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第14話 断罪の晩餐会

 ランタンの炎が心臓の鼓動のように揺れていた。  汗ばんだ肌を撫でたのは、ひやりとした感触。  すぐにラベンダーの甘い香りが鼻を満たし、エイドリアンの体は小さく震える。  「……ぁ……」  思わず瞼を開ければ、そこにいたのはダンテだった。  銀の器に浸した布を指で絞り、彼の体を清めるように、慎重に、慈しむように動かしている。  その手つきは拭うというより、触れて確かめるように――いや、愛撫に近かった。  「だ、ダンテ様……っ、自分で……!」  慌てて起き上がろうとする腕を、静かに押さえられる。  「いいだろう。……今はまだ、私に任せて」  低く囁く声が耳を痺れさせる。  ひんやりした布が胸から腹へと滑り落ちるたび、火照りはかえって強くなる。  ラベンダーの香りが室内を満たし、甘く濃い余韻に二人を閉じ込めていた。  「あの、今度は僕が……」  静かに頷いたダンテから布を受け取ると、エイドリアンの手が、慎重に、しかし震えるほどの緊張を孕んで彼の肩をなぞる。布越しに触れるたび、そこに宿る力強さを意識せずにはいられなかった。  (この腕に……抱かれたんだ……)  思い出すだけで胸が熱くなる。拭いているはずの自分の指先さえ、震えそうになる。  「……」  ふと顔を上げると、ダンテの灯りに照らされた瞳がじっと自分を見ていた。あまりに真っ直ぐで、逸らせなくて、思わず布を握る手が止まってしまう。  その瞬間、強い腕に引き寄せられ、抱きすくめられた。  「……っ、ダンテ様?」  驚きに目を瞬かせるエイドリアンの頭上で、ダンテはわずかに時計へ視線を流し、低く息を吐いた。  「……もっとこうしていたかったが、もう時間がないか」  名残惜しげに囁く声が、火照った耳朶をくすぐる。  「今夜はエンリコ伯爵一家を招いて、我が家で会食の予定が入っているんだ」  その声には、深い疲労と、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。  「――『領内の融和のため、率先して和解の席を設けよ』と、フェデリコ公爵からの命令だそうだ。まったく、余計なお世話だ」  「……では、すぐにお支度を……」  促すエイドリアンの言葉を、ダンテが短く遮る。  「エイドリアン」  低く名を呼ばれると、心臓が跳ねる。  「もしルチアーナに何か言われたら、『私のアトリエで絵具を作る手伝いをしていた』と口裏を合わせてくれ」  その琥珀色の瞳は、冗談ではなく真剣そのものだった。  「……はい、分かりました」  エイドリアンは素直にうなずくしかなく、抱き寄せられたまま、小さく返事をした。  急いで身なりを整え、いつもの給仕服に袖を通すと、エイドリアンは邸の持ち場へと戻った。  すぐに、厳しさの奥に母のような優しさを宿した眼差しの女中長ルチアーナが、心配そうに声をかけてくる。  「エイドリアンさん、姿が見えなかったけど……また坊ちゃまに呼ばれていたのね?」  言葉こそ穏やかだったが、その瞳は彼の顔をそっと探るように見つめる。  しかし、ダンテがハーブ水で拭き清めた肌には、疲れの色以外の痕跡は見当たらなかった。  「……はい。アトリエで絵具を作る手伝いをするように仰せつかっていました」  ダンテから教え込まれた嘘の建前を、エイドリアンはかろうじて紡ぎ出す。嘘に慣れない唇は乾いていたが、ルチアーナはそれ以上詮索しなかった。  「そう。仕方ないわね。じきにエンリコ伯爵様のご一家がお見えになるから、くれぐれも粗相のないようにね」 ​ その言葉は、まるでエイドリアンの胸に冷たい刃を突き立てるようだった。粗相――それは、彼にとってクロノス機関での規則を破り、ダンテの愛を選んだことの、比喩に他ならなかった。  夕餉の時刻。カルロ伯爵邸の小さな晩餐室は、広大な大広間よりもはるかに密度の濃い緊張に支配されていた。  卓を囲むのは、主人であるカルロ伯爵夫妻と、長男ダンテ、次男アンドレア。向かいには、客人として招かれたエンリコ伯爵夫妻、そしてその長男ロレンツォの姿がある。  エイドリアンは他の給仕とともに壁際で控えていたが、給仕長からワインの奉仕を任された瞬間、まるで再び拷問台に縛りつけられたかのように、胸の奥が冷たく強張った。  ロレンツォの視線が、鋭利な刃のように彼を射抜く。獲物を逃すまいとする鷹の眼差しに、背筋が粟立つ。  ――ほんの数刻前まで、ダンテの腕に抱かれていたという事実が、火照りの名残をまだ体の奥に刻んでいる。  その秘密を抱えながら、今は透明な影に徹し、沈黙の給仕を演じなければならなかった。  テーブルの中央――ロレンツォのグラスにワインを注ぐため、エイドリアンは静かに背後へ立った。  隣の席では夫人たちが世間話に花を咲かせ、そのさらに奥では、カルロ伯爵が、饒舌で知られるエンリコ伯爵の長広舌に、我慢強く付き合っていた。  時おり相槌を打つものの、その顔には「早く解放されたい」という諦めの色が隠しきれない。  父の注意が完全に逸れていることを、ロレンツォは見逃さなかった。  至近距離から聞こえてくる声は、蜜のように甘やかでありながら、底冷えする刃を忍ばせている。  「ダンテ。例の異国の給仕についてだが、我が家への奉仕の申し出を二度も断られるとは驚いたよ」  ロレンツォは、わざとらしい明朗さを纏いながら切り出した。  「だが、その給仕――異国の小鳥のように珍しい存在を手放す気配がないところを見ると、どうやら君は家門の忠誠よりも、自らの道楽を選んだようだね?」  「道楽」――その一語が、エイドリアンの胸を鋭く抉った。  禁忌を犯してまで選んだ愛が、この男の眼にはただの気まぐれとしか映らない。後悔と羞恥が一度に押し寄せ、視界がかすむ。  「その異国の小鳥とやら、異国の言葉が堪能だと聞いている。……まさかとは思うが、フィレンツェの外交文書や、公爵家との機密の往来までも、彼に託してはいまいね?」  「いや、もちろん君が私的な慰みに彼を傍らに置くのは結構だ。若き当主の気晴らしとしては微笑ましい。だが――名門の嫡男たる君が、その給仕がどこの国の手先かも分からぬまま重宝しているとなれば、父君のお耳に入ったとき、果たしてどう映るだろうな? この大事な折に、家の威信を『道楽』と取り違えて揺るがすことなど、まさに愚かの極みではないか?」    その時、ダンテが拳を固く握り締めるのが視界の端に映った。音もなく張り詰めたその仕草が、かろうじて彼を支える砦となる――はずだった。  しかし指先に走ったわずかな震えが、命取りとなる。  カラン、カシャン!  高価なクリスタルのグラスが、給仕盆から滑り落ちた。  瞬間、鋭い破砕音が響き渡り、わずかに残った赤いワインがまるで血しぶきのように石床を汚す。    その場の空気が、一瞬で凍りついた。  誰もが息を呑み、音を立てることすらためらう。――この失態は、もはや一介の給仕の過ちではない。  両家の面前で、サントロ家の威信に泥を塗ったのだ。  すべての視線が、エイドリアンに突き刺さる。  ロレンツォの唇がわずかに歪んだ。勝利を確信した者の、それはあまりに露骨な笑みだった。  ――だが。  「……お許しを、父上」  静寂を破ったのは、ダンテの声だった。  その声音は冷ややかに澄み渡り、貴族としての威厳と自制を完璧に纏っていた。  一切の動揺も羞恥もなく、ただ、その場に君臨する者の声だけが響く。  椅子を押しのけて立ち上がると、ダンテは一歩でエイドリアンに近づき、震える腕を掴んだ。その力強さは叱責ではなく、警告。視線の奥に「従え」という無言の命令が刻まれていた。  「エイドリアン。先刻から顔色が優れない。どうやら疲労が溜まっているようだ」  彼は冷ややかに宣言する。  「我が家の召使が失態を犯したこと、すべての責めは私が負う。――今夜の職務は免除する。部屋で休ませろ」  主としての威厳と冷徹な決断、その両方を兼ね備えた声音が、場の空気を一瞬で支配した。  誰もその言葉に反論できない。  名門の嫡男としての権威――その建前ひとつで、ダンテはエイドリアンをこの戦場から救い出したのだ。  エイドリアンは、ロレンツォの嘲笑、ダンテの熱い掌の感触、そして砕け散ったグラスの音だけを胸に抱きながら、深く頭を下げ、その場を後にした。  部屋に戻ったエイドリアンは、ドアを閉めた途端、その背を支えに力尽きるように床へと崩れ落ちた。  堪らず膝を抱え込み、肩を震わせる。視界がにじみ、先ほどまで完璧な従者としてダンテの隣に立っていた自分が、今では孤独と罪悪感の塊へと変わり果てていることを突きつけられる。  脳裏で繰り返し響くのは、会食の場で砕け散ったクリスタルの音。些細な動揺ひとつで任務を果たせなかった自分の弱さが、その残響となって喉を締め上げた。  (なぜ、これほどまでに脆い……)  このままでは、自分の過ちがいずれダンテの命運をも危うくする。そうした恐怖が、冷たい鉄の枷となって胸に絡みつく。  クロノス機関の最高禁忌――決して交わってはならない過去の人間の愛。その掟を自ら踏み破り、甘美な罪を受け入れてしまった。だがそれは同時に、最も愛しい者を危険に晒す裏切りでもある。  愛すれば愛するほど、自分はダンテにとって猛毒となる。  その毒から救う唯一の道は、ただ離れることだけ――そう悟るたび、別れの必然性が絶望となって身体を這い上がる。  エイドリアンは顔を膝に埋め、肩を小さく震わせた。  「愛」という名の重荷が罰のように圧し掛かり、呼吸すらままならない。  静寂に閉ざされた部屋の中、彼は逃げ場のない孤独と自責に溺れてゆくしかなかった。

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