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第16話

 季節は移り変わり、春が訪れた。  去年の今頃は、長く所属していた部署の人員削減で異動命令が出て、新しい部署で初めて五十嵐と顔を合わせていた頃だ。  とは言っても、五十嵐の姿は社内で時折見かけることはあった。目立つ容姿だし、華々しい活躍の噂は他部署まで届くほどで、社内報に写真が載っていたこともある。 『初めまして、あの……最上といいます。よろしくお願いします』  異動初日、所属チームのリーダーである五十嵐に挨拶をした際、ほんの一瞬、五十嵐の顔から表情が消えたような気がした。何かに傷ついたような、そんな反応だった。  すぐにニッコリと完璧な笑顔を浮かべ、挨拶を返してくれたが、今思えば、五十嵐が俺を休職へ追い込むような強引な手段に出る決め手となったのは、あの挨拶の瞬間だったのかもしれない。  三月末で正式に、俺は会社を退職した。現在は個人事業主として、ネット経由で小規模な開発依頼をこなす傍ら、五十嵐と例の投資管理プラットフォームのリリースに向けて準備をしている。  実装はほぼ終わった、あとは初動のプロモーション調整だけ。ここは五十嵐の担当なので、このところ五十嵐は本業に加えて、新規事業の立ち上げもこなし、多忙を極めていた。  この日も、シャワーを浴びてリビングへ戻ると、五十嵐は作業用のデスクでパソコンを開いていた。在宅で仕事中によく掛けている、スクエアフレームの眼鏡のレンズに、青白いディスプレイが反射している。  真剣な横顔は、少しやつれているように見えた。体調が悪いのではないかと心配になり、近くで様子を見ようと五十嵐の隣に用意された自分用のチェアに座る。 「最上さん」  こちらに気づいた五十嵐がディスプレイから顔を上げた。いつものように、完璧な笑顔を浮かべているが、やはり疲れが窺える。 「迅くん、仕事、まだかかりそう?」 「いえ、今日はあと、溜まってる連絡に返信するだけ」 「無理しないで。何か手伝えることある?」 「これは俺の仕事。アンタはアンタのやりたいことだけ考えてて。この前入った建設現場のスケジュール管理マクロの開発、終わってる?」 「うん」 「じゃあもう少し待ってて。今日は一緒に寝れそうだから」  その言葉を聞いてホッとする。昼間は普通に働いているのに、帰宅後も俺の案件の調整や管理をしていて、いつか倒れやしないかと心配だった。  ただでさえ、限界を超えた仕事をすると、五十嵐は体調を崩しやすい。自分との仕事のせいで無茶をして、そんなことになったらと思うと、気が気じゃなかった。  五十嵐はチャットアプリの返信欄へカーソルを合わせると、AI生成の返信文をフォーマットとしてコピーし、手慣れた様子で数箇所だけ書き換えた。後は送信するだけ。あっという間の出来事だ。 「すごいなぁ……最新ツールを使いこなしてる」 「最上さんはAIと相性悪そうだからなぁ。コーディングなんて特に、AIを使いこなせなきゃ時代に置いてかれる分野なのに」 「う……っ、また時代遅れって言う……?」 「いや、アンタのコーディングスピード、恐ろしいからな……AIの書いたコードをデバッグするのと、自作ライブラリをフル活用した驚異的な人力コーディングと、どっちが効率的なのか、俺にも分からない」 「えっ、そ、そうかな」 「喜んでる……クソ、かわいいな……」  悔しそうにそう呟いた後、五十嵐は更にスピードを上げて残ったメッセージの返信をこなしていった。区切りがついたのか、ノートパソコンのディスプレイを閉じて立ち上がると、かけていた眼鏡を外してニッコリ笑う。 「よし、じゃあ寝ましょっか」  五十嵐に自分の意思で好きだと伝えた、あの夜から、俺たちの関係はまた少し変わったと思う。  上司と部下。加害者と被害者。そんな過去の関係が残していたわだかまりのようなものが、完全に消え去ったようだ。今はいいパートナーなんじゃないだろうか。  目が合うだけで、息もできなくなるほどに恐ろしかった、あの五十嵐と、一年後にはこんな関係になっているなんて、誰が想像できただろうか。 「何か考え事してる?」 「えっ」  寝室に入ってすぐ、ベッドの上に押し倒されて、着ていた服を全部脱がされた俺は、現在五十嵐から体中に執拗な口づけの嵐を受ける真っ最中だった。  五十嵐からしたら、自分の愛撫に対して俺の反応が鈍かったことが不満なのだろう。責めるような目で見下ろされて、気まずい思いで目を逸らす。 「えーと、その……迅くんが、格好いいなあって」 「すごい、見え見えの嘘だな」 「格好いいのは本当だよ」  全く信じていない目で睨まれたが、俺が誤魔化すように笑うと、ひとまず五十嵐はそれ以上追求するのをやめてまた俺の肌に唇を落とし始めた。  二人で作り上げた投資管理プラットフォームアプリは、プレリリース後、当初予想した以上に拡散が早く大きな注目を集め、本リリースでも好調なスタートを切った。  マーケティングは有名な個人投資家のインフルエンサーに依頼し、SNSで先行利用のレビュー投稿をしてもらったが、そのレビュー内容が高評価で、アプリケーションの有用性を詳細に説明してくれたことが、効率やコストパフォーマンスを重視する投資家層に刺さったらしい。  今のところは大きな不具合の報告もない。ひとまず成功と言っていいだろう。五十嵐が出した初動レポートを手に、俺は興奮のあまり五十嵐にとびついてしまった。 「やった……! 迅くん、すごいよ、こんなに予想を上回るなんて!」 「拡散が早かったんで、多少は上振れすると思ってたけど……これは、さすがに予想以上だな」  五十嵐自身も驚いて、信じられないという様子だ。 「迅くんが、プロモーション頑張ってくれたおかげだよ。ありがとう、俺一人じゃ、絶対、こんなすごいことできなかった」 「……まあ、それは当然。これで証明できましたね、アンタの理想を、俺だけが現実にできるって」  得意げに言って、五十嵐は俺の腰を抱き寄せた。こめかみに軽くキスを落とした後、すぐ真剣な顔つきになる。 「でも、まだ気は抜けない。ここからユーザーが定着するかどうかが勝負どころだから」 「そうだけど、とりあえず今日はお祝いしよう。迅くんに、何かお礼しないと」 「二人で作ったのに、俺にお礼は変でしょ。……まあ、打ち上げは賛成ですけど」  話し合った結果、何か美味しいものを食べに行こうということになり、五十嵐が料亭を予約してくれた。取引先との接待で利用したことがあるという、正月におせち料理を購入した、あの料亭だ。 「高いお店だよね、どうしよう、着て行く服がない……」 「そこまで格式張った店じゃないですよ。でも、スウェットはやめておいたほうがいいかな」  家から歩いて二十分ほどの距離にその店はあった。黒を基調とした控えめな店構えに、木格子の引き戸と柔らかな行灯の灯りがよく映えている。  五十嵐の言う通り、格式張った老舗というよりは、接待や記念日にも使われるような、落ち着いた雰囲気の店のようだ。高級感はあるが、そこまで敷居は高くないようで、実際、子ども連れの家族が気兼ねなく店内へ入って行く姿が見られた。  俺と五十嵐も店内へ入る。暖簾をくぐると、ほのかに木の香りが漂っていた。  仲居さんに案内され、静かな廊下を進む。窓の外には小さな枯山水の中庭が広がっていた。反対側の障子越しには柔らかな照明が灯り、淡い光が静かに足元を照らしている。 「俺、場違いじゃないかな?」 「気にしすぎ。大丈夫ですよ、ほら、背筋伸ばして」  案内された個室は、四人ほどで利用するのにちょうどいい広さの座敷だった。五十嵐と向かい合って座り、飲み物の注文を尋ねられる。 「最上さん、何飲む?」 「烏龍茶にしようかな。迅くんは飲んでいいよ」 「最上さんが飲まないなら、俺もやめとこうかな」  最近は体調が安定しているおかげで薬の量も減り、アルコールについても医師から少量であればと許可が出ているが、長く断酒していたためかそれほど飲みたい欲求もない。  五十嵐はノンアルコールビールを注文した。 「迅くんだけでも、飲んでよかったのに」 「一人で飲んでも楽しくないでしょ」  同じ職場にいた頃の記憶では、五十嵐はアルコールに強く、よく飲む方だった。自分に合わせてノンアルコールにしてくれたのだと思うと、申し訳ない気持ちになる。  やがて飲み物と一緒に、先付が運ばれてきた。黒い漆塗りの盆の上に、小鉢がいくつも並んでいる。菜の花の辛子和え、出汁の香り立つだし巻き玉子、白身魚の南蛮漬け。それから、小さな器にはほんのり柚子の香る豆腐まで添えられていた。 「すごい、美味しそう」  どれも少しずつなのに、丁寧に作られているのが分かる。 「じゃあ、二人の事業の、好調なスタートを祝って」  言いながら、五十嵐がグラスを持ち上げたので、俺もいそいそと烏龍茶のグラスを手に持つ。 「乾杯」  どちらからともなくそう言って、グラスをかちんと合わせた。水分で喉を湿らせた後、早速菜の花の和物に箸をつける。 「美味しい……!」  ピリッとした辛味に、春の野を思わせる菜の花のほろ苦さが合わさって、癖になる味だ。これはさすがの俺でもアルコールが欲しくなる。  向かいに座る五十嵐へ視線を向けると、彼は無表情のまま菜の花を一気に口へ放り込み、ろくに味わう間もなく喉を鳴らした。思わず吹き出してしまう。 「迅くん、これ苦手なんだ」 「……そういうの、気づいても言わないでくれません?」  クソ、格好つかない、と不満そうに文句を言っている様子が可愛くて、また笑ってしまった。  続いて運ばれて来たのは蛤のお吸い物と立派なお造りだった。艶のある黒い皿の上に、鮪、鯛、それから脂の乗った鰤の刺身が綺麗に並べられている。添えられた大葉や飾り切りの大根まで繊細で、思わず見入ってしまった。  どれも本当に美味しく、箸が止まらない。夢中で食事しながらも、話題は自然と仕事の話になる。 「とりあえず、プレミアムプランの目標ユーザー数は達成できたんで、次の目標は個別カスタマイズの受注かな」 「そうだね。やってみたいことが色々あるんだ。前に迅くんが言ってた、特定のイベントを検知して通知とか。ユーザーごとの、独自ルールに合わせて組めたら、きっと面白いと思って」 「普通なら面倒だと思う実装が、面白いで済んじゃうところが、アンタだよな」 「へへ」 「褒めてな……まあ、いいか」  その後も、食事と会話が弾んだ。焼き物の鰆は、春の訪れを感じさせてくれる柔らかで上品な味がしたし、透き通った出汁の香りが落ち着く炊き合わせは、彩りも見事で食欲をそそった。山菜と海老の天ぷら、鯛めしが運ばれてくる頃には満腹で苦しいほどだったが、それでも、幸福感で満たされていた。 「こんなに食べたの久しぶりだよ。お腹が苦しい……」 「ふっ、最上さん、腹出てる」 「そりゃ、これだけ食べれば誰だって出るよ! 迅くんだって……えっ、出てない……⁉︎」  食べ過ぎでぽっこり出た自分のお腹を摩りながら五十嵐を見ると、五十嵐のお腹は全く目立っていなかった。これだけの量を食べて、いったいどこに消えたのかと衝撃を受ける。 「アンタ痩せすぎだから、食べたら食べただけ目立つな。かわいい」 「迅くんのかわいいの基準、おかしいと思う」  気恥ずかしさでそう言って、既に満腹のお腹に残りのご飯をかきこんだ。  料亭の帰り道。アルコールも飲んでいないのに、どこかふわふわした気持ちだった。春の夜の、優しい冷たさを持った風が肌を撫でて心地いい。 「すっかり春だね」  自然と、そんな言葉が口をついて出る。 「ここのところ忙しくて後回しになってたけど、明日は衣替えしましょうか。もう着ない冬物は、クリーニングに出したいし」 「うん。ついでに大掃除しよう。加湿器とかも、もう使わないだろうから」  新規事業の立ち上げから目まぐるしく時間が過ぎた。こんなに穏やかな夜は久しぶりだ。  不意に、隣を歩く五十嵐が俺の腰に手を回して引き寄せた。二人で寄り添うような格好になり、歩きづらい。何より体の大きな男がこんなに密着している姿は目立ち、周囲の目が気になってしまう。 「ちょっ、迅くん……! 恥ずかしいから!」 「そうですか? 俺は別に恥ずかしくないけど」 「酔ってる⁉︎ 実はアルコール飲んだんじゃないの」 「飲んでないって。確かめてみる?」  色っぽく囁きながら唇を近づけてくるので、必死に押し返してなんとか口づけだけは阻止した。五十嵐は俺の抵抗を楽しそうに見た後、軽く体重を預けるように俺に寄りかかって、ぽつりと、小さな声で呟いた。 「はぁ、幸せ……」  独り言みたいなそれが俺の耳に届いて、胸がじんと震えた。  人一人の体を支える重みを感じながら、空を見上げる。雲ひとつない星空には、春の星が優しくきらめいていた。  翌日。料亭からの帰り道で相談した通り、朝から大掃除をすることになった。  加湿器のフィルターや、洗濯機の排水フィルターなど、二人とも忙しかった間はなかなか手が回らなかった細かな部分を手分けして掃除する。 「昼食を食べに行くついでに、クリーニングも出しに行きたいな。最上さんはどうする?」 「俺も一緒に出そうかな。ちょっと待ってて」  寝室を共にするようになってからは、すっかり着替え部屋と化した自分の部屋へ戻り、クローゼットを開ける。ハンガーにかかった冬物のコートを取り出していると、ふと、一番奥に仕舞い込まれた一枚のコートが目に入った。 「………」  そのコートは、藤谷の家で生活をしていた時、たった一枚だけ持ち込んでいたものだった。あれから、何となく着るのを避けていて、一番奥に仕舞い込んだのだ。  こんな風に、普段手に取ることのない場所に大切に仕舞い込んでいる、自分の行動が後ろめたかった。まるで、心の奥底を五十嵐から隠し、欺いているような心地になる。  過去の蟠りは綺麗さっぱり片付けて、一緒にクリーニングに出してしまおうか。それとも……このまま着られないなら、いっそ、処分してしまおうか。  どうするか決められないまま手に取る。ちょうどその時、部屋の扉がノックされた。 「最上さん、準備できた?」 「っ、ごめん! 今……」  ひとまず、クリーニングに出すものと一緒にまとめて、そのコートを持って行こうとすると、手で掴んだポケットの中で、何かがカサリと音を立てた。  何だろう、何か入っている。クリーニングに出すなら、このままではいけない——思って、ポケットの中に手を突っ込む。  ポケットの中にはレシートのゴミや、小銭が入っていたが、その他にも、触れた感触からすると、何か軽い、四角いものが入っていた。取り出そうとしてそれを掴んでポケットから引き出すが、取り出す瞬間、しっかりと掴み損ねたそれを床に落としてしまう。  ——コロコロと床の上を転がったそれを見て、ヒュッと息を呑み、体が固まったまま動けなくなった。  寝室のカーテンの隙間から差し込む陽の光を受けて、キラキラと、あまりにも美しく輝くそれは、小さなクリスマスプレゼントの形をした、クリスマスツリーのオーナメントだった。  心臓が、ゆっくりと、やたら大きな音を立てて動いた。  そのオーナメントから目が離せない。心臓がうるさく暴れている。フラフラと、無意識に近づいて、落としたそれに触れようと身をかがめ、手を伸ばした、その時。 「最上さん?」  五十嵐が寝室のドアを開け、部屋の中に入ってきた。咄嗟に、オーナメントを拾い上げてコートのポケットに入れ直す。 「……ずっと呼んでたけど、返事がなかったから。どうかした?」 「いや、ごめん、何でも……何でもないよ」  何故か五十嵐と目を合わせられない。心臓がばくばくとうるさく鳴り響いている。  俺の様子に、五十嵐は訝しがるような間を置いて、俺が手に持った衣類へと視線を移した。 「それ、クリーニングに出すやつ?」 「いや……ううん、これは……いいんだ。もう着ないから、捨てようと、思ってやつだから」  何でもないように振る舞おうとすればするほど、上手くいかなかった。手が微かに震えている。  捨てると言いながら再びそのコートをクローゼットの奥深くに仕舞い込むのを、五十嵐は最後まで怪訝な表情で見つめていた。  日の光の中でコーヒーを淹れる。ミルで挽いた豆を、フィルターにセットして、専用のケトルでお湯を注ぐ。  芳ばしいコーヒー豆の香りが辺りに漂った。その香りに誘われるようにして、どこからか、低く、優しい響きを持った声が聞こえてくる。 『いい匂い』  胸の奥底の、一番柔らかい場所を撫でるようなその声が、すぐそばで、耳元へ囁かれるようにして響く。 『コーヒー淹れてくれたんですか、嬉しい。ちょうど飲みたいと思ってたんです』  大きな手が、俺の差し出したマグカップを受け取った。子犬のように可愛らしく、ニコニコと笑いながら、その人物は俺を見つめていた。眩しい笑顔だった。見ているだけで、胸が締め付けられるような。  彼は、その低い声で、俺の名前を呼ぶ。 『遼馬さん』 「最上さん」  ハッとして、意識を取り戻す。  目の前には五十嵐がいた。不審なものを見るような目で俺を見ている。何故そんな顔をしているのか分からなかったが、だんだんと、自分が五十嵐に手を掴まれていて、その手が握るケトルから、コーヒーフィルターを溢れさせるほどのお湯を注いでいたのだと気づいた。溢れた湯が、キッチンの作業台の上にこぼれて広がっている。 「熱っ、ご……ごめん! ボーッとしてた、火傷しなかった?」 「俺じゃなくてアンタでしょ。……手、見せて」  五十嵐は呆れたようにして俺の手を取った。 「赤くなってる。こんなになっても気づかないとか……何考えてたの」 「え……」  顔が青ざめる。五十嵐にだけは知られるわけにはいかなかった。このところ、俺が、過去の幻影に悩まされていることなど。  五十嵐は俺の赤くなった手を流水で冷やしながら、仕方がなさそうに言う。 「まあ、どうせまた次のプロダクト用のロジック設計とかだろうけど」 「あ、うん、そう……! そんな感じ。はは……」  慌てて同意しながら視線を落とす。罪悪感に押し潰されそうだ。今、こうして俺を心配してくれているのは、五十嵐だというのに。  ずっと、クローゼットの奥に仕舞い込んだ、あのコートのポケットの中身が、抜けない棘のように胸に引っかかっている。あのポケットに隠したままの、あまりにもきれいで眩しい、俺の人生の中で、一番、大切な思い出を。  考えないように、思い出さないようにと、必死にずっと蓋をしていたのに。藤谷の元を去ったあの日、これだけならとクリスマスツリーから持ち去った、あのオーナメントは、あまりにもあの日のままで、鮮明に思い出させる。  彼の声、笑顔、香りや温もり、幸せな思い出の何もかもを。  こんなのは五十嵐に対する裏切りだ。忘れると決めたのに、五十嵐の隣にいることを選んだのは自分なのに。  しかし自分のそんな思いとは裏腹に、藤谷の幻影はそれからも俺に纏わりついた。 『遼馬さん』  二人だけの寝室で、藤谷が甘い声で俺を呼ぶ。 『遼馬さん、可愛い』  どこをどう見てそんな感想を抱いたのか分からないけれど、藤谷はいつもベッドの上で、俺を見ながらそう言っていた。  恥ずかしくて藤谷の首筋に顔を埋める。風呂上がりの藤谷の体からは、いつも香るあのスパイス系の香水が落ちて、石鹸に混じって温かな体温の香りがした。  俺が、一番好きな香りだった。藤谷に包まれていることを実感できる、一番、安心できる香り。  ここには、俺を笑う人は誰もいない。俺と藤谷の、たった二人しか存在しない、世界の果てで切り離された空間のような、あの寝室は俺にとってそんな場所だった。 『ずっとそばにいて、遼馬さん』  俺の耳元に囁きかける、藤谷の声が聞こえる。彼の低い声の、掠れて音にならない音まで全部を逃すまいと拾い上げる。  ずっと。  ずっと、君のそばにいられたら、どれだけよかっただろう。  本当に好きだった。好きで、好きで好きで、いつも苦しくて、愛おしくて、手放せなくて、こんな優しさを享受していい人間じゃないのに、それでもずっとこのまま君のそばにいたいと、そんな愚かな願いを抱くくらいに。  心の奥底に閉じ込めて、二度と出てこないようにと鍵をかけたその場所で、醜いあの怪物は、きっと、今も、悲鳴を上げ続けている。 「——……っ、はぁ! はぁっ、はぁ……」  急激に意識が浮上して、止まっていた呼吸を取り戻す。  全身に嫌な汗が浮かんでいた。インナーが素肌に張り付いて気持ち悪い。  大きなキングサイズのベッドで身じろぎし、辺りを確認する。隣では五十嵐が寝息を立てていた。自分が今、存在する場所を、確かめる。  ここはあの寝室じゃない。夢と現実の境界線を、胸に刻みつける。  これまで、ちゃんと上手くやれていた。今だけだ。あのオーナメントを見て、急に思い出してしまったから。だから記憶の蓋が開きかけてしまっただけ。もう一度深く、深く閉じ込めて。今度こそ二度と溢れ出してしまわないように。 「最上さん?」  ビクリと肩が跳ねる。 「迅、くん」  そこにいる人物を確かめるように、万が一にも、呼び間違いなどないように。慎重に、名前を呼ぶ。 「眠れないの」 「……うん」 「おいで」  五十嵐がシーツの間をすり抜けるようにして、俺の体を引き寄せる。甘いムスクが微かに漂って、彼の体温に包まれた。  ここには、俺の居場所がある。俺を求めてやまない、五十嵐が用意した、俺のためだけに空けられた場所が。  その気持ちに応えたいと思う。誰かの代わりになど、絶対にしてはいけない。五十嵐の歪さを、不完全さを、確かに愛して、俺だけを求めるその手を掴んだのなら、俺はそれに誠実であらねばならない。  それなのに、未練がましく、過去の幻影に引きずられる自分が嫌になる。 「迅くん……」 「なぁに、最上さん」  甘やかすような五十嵐の声が俺を呼ぶ。今の俺に居場所を与えてくれる、その人の体温に縋るように、俺は手を伸ばして、温もりに溺れるように身を寄せた。  投資管理プラットフォームに初めて個別カスタマイズの依頼が入ったのは、それからしばらくしてのことだった。独自のルールに則り、イベント検知や画面自動切り替え、独自データベースとの連携など、細かな要望が盛り込まれた追加パッチの依頼で、受託費用はこちらの一件当たりの想定以上の金額になった。  見積書を見た俺の手が、緊張と不安で震える。 「こんな金額……! 高すぎるんじゃないかな……荷が重いよ。期待に応えられるかどうか」 「俺の見積もりに間違いなんかないって。アンタの仕事にはそれだけ価値がある。自信持って、最上さん」  五十嵐の励ましにより、半信半疑のまま、実装に移る。幸い、開発中は仕事のことで頭の中がいっぱいになり、他のことに意識を割く余裕はなかった。  仕様や納期の調整は全て五十嵐が行ってくれた。その間、俺は設計やコーディングに没頭できた。0と1の世界、自分までコンピュータになったようなあの感覚の中で、推論と演算を重ねていく。  納品を終えてしばらくは、不安で寝付けなかった。イメージと違うとクレームが入ったらどうしよう。あれだけの金額を支払って、クライアントを満足させられなかったらどうなるのだろう。五十嵐は大丈夫だと繰り返したが、会社という組織に所属していた頃とは比べ物にならない、重くのしかかる責任に押し潰されそうだった。  クライアントから納品済みの追加パッチに関して、正式な受領の連絡があったのは納品から一週間後のことだった。修正依頼もなく、感謝と賛辞が並んだメッセージを見て、やっと肩の荷が下りていくのを感じる。 「よかった……ありがとう、迅くんのおかげだよ」  ホッとするあまり、涙ぐんでしまった。五十嵐は俺の反応が大袈裟だとでも言いたげに笑っている。 「だから、俺だけの力じゃないって。この結果はアンタの実力。で、俺はその実力を、最大限引き出すマネージャー。最強のコンビだな」  嬉しそうに言うと、五十嵐は俺の両手を掬い上げるように取った。 「……また、お祝いしようか。最上さん、何食べたい?」 「いいの? そうだな……お寿司とか」 「いいね。そうしよう」  すぐに五十嵐が店を調べ、近くにある、雰囲気の良い鮨屋を予約してくれた。 「回らない鮨屋……! 今日こそ着ていく服がないかも」 「居酒屋に近そうだし、そこまでじゃないと思うけど……気になるなら、俺の服貸しますよ」  結局、持っていた春物のシャツにアイロンをかけて、スラックスと合わせて着ることにした。五十嵐はTシャツにチノパンだが、ジャケットを羽織って外用の出立になる。  予約の時間である十八時に間に合うよう、家を出た。少し前ならとっくに暗くなっている時間帯だが、いつの間にか日が長くなっていて、まだ空は夕闇に染まったばかりだ。  肌を撫でる生ぬるい風がくすぐったい。どこかソワソワと、落ち着かない気持ちにさせられる気候だった。 「暖かいね。いつの間にか五月だからなぁ」 「あっという間に夏ですよ。すぐ暑くなるだろうし、出かけるなら今のうちだな。最上さん、行きたいところとかないんですか」 「行きたいところ?」 「そう。旅行とか」  隣を歩く五十嵐が何でもないことのように言った、その言葉に反応して振り向く。 「迅くん、旅行に行きたいの」 「旅行というか。……二人で、どこかに行きたい」  遠くを見つめるような目で五十嵐が言う。余裕そうなふりをしているが、やはり五十嵐もこのところの疲れが溜まっているのかもしれない。 「旅行か……いいね。どこがいいかな」 「最上さんの行きたいところ。どこでもいいよ」 「えぇ……どこがいいかな」  俺の行きたいところ……五十嵐の、疲れが癒えそうなところ。やっぱり温泉か、保養地もいい。自然の多い、ゆったりした場所が、身も心も休めていいかもしれない。  様々な候補地を思い浮かべていると、突然、俺の手に何かが触れる感触があった。 「!」  見ると、隣を歩く五十嵐が俺の手を取って握っていた。指先を絡めて、しっかりと繋がれていく手に、急激に顔の温度が上がる。 「じ、迅くん、目立つよ、恥ずかしいって」  まだ明るい時間帯に、大の男が二人で手を繋ぎながら歩いている姿は、きっと目立つ。人目を気にして躊躇う俺と対照的に、五十嵐は全く意に介さない様子だ。 「気にしすぎ。最上さんが思ってるほど、誰も気にしてませんよ、他人のことなんて」 「そ、そうは言っても……」  どうしたって恥ずかしい。握られた手のひらが汗ばんでしまう。  ——以前にも、こんなことがあった。  隣を歩く人物は違ったけれど。繋がれたこの手を、人目を気にして、俺は激しく振り払った。小さな誤解から、触れたいのに触れられない、そんな切ない思いをした記憶が瞬間的に蘇る。 『——遼馬さん』  ぶわりと、鮮明に、またその人の幻影が俺を追いかけてくる。思わず立ち止まってしまった。  足を止めた俺に、五十嵐も足を止めて怪訝な表情になる。 「最上さん……?」  ……落ち着け、落ち着け。  現実を、間違えるな。  心臓が嫌な音を立てていた。目を閉じて、余計な思考を追い払う。  目を開けた時にはもう、俺を追いかけてきた幻影は消えていた。五十嵐に向かって笑いかける。 「ごめん、何でも……——」 「——見つけた」  その時だった。  背後で、誰かの声がした。  何となく、記憶に残るその高い声に、呼びかけられたような気がして、振り返る。  ——……心臓が止まりそうになった。  そこには、見覚えのある女性が立っていた。内側だけ淡いピンク色に染まったボブヘアー。ひらひらとした装飾が多く、華やかなファッション。何センチもありそうな厚底のブーツを履いて、大きな目で、真剣な表情でこちらを見ているその女性は、振り向いた俺の顔を見て、次に五十嵐と繋がれた手に視線を移し、信じられない様子で目を見開いた。 「……きみは……」  隣で五十嵐が舌打ちを漏らす音を聞いた。呆然と立ち尽くす俺と、その女性との間を遮るように、一歩前に出て立ちはだかる。  その女性は美優だった。  かつて、藤谷の隣を歩いていた、藤谷の笑顔を手に入れた女性が、俺と五十嵐を睨みつけるようにして、そこに立っていたのだ。

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