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第15話
薄暗いリビングは、長く掃除をしていない埃っぽい空気で満たされている。閉まったカーテンの隙間から漏れる光は、陽の傾きを表すオレンジ色に染まっていた。
——今、何時だろう。
指先一つ動かすのも億劫で、ソファでぼんやりと天井を見上げる。横向きに体勢を変えた時、青白く光るディスプレイが目に入ったが、何もする気が起きない。
玄関の方から物音がして、うんざりした気持ちになる。
どこかへ隠れてやり過ごそうかと思った。しかし、行動に移す前にリビングの扉が開いて、その人物が俺を見つけてしまう。
「晴人!」
浮かれた声で名前を呼んだ美優がこちらへ駆け寄ってくる。荒れたリビングを見渡して、仕方ないなぁとでも言いたげに自分の腰に手を当てた。
「もう、またゴミが貯まってる! こないだ掃除してあげたばっかりなのに」
合鍵をよこせとうるさいので渡したら、ずっとこの調子だ。前触れなしに訪れては、俺の世話を焼いているつもりらしい。頼んでもいないのにご苦労なことである。
「今日、ちゃんとご飯食べた? 顔色悪いよ」
「……今、起きたところだから」
こちらを心配するような表情の美優に、込み上げる嫌悪感を飲み込んで最低限の返事をする。
嫌々ながら起き上がると、最近あまり眠れていないせいか、睡眠不足で頭が割れるように痛んだ。痛みを堪えているうちに、美優は勝手にリビングの片付けを始めている。
「そう言うと思った。ね、何か作ってあげるよ。何食べたい? 私、結構料理上手なんだよ」
「………」
食欲なんてあるわけがない。まして、美優の作ったものなんて食べられる気がしなかった。
答えないでいると、床に散らばった服やゴミを拾い上げていた美優が、リビングの隅に置かれたクリスマスツリーの前に辿り着いた。自分の背より高いそれを見上げながら顔を顰める。
「……これ、いつまで飾ってるの?」
「………!」
「もう二月なのに……片付けなよ。手伝ってあげる」
親切ぶってそんなことを言いながら、クリスマスツリーに手を伸ばした美優の元へ駆け寄る。ツリーに飾られたプレゼントのオーナメントへ、今にも触れそうな美優の手を、反射的に掴んで止めた。
「痛……っ」
思わず、力が入ってしまった。彼を追い出した美優の手で、彼と一緒に飾り付けたツリーに触れられるなんて許せなかった。
驚く美優に向かって、口角だけ無理矢理引き上げた笑顔で笑いかける。
「じゃあ、一緒に買い物行こうか」
「え……?」
「料理、作ってくれるんじゃないの」
しばらく怪訝な表情を浮かべていた美優だったが、俺がそれ以上の追求を許さない笑顔を浮かべていると、先ほど掴まれた腕を摩りながら小さく頷いた。
近所のスーパーへ出かけて、卵、鶏肉、玉ねぎ、他にもいくつかの食材を購入し帰宅する。どうやらオムライスを作ろうとしているらしい。
美優はキッチンに立って料理をしている。カウンター越しに見えるその姿を確認した後、ソファの隅に置かれた美優の鞄へと視線を移した。
鞄の口は開いていて、スマホの側面が覗いている。座る位置を少しだけ移動して近づき、鞄の中からそっとスマホを抜き取った。
自分の体で隠れるよう、美優からは死角になる場所にスマホを置き、バレないように、慎重に操作する。
パスコードは以前盗み見て知っている。俺の誕生日だ。覚えやすくて助かったわけだが、勝手に人の個人情報を使わないでほしい。
難なくパスコードを解除して、ホーム画面が表示された。すぐにメッセージアプリを起動し、交流のある相手をチェックする。
最新のやりとりから確認していくと、しばらくして目に飛び込んできた名前に、ハッとして手を止めた。
——いた。
『五十嵐迅』
その名前を見つけた瞬間、ぶわりと全身が総毛立つような気がした。
予想した通りだ——美優と、五十嵐は繋がっている。
美優は、俺を脅迫するために使った写真を誰かに撮影させたと言っていた。元データもそいつが持っていると。きっと、それが五十嵐だろう。
年が明けてしばらくして、最上の家が空き家になっていることを知った。壁一枚隔てた向こう側だ、ほとんど家から出ない俺が気づかない間に、引っ越しなんて大掛かりなことが行われたなんて考えにくい。まるで、わざと俺のいない時間を狙って、彼の家を引き払った人物がいるかのような手際の良さだった。
最上が消えた時期と同じくして、このマンションに住んでいるはずの五十嵐の姿もパタリと見かけなくなった。顔を合わせるたびにしつこく最上の状況に探りを入れてきたあの男が、黙っていなくなるなんておかしなことだ。彼の失踪と関係ないわけがない。
トークルームを開いて、二人の会話内容を確認する。ほとんど家から出ない俺がやむを得ず外出するのは、美優が「デートしたい」なんて自分の要求を突きつけて来た時だけだ。案の定、美優は俺が家を空ける時間帯を事細かに五十嵐に報告していた。
腑が煮え繰り返るような思いがしたが、今重要なのはそこじゃない。何よりも知りたいのは、五十嵐は今どこにいるのか。……そこには、最上も一緒にいるのかどうか。
美優と五十嵐のやりとりに、居場所に繋がるヒントがないかを探していく。
「晴人?」
画面に集中していたせいで、美優がこちらを見ていることに気づかなかった。
「何してるの?」
「別に。いい匂いがするから、お腹すいたなぁと思っただけ」
笑いながら、キッチンにいる美優に気取られないようそっとスマホを鞄の中へ戻した。美優は嬉しそうに笑って「もうすぐできるよ」なんて言っている。どうやら気づかれてはいないようだ。
ホッとして、先ほど見たメッセージの内容を思い返す。美優と五十嵐が最後にやりとりしたのは、もう一ヶ月以上も前だった。既に連絡は取り合っていないようだが、居場所に繋がるヒントはあった。
『二度と二人を会わせたくないなら、近づかないように』
そんなメッセージの後に、最寄り駅から数駅先の駅名が続いていた。
——ここだ。この場所に、きっと最上がいる。
やっと見つけた手がかりに、止まっていた心臓が突然動き出したみたいに大きく脈打ち始めた。また会える。今度こそ、絶対に離すものか。最上に再会した後のことを考えて、自然と口元が緩んでしまう。
やがてダイニングテーブルに並んだ、美優の料理を食べている時も、あまりにも俺がニコニコしているものだから、勘違いした美優が「そんなに嬉しい?」と機嫌をよくしていたくらいだ。
電車に揺られ、五十嵐のメッセージに書かれていた駅名で降りる。さほど大きな駅ではないが、駅前はほどよく賑わっており、平日の昼間でも利用者は多いようだ。
髪型を隠すための黒いキャップを目深に被り直す。ずれたマスクの位置も直した。一目では俺だと分からない。これで五十嵐にしろ最上にしろ、遠目から見つかることはないだろう。
わざわざ近くづくなと警告する場所だ。きっと、この駅からそう離れていないところにいるはずだ。
とはいえ、やみくもに探すのは効率が悪い。ひとまずスマホの地図を見ながら駅周辺を歩き、捜索のあたりをつけることにする。
最上の生活スタイルから考えて、駅周辺で利用する可能性のある施設は、スーパー、コンビニ、定食屋、心療内科だろうか。
特に心療内科は定期的に通う可能性がある。ただ、頻度は一ヶ月に一度くらいで高くはない。それにスーパーやコンビニなど、不特定多数の人間が訪れる場所とは違って、来院者を観察できるような場所も周囲になく、目立ちすぎるという欠点があった。
病院は最終手段にして、今日のところはひとまず駅前のファストフード店に入った。二階窓際の席に座ると、駅の出口とスーパーの入り口をどちらも視界に収めることができる。
ここで行き交う人を観察し、最上か、あるいは五十嵐らしき人が通りかかるのを待つ。気の遠くなるような話だが、何もしないよりはずっとましだった。最上のいないあの部屋で過ごす毎日に、これ以上耐えられる気がしない。どんな小さな希望でもいい、その希望が最上に繋がるのなら、今の俺には縋るしかない。
昼前に入った店内は、昼食どきに一度混み合い、満席になったが、その後また人が引いて空席が目立つようになった。
同じ注文で何時間も居座るのは気が引ける。スマホから何度か注文し直して時間を稼いだ。それでも、十六時を過ぎた頃から店員に不審な目を向けられるようになった。
怪しまれているのは確かだったが、人目なんて気にしていられない。注意されたら、その時はその時だ。一心不乱に窓の外を見つめる。行き交う人々の中に、最上の姿を探して。
だが日が暮れて辺りが薄暗くなると、人の判別も怪しくなってきた。
この辺りが潮時かもしれない。元々、今日一日で何とかなるとは思っていなかった。しばらくは時間の許す限り、この周辺を探し回るつもりだ。
今日のところは諦めようと席を立ち、氷が溶けてすっかりぬるくなったアイスコーヒーのカップを持ち上げた、その時だった。
見覚えのある人物が、駅の改札から出てきた。ザワザワと、全身が総毛立つような感覚に襲われる。
緩く束ねた長髪、気だるそうな目元、帰宅ラッシュの人並みの中でも、一際目立つ長身。
——五十嵐だ。
理解した瞬間、残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干し、カップをゴミ箱に捨てた。早足に階段を駆け下りて、見つからないように、慎重に店を出る。
冬の夜の、肌を刺すような冷気に晒される。マスクを外していたことに気付いたが、付け直しているような余裕はなかった。
幸い五十嵐を見失うことはなく、改札から出たその男の、夜道を歩く背中を足音を立てずに追いかける。
——本当に、いた。
見間違うはずがない、あれは五十嵐だ。嫌味なほど長い脚で、コツコツと靴音を響かせながら、住宅街へ向かっている。
息を潜めて男の後をつけながらも、最上の居場所に近づいているかもしれないという興奮で、心臓がうるさかった。会いたい、早く会いたい。気持ちばかり逸る自分を落ち着かせる。
まだ、だめだ。今日は家を確かめるだけ。彼に会うなら、五十嵐のいない時間帯を狙わなきゃいけない。
五十嵐は最上があれだけ怯えていた相手だ。もし二人が一緒にいるのだとしたら、それは最上が望んだ状況ではないだろう。下手をすれば監禁されている可能性だってある。救出は慎重にしなければならない。
頭の中で段取りを組み立てながら、五十嵐の背中を追いかける。
急に五十嵐の背中が住宅街の曲がり角を曲がって消えた。ここまで来て見失うわけにはいかないと、足早に同じ角を曲がる。
「!」
だが、その角を曲がった瞬間、絶望した。
そこには待ち構えていたように、足を止め、こちらを見て笑っている五十嵐の姿があったのだ。
「こんばんは、藤谷くん」
五十嵐は少しも動揺する素振りはなく、ニコニコと笑っている。その異様な様子にたじろいで、よろめくように後ずさる。
一体、いつから気づいていたのか。身構えながら鋭く五十嵐を睨みつけると、五十嵐は笑みを深めて俺に言った。
「いつから気づかれてたのか、って考えてる? 最初からだよ。あの子のスマホに、最上さんの居場所のヒントを残しておいたところから、ぜーんぶ。君が簡単に諦めるとは思えなかったから、どうにかして手がかりを探すだろうなって……まあ、まさか見つけるまでに一ヶ月もかかるとは思ってなかったけど。大変だったんだよ、仕事帰りにわざわざこの駅に寄るの」
やっと見つけたと思っていた、その手がかりすら五十嵐の仕組んだものだと分かって、怒りと、悔しさで、体中の血が沸騰したみたいにカッとなる。
何か考えるより先に手が出ていた。五十嵐のコートの胸ぐらを乱暴に掴んで、彼に詰め寄る。
「遼馬さんは、どこにいる」
「さぁ。少なくとも、この辺ではないかな」
動揺のかけらもなく、五十嵐はさらりとそう答えた。
「君こそ、こんなところにいていいの? まだ最上さんを諦めてないって知ったら、あの子、悲しむんじゃないかなぁ」
それどころか、俺を憐れむような目で見て、わざとらしく大袈裟な口調でそんなことを言う始末だ。俺は怒りを堪えきれずに、声を張り上げた。
「うるさい。遼馬さんを返せ!」
「はっ」
それまで外面のいい笑顔を浮かべていた五十嵐の雰囲気がガラリと変わり、不快さを露わにした歪んだ笑みになる。多分、これがこの男の本性だろう。
「返せとは随分だな。別に俺が奪ったわけじゃない。そもそも、最上さんは元々、お前のものじゃないだろ」
「ふざけるな……!」
「ふざけてないよ。君の元を去ったのも、俺を選んだのも、全部あの人の意思だ。証拠、見る?」
五十嵐はコートのポケットから、自身のスマホを取り出した。片手で何か操作をすると、突きつけるように画面をこちらへ向けてくる。
心臓が止まるかと思った。そこに映っていたのは最上だった。
知らない部屋、知らない服を着て、だけどよく知っている真剣な横顔で、パソコンのディスプレイを眺めている。
『最上さん、今何してるんですか』
スマホのスピーカーから五十嵐の声が聞こえる。静かな夜道で、その声はやたら大きく響いた。
最上が五十嵐の呼びかけに反応して、手を止める。
『これですか? 五十嵐さんの言ってた、マルチモニター制御の実装を試してて……って、何撮ってるんですか』
『いや、真剣だなぁと思ったんで』
揶揄うような五十嵐の口調に、最上は呆れた顔になる。こんな顔を、最上が五十嵐に向けているという事実が信じられなかった。
最上は五十嵐の姿を見るだけで、怯えてまともに会話もできなくなるほどだった。こんな気安い空気で会話するような関係ではなかったはずだ。信じられない思いで、五十嵐を見る。
いったい、最上に何をしたのか。俺の視線を受け止めた五十嵐は不敵に笑っている。
動画はまだ続いていた。見たくないのに、画面に意識が引き寄せられる。
『五十嵐さん、何言って……ん』
非難めいた声で最上が言った後、突然、画面が揺れる。画角が変わり、天井を見上げるようなアングルになった。画面の端に、最上と、最上に覆い被さるような五十嵐の姿が映っている。
残酷な光景に、目を見開く。何かが胃の底から込み上げてきそうだった。見たくない。聞きたくない。それなのに、目を逸らすことも、耳を塞ぐこともできない。
五十嵐の、殊更甘ったるい声が響く。
『最上さん、俺のこと好き?』
『えぇ……五十嵐さん、最近そればっかり』
『いいから、言って』
『………』
最上が恥じらうように、目を伏せる。その唇が躊躇いながらも、薄く開いた。
いやだ、いやだやめろ。そんな言葉聞きたくない。
俺だけだって言ったのに。あなたの全部、俺のものだって。他の誰にも言わないで。笑いかけないで。聞きたくない——遼馬さん!
『……好き』
「やめろ‼︎」
悲鳴のように叫んで、やっと呪縛が解けたようにスマホから視線を外し、耳を塞ぐ。
心臓がばくばくと鳴ってうるさかった。いつの間にか、両目からとめどなく涙が溢れている。
今見た光景を記憶から消してしまいたい。なんで、どうして……!
「嘘だ、こんなの……」
「信じたくない気持ちは分かるけど、そういうことだから」
五十嵐はわざとらしく俺に憐れみの目を向けている。ぼたぼたと流れ落ちる涙を止められないまま睨みつけると、その男は勝ち誇った顔で、歪んだ笑みを浮かべた。
「君も、最上さんのことは忘れて、どうぞあの子とお幸せに」
その言葉を最後に、いつ五十嵐がこの場を去ったのか分からない。誰もいない住宅街の夜道で、しばらく俺はそこから動けなかった。
魂が抜けたような顔で呆然と泣き続ける俺を、時々すれ違う通行人がギョッとした目で見ていく。
最上が五十嵐に好きだと告げる、あの瞬間の、恥じらうような表情が脳裏に焼きついて離れなかった。ほんの数ヶ月前までは、あの場所は俺のものだったはずなのに。彼の視線も、声も、その温もりも。全部、俺だけに向けられていたはずなのに。
「遼馬さん、なんで……」
問いかけても、答えてくれる人はいない。なんで俺の前からいなくなってしまったのか。なんであんな男の元にいるのか。全部俺だけのものだと言って優しく笑ってくれた彼が、もう自分の元に帰ってくることはないのだという事実が、どうしても受け入れられなかった。
フラフラとおぼつかない足取りでなんとか帰宅し、そのままソファに横になった。乾いていた涙がまた溢れてきて、もうそこから一歩も動けなかった。
もがいても抜け出すことのできない、底なし沼に落ちてしまったようだ。上手く呼吸すらできず、時々息苦しさに呻いて胃の中のものを吐き出した。
胸の中で渦巻くドロドロした感情を、どうしても消化できない。彼を失った悲しみと、どうして自分を捨てたのかという恨みと、俺からあの人を奪った五十嵐への嫉妬と、彼のいない人生なんて、もう何の意味もないと思う絶望と。様々な感情がうるさく混ざり合って、耳鳴りのように鳴り響いていた。
二日後の夜に、また美優がやって来た。勝手に鍵を開けて入り込み、ソファの傍に立って心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「ねぇ、晴人、本当に大丈夫……? ひどい顔色だよ、病院に行ったほうがいいよ」
うるさい。俺から最上を奪ったくせに。あんな男に協力したくせに。
平気で俺に話しかけてくる、美優の声が耳障りだった。それでも、僅かに残った理性が、あの忌々しい写真で最上の笑顔を曇らせたくないという一心で、美優への攻撃を抑え込む。
「……あのね、社長が、晴人がこの前コンペに出した曲、今回は見送るって……でも、また聴きたいって言ってたから、次は」
「無理だよ」
美優が躊躇いがちに告げた仕事の話に、自嘲めいた声で返事をする。
「晴人……?」
何度も、パソコンに向かおうとした。打ち込みが無理ならギターでも、シンセでも、何でもいいから掻き鳴らそうとした。今のこのぐちゃぐちゃな感情でいいから、音に変えようとした。
でも無理だった。何も浮かばないのだ。あれだけ絶えず鳴り響いていた旋律が。彼を思うたび、どこまでも広がっていた音の可能性が、綺麗さっぱり消えてしまった。
「スランプなんだ。何も浮かばない。……ごめん、しばらく一人にして」
ぐったりとそう言った俺を、美優は最後まで名残惜しそうに見ながら、部屋を出て行った。
一人になると、またあの耳鳴りがやってくる。うるさい、うるさいうるさいうるさい。耳を塞いでも鳴り止まないそれから身を守るように、膝を抱えて体を丸める。
最上がいなければ、俺はもう、自分の音すら見つけられない。
◆
窓から差し込む午後の柔らかな光が、リビングの木目調のテーブルを明るく照らしている。五十嵐が淹れてくれたコーヒーの香りが、穏やかな空気の中に溶け込んでいた。
テーブルの上に差し出された書類を手に取る。厚みのあるその紙束は、彼が数日でまとめ上げたという事業計画書だった。
「業務委託、ですか」
表紙の文字をなぞりながら呟く。そこには、俺と五十嵐、それぞれが対等な個人事業主として契約を結ぶ形が記されていた。
「そう。最上さんは設計と開発に専念。俺は案件の受託と外部との調整……まぁ、プロデューサー兼営業みたいな感じですね」
五十嵐はソファに深く腰掛け、穏やかな笑みを浮かべている。分かりやすく整理された書類をめくり、該当する箇所を指し示しながら、説明を続ける。
「利益は案件ごとに、こうして透明性を持って分配しましょう。まずは、最上さんが今組んでいるタスク管理ツールをベースに、個人投資家をターゲットにした投資管理プラットフォームをリリースする。戦略としては、基本機能を無料で開放するフリーミアムモデルを採用し、より高度な分析や管理ができる有料サブスクリプションへ繋げるんです」
五十嵐の言葉には淀みがない。彼は書類の傍らに置かれていたタブレットの画面を操作し、想定ユーザー数や収益予測のシミュレーションを見せてくれた。
「これが話題になったら、次は個別開発の受注です。個人投資家は、独自のルールで投資計画を立てることが多い。既存ツールじゃ満足できない層に向けて、要望に合わせたカスタム機能を別案件として開発していく。どうですか、ユーザーに寄り添いたいっていうアンタの理想、ここでなら現実にできるんじゃないですか」
五十嵐の説明を、俺は呆然として聞いていた。かつて職場で時代遅れだと切り捨てられた理由でもある、ユーザーを切り捨てない実装が、価値あるビジネスとして提示されている。
さすが自分より年下でありながら、チームのリーダーを任される人だと、純粋な尊敬の念を抱く。
「最上さん?」
困ったように笑って名前を呼ばれ、俺はハッと意識を現実に引き戻した。
「すみません、なんか……圧倒されちゃって」
これだけの計画を、本業の傍らで、たった数日で組み立ててしまうなんて、やはり五十嵐は別格だ。
俺が一人で考えていた事業計画は、こんな大層なものではなかった。比較すると、どうしても、子どものお遊びに見えてしまう。かつて職場で、自分が嘲笑の対象となったことも、致し方ないと思えてしまうほどに。
「すごい……五十嵐さん、ここまで考えてくれたんですね」
「言ったでしょう。約束は守りますよ」
五十嵐は俺の目を見つめ、気だるげに見えるその目を細めて、優しく微笑んだ。
一緒に仕事をしていた頃は、こんな顔見たこともなかった。五十嵐の笑顔の裏には、いつも、底知れぬ悪意のようなものがあって、笑いかけられるたびに恐ろしく、動悸がしたものだ。
五十嵐の気持ちを知った今、彼から向けられる笑顔には、胸の奥にじわりと熱が溜まるような感覚がある。顔の温度が上がった気がして、俯き書類を見るふりをして隠す。
「ただ、長期戦にはなります。最初のうちは利益もそれほど上がらないかもしれない。……まぁ、そこはアンタが心配することじゃないんですけどね」
「そうですね……五十嵐さんなら、ちゃんとそこまで予測してるんでしょうし」
五十嵐の戦略を組み立てる力は本物だ。信頼からそう言えば、五十嵐はしばらく意表を突かれたような顔になった後、不敵に笑った。
「……当然。俺を誰だと思ってます?」
言いながら、五十嵐はタブレットを操作し、さらに別の資料を提示した。
「狙いは投資家同士のネットワークです。有名なインフルエンサーに先行利用させて、拡散を狙う。ただ、マーケティングが上手くいっても、中身が伴っていなければ一過性で終わる可能性はありますけど……まあ、そこは心配ないですよね? 最上さん」
五十嵐の、挑戦的で、それでいて信頼を湛えた瞳が俺を捉える。心臓がやたら大きな音を立てた。
俺には、五十嵐ほどの才能はない。だけどたった一つ、誰にも負けないと、自信を持てるものがある。
「任せてください。……期待に、応えます」
怯むことなく、俺は力強く頷いた。五十嵐の提示する未来は、あまりにも眩しく、そして胸が騒ぎ出すほどの、希望に満ちていた。
湯気の立ち上る大根と厚揚げの煮物、色鮮やかなほうれん草のおひたし。食卓に並んだ家庭的な料理の香りが、昼食も忘れてコーディングに没頭していた空っぽの胃をくすぐる。
箸を動かしながら、話題は自然と開発中のプロダクト——投資家向けタスク管理ツールの仕様へと移っていた。
「マルチモニターのプリセット切り替え機能は、有料のプレミアムプランに含めたほうがいい。効率を追求するプロ投資家なら、これを目当てにサブスクリプションへ転換してくれるはずです」
五十嵐は煮物を口に運びながら、淡々と、けれど確信に満ちた口調で戦略を述べる。俺は味噌汁のお椀を持ったまま、少しだけ眉をひそめた。
「でも、基本機能の中に切り替えがないと不便ですよ。まずは使い勝手の良さを実感してもらわないと、アクティブユーザーとして定着しないんじゃないでしょうか」
「お人好しだな。ないと不便だからこそ、対価を払う価値が生まれるんですよ」
「でも、他にも有料プランに移行したくなる機能案はあります。例えば、外部APIとの連携とか……」
気づけば、食事の手を止めて熱っぽく語っていた。画面越しの五十嵐の声に怯え、言葉を失っていた頃は考えられなかったことだ。
「最上さん、結構言うようになりましたね」
五十嵐が箸を置き、苦笑しながら俺を見た。その呆れたような眼差しに、俺はハッとして我に返る。少し調子に乗りすぎたかもしれない。
「す、すみません……なんか、もし間違った方向に進みそうになっても、五十嵐さんなら正解を教えてくれると思うと……つい、安心しちゃって」
卑屈な謝罪というより、信頼を込めてそう告げる。五十嵐のような優秀な男が自分を対等なパートナーとして扱い、意見を求めてくれる。その高揚感が、俺の判断力を狂わせていた。
五十嵐はふっと目を細め、満足そうに笑った。
「いいんですよ。そもそも最初から、俺に畏まる必要なんてないって言ってるでしょう。最上さんのほうが年上なんですから」
「あんなの真に受けられませんよ、普通……調子に乗るなって、脅されてるんだと思ってましたから」
自嘲気味に笑う俺に、五十嵐は大袈裟に肩をすくめて見せた。
「ひどいな。俺はもっと、最上さんと仲良くなりたいだけなのに。……というわけで」
身を乗り出し、じっと俺の瞳を捉えて言う。
「そろそろ、敬語やめませんか」
「えっ」
唐突な提案に、喉まで運んだご飯を危うく吹き出しそうになった。
「いや、でも……そんな、五十嵐さん相手にタメ口なんて、無理ですよ」
「会社を辞めるんだから、もう上司と部下じゃないでしょう? 個人事業主同士、対等なビジネスパートナーじゃないですか。それに、最上さんのほうが年上なのに、いつまでも敬語で話されると、話しにくくて」
「え、えぇ……」
理路整然とした言葉に、また丸め込まれそうになる。五十嵐の言葉には、いつも抗いがたい力があった。
「なんで、俺の名前、呼んでください」
「い、五十嵐さん……」
「ちゃんと名前で」
逃げ道を塞ぐような、けれど甘い期待を孕んだ視線。俺は観念して、熱くなった顔を伏せながら、震える声を絞り出した。
「じ……っ、迅、さん」
「さんはつけないで」
「迅……くん」
「くん付けねぇ。一気に呼び捨てはハードルが高いですか」
「勘弁してください……そもそも、呼び捨てなんて、家族くらいしかしたことなくて」
必死の抗議に、五十嵐は楽しそうに声を上げて笑った。
「ふぅん。まぁ、敬語をやめてくれるなら一歩前進かな。……今後に期待します」
いったい、何の期待だというのか。元上司である五十嵐に対して、敬語を取り払い、名前で呼ぶだなんてハードルが高すぎる。まだ舌の上で転がる五十嵐の名前に、呼び慣れない違和感があった。
不意に、向かいに座る五十嵐が、箸を止めて俺をじっと見つめる。
「ね、最上さん。あれ、言ってくださいよ」
「……あれって?」
聞き返しながらも、心臓が小さく跳ねる。彼の瞳が、冗談めかした光の奥に、獲物を待つような熱を孕んでいることに気づいてしまったからだ。
「俺のこと、好き?」
「!」
不意打ちに近いその問いに、持っていた箸が指先で微かに震える。
「五十嵐さ……じゃなくて、迅くん。最近、そればっかり言わせようとする……」
「何度聞いても足りないんですよ」
先日、ベッドの上で無理矢理その言葉を俺から絞り出させてからというもの、彼は味を占めたのかことあるごとに愛の確認を求めてくるようになった。
断ることだってできるはずだ。けれど、その度に脳裏をよぎるのは、冷静で、完璧で、誰をも支配するはずの男が見せた、「嘘でもいいから聞きたい」という、あの切羽詰まった、今にも泣き出しそうな子どものような表情。
ずっと完璧だと思っていた男の、時折見せる脆さのようなものが、最近、胸に刺さって抜けない棘のように、俺から拒絶を奪う。
「いいじゃないですか。減るもんじゃなし、好きな人から自分を好きだって聞きたいのは、当たり前でしょう?」
五十嵐は肘をつき、楽しそうに首を傾げる。その軽やかな口調とは裏腹に、向けられる視線は俺の反応を一滴も漏らすまいと執着に満ちている。
「嘘でもいいから。……お願い、最上さん」
「迅くん……」
卑怯だ、と思う。そんな顔をされたら、どうしても無視できない。
俺が唇を噛み締め、熱くなる顔を伏せながら言葉を紡ぐのを、彼は満足そうに、けれどどこか祈るような真剣さで待っている。
「……好き、だよ」
消え入りそうな声で口にすれば、五十嵐の顔が、少し早い春が訪れたかのように輝いた。
「ありがとうございます。嬉しい」
そんな顔をされると、こっちの調子まで狂ってしまう。
職場で俺を冷酷に追い詰め、時代遅れだと切り捨てたあのリーダーと同じ人物だとは、どうしても思えない。俺のたった一言で、こんなにも無邪気に喜ぶ彼を見ていると、あんなふうに拒絶していた過去の自分さえ忘れてしまうような、甘い錯覚に陥ってしまう。
……いけない。気恥ずかしさを誤魔化すように、俺は残った料理を急いで口に押し込んだ。
幸せそうに目を細めてこちらを見つめる彼の皿は、既に空っぽになっていた。俺を視線だけで絡め取ろうとするような、その底知れない独占欲に気づかないふりをして、ただ温かな煮物の味に集中しようと努めた。
数日前から、五十嵐の強い希望で寝室を一つにすることになった。
彼はわざわざ一人用より二回りは大きな、真新しいキングサイズのベッドを買い揃えてから俺に提案した。外堀を埋めるようなその周到なやり方が五十嵐らしいと苦笑しつつも、今の俺にはそれを断る理由もなかった。
五十嵐の寝室には彼が愛用する香水の、ムスクの甘い香りが微かに漂っている。大きなベッドの中、五十嵐は広いスペースを持て余すようにして、ぴったりと俺に密着してきた。
「最上さん」
蕩けるような甘い視線が俺を絡め取る。彼はシーツに手をついて、上から覆い被さるように俺を見下ろすと、愛おしげに俺の頬を撫で、口の端に自分の唇をそっと押し付けてきた。柔らかな唇の感触がくすぐったい。
「……迅くん」
「なぁに、最上さん」
「今、思いついたんだけど、こういうのはどうだろう。マルチモニターのプリセット機能の中にも、段階をつけて、無料で使える範囲はモニター手動切り替えまでにするとか」
「……最上さん?」
「!」
ニッコリと、怖いくらいの笑顔になった五十嵐が、俺に顔を近づけて大きな手で俺の頬を両側から掴んだ。頬を強く挟まれて、唇が潰れ話せなくなってしまう。
「仕事脳なのはいいですけど、こんな時くらいムード壊さないでもらえますか」
「す、すびばせん……」
無理矢理話すと変な声になってしまった。余程おかしかったのか、五十嵐は子どもみたいな顔でふはっと笑う。
「ほんっとに、設計とかコーディングのことになると、人が変わるな、アンタは」
「そ、そうかな……」
「なんで照れるかな。褒めてないですよ、むしろ責めてるんですけど」
呆れ声で言った後、五十嵐は仕方なさそうに、けれど愛おしそうに笑って、再び俺に顔を近づけた。顔の角度を僅かに変えて、長いまつ毛を伏せる。
「ベッドでくらい、仕事じゃなくて、俺のこと考えて」
「迅く……ん、」
柔らかい口が俺の口を塞ぐ。軽く触れたそれはすぐ離れて、そしてまたすぐに重ねられた。
「……んっ」
———。
オレンジ色のベッドライトの明かりだけが、薄暗い寝室を照らしている。
五十嵐の腕枕で、寄り添うようにその首筋に頭を預ける。素肌から伝わる、温かな体温が心地いい。生きている人の気配がする。この世界で、自分が一人ではないと実感できる温もりだ。
五十嵐の体温に包まれながら、目を閉じた。記憶の奥に沈めて、必死に、必死に蓋をして、思い出さないようにしている、大切な人の記憶に思いを馳せる。
自分にはあまりにも不釣り合いな、あのきれいで、優しくて、まっすぐな青年——藤谷晴人のことを。
藤谷がいなければ、俺はきっと、今ここに存在していない。あのまま自分の無力感に打ちひしがれて、薄暗く汚いマンションの一室で、誰にも知られずに、きっとこの世から消えてしまっていた。
今俺がこうしていられるのは、藤谷がいてくれたからだ。
だからこそ、彼の笑顔を守りたいと思う。彼の幸せを、心から願う。
街中で見かけた、美優と連れ立って歩く藤谷の姿を思い出す。また暴れ出しそうになる怪物を、必死に押さえ込んで、今やっと、その現実を受け入れる。
藤谷は、俺がいなくても笑っている。きっとこれから、彼に相応しい、輝かしい未来を歩んでいくのだろう。そう思えば、身を引き裂かれるような思いで彼の元を去ったのは正しかったと確信できた。
彼との思い出をまた、記憶の奥深くに沈めて、目を開けた。目の前には、気だるげな目を伏せて幸せそうに俺の髪を弄る、五十嵐の顔があった。
五十嵐もまた、自分とは住む世界の全く違う、優秀な人物だ。若くして出世し、誰からも慕われ、期待される、輝かしい未来が約束された男……でも、二人には確かに、決定的な違いがある。
「迅くん」
慣れない名前で呼ぶと、五十嵐は伏せていた視線をこちらへ向けて笑う。
「何ですか。仕事の話なら、また明日……」
「……好きだよ」
「………!」
俺の言葉に、五十嵐の呼吸が止まるのが分かった。しばらく放心したような顔をしていたが、すぐにいつもの余裕のある態度に戻って、呆れたように笑う。
「どうしたんですか、急に」
「うん。ちゃんと言わなきゃと思って」
ずっと、嘘でいいと請われて、その希望を叶えていただけの告白。それを、初めて自分の意思で口にする。
「俺、迅くんのこと、ちゃんと好きだよ。……君が俺にしたことは、やっぱりどうかと思う。もっと、他に良い方法があったんじゃないかなって思うこともある。でも……完璧に見えて、君は、意外と脆いから」
無理をするとすぐに体調を崩すくせに、職場では常に完璧なリーダーとして気を張り、家に帰るまで何でもないふりをしてしまうこと。
野菜が苦手なくせに、それを周囲に悟られないよう、わざと味わわずに一気に飲み込んでしまうところ。
好きな相手に素直に優しくできず、執拗に追い詰めてしまう歪な性質。そのくせ、いざ拒絶されると、世界が終わったかのように傷ついた顔をするところ。
嫌われても、憎まれても構わないような傲慢な振る舞いをする一方で、夜になれば「嘘でもいいから」と愛の言葉を欲しがり、それを守るべき宝物のように大切に抱き締めるところ。
それから、これは予想だけど——自分は、名前で呼んでほしいと言うくせに、過去の誰かと重ねられることを恐れて、俺の名前を、呼べないところ。
完璧に見えた五十嵐迅の、完璧ではない綻びを一つ知るたびに、俺の心には彼に対する情のようなものが、雪のように静かに降り積もっていった。
五十嵐と藤谷の、決定的な違い。藤谷は今、俺がいなくても幸せだ。だけど、五十嵐は多分、俺がいないと生きていけない。
完璧に振る舞うこの男が、俺みたいな何の取り柄もない人間の特別になることを、狂おしいほど求めているなんて、少し前なら信じられなかっただろう。
でも、もう俺は知ってしまった。五十嵐は完璧ではない。俺と同じ、恋なんて愚かな感情に振り回される、ただの人間だということを。
「そうまでして俺のことを求めてくれたんだって、今はもう分かってるから。嘘でもいいって、君は言うけど」
俺の話す言葉を、五十嵐は、期待と不安の入り混じった、複雑な表情で待っている。
いつも余裕の笑みを浮かべている、有能の代名詞みたいな男、五十嵐迅のこんな顔は、きっと職場の誰も知らない。そう思うと、自然とふっと笑顔が浮かんだ。
「嘘じゃない。ちゃんと好きだよ、迅くんのこと」
「——……あ」
その言葉を告げた瞬間、緊張の糸が途切れたように、五十嵐の目から、大粒の涙が溢れ出した。
職場での彼を知る人間が見れば、誰もが絶句するような光景だろう。まるで大きな子どもだ。俺は愛おしさに耐えかねて、思わず彼の頭に手を伸ばし、優しくその髪を撫でた。
五十嵐はふっと口の端を持ち上げ、泣きながら、自嘲気味に笑った。
「子ども扱いしないでくださいよ。これでも俺、アンタの上司だったんですから」
「あ、ご、ごめん……!」
慌てて手を離そうとすると、彼は逃がさないように俺の手を自分の頭に押さえつけた。
「……うそ。やめないで、そのまま」
五十嵐は俺の手のひらに頭を預けたまま、掠れた声で、独り言のように言葉を漏らした。
「……最上さん、俺、本当はただ、嬉しかったんです。あの時、仮眠室で……アンタだけが俺を心配して、こうして、頭を撫でてくれたから」
彼の言葉に、指先が微かに震える。
五十嵐の執着の始まりを、俺はまだ、ちゃんと聞けていない。だけど、記憶の奥底に、この男をこうして撫でた日があったような、そんな感覚が沈んでいた。
俺の差し出した手が、この男の心にどれほど深く、取り返しのつかない楔を打ち込んでしまったのか。彼が特別を求めて、どれほどの狂気に身を投じてきたのか。
犯した罪の重さを思えば、許してはいけないのかもしれない。けれど、泣きじゃくりながら俺の手のひらを求める彼は、あまりにも無防備で、孤独に見えた。
「最上さんに撫でてもらえるの、嬉しい」
「迅くん……」
「最上さん……ごめん。ごめんなさい。好きです。あなたが、好きだ……愛してる」
「うん」
「誰にも渡したくない……好きなんです。ずっと……あの日からずっと、俺には最上さんだけだ」
堰を切ったように溢れ出す、五十嵐の告白に、じんと胸が震える。
「俺も……好きだよ」
静かで、穏やかな愛おしさが降り積もっていく。
俺の初めての恋は、もっと激しくて、痛いものだった。
自覚した瞬間から、いつか訪れる終わりが怖くて、考えるだけで心が悲鳴を上げるような、切ない独占欲に焼かれる日々。相手の輝きが眩しすぎて、自分の無力さに絶望するような、そんな嵐のような感情。
けれど、こんなに穏やかで、静かな夜、人知れず降り積もる雪のように。自分の中の空虚な空間が、ただ満たされていく恋もあるのだと、知った。
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