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第20話 懺悔と贖罪
胸に残ったのは、安堵と喪失、そして拭えぬ罪悪感だった。
アルノ川の橋を渡り、幾つもの狭い路地を抜けた先に、広場が開ける。
そこに聳え立つのは――サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。
フィレンツェという都市の心臓部にして、精神そのものの象徴だった。
昼の広場は祝祭の熱気に包まれていた。
金糸のマントを翻す貴族、露店で声を張り上げる商人、教会へ急ぐ修道士、子の手を引く母親――人々のざわめきの上を、鐘の音が静かに流れていく。
屋台には色とりどりのリースや蜜蝋の蝋燭が並び、子どもたちの笑い声が冬空に溶けていった。
その光景を見つめながら、エイドリアンは小さく息を呑む。
「……そうか、クリスマス……」
囁くように呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
見上げれば、冬の陽光を受けた白と緑の大理石がきらめき、クーポラの影が街をやわらかく包み込んでいる。
ファサードには松枝と赤いリボンの飾りが揺れ、祭壇へと続く参道にはキャンドルの列が続いていた。
祈りの歌声が風に混じり、冷たい空気の中でほのかな温もりを運んでくる。
――ここは、すべての始まりの場所だった。
大聖堂の重厚な扉を押し開けると、外の賑わいは一瞬で遠ざかり、神聖な空気が彼を包み込んだ。
高くそびえる天井からは、金色の星を散りばめたような光が降り注ぎ、聖母と幼子の姿が浮かんだ色鮮やかなステンドグラスから射す光が、薄暗い堂内に虹色の筋を落とす。
その光は、まるで凍てつく冬の中で灯る小さな希望のようだった。
膝を折る修道士、涙ながらに十字を切る老女、小さな声で聖句を唱える少年――その誰もが、己の重荷を静かに神へ預けていた。
エイドリアンは祭壇の前に立ち尽くした。
――もし、この祈りが届くのなら。
彼はそっと瞼を閉じ、胸の奥でただひとつの名を呼ぶ。
「……どうか、愛する人を置き去りにしてしまうこの罪を、お赦しください。
僕はどんな罰でも受けます。だから――あの人に、どうか幸福な未来をお授けください」
誰に聞かれることもない静寂の中、彼は十字架に祈りを捧げた。
燃えるように真実だった愛と、それを自ら欺瞞 の盾へと変えてしまった――未来人としての罪を、贖うように。
『Il mio cuore è tuo.』
――心はすべて、ダンテのものだ。
けれど、身体も使命も未来に縛られている。
引き裂かれた魂の痛みを癒せる場所は、もはやこの時代の神聖な威光の前しかなかった。
彼は冷たい腕輪に、そっと唇を押しあてた。
本来は枷でしかないそれは、同時にダンテが自らの手で与えた、愛の証でもあった。
重く、痛ましく、そして温かい。
矛盾を孕んだその感触を胸に刻みながら、彼はただひとり、訪れる迎えを待つための孤独な誓いを立てた。
祈りを終えたあと、エイドリアンはしばらく礼拝堂の椅子に腰掛け、ステンドグラスに射す光のゆらめきをただ見つめていた。
色鮮やかな影が大理石の床に散りばめられていく。けれども、その輝きは彼の胸に重く沈む闇を照らすことはなかった。
その背後から、柔らかな声が響いた。
「……エイドリアンさん。お久しぶりですね」
振り返ると、そこに立っていたのはフランチェスコ司祭だった。あの日、途方に暮れる彼に救いの手を差し伸べてくれた人――変わらぬ優しい眼差しが、今も静かにエイドリアンを捉えている。
「司祭様……」
掠れる声が喉から零れ落ちる。司祭は穏やかに歩み寄り、祭壇へ視線を向けながら静かに言った。
「ここで祈っておられたのですね。神は、あなたの心の声を必ず聞いてくださいます」
その言葉に、エイドリアンは胸の奥に積もる罪悪感と、ダンテへの想いを抱きしめるように拳を握った。やがて意を決したように鞄の中に手を入れ、布袋を取り出す。
両手で差し出すと、視線を落としたまま囁いた。
「あの……司祭様、これを……。もう、僕には必要のないものなんです」
袋の重みを目で測った司祭は、静かにその顔を見つめ返す。しばしの沈黙ののち、ゆっくりと受け取った。
「……これは」
「この街の誰かのために使ってください」
エイドリアンの瞳が揺れた。司祭はその苦しみを汲み取ったように、厳かでありながら優しい声音で告げる。
「ならば、これを“神への捧げもの”としなさい。あなたが背負ってきた重荷と、断ち切らねばならぬ過去を、ここに委ねるのです」
エイドリアンは息を呑んだ。手切れ金という汚れた烙印を、清らかな献げ物へと変えてくれるその言葉に、胸の奥が震えた。
「……僕の祈りは、届くでしょうか」
静かな問いに、司祭は柔らかく目を細めた。
「――神は、あなたのように他者を思う祈りを、何よりも喜ばれるでしょう」
「たとえその祈りが、自分を苦しめるものであってもですか」
「それこそが、真の慈しみです。愛の形は時に痛みを伴いますが……神は必ず、その痛みの中に光を見いだされますよ」
その言葉に、エイドリアンはそっと目を閉じた。胸を締めつけていた罪悪感が、ほんのわずかにほどけていくのを感じながら。
「……では、僕はこれで。ありがとうございました」
小さく頭を下げ、エイドリアンは踵を返した。
だが、背を向けた瞬間、穏やかな声が彼を呼び止める。
「エイドリアンさん……行く宛はあるのですか?」
一瞬、肩が震えた。
問いかけに答えられず、彼は視線を落として唇を噛む。
やがて掠れる声で、短く告げた。
「……祖国に帰ります」
その響きに、フランチェスコ司祭は眉を寄せる。
帰る、と言いながら、そこに安堵も希望もない。ただ深い絶望の色が滲んでいた。
しばしの沈黙の後、司祭は柔らかく微笑んだ。
「もしよければ、施療院に身を寄せてはいかがです。旅路は険しく、今のあなたの体では危ういでしょう。ここなら傷を癒すことも、人の手を借りることもできます」
エイドリアンは驚いたように顔を上げた。
だがすぐにまた伏し目がちに、唇を震わせる。
「……そんな資格、僕には――」
「資格など要りません。弱き者を支えるのが、我らの務めですから」
司祭の声は、静かに彼の胸の奥へ沁みこんでいった。
***
案内された小部屋は、白い漆喰の壁に小さな窓、壁際の寝台と机と椅子、そして隅に置かれた十字架の祈祷台だけの質素な造りだった。
二度目に訪れたこの部屋も、以前と何ひとつ変わってはいない。
贅沢さはなくとも、静かな安らぎがそこにあった。
「……またここに戻ってきてしまったな」
思えば、ダンテとの出会いもここだった。
つい数ヶ月前のことなのに、もう何年も前の出来事のように感じられる。
あんなにも誰かを想い、あんなにも心を焦がしたのは、きっと最初で最後だ。
それは夢のように甘く、そして同じくらい残酷だった。
胸の奥がじんと痛む。
もう二度と、あの熱に触れることはないのだと悟った時、ひどく静かな虚しさだけが残った。
小さな窓の向こうで、雲がゆっくりと形を変えていく。
その移ろいをただ眺めていたとき、左腕の通信端末がかすかに震えた。
その音を、彼はまるで遠い世界の出来事のように聞いていた。
――幽閉されていたあの日、サイレントモードにしたままだったことを思い出す。
(……クロノス機関)
現実が、冷たい指で胸を掴む。
ゆっくりと息を吐き、エイドリアンは応答ボタンに指を滑らせた。
「――こちらエイドリアン・ミズノ」
『エイドリアン、こちらクロノス機関本部のサトルだ。喜べ、ようやくお前の番だぞ』
あまりにも軽い声だった。
その明るさが、胸の奥のどこかをひどく冷たくした。
「……ずいぶん遅かったな」
『まあまあ、そんなに怒るなって。お前の今いる時間、1536年1月3日で間違いないよな?』
「……1月3日? まだクリスマス前だろ?」
『何言ってる。それはユリウス暦の話だ』
(……そうだ。十日のズレ――この時代ではまだ、旧暦が使われている)
エイドリアンはホログラムの小窓を呼び出し、グレゴリウス暦での記録を確認する。
「――ああ、合ってる」
『回収地点はアルノ川の北東、マイアーノ農園だ。明日――1月4日、正午までに来られるか?』
「問題ない。ここからなら歩いていける」
『了解。さすがにフィレンツェのど真ん中にコントレイルを降ろすわけにはいかないからな』
通信が途絶えると、部屋に静寂が満ちた。
窓の外では、冬の光が鈍く石畳を照らしている。
――帰還。
本来なら帰るべき場所を指すはずの言葉が、
エイドリアンの耳には“永遠の別離”としか響かなかった。
――自分の存在は、この時代にとってただのバグだ。
そして、この時代に留まることは、愛するダンテを道連れに、共に破滅することを意味する。
バグにできることは、静かに消えることだけだった。
「……これで、いい」
小さく呟いた声は、痛みを押し殺した氷のように冷たく、自分のものとは思えないほど遠い響きを帯びていた。
だがその胸の奥では、名を呼ぶ声がかすかに脈打っていた。
――ダンテ。
その名を呼ぶたび、未来が遠ざかる。
それでも彼は、震える指で最後の操作を終えた。
手首の光が静かに消える。
それが、彼に残された最後の“選択”だった。
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