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第15話 刻限
エイドリアンは秘密を胸に抱えたまま、しかしダンテへの愛しさには抗えず、夜ごとその腕に縋っていた。
熱に呑まれるたび、許されぬ幸福を深く身体に刻みつけてしまう。手放すべきだと分かっていながら、彼のぬくもりを拒むことなどできなかった。
やがて静けさが訪れる。荒れ狂った呼吸がゆるやかに収まり、残されたのは汗の匂いと、まだ火照る身体の重なりだけ。
乱れたシーツに絡め取られながら、互いの素肌はかすかに湿り気を帯び、擦れ合うたびに微かな痺れを生んだ。
エイドリアンは、余韻に震えるままダンテの胸へ顔を埋める。汗に濡れた肌が頬に触れ、熱の名残りが呼吸のたび肺を満たしていった。
彼の大きな手が背をゆっくりと撫でる。その一撫でごとに、押し寄せる安らぎと罪悪感が胸を締めつける。
鼻腔を満たすのは、汗と体温と、ラベンダーの匂い。理性を溶かし、罪悪感さえも蕩けさせる甘美な香りだった。
指先を僅かに動かすと、滑らかな肌が呼応するように熱を返す。
触れてはいけないと知りながら、もっと触れずにはいられない。禁じられた熱が、静寂の中でなお二人の身体を繋ぎ止めていた。
ダンテはそんな彼の髪をゆっくり撫でながら、低く呟いた。
「……君は、いつも私の隣にいるとき、泣きそうな顔をしているな」
ダンテの声は、夜の静けさに溶けるように低く響いた。彼はエイドリアンの髪を撫で続けながら、ふっと息を吐く。
「分かっている。私の傍にいることで、君にどれほどの重荷を背負わせているか……」
その言葉に、エイドリアンは目を見開いた。だが、否定する声は喉で凍りついた。
「どんなに君を愛していても、いつか私は政略のために結婚しなければならない。君も、貴族社会の目が私たちをどう見ているか、気づいているはずだ」
ダンテの指先が、エイドリアンの頬を優しくなぞる。
「それでも……私は君を失いたくない。スパイだの、道楽だの、何を囁かれようと構わない。私が信じているのは、君だけだ」
その真摯な瞳に射抜かれて、エイドリアンの胸は痛みで裂けそうだった。
(違う……違うんだ、ダンテ……)
本当の苦悩は、未来人という正体を偽り続けていること。彼を愛しながら裏切っているという、どうしようもない事実。
だが、真実を告げることは決して許されない。告げたところで、気が狂ったか、悪霊が取りついたとしか思われないだろう。
「……すみません」
やっと絞り出した声は、震えて儚かった。
ダンテはその声を「不安の告白」だと受け取り、強く抱き寄せる。
「謝るな。君は何も悪くない。君がここにいてくれるだけでいい」
ダンテの低い囁きと共に、エイドリアンは強く抱き寄せられた。その腕の中は、あまりにも温かく、心地よい檻のようだった。
やがてダンテの呼吸は落ち着き、規則正しい眠りのリズムへと変わっていく。エイドリアンは彼の胸に顔を寄せ、しばらくその音を聞いていた。
胸の奥に込み上げる痛みに、唇を噛む。
ダンテは未来を知らない。知らないまま、これからも変わらずに、愛を注いでくれる。
だがその愛に甘えるたび、エイドリアンは真実を隠し続ける裏切りを重ねてしまう。
「……ごめんなさい」
かすかな声が闇に溶けた。閉じた瞼の端から、熱い涙が静かに零れ落ちる。
彼を抱き返すことさえ、今はためらわれた。触れる指先が、愛を告げる代わりに罪の重みを告白してしまいそうで。
それでも抗えず、そっと伸ばした手がダンテの頬に触れかけ――しかし寸前で止まり、空を切るように引き戻された。
(……僕にそんな資格はない)
喉の奥で、声にならない慟哭が渦を巻いた。
エイドリアンは、彼を起こさぬよう静かに身を起こした。眠るダンテの横顔を一瞬だけ名残惜しげに見つめ、それから布団を押し上げる気配すら忍ばせて、音もなくベッドを抜け出す。
散らばった衣服をひとつひとつ拾い上げ、手早く身に纏っていく。その指はまだ微かに震えていた。
最後に肩越しに振り返ると、月明かりに照らされたダンテの安らかな寝顔が目に映った。胸が焼けつくように痛む。
彼は足音を殺し、静かな館の廊下へ出る。扉を閉じた瞬間、部屋の中の温もりが断ち切られ、冷たい夜気が全身を包み込んだ。
重く引きずる罪を抱えたまま、エイドリアンは自室へと戻っていく。
静かに扉を閉めたあと、重たい溜息をひとつ吐き、ベッドの傍らへ歩み寄った。
そのとき――机の引き出しから、突如として電子音が鳴り響いた。
「……!」
胸を跳ね上がらせながら、慌てて引き出しを開く。中に隠していた腕時計型の通信端末が光を放ち、淡いホログラムの小窓に「クロノス機関本部」の文字が浮かび上がっていた。
(まさか……こんなに早く──?)
喉がひりついた。指先がわずかに震えながらも、エイドリアンは端末を操作し、通信を受信する。
『エイドリアン! こちらクロノス機関本部のサトルだ、聞こえるか?』
「……ああ、聞こえる」
その瞬間、エイドリアンの声から日常の温度がすっと消えた。
瞳の奥にあった微かな光が静かに沈み、表情には任務遂行者としての冷たい影が戻る。
『……よかった、生きてた! 何度もリンクを試みたんだが、繋がらないから死んでるかと思ったぜ』
「……悪い。デバイスを外していた」
『いや、安心した。エイドリアン、良い報せだぞ。大規模な時空乱流は、予想よりずっと早く収束に向かっている。ロストしていた観測員たちも全員、生存が確認された』
『乱流が安定し次第、順に回収を始める予定だ。――エイドリアン、念のために現在の健康状態と状況、それから位置情報を報告してくれ』
朗報のはずの言葉が、まるで余命宣告のように胸を締めつけた。
エイドリアンの喉がきしみ、唇が震える。言葉が出ない。
「…………」
『……エイドリアン? 聞こえているか?』
「……あ、ああ。すまない……健康状態は良好。今は伯爵邸に身を寄せてる。現在地――フィレンツェ近郊、アルノ川南岸の丘陵地帯」
『了解。日時と回収地点が確定し次第、再度連絡する』
「……了解」
『どうしたエイドリアン? もうすぐ帰れるんだぞ。……あとで、土産話、たっぷり聞かせてくれよな』
「……ああ」
通信が切れた瞬間、部屋を沈黙が満たした。
エイドリアンは端末を握りしめたまま、深く俯く。
胸の奥で、硬く錆びついた何かが軋んだ。
──帰れる。
その知らせは、かつてなら歓喜のはずだった。
けれど今はただ、鎖の音のように重く心を締めつける。
ベッドの縁に力なく腰を下ろし、両手で顔を覆う。
堪えていたものが決壊し、嗚咽が喉の奥からこみあげた。
「……っ、ああ……」
震える肩が、泣き声を抑えきれずに上下する。
未来へ帰れば、この時代で得たすべてを断ち切らねばならない。
彼の腕に抱かれた温もりも、囁かれた愛の言葉も――すべて、存在しなかったことになる。
涙が頬を伝い、膝の上に落ちては消えていく。
それでも止まらない。
エイドリアンは唇を噛み、嗚咽を押し殺そうとするが、震えはどうしても止められなかった。
この時代の人間ではないことを隠して愛を乞い、未来からの召喚を待つだけの卑怯者。
――掟を破った罰は、こうして訪れる。
愛した者を裏切り、愛を抱いたまま去らねばならない。
観測員としての使命と、ひとりの男としての願い――その相反する二つが、彼の心を裂いていく。
静まり返った部屋に、すすり泣きだけが微かに響いた。
やがて疲れ果てたように背を丸め、涙に濡れた瞳を閉じる。
外の世界は夜の帳に沈み、アルノ川の流れが静かに音を運んでいた。
けれど、エイドリアンの胸の内だけは、嵐のように荒れ狂ったままだった。
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