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第17話

 地面がぐにゃりと歪んだみたいな感覚に襲われて、上手くその場に立っていられなかった。  なぜ、美優がここにいるのか分からない。彼女は俺を見て、見つけた、と言っていたが、もしかして、俺を探していたのだろうか。  ——だとしたら、いったい、どうして。  まだ、何か言い足りないのだろうか。藤谷の元から、俺が姿を消すだけは足りなかった? 彼の笑顔を手に入れてもなお、まだ、俺に対して言いたいことが残っていたのだろうか。  ——卑怯者。  ——弱いふりして、晴人の気を引こうとしないで。  ナイフのように鋭利に、俺を切り裂いた彼女の言葉が蘇る。  これから、俺は何を言われるのだろう。  ……怖い。これ以上、惨めな思いになりたくない。  小さく震え出した体を、五十嵐が支えるようにして肩に手を添えてくれた。五十嵐は俺が美優から見えないようにして、間に立ってくれている。縋るように、五十嵐と繋がれたままの手を、ぎゅっと握った。 「なに、それ……! なんでそんなやつと……! 晴人はあんな風なのに、あなたにとって、晴人はその程度だったの⁉︎」  五十嵐の向こうで、美優がいきり立つ声が聞こえてくる。足音が近づいて、こちらへ詰め寄って来ているのが分かった。  喉の奥で息が詰まるような感覚になる。何を責められているのかは分からなかったが、それでも、彼女の言葉は俺に恐怖を感じさせた。  美優の言葉は、自分の中の醜い部分を浮き彫りにする。嫉妬や、独占欲という自分勝手で愚かな感情——あの、恐ろしい怪物を。 「ストップ! それ以上、近づかないでくれる? ……何しに来たわけ。ていうか、なんでここが分かったの」  嫌悪感を露わにして、五十嵐が言った。美優を制止するその言葉に安堵を覚える。今すぐここから逃げ出したい気持ちだったが、震える体をなんとか抑え込んで、二人の話に耳を傾ける。 「よく言う……! ずっと連絡してるのに、無視して! どこにいるのって聞いてるのに、既読もつかないから、わざわざ探偵雇って調べてもらったんだから」  美優のこちらを責めるような言葉に対して、五十嵐が聞こえよがしに舌打ちをする。 「そこまでするかなぁ。こっちはもう、君と話すことなんてないんだけど」  呆れたような五十嵐の声を聞きながら、違和感を覚える。  ……二人は、まるで知り合いのような会話をしている。 「なにそれ! ひどい……! こっちはあんたの言う通りにして、大変な目にあってるのに!」 「知らないよ。俺から君に、何か命令したことなんてあった? 全部君が、自分で決めてやったことだろ」  ……何を。  何の話をしているのか。二人の会話が全く見えない。  美優が五十嵐の言う通りにして……五十嵐と美優は、連絡を取り合っていて。  美優は、藤谷と結ばれて。そして、五十嵐と俺は……?  頭の中で、バラバラになったピースが一つずつ合わさっていくような感覚になる。  美優が俺に真実を突きつけたあの日、どうやって彼女がマンションのインターホンを直接鳴らすことができたのかという疑問。俺が藤谷の元から去ろうとするのを、待ち構えていたかのようなタイミングで開いた扉。マンションから引っ越す際の、五十嵐が、藤谷のいない時間を把握しているような言動。買い物へ出かけた先の街中で、藤谷と美優が連れ立って歩く姿を見かけるという、信じられないような偶然。  二人が連絡を取り合っていたなら、示し合わせたようなそれらの出来事も全部、五十嵐の計画のうちだったのだろう。俺を手に入れるためならば、社会的な立場すらも奪い去ろうとする男だ。この男なら、やりかねない。  久々に、五十嵐に対して、純粋なまでの怒りを感じた。俺に対しての画策ならまだいい。だが、美優まで——彼女の、藤谷に対する思いまでもを利用したと言うのなら話は別だ。人の恋心まで自分の道具にするなんて許せなかった。  沸々と込み上げる怒りで、繋いだ手の先にいる五十嵐を睨みつけた。  その時だった。 「もう、今はそんなことどうでもいい! 助けてよ、最上さん……! 晴人が、晴人が死んじゃう!」  泣きそうな、悲鳴に近い美優の声が聞こえて、しばらく思考が止まってしまう。 「晴人くんが……死ん……、え……?」  全く想像もしていなかったその言葉に、頭の中が真っ白になる。口にするのも憚られるような、縁起でもない言葉だった。  死、なんて、あのきらきらと眩しい、光の象徴であるかのような藤谷に、一番似合わない言葉だ。美優が、いったい何を言い出したのか理解できなかった。 「最上さん、こんな話聞く必要ないから」  五十嵐を押し退けてこちらへ来ようとする美優を、忌々しげに追いやって五十嵐が俺の耳を塞ごうとする。だが俺はそんな五十嵐の手を払いのけて、自ら美優の前に出た。 「晴人くんが、どうしたの」 「………っ」  俺と目が合った美優の目から、堪えきれないとばかりに大粒の涙が溢れ出す。 「ごめ……っ、ごめんなさい、私、こんなこと望んだわけじゃなかったのに……! あなたが羨ましくて、許せなくて、だって、私だってずっと晴人のことが好きだったから」 「うん、大丈夫。分かってるよ。俺に謝る必要なんてないから」  縋るように差し出された美優の手が、俺の服を弱々しく掴む。彼女を宥めるように声をかけると、五十嵐が横で呆れたように手で自分の顔を覆うのが分かった。 「最上さん、助けて。私の声じゃ晴人に届かない。このままじゃ晴人が死んじゃう。わた、わたし、こんなこと望んでない。晴人が死んじゃったら、私……!」 「落ち着いて。何があったの。……晴人くんは?」  なりふり構わず泣き続ける美優は、動揺して上手く話すこともできないようだった。しゃくり上げ、時々言葉を詰まらせながら、俺に訴えかける。 「晴人、ずっと、スランプで……曲が作れなくて。ご飯も全然食べないし、顔色も悪くて、部屋に行っても、ずっと、パソコンに向かったままで。話しかけても返事もなくて、そのまま、急に動かなくなっちゃいそうで、怖くて、私」  美優の震える手が俺の手を握る。手の中に冷たい金属の感触があった。その金属を俺に渡して、美優は手を離す。見覚えのあるそれは、あのマンションの鍵だった。 「助けて、最上さん……!」  その言葉を最後に、弾かれたようにして地面を蹴っていた。  すぐにでも駆け出そうとしたが、強く、腕を引っ張られて引き止められる。 「行かせるわけないだろ……! 最上サン、今更あいつのところに行って、アンタに何ができるわけ」  ぎり、と痛いくらいの力を込めて、五十嵐は俺の腕を掴んでいた。絶対に逃すまいという、強い執着が絡みつくような力だった。それを見た美優が、ぎょっとしたように五十嵐の手を俺から引き剥がそうとする。 「ちょっと、晴人がどうなってもいいの!」 「いいね。勝手にやってろ。どうせ俺は悪役だから、今更嫌われたって構わない。でも、絶対に、アンタをあいつの元には行かせない」  五十嵐の笑みが歪んでいく。強い言葉を使い、憎まれ役を買いながらも、彼が今泣き出しそうに傷ついているのが分かってしまう。 「最上さん、アンタ言ったよな。俺のことちゃんと好きだって。じゃあ、最後まで責任取れよ。優しいアンタは、俺を捨てたりしないよな? なあ!」  普段の彼からは考えられないような、自棄になった、投げやりな口調だった。それだけ彼が動揺して、必死なのが伝わってきた。  俺は咄嗟に足を止めて、潰れそうな心で五十嵐に手を伸ばす。抱き寄せるように、包み込むように。何度も彼にそうしてきたように。肩に腕を回して、五十嵐の後頭部をそっと撫でる。 「迅くんのこと、ちゃんと好きだよ」  「最上さ……」 「でも、ごめん」  腕の中で五十嵐の体が強張るのが分かった。不意を突かれたような彼に対して、はっきりと告げる。 「もし、俺が晴人くんに会っていなければ、今ここでこうして君の前にいる俺は、存在してなかったと思う」  職場にも、どこにも、俺の居場所なんかなくて、誰からも必要とされなかった俺の話に、唯一、耳を傾けてくれた人。  藤谷がいなければ、薄暗く汚いマンションの一室で、きっと俺という存在はこの世から消えてしまっていた。  藤谷を愛していなければ、五十嵐の歪んだ愛情を理解も同情もできずに、きっと許せなかった。  今ここで、五十嵐を好きだと行って抱き締められる俺がいるのは、全部、藤谷がいたからだ。  藤谷が幸せならそれでよかった。自分のような存在が彼の人生の邪魔になるのなら、喜んで身を引いた。誰よりも何よりも、彼の人生が幸せで、満ち足りたものであってほしいと思う。俺自身の幸せなんて、あくまで、その上でしか成り立たない。  ——だから。  藤谷が今、誰かの助けを必要としているなら、走り出すこの気持ちを止められるものなど存在しない。 「ごめん、迅くん。俺行かなきゃ」  五十嵐が腕を掴む力が緩んだ隙に、今度こそ駆け出した。  再び引き止められるかと思ったその手は呆気なく離れた。もう五十嵐を振り返る余裕もなかった。美優に渡された鍵を握り締め、駅へ向かって走り出す。  早く。早く行かなくては。  逸る気持ちに、足がもつれそうになっても、前に進む足を止めずに、無我夢中で走り続けた。    ◆ 「ごめん、迅くん。俺行かなきゃ」  最上の決意を聞いた瞬間、衝撃のあまり、つい、彼を引き止める力を緩めてしまった。  隙をついた最上が俺の手を振り解いて駆け出していく。あれだけ雁字搦めに閉じ込めたと思ったその人が、何の未練もなく、本当に呆気なく、俺の手をすり抜けて。  小さくなっていく背中を目で追いかけながら、呆然と呟く。 「は、嘘だろ……アンタが、迷いもしないとか」  信じられなかった。俺の知る最上遼馬は、誰一人、他人を切り捨てられない人間だ。例えそれが自分を陥れた相手だとしても。必要とされているなら、簡単には切り捨てられないはずだったのだ。  他者を切り捨ててもなお、駆け出すほどに大切な、彼のたった一人の『特別』。  それが、藤谷晴人だというのか。 「………っ」  悔しさで、目の前が真っ赤に染まったようだった。俺が手に入れるはずだった、あの人の特別は、もうとっくに他人のものだったのだ。俺の知っている最上には存在しなかったはずの、明確な他者の優先順位というものを見せつけられて、屈辱のあまり感情がズタズタだ。  いくら足掻いても遅かった。……一つしかないその席は、もう埋まっていたんだから。自分の無駄な足掻きが馬鹿馬鹿しくて、込み上げる感情に涙が滲む。  嗚咽を噛み殺しその場にしゃがみ込んだ。思考が上手く働かない。いつもなら多少の想定外があっても、計画を立て直すくらいわけがないというのに、今回ばかりはそれができそうにない。最上が他者を切り捨て、明確な優先順位をつけたという事実は、それほど衝撃的だった。  最上と歩いていたはずの道に取り残され、項垂れるしかない俺に、美優は鋭い視線を向けながら、しかし話しかけるのを躊躇している様子だ。 「……何。まだ何か用があるわけ」  この女さえ現れなければ、上手くいったはずなのに。苛立ちのあまり、刺々しい口調になる。  最上は最近、やたらと上の空なことが多く、嫌な予感はしていたにしろ、大した問題ではないと思っていた。彼なりに、過去を清算しようとしているのは分かっていたからだ。下手につつくよりは、ぬるま湯のような優しさで包んで、罪悪感を刺激していれば、いつか時間が解決する問題だった。  計画が狂ったのは、この女の行動が読めなかったせいだ。おびただしい数の連絡が来ていたので、何かあったのだろうとは思っていたが、まさか探偵まで使うとは思わなかった。皮肉を込めて、彼女に言う。 「アンタ馬鹿だな。相手が弱ってる時なんて、つけこみやすい一番のチャンスだってのに」 「は? そんなことして、晴人がホントに死んじゃったらどうするわけ? 信じらんない、人の心とかないんじゃないの」  いかにもドン引きだというようにそんなことを言い返される。そこを上手くやるのが駆け引きだろうと言い返そうとしたが、先ほど、最上が言っていた言葉を思い出し、続く言葉を飲み込んだ。  ——もし、俺が晴人くんに会っていなければ、今ここでこうして君の前にいる俺は、存在してなかった——。  追い詰めて、壊して、自分に依存させてしまえばいいと思っていた。やり過ぎないラインを見極めていたつもりだったし、実際、最上の休職で監査が入った際にも、俺の行動は問題なかったと結論づけられている。  だが、もしもあの時、最上の心が予想以上に弱っていて、手に入れる前に二度と触れられない存在になっていたとしたら……俺は、どうしていただろうか。  人の心や行動を読むなんて簡単だ。……でも稀に、人の心には、俺にも読みきれないバグがある。人が自分以外の誰かのために行動することがあるなんていうのは、特に見落としやすい感情だった。他者を思いやる自己犠牲的な精神なんて、俺には到底理解できないからだ。  最上はその最たるものだった。彼の心の中は、いつも俺の想像を軽く超えていく。その彼が、この世で誰からも必要とされない自分を悲観して、自分が消えた方がみんなが喜ぶのではと思考を飛躍させる可能性に、今、初めて思い当たって、ゾッと底冷えするような感覚に襲われた。 「それに……私、最上さんにも借りがあるし」 「借り?」  美優がもごもごと言いにくそうに口を動かして、気になることを言った。問いかけると、美優は俺に応えるように口を開く。 「最初は気づいてなくて、晴人に言われて思い出したんだけど……昔、通りすがりの最上さんに、酔っ払いに絡まれてるところを助けてもらったの」 「は」 「恩人なのに、あんなこと言っちゃって……ずっと、苦しかったから」  何だそれ。流石に想定外すぎる。予想を超えるにもほどがあるだろう、どこまでお人好しなんだあの人は。  最上らしい、全く予想もしていなかった二人の繋がりに、呆れと笑いが込み上げた。美優はしばらく、涙ぐみながら笑う俺を気味の悪そうな目で見ていた。 「……ねぇ、あの写真消してよ」 「写真?」 「私と、最上さんの写真。何か変なことに使われたら嫌だし」 「ああ」  美優が最上の元へ押しかけた時に撮影し、上手く使えと渡した写真のことだと分かって、また笑いが込み上げる。 「あんな写真、とっくに消したよ」 「うそ。あんたみたいな人間が素直に消すとは思えない。証拠見せてよ」 「証拠も何も、俺が持ってても仕方ないだろ。藤谷くんの脅迫には使えたかもしれないけど、最上さんには何の効果もないし」  まだ疑いの眼差しを向ける美優に、スマホのカメラロールを開いて見せる。こんなものを見せたところでクラウドに保存したりと他に方法はあるのだが、そこまで考えると証明のしようがない。  実際、あの写真は美優に送った後すぐ消してしまった。バックアップも存在しない。美優の心配は全く必要のないものだった。 「あの人、保身とか無頓着だから。ネットにばらまくぞーとか、そういうの、何の脅迫にもならないんだよね。……ああ、アンタがパパ活してるって広められたら困るかも、とか、そういう脅し方はできたかな」  あの人の心を動かすなら、他人をうまく使わなきゃいけない。俺の言葉を聞いた美優は、写真が残っていないことに納得すると同時に、衝撃を受けたように固まっていた。    ◆ 「あの人、保身とか無頓着だから。ネットにばらまくぞーとか、そういうの、何の脅迫にもならないんだよね。……ああ、アンタがパパ活してるって広められたら困るかも、とか、そういう脅し方はできたかな」  五十嵐自身が脅迫写真を保存していない理由を説明された私は、強い衝撃で動けなかった。  自分の保身には無頓着。  私が困るかも、の方が、脅迫になる。  自分が戦おうとしていた相手の、規格外の——もういっそ怖いくらいの、自己犠牲精神に、声が出なかった。 「そんなの、敵うわけないじゃん……」  ぽつりとこぼれた独り言に、涙が滲む。  七年だ。七年もの間、私は、藤谷を思い続けてきた。  だけど藤谷もまた、七年間、あのおじさんを思い続けてきたのだと、気づいてしまった。  藤谷がたった一人の人を思い、報われない思いを崇高な何かに昇華させた崇拝ソング……あれが最上に対して作られたものだと気づいたのは、藤谷を脅迫し、無理矢理自分のものにして、すぐだったと思う。  七年前、コンビニで酔っ払いに絡まれた時、間に入って助けようとしてくれた通りすがりのおじさん。あの人物が最上だと、藤谷が私に告げた時、私は呆然とするしかなかった。  ほんのつい最近、藤谷の心の隙間に運良く入り込んだのだと思っていた最上が、そんなに前から、藤谷と関わりがあるなんて思いもしなかったのだから。  ——遼馬さんが、得体の知れない人だって? 自分を守ろうとしてくれた人に、よくそんなことが言えるね。  ——あの時、自分を守ろうとしてくれた遼馬さんに、美優は最後までお礼も言わなかった。それどころか、怪我をした彼を自分に絡んできたやつらと同じように警戒して、不審者でも見るみたいな態度で……。  藤谷が私に言葉を重ねるごとに、堪えきれない嫉妬と怒りが沸々と込み上げた。  だって、藤谷は知る由もない。私が、女というだけで、普段どれだけ男に軽んじられてきたか。可愛い服が好きだからと、ピンク色や、フリルや、ミニスカートを好んで着ることが多いせいなのか、軽い女だと思われて、言い寄られて、断れば逆上されて。男なんてみんな気持ち悪い、下心だけで生きてる救いようのないやつらだと思っていた。  藤谷だけが違ったのだ。藤谷はそもそも他人に興味がなかった。興味があるのは、音楽だけ。ストイックで、そこが素敵だと思った。私に、全然興味のないところが。  それなのに、そんな私の苦労も知らない藤谷から、異性を無意識に警戒してしまうことを、悪意だと決めつけて詰られたのが許せなかった。  ……五十嵐から受け取った写真も、本当は、使うつもりはなかった。そんなものがなくても藤谷の目を覚ますことはできると思っていた。……本当に。あんな、最低な脅迫、するつもりなんてなかったのに。  気づけば私は、五十嵐から送られた写真を使って、最低な交換条件で藤谷を脅迫していた。恐ろしいほどの激情が押し寄せてきて、自分でも止められなかった。  後戻りもできずに、何とか私が藤谷の支えになりたいと思って色々なことを試した。部屋の掃除をしてみたり、料理をしてみたり、外に連れ出したり。  でもだめだった。どんどん弱っていく藤谷を見ていると、怖くて、自分の犯した取り返しのつかない過ちが恐ろしくて、後悔しない日はなかった。  きっと、藤谷は七年前のあの日から、私と同じように、ずっとただ一人を見つめてきたのだ。恋なんて生易しい言葉では片付けられない。執着と呼んだ方が相応しいほどの重苦しい感情で。あの、最上という男に対して、自分の持つ全てを捧げて、彼を思い続けていた。七年間、愛する人の幸せを静かに祈る崇拝ソングを作り続けたのも、その崇拝ソングが、ここ最近突然恋愛脳全開のラブソングに変貌したのも、全ては最上という存在の影響だったのだろう。  藤谷の音楽は、最上への感情に直結している。藤谷の心を壊すということは、彼の軸であるその音楽すらも奪うということ。それに気づかず、取り返しのつかないことをしてしまった。私の、このあまりにも自分本位で、愚かな感情のせいで。  ——それなら、私はその責任を取らなきゃいけない。  藤谷を救えるのは、きっと、最上だけだ。そう思って、何度も五十嵐に『晴人が大変だから助けてほしい。最上の居場所を教えてほしい』と連絡した。だが既読すらつかなかった。最後に送られてきた、居場所のヒントになりそうな駅名にも行ってみたが、もちろんそれだけで見つかるわけもなく、途方に暮れた。  最後の手段だと思って、探偵に依頼した。情報として最上、五十嵐の名前と、風貌、それから手がかりとなる駅名を伝えていたが、結局、見つかったのはその駅名とはまったく別の場所だった。  探偵が見つけた五十嵐の自宅付近で張り込んで数日。やっと、最上が五十嵐と一緒に外に出てくる姿を目撃した。  まさか二人が仲良く手を繋いで歩いているなんて思わなくて、つい責めるようなことを言ってしまった。元はと言えば、私が藤谷との仲を引き裂いたようなものなのに。  でも、冷静ではいられなかったのだ。もし最上が藤谷のことをもう何とも思っていなかったら。とっくに違う人を選んでしまっていたら、そうしたら、藤谷はいったい誰が救ってくれるのか。  私の心配は杞憂に終わった。藤谷の現状を聞き、何の迷いもなく走り出した最上の姿を思い返す。  藤谷はきっと、もう大丈夫だ。安心するとまた、じわりと涙が滲んできた。不安が一つ、解決したことで、改めて後悔に押しつぶされそうになる。  七年間、私は藤谷晴人の何を見てきたのだろう。自分に興味のないところが、ストイックで素敵だって。笑える。そんな彼に無理矢理言い寄る自分は、これまで自分が嫌悪してきた、下心しかない男たちと全く同じではないか。  最上の代わりになど、なれるはずがなかった。いつも人のことを考え、藤谷が迷惑ならと言われるままに身を引き、それでも、藤谷のためならあんなに迷いなく走り出せる最上に、自分勝手なこの思いが勝てるわけなかったのだ。  最上を引き止めながら、歯牙にもかけられず見捨てられ、隣で項垂れている五十嵐もまた、私と同じような気持ちなのだろう。  お互いが、お互いの幸せを祈るような……相手のためなら、自分がどうなっても構わないような。そんな思いやりで結ばれたあの二人に、つけいる隙なんてものは最初からなかったのだと。  胸を満たすのはもう、激しい嫉妬や、醜い独占欲ではなかった。ただ静かな諦念だけが、波の穏やかな浜辺のように広がっていて、私の、藤谷に対する思いはまさしく、恋なんて生易しいものではなく、自分自身のエゴで固められた、執着の残骸だったのだと、思った。    ◆  見慣れたホーム。見慣れた改札。見慣れた駅前のロータリー。  何もかも、長年暮らし、慣れ親しんだ街並み。  目を瞑っていてもたどり着けそうなほど歩いた道を走り抜ける。運動不足で息が上がり、足がもつれながら、それでも走った。一刻も早く、彼の元へ辿り着きたかった。  マンションに着く頃には、すっかり日も暮れていた。照明のついたエントランスを抜け、一階に停まっていたエレベーターに乗り、階数のボタンを押した。扉が閉まるまでの時間すらもどかしかった。  エレベーターが到着し、開いた扉の隙間から廊下に飛び出す。自分が暮らしていた部屋の一つ隣、俺の生きてきた人生の中で一番大切な、たった数ヶ月の思い出が全部が詰まっている、その部屋の前に立つ。  美優から受け取った鍵を挿し込んで、扉を開けた。ガチャリ、心の奥底に仕舞い込んで、必死に鍵をかけて思い出さないようにしていた記憶の扉まで、開いたような気がした。 『遼馬さん』  優しい彼の声が耳元を撫でて通り過ぎたような気がした。思い出の全てが詰まったその部屋の玄関は、しかし自分の記憶の中とは全く違う、どこか荒んで、澱んだ空気が漂っている気がした。  廊下の先にリビングの扉が見える。廊下もリビングも電気はついておらず、ほとんどが暗闇で、すりガラス越しにぼんやりとした青白い光だけが弱々しく漏れていた。  音もなく、静まり返っており、人の気配は感じられない。まさか留守だろうか。それとも……嫌な予感が、破裂寸前まで膨らんでいく。 「晴人くん……?」  不安に思いながら、その名前を呼ぶ。返事はなかった。恐る恐る、廊下を進んでリビングへ向かう。  ドアノブを引いて、リビングの扉を開ける。そこに広がっていた光景に、息を呑んだ。 「………!」  記憶の中にある、よく片付いて綺麗な藤谷の家のリビングとは全く違う。衣類やゴミが散乱し、照明すらついておらず、埃っぽく薄暗い、荒れ果てた部屋に愕然とする。  これでは、まるで休職中の俺の部屋だ……あの、自らの心を映し出したような、荒れ果てた部屋が重なって、胸の中をザワリと嫌な予感が駆け巡る。  照明のついていないリビングで、唯一の光源となるパソコンの画面へ、自然と視線が引き寄せられる。青白い光に照らされるパソコンデスク用の椅子に、大きな黒い影が見えて、それが藤谷だと認識した瞬間、心臓が大きな音を立てた。  慌てて彼に駆け寄る。床に散乱したものに気をやる余裕すらなく、彼の傍まで来ると、ディスプレイの光で浮かび上がる藤谷の顔は、目を閉じており、ゾッとするほど蒼白だった。美優の言った通り、そのまま彼が動かない想像をしてしまう。 「晴人くん!」  思わず、大きな声で呼びかけて彼の体を揺さぶった。すると藤谷がつけていたらしい、大きなヘッドホンがずれ、コードが抜けて、スピーカーから音楽が流れ始めた。  静かな室内に突如として流れたのは、昔流行した歌謡曲だった。流行りに疎い俺でも、街中で何度か耳にしたことがある、人気ドラマのタイアップ曲だ。確か、切ないほどの片思いに身を焦がしながら、それでもあなたの幸せを願うと、美しすぎる旋律に乗せて人気男性俳優が歌い上げる曲で、『究極の愛』とかのキャッチフレーズで人気だった。  しかし今はそんなことに構っている場合ではない。すぐさま、藤谷の胸の辺りに耳をくっつける。鼓動の音が聞こえて、ホッとすると同時に、その音の頼りなさにまた不安が込み上げてきた。  ——このまま、藤谷が目を覚まさなかったら?  考えたくもないそんな想像が頭を過ぎる。それくらい、目の前の藤谷は記憶の中の彼とはあまりに違う容貌だった。活気に溢れ艶々と輝いていた頬は青白く、精彩を欠いている。鮮やかな紫のメッシュが印象的だった前髪は、伸びた根元が染め直されておらず、長さも閉じた瞼の上にかかるほど長い。薄く開いた唇は水分が足りていないのか、カサついて荒れているのが分かった。 「晴人くん……! どうしよう、病院……!」  病院へ連れて行ったほうがいいのか、それとも、救急車を呼んだほうがいいだろうか。動揺する頭でそんなことを考えていると、掠れた、小さな声が聞こえた。 「遼馬さん……?」 「! 晴人くん!」  いつの間にか閉じていた瞼がうっすらと開き、その隙間から覗く瞳がこちらを見つめていた。ひとまず意識が戻ったことにホッとして、必死に呼びかけるが、藤谷はまだ完全には意識が戻っていないのか、ぼんやりとした瞳でこちらを見上げているだけだ。 「遼馬さんがいる……なんで、幻覚……?」 「晴人くん……大丈夫、今、救急車呼ぶから」 「幻覚でもいい……遼馬さん、遼馬さんだ……」  薄く開いた目に、みるみるうちに涙が滲んでいく。震える指先を持ち上げて、確かめるみたいに俺の輪郭をなぞった。  藤谷に触れられた場所が熱を持って、じんと痺れるようだった。何度も俺に触れた指先の、そのあまりの弱々しさに、俺の目にも涙が滲む。思わず、自分の頬の上に置かれたその手へ、自分の手を重ねる。 「遼馬さん、会いたかった……」  涙の滲んだ声でそう呟くと、椅子の背もたれからゆっくり体を起こして、藤谷は俺に向かって両手を伸ばしてきた。その手が俺を抱き寄せようとした力が、あまりにも弱々しくて、今にも消えてしまいそうなほど儚くて、胸が苦しくなる。堪らず、俺はその存在を確かめるように、自ら藤谷の腕の中に身を寄せた。 「遼馬さん、なんで……」  藤谷は俺にしがみつくようにして、体を震わせながらすすり泣いた。なんで、どうして。掠れた声で、何度も、何度も繰り返す。 「晴人くん……」  責めるような、泣き縋るようなその声が、俺の胸を鈍く抉った。ほとんど無意識に、藤谷の背中に腕を回していた。彼を宥めるように、その体を抱き締め返す。 「なんで、いなくなったんですか。俺が、嫌になったから?」 「違うよ……そんなこと、あるわけない」 「俺の気持ちが、重かったですか。それとも、他に、好きな人ができたから?」 「晴人くん……」  藤谷の問いかけに、答えることができなかった。言葉に詰まった俺を見て、藤谷はその表情を絶望に染める。 「なんで……ずっと、そばにいてくれるって言ったのに。あなたの全部、俺のものだって」 「ごめん、晴人くん……ごめん」 「謝ってほしくない! 全部、嘘だったんですか……遼馬さん……!」  涙ながら俺を責める藤谷の声を聞くたびに、胸の奥がぐしゃぐしゃに掻き回されるようだった。  こんな風に泣かせるつもりじゃなかったのに。俺がいなくても、藤谷は幸せなんだと思っていた。美優に笑いかける藤谷を見て、俺のことなんてもう、とっくに忘れてしまったんだと。  自分のしでかした過ちに、絶望的な気持ちで謝るしかない。やがて俺の謝罪の言葉に重ねるようにして、藤谷もまた、泣きながら謝罪を始める。 「ごめん、ごめんなさい。遼馬さん。あなたが俺以外の誰かを好きでも、俺もう、あなたの幸せを願ってあげられない」  弱々しかった藤谷の手に、縋りつくような力が込められる。その手から俺を離すまいという、彼の必死な心の叫びが伝わってくるようで、ますます胸が苦しくなる。 「駄目なんだ。もう、どうやったらあの頃の気持ちに戻れるのか分からない。見てるだけでよかったのに。あなたが笑っているなら、それだけで幸せだって思えたのに。今の俺は、俺以外のやつと幸せにならないでって、思ってる。こんな風だから、俺、あなたに捨てられたのかな」 「晴人くん……」  これ以上、藤谷が自分を責める言葉を聞いていられなかった。胸を打たれたような気持ちで、必死に、震える彼の体を抱き締める。  冷たく、強張った藤谷の体は、本当にこのまま消えてしまいそうに儚かった。 「ごめん、俺も……俺も、同じなんだ」  涙が止まらない。心のずっと奥底に閉じ込めていた、あの醜い怪物が泣いている。  誰にも話すつもりなんてなかった。必死に隠して、閉じ込めて、なかったことにしようとした。自分の中の、あまりにも自分勝手で醜い、その怪物じみた感情を、初めて打ち明ける。 「優しくて、格好良くて、完璧な君の隣に、俺みたいな欠陥だらけの人間がいるなんて、間違ってると思ってた。自分が弱くて、可哀想な人間だってことを利用して、君の優しさに甘えてる、卑怯な自分が嫌だった。でも、それでも、隣にいたかったんだ。誰にも渡したくないって思った。ずっと、俺だけが、君の隣にいられたらいいのにって」  藤谷への恋を自覚した瞬間から、後ろめたい、罪悪感ばかり感じていた。眩しすぎる君とはあまりに不釣り合いな自分が、隣にいることそのものが罪なのだと思っていた。  それでも、隣にいたいと願ってしまったんだ。君の隣にいられる、その場所を誰にも渡したくなかった。醜い嫉妬と独占欲が、体の中で暴れて、自分でも抑えきれなくて。いつかその怪物が、俺の理性を食いつぶして君に襲い掛かりそうで、恐ろしかった。  一歩間違えば、きっと、俺は五十嵐と同じだったと思う。手に入れるためなら相手を傷つけても構わないような、そんな——。 「自分勝手な自分が許せなかった。いつか君を傷つけると思うと、怖くて……俺がいなくなったほうが、君が幸せになれると、思ったんだ」 「そんなの……!」  俺を搔き抱いたまま、ずっと俺の話に耳を傾けていた藤谷は、信じられないとでも言うように体を離して涙でぐしゃぐしゃな顔を俺の目前に持ってきた。強い意志の込められた瞳が俺をまっすぐに射抜く。必死の表情で、藤谷は俺に言う。 「なんで、そんな風に思うんですか。ずっと、言ってたじゃないですか。遼馬さんのほうがすごい人だって。七年前からずっと、俺にとって遼馬さんだけが特別なんだって」 「うん……」 「遼馬さんがいてくれるなら、傷つけられたって、なんだってよかったのに。なんで、俺の言葉を信じてくれなかったの。なんで、他の人ばかり気にするの。信じてよ、俺、遼馬さんがいないと、何もできない」 「うん、ごめん……晴人くん」  声を引き絞るような、切ない慟哭だった。藤谷は苦しげに目を閉じると、未だ止まらない涙を流したまま、俺に顔を近づけて、額と額を触れさせた。 「こんな……格好悪い自分、見せたくなかった。遼馬さんには、格好いいところだけ見てて欲しかった……」  そのまま、藤谷の体は俺に向かって倒れ込むようにして椅子から滑り落ちた。ガタン、と椅子が鳴って、支えようとした俺の体ごと床に倒れてしまう。  ゴミや衣類が散乱し、荒れた床に背中からドスンと落ちる。藤谷の体が覆い被さるようにしてのしかかる。俺を床に押し倒すような格好になって、藤谷は、体を震わせながら俺を閉じ込めるみたいに抱き締めた。 「遼馬さん……どこにもいかないで。遼馬さんがいないと、俺、幸せになんてなれない」 「うん。もう、どこにもいかないよ」 「本当に? 嘘じゃない? もう、勝手にいなくならない?」 「うん。約束する」  鼻先を合わせ、頬を触れ合わせる。藤谷から溢れた涙が俺の頬まで濡らしていく。  子どもみたいに泣きながら、俺を欲しがる藤谷が愛おしくて、胸が苦しくて、堪らず彼の後頭部に手を回し、抱き締める。 「……遼馬さん……」 「ん……」  カサついた藤谷の唇が、俺の唇に重なった。溢れた涙が唇を濡らし、少ししょっぱい味がした。  じっくりと味わうように、噛み付くように、何度も藤谷は俺の唇を食んだ。時々口の端に八重歯の当たる感触があって、今、俺にキスをしているのが、藤谷なんだと強く実感して涙が溢れた。  藤谷が好きだ。気持ちが、次々に溢れて止まらない。こんな感情をどうやって胸の奥に押し込めていたのか、自分でももう分からなかった。離さない。離せない。きっと俺も、もう二度と、俺以外の誰かの隣で君が幸せになることを受け入れられない。  頭上のスピーカーからはまだ、あの流行曲が流れ続けていた。綺麗で、それでいて胸を締め付けられるような、切なくて甘い旋律が、薄暗く静かな部屋を包み込むように優しく響いている。 「嬉しい……これ、夢かな……目が覚めたら、また、遼馬さんがいない日が続くのかな」  僅かに唇が離れた隙に、藤谷がそんなことを言う。藤谷の元を去ってすぐ、どうせこの先の人生は、藤谷のいない日が続いていくだけだと思うと、目の前が真っ暗になるような絶望を感じたことを思い出す。 「夢じゃないよ、晴人くん」  あの絶望の中に取り残された藤谷を思うと、涙を堪えきれなかった。俺がここにいることを分かってほしくて、どうにかして安心してほしくて、俺は両手で藤谷の頬の涙を拭いながら、彼の唇に重ねるだけのキスをした。 「遼馬さん、ずっとそばにいて……遼馬さんがいないと、俺」 「大丈夫……大丈夫だよ。ずっと、そばにいるよ」  何度も、何度も安心させるように、藤谷の言葉に肯定だけを返す。やがて藤谷が落ち着いたように、薄く微笑んで目を閉じ、力を抜いて俺に体を預けてきた。  重なり合った体から、彼の鼓動の音が伝わってきた。彼の生きている証が、あまりにも愛おしい。抱き締めて、頭を撫でて、俺はまた口を開く。 「考えるよ、俺も……君との未来を。ずっと、失った時のことばかり考えて、先のことを考えるのが怖かったけど……今は、何にも見えなくて、目の前が真っ暗みたいな気がしてもさ」  藤谷の体がピクリと震えて反応した。  大きなその体を抱き締めて、彼の耳元へ囁くようにして続ける。 「見落としてたコードが一個見つかって、急に、目の前が明るくなるみたいに。探せば、見つかるかもしれない。二人で幸せになる方法も」  俺なんか相応しくないとか、隣にいるべきじゃないとか。いつか訪れる別れに怯えるのは、もうやめる。  僅かに体を持ち上げた藤谷が、信じられないと言う顔で俺を見ていた。既に濡れて真っ赤になっている目から、またじわりと涙が滲んでいる。  子犬のように可愛い君が、今はまるでウサギのようだと思って、自然と頬が緩んだ。呆然とする君の、濡れた頬に手のひらで触れる。泣きながら微笑んで、俺は言う。 「一緒に、考えてほしいんだ。俺一人だと、また、間違えるかもしれないから。二人で考えよう、二人のこれからのこと。俺と晴人くんが、一緒にいられる未来のことを」  俺一人では見つけられなくても、きっと、二人でなら見つけられる。どれだけ苦しくても、絶望的に思えても、それでも。  この先の未来を、君と一緒に生きていきたい。その気持ちにもう嘘はつかない。  愛おしくて、堪らない。あの日、眠る君に置いてきた最後の言葉を、君の目を見て、初めて口にする。 「愛してるんだ……晴人くんを」  滲んだ涙が溢れて、温かい雫が頬を滑り落ちた。  同じように涙をこぼす藤谷が、感極まったように目を見開いた後、また俺に近づいて目を閉じた。  涙に濡れた、しょっぱいキスが落ちてくる。藤谷の気が済むまでそのまま、絶えず彼のキスを受け止めた。

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