着き、玄関の扉を開ける。リビングから漏れる明かりを見ただけで、胸の奥が熱くなる。
リビングの扉の向こうには、最上が立っていた。物音で気づいていたのだろう、俺を迎えるためにこちらへ駆け寄ってくる。
「五十嵐さん。おかえりなさい」
所在なさげに立ち尽くしたまま、縋るような目でこちらを見上げてくる。その姿を目にした瞬間、ゾクリと背筋が震えた。
今、この広い世界の中で、最上遼馬という人間が存在を許された場所は、この部屋しかない。その事実に、胸の奥が満たされる。
——本当に、可哀想で、可愛い人。
俺みたいな男に捕まって、逃げ場もなく、ただ帰りを待つことしかできないなんて。込み上げる衝動のまま、無言で最上の体を抱き寄せた。
「い、五十嵐さん……? あの、また熱があるんじゃ……」
突然の抱擁に、最上は戸惑った声を漏らす。その肩が微かに震えていた。俺から触れられることに、まだ慣れていないようだ。見当違いな心配をする、その反応さえ愛おしい。
腕の中で固まる最上の顔を覗き込む。おずおずとこちらを見上げる、その潤んだ瞳は、縋るようにこちらを見上げていた。
かつて俺は、この人の特別になれるなら、向けられる感情は愛情でなくても構わないと思っていた。恐怖でも、憎悪でもいい。この人の心に、自分だけが消えない傷を残せるなら、それでよかった。
けれど最近の最上からは、あの怯えや拒絶が、少しずつ消え始めている。
「最上さん……」
耳元で名前を囁くと、最上は拒むどころか、救いを求めるように俺の服を弱々しく掴んだ。飼い主を探す、捨てられた子犬みたいだ。その仕草がたまらなく愛おしい。
今の最上にとって、頼れる相手は俺しかいない。自分を陥れた相手だと分かっていても、他に縋れる場所がないのだ。
——やはり、美優は甘い。手に入れたい人がいるなら、ここまでやらないと。
どこにも逃げ場がないように。完璧に、閉じ込めてしまうまで。
大型コンペを終えて、夕暮れのオフィス街を歩く。高層ビルのガラス壁に、西日の赤色が滲んでいた。
同行していた入社二年目の新人は、まだ興奮が冷めない様子で先ほどから何度もスマホを確認している。社内のグループチャットで、早くも今回のコンペの手応えが共有されているようだ。
「やりましたね、五十嵐さん!」
弾んだ声が耳に飛び込んできて、ワイシャツの首元を少し緩めながら視線だけを向ける。
「あの役員、最初あんなに渋い顔してたのに、最後完全に空気変わってたじゃないですか。終盤なんか全員前のめりでしたもん」
「顔に出やすいってことは、素直な人ってことだからね。こっちが自信持って提案すれば、反応も返ってきやすい。やりやすい相手だったよ」
さらりと答えると、新人は目を丸くする。
「いや、そんな簡単にいかないんすよ、普通は……!」
彼の言葉に苦笑を返しながら、冷めた気持ちで前方のビル街に目を向ける。
人の感情を動かすことは難しくない。どんな不安を抱えているのか。何を恐れ、どんな未来を期待しているのか。視線や相槌、資料を見る速度、質問の順番——注意深く観察していれば、嫌でも相手の考えが読めてくる。
後は相手が聞きたがっている言葉を、最も効果的な順番で並べるだけ。たったこれだけのことができないなんて、出世に苦労しそうだな、と口には出さず失礼な感想を抱く。
「いやぁ……でもマジで痺れました。内容の説得力も勿論ですけど、五十嵐さんの堂々とした態度っていうか、余裕さっていうか、見る人を惹きつける感じが……マジでめっちゃカッコいいっす!」
「そんな大層なものじゃないって」
嘘は言っていない。プレゼンなんて簡単だ。複雑なコードを読み解くより、人間を解析するほうがずっと単純で、分かりやすい。
とはいえ、それはこちらに有効な手札があってのこと。俺はいつもの、謙虚で頼もしいリーダーという仮面を貼り付ける。
「みんなが最後まで粘って、いい資料を準備してくれたから。今日のコンペの成功は、俺一人の力じゃないよ」
「五十嵐さん……! 俺、一生ついていきます!」
すっかり心酔した様子の彼を見て、謙虚に笑いながら内心で哀れみを向ける。
相手が聞きたがっている言葉を、効果的な順番で並べる。それだけで、人はこんなに簡単に、思い通りの言葉をくれる。全部俺の手の上だなんて、気づきもしないで。
「あ、ちなみにこないだの子、伝えましたよ。『五十嵐さんは職場恋愛しない主義だから、もし恋人になっても追い出されて二度と戻って来れなくなるらしいよ』って」
彼は思い出したようにニヤニヤしながら報告してくる。
「そしたら彼女、『え、追い出された〜い!』って言ってました。もう、五十嵐さんモテすぎて怖いっすわ」
「はは」
愛想よく笑いながら、心の中でその言葉を反芻した。
追い出されたい、か……実際に追い出された人が、今どんな状態かも知っても、同じセリフが言えるだろうか。
多少手こずったとはいえ、なかなか思い通りにならなかったあの人も、今や完全に俺の手の上だ。今日も狭い部屋の中で俺の帰りを待つだけの、彼の存在を思い出して、口元が緩む。
不意に、隣を歩く彼の表情が少しだけ真剣なものになった。
「……そういえば。去年、仕事に来れなくなった人いたじゃないですか。えーと、元情シスの、最上さん」
ちょうど頭で思い描いていたその人の名前が出た瞬間、胸がざわめいた。
勿論、表向きは何でもない顔をして、彼の話に耳を傾ける。
「あの人への対応、今思うと珍しかったっすよね。五十嵐さん、普段は面倒見いいほうなのに、なんか……あの人のことはあんまりフォローしなかったっていうか。いつもと違ったっていうか」
淡々と話を聞きながら、当時を思い浮かべ目を細める。
周囲に気取られないように、万が一にも彼の味方をする人物が現れないように。慎重に慎重に、言葉を選び、正論をぶつけ、ほどよく煽動しては引き際を見極める。
そんな風にして、最上を少しずつ孤立させ、追い詰めていた、獲物を狙う狩りの最中のような、あの時期のことを。
「最上さんのプレゼンとか、慣れてなくて散々でしたけど、五十嵐さん、いつもならああいうのフォローするのに放置だから、よく変な空気になったっていうか。まあ、正直、仕事としては足手まといで、仕方ないかーって見てたんですけど」
ある時はミーティングアプリを介したリモート会議で、またある時はオフィスの会議室で行われた打ち合わせで、またある時は人選に悪意を込めた、明らかに場違いな飲み会で。
徐々に自信をなくし、青ざめていく最上の顔を思い出す。
自分が話しかけるだけで怯え、視線も合わせられず、小さく震える。そんな最上を見ていると、満たされるような感覚があった。
もうすぐだ、もうすぐ手に入ると、あの時の自分が獲物を前にした肉食獣みたいに、内心では浮かれていたなんて、誰も気づいていなかっただろう。
だが次に彼は、確信めいたことを口にした。
「今思うと、五十嵐さんが『好きな子を追い出す時』って、ああいう感じだったりして」
「………」
俺の微笑みが、わずかに止まった。その瞬間、隣を歩く彼の顔から、さっと血の気が引く。ビル街の喧騒が遠くなり、そこだけ静まり返ったような気がした。
「えっ……すいません、俺、なんか変なこと言いました……⁉」
部下は慌てて手を振り、真っ青になって弁解を始めた。
「いや、別に五十嵐さんが最上さんのこと好きだったとか、そういう意味で疑ってるわけじゃないっすよ⁉ 今の冗談っす! 冗談!」
俺はゆっくりと、いつもの完璧な笑顔を再生させた。
「……いや、ごめんごめん。そっか、そう見えたのかーって反省してただけだよ」
「そ、そうですよね! あー、びっくりした……」
部下は安堵したように胸を撫で下ろし、足早になって駅を目指し始めた。呑気な彼の背中を見ながら、内心舌打ちが漏れそうになった。
——こういう鈍感な奴ほど、時々、無自覚に核心を突いてくるから嫌になる。
気持ちを落ち着けようと立ち止まって、夕焼け色に染まる空を見上げた。
最上のことを思い出す。俺が職場から追い出して、自分の檻に閉じ込めた彼のことを。
俺が望んだ通り、最上はもう、あの慈愛に満ちた聖母のような優しさを、誰彼構わず振り撒くことはない。俺が用意した部屋で、今日も俺の帰りを待つだけの生活をしている。明かりの灯ったリビングのドアを開けて、遠慮がちな瞳でこちらを見上げながら、「おかえりなさい、五十嵐さん」と声をかけてくれる彼の姿が頭に思い浮かぶ。
——ああ、会いたいな。一刻も早く。
「五十嵐さん?」
立ち止まった俺に気づいた部下が不思議そうに振り向いてこちらを見る。俺はにっこり笑って彼に言った。
「ごめん、今日直帰にするよ。報告任せていい?」
「えっ、いやでも、絶対みんな五十嵐さんのこと待ってますよ」
「ほんとごめん。今度埋め合わせするね。じゃあ、お疲れ様」
驚いている部下に軽く手を上げて挨拶し、何か言われる前にタクシーへ乗り込む。逸る気持ちで行き先を告げ、窓の外を流れる景色を眺めた。
タクシーを降り、マンションのエントランスを抜ける。エレベーターに乗り、自宅階のボタンを押しながら、また無意識に鼻歌が漏れた。
早く会いたい。逸る気持ちでマンションの扉を開ける。リビングに漏れる明かりを見ただけで、胸の奥が熱くなる。
だが、リビングの扉を開けた時、いつも所在なさげに出迎えてくれるはずの最上の姿が、そこにはなかった。
「最上さん……?」
一瞬、心臓が凍りつくような錯覚に陥る。まさか逃げたのか。焦燥に駆られてリビングを見渡す。
幸い、ダイニングテーブルの隅に座る彼の背中がすぐ目に入った。安堵で、深く息を吐く。
最上は自身のノートパソコンに向かい、驚くほどの集中力で何かに没頭していた。俺が帰宅したことにも気づいていない。背後から覗き込めば、そこにはコードエディタとソースコードの羅列が表示されていた。
同じチームで働いていた時から、この人は一度実装に入ると周囲の雑音が一切聞こえなくなる癖があった。マネジメント能力は壊滅的だが、コードを書かせれば誰よりも速く、実装も堅い、根っからのエンジニア——それが、最上遼馬という男だ。
「……タスク管理と開発環境を連携させたツール、ですか」
耳元で囁くように声をかける。最上は飛び上がりそうな勢いで肩を震わせ、こちらを振り返った。
「五十嵐さん! いつの間に……」
「集中すると周りが見えなくなるのは、相変わらずですね」
苦笑して、ノートパソコンを閉じようとする彼の手を優しく、だが拒絶を許さない力で制した。緊張したように固まる彼の横から手を伸ばし、直接パソコンを操作して、アプリケーションの挙動を確認する。
「へぇ。スケジューラーも連携させてるんですね。締め切りから逆算して優先度を動的に組み替えてるのか。タスクを選択すると、関連ディレクトリや必要なドキュメントもまとめて開く……作業コンテキストを復元する設計。これ、一人で組んだんですか?」
「は、はい……すみません。その、五十嵐さんから見たら、お遊びみたいなものですよね」
不安そうな口調で、最上が言う。俺が職場で徹底的に叩き潰したこの人の自信は、今なお回復していないらしい。
彼の調子に釣られて、つい同じ職場にいた頃のような感覚でレビューを始めてしまう。
「最上さんらしい、丁寧な設計ですね。画面サイズを変えてもレイアウトがほとんど崩れない。……まあ、実務なら、こういう細かい作り込みより、リリーススピードを優先されることも多いですけど」
最上の顔色がサッと青ざめる。次は何をなじられるのかと怯え、震えているのが伝わってくる。同じチームにいた頃から、すっかり板についたその反応を見ていると、彼を追い詰めていたあの頃を鮮明に思い出した。
かつて俺は、彼のやり方を時代遅れだと断じた。事実、今の受託開発はスピードとコストパフォーマンスが重視される。丁寧に作り込むより、まずは動くものを早く出す方が優先される場面も多い。細部にこだわる最上のやり方とは相性が悪く、最上を追い詰めるのにこれほど効果的な言葉はなかった。
……とはいえ、もう追い詰める段階は終わったのだ。怯え、震える様子を見るのも嫌いではないが、今欲しいのはそんな反応じゃない。思考を切り替えて、目の前のアプリケーションへ視線を戻す。
「期限から優先度を自動算出するロジックはいいと思います。でも、後からユーザーが手動で変更できる仕様はノイズだな。自動算出の意味が薄れる。手動要素を残したいなら、単純なピン留め機能に留めて、ソート順のトップに強制フラグを立てるだけで十分でしょう。……それから、このアプリ、ターゲットとなるユーザー像は誰を想定してます?」
最上の体が、瞬時に固まる。怯えの表情が消え、まるで感情の抜け落ちた人形のような、無機質な顔になった。
……なんだ、その反応は。
胸の奥を小さな棘が撫でるような違和感を覚えながら、俺は彼を注視する。やがてハッとしたように感情を取り戻した最上は、取り繕うような頼りない声で話し始めた。
「あの……毎日、同じアプリを仕事で使うような……在宅で仕事をする、クリエイター向けに、作った……つもり、です」
在宅仕事の、クリエイター。
あの忌々しい隣人——藤谷晴人の業種が脳裏をかすめ、舌打ちが漏れそうになった。
まだ、こんなところにあの男の残骸が残っていたのか。苛立ちを完璧な笑みの裏に隠し、俺は冷静に言葉を重ねた。
「いいんじゃないですか。でも、マーケットとしては弱いですね。俺なら、もっと一分一秒を争うような、情報密度と効率に異常な執着を持つ層をターゲットにします。……例えば、個人投資家とか」
「投資家、ですか」
意外な視点に驚くような最上に微笑みかけ、座る椅子の背もたれにゆっくりと手をかけた。背後から覆いかぶさるような体勢で、耳元へ囁くようにして続ける。
「そう。投資家向けにするなら、マルチモニター前提で作り込むといいですね。指定したURLやツールごとに、表示モニターやウィンドウ配置を固定できるようにする。さらに、価格変動みたいなイベントを検知したら、対象モニターを強調表示したり、通知を前面に出すようにする。そこまで作り込めれば、ユーザーの定着率はかなり上がるでしょう。十分プロダクトとして成立します」
彼らしい、ユーザーに寄り添った優しさすら感じるアプリケーションを、今の開発業界で生き残るための武器に作り変えていく。
最上は、これまで自分の手が届かなかった領域へ急激に引き上げられたような、呆然とした表情でこちらを見つめていた。
今、最上がどんな気持ちで俺を見ているのか、考えるだけで笑ってしまいそうだった。少なくとも、このアプリを誰に向けて作ったのかなんて、もう頭の片隅にも残ってはいないだろう。今俺が示した新しい可能性を、必死に計算し始めたはずだ。
その心に残った、ほんのわずかな残骸さえも。
俺が、全部叩き潰してやる。
「最上さん?」
いつまでも反応のない最上へ、わざと困ったような笑みを浮かべて呼びかける。最上はハッとしたように表情を取り戻して、力なく笑い、視線を落とした。
「すみません、その……さすが、五十嵐さんだなと思って」
自信を失ったように薄く笑う最上を見ると、胸の奥の薄暗い衝動が刺激される。もっと追い詰めて、自信を叩き潰して、泣きそうに歪む顔を見てみたい。そんなくだらない欲望が、一瞬頭をよぎった。
……けれど、今欲しいのはそんな反応じゃない。もう、最上を追い詰める狩りの時間は終わったのだ。長く息を吐いて気持ちを切り替え、俺は再び最上の作ったアプリへ視線を落とした。
「最上さんは、昔からユーザーを切り捨てるのが苦手なんですよ。誰か一人でも困る可能性があると、仕様から外せなくなる」
「ユーザーを、切り捨てる……?」
「そう。気づいてませんでした? ユーザーインタビューの意見を、全部同じ重みで拾おうとするんだから。まあ、そういうところ本当、最上さんらしいですけど……」
最上は、仕事だろうがプライベートだろうが、誰かを切り捨てることができない。困っているユーザーがいれば拾おうとするし、現場から要望が来れば、できる限り応えようとする。何ならユーザーの要望がない仕様ですらも、先回りして実装しようとする始末だ。
その甘さは、社内システムの保守程度なら美徳にもなっただろう。だが、外注案件では違う。優先順位を決められないまま要望を拾い続ければ、仕様は際限なく膨らむ。納期も、工数も、簡単に崩壊する。大口案件になればなるほど、どこかで線引きは必要だった。
最上の体から、ふっと力が抜ける。
「……そっか、そういうことだったんだ……」
呆然としたまま、最上は自分の作ったアプリを見つめていた。
しばらく黙り込んだ後、ゆっくりと息を吐いて、何かを整理し終えたような顔でこちらを見る。
「それ、仕事をしてる時に聞きたかったです。何が悪いのか、ずっと、分からなかったから」
「普通は教えますよ。あの時は、最上さんを追い詰めるのが目的だったので……ただ、伝えたところで、誰かを切り捨てるなんて、アンタにはできなかったんじゃないかなぁ」
わざとニッコリ笑って答えると、最上は呆気にとられたように目を丸くした。
これが最上遼馬という人間の本質だ。誰かを切り捨てるには、この人は優しすぎる。
甘くて、優しくて……どうしようもなく愚かな人間だからこそ、こんなにも目が離せない。
「俺のこと、恨んでますか」
鼻先が触れ合うほどまで、顔を近づける。至近距離で見つめ合った彼の目が、ますます大きく見開かれる。
しばらくじっと真剣な瞳で俺を見た後、最上は、諦めたような顔でふっと笑った。
「恨んでるって言っても、五十嵐さんなら喜びそうですね」
「……よくお分かりで」
そんな皮肉を言えるとは思わなかった。本当に思い通りにならない人だ。
でも、不思議と悪い気はしなかった。少し開いた唇に、誘われるように距離を詰める。
「!」
顔の角度を変えると、何をされるか分かった最上が息を飲み、ぎゅっと両目を瞑った。その無防備な反応に、胸の奥がじわりと満たされていく。誘われるように、そのまま唇を重ねた。
「——……ん」
———。
散々睦み合った空気を色濃く残した寝室の中。最上は疲れ果てたのか、気だるげな空気を身に纏い、ベッドで横になっている。
この部屋を用意した時、最上を警戒させないようにと、寝室は別々に用意した。そのため、一人用の狭いベッドを二人で使用しようとすると、否応なく密着して抱き合うような格好になる。
これはこれで悪くない。けれど、そろそろ寝室をまとめてもいいかもしれない。こちらへ寄り添うようにして身を預ける最上の顔にかかる前髪を撫でて避け、そんなことを考える。
最上に藤谷と美優の姿を目撃させたあの日、俺は最上に、何も考えなくていいと、最上が一番欲しいであろう言葉をかけ続けた。結果、その時目の前にいた俺が、最上の縋れる唯一の存在となった。
あの日から、最上は俺に触れられることを拒まない。戸惑うことはあっても、怯えることもない。こうして、同じ寝室の、同じベッドで眠ることすらも許されている。
——でも、それはまだ、俺だからじゃない。
藤谷を忘れられるなら、何でも、誰でもよかったのだろう。
今日、リビングを開けた瞬間、最上の姿が見えなかった時の焦燥を思い出す。
もし、この人がどこかへ行ってしまったら。もし、俺以外の何かを見つけてしまったら。出会った時から、唯一、俺の思い通りにならない最上のことだ。これだけ完璧に閉じ込めたつもりでも、いつかふっと消えてしまいそうな危うさがあった。
まだ足りない。この人を俺の元に縛り付けておくには、まだ、あと一手が。
最上の中に、俺じゃなきゃいけない理由が欲しかった。
抱き締める腕に力を込めて、近づいた彼のつむじに軽くキスをする。くすぐったそうに肩を竦める仕草が可愛かった。無防備な彼の唇を塞いで、もう一度何も考えられなくなるくらい喘がせてやりたい。劣情がチリチリと焦げ付くように胸を焼く。
だが、脱ぎ捨てた衣服のポケットの中で、スマートフォンの震える音が先ほどから鳴り響いている。おそらく、職場への報告を丸投げした部下からの連絡だろう。
最上も音が気になるのか、時折視線をそちらに送っている。耳障りなその音に仕方なく体を起こして、床に散らばった衣服を拾い上げた。邪魔な前髪を掻き上げ、ポケットから取り出したスマートフォンの通知を確認し、返信をしていると、ふと、最上から声をかけられた。
「……あの、五十嵐さん。相談があるんです」
真剣なその声に、スマートフォンから視線を外して彼を見る。最上もベッドから体を起こして、思い詰めたようにシーツを握りしめていた。
ただ事ではない雰囲気に身構えるが、表面上は完璧な笑顔を浮かべる。
「何ですか」
余裕を装う態度で聞き返すと、最上は意を決したように口を開いた。
「俺、今の会社を辞めようと思っています。休職したまま、皆さんに迷惑をかける形になって、申し訳ないです。でも……その、個人開発や、フリーランスを考えていて。俺なんかが無理だと思われるかもしれないけれど、それでも……」
最上は、震える声でそう言った。俺に否定されることを前提として、それでも、自らの意思を必死に示そうとしている。
俺は微笑んだ。胸の奥からせり上がる、黒く濁った愉悦を噛み締めながら。
「いいと思いますよ。最上さんくらいのスキルがあれば、個人開発でも十分やっていけるんじゃないですか」
「えっ」
俺の返事に驚いたように、最上が固まる。意外な答えだったのだろう、信じられないとその表情が語っていた。
「……反対されるかと思ってました。俺なんかには無理だって」
「まあ、最上さん一人じゃ無理ですよ。アンタみたいな甘い人間が、今の市場で生き残れるとは思えない。……でも、俺がいれば話は別だ」
最上の目が大きく見開かれる。俺という人間の輪郭が、彼の瞳の中に確かに刻まれるのを感じて、胸が打ち震える。
——そうか、これだ。……最上が俺だけを見てくれる、最後の一手は。
やっと見えた勝ち筋に笑みを堪えきれない。最上をまっすぐに見据えて、言い聞かせるように口を開く。
「アンタは何も考えなくても……いや、アンタは、自分のやりたいことだけ考えていればいい。最上さんの甘っちょろい理想を、今度は、俺がちゃんと実装まで持っていってやります」
最上の考えたプロダクトを世の中に売り込み、ビジネスにする。それができるのは、きっと俺だけだ。
確かな自信を込めた言葉に、最上の心が動いたことを感じ取った。
今、最上の頭の中では既に次の設計が始まっているだろう。何を作るべきか。どう形にするべきか。どんなユーザーへ届けるべきか。
過去ではない、未来を描き始めた姿に、彼の心を占めていたかつての男へ向けて、嘲笑を浮かべる。
——この人の思い描く未来に、お前はいない。
すっかり技術者の顔になり、集中している様子の最上を抱き寄せる。
「五十嵐さん?」
突然のことに驚いて俺を見上げる。その目にはもう、俺に対する怯えも、戸惑いもない。身も心も全て預けるような、信頼という特別な感情が芽生え始めたと分かって、驚くほど浮かれる自分がいた。この人の特別になれるなら、向けられる感情は恐怖でも憎悪でも何でもいいと強がりながら、それでもやっぱり一番欲しかったのは、こんな気持ちだったと思い知らされる。
腕の中の温かな体温が、胸を満たしていく。最上を失うかもしれないという焦燥は、もうどこにもなかった。
これから先、この人の未来を形にしていくのは、俺だ。誰より近くで、誰より深く、この人を理解できるのも、それを現実にするのも。
——最上遼馬という技術者の隣に立てるのは、俺しかいない。
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