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序章

 硝子張りの温室は、銀灰色のヴェールのような淡い光に満ちていた。  外は冷たい小糠雨だったが、室内には湿った土と植物の匂いが満ち、空気はほのかに温かい。咲き初めた花々が、薄暗い建物の中に春らしい彩りを添えていた。  一人の少年が、保温に使う薪を古い木棚に積み上げている。十六になったばかりの、年若い下男だった。痩せた身体に、やや丈の長い真新しい仕着せをまとっている。顎のあたりまで伸びた髪は乾いて艶を失い、長い睫毛に縁どられた紫紺の瞳には、疲労の色が滲んでいた。  運んできた薪を一通り積み終えて、少年は肩で息をする。歩き出そうとして立ち止まり、そのまま花壇の縁の赤煉瓦へ腰を下ろした。  彼がこのアシュフォード城に雇い入れられたのは、つい先頃のことだった。渡された清潔な衣服も、磨かれた床も、使用人たちの行き交う忙しない足音にも、まだ馴染まない。自分だけが、この美しい城の中へ落とされた泥の塊のように思え、薪仕事を終えた後も使用人棟へ戻れずにいた。  膝の上に置いた右の掌には、薄く血が滲んでいる。  薪運びの最中にうっかり裂いたそこは、じくじくと疼くような痛みを訴えていたが、少年は誰かに助けを求めようとはしなかった。この城の誰にも、その傷ついた手を見られたくなかった。痛いと言えば、役に立たないと思われる。そうすれば、せっかく与えられた仕事まで失ってしまう気がしていた。  俯いた視線の先で、ぽたり、と赤い雫が石床へ落ちる。 「いたいの?」  突然、幼い声がして、少年ははっと顔を上げた。  温室の入り口に、一人の子どもがぽつんと立っている。  年の頃は五歳くらいだろうか。明るい金髪は短く切りそろえられ、榛色の瞳は利発そうな光を湛えている。ふっくらとした紅色の頬はいかにも柔らかそうだった。  一目で上質な仕立てと分かる衣服に身を包んだ子どもは、片手に小さな茶色の布包みを提げて、もの珍しそうにこちらを覗き込んでいる。やがて、物怖じしない足取りで少年の前まで近づいてきた。  少年は、男児のその堂々とした振る舞いだけで、相手が誰だか察した。  セドリック様。  この城の主であるアシュフォード伯爵の、幼い一人息子だった。  少年は慌てて立ち上がろうとする。だが、咄嗟に花壇の縁へついた掌が痛み、小さく息を呑んだ。 「っ……」  セドリックが、その大きな瞳を心配そうに見開いた。 「やっぱり、いたいんでしょう?」 「……失礼いたしました、坊ちゃま」  少年はそっと右手を背中に隠し、その場で膝をついて深く頭を下げる。 「休むつもりはございませんでした。すぐに戻りますので」 「どうして? ここにいたら、だめなの?」  子どもは不思議そうに首を傾げたが、少年はその問いに答えを持っていなかった。駄目だと言われたわけではない。けれど、こんな場所に自分がいてよいはずがないと、誰に申し付けられるまでもなく理解していた。  この咲き誇る花々も、甘やかな香りも、すべてはこの城で生まれ育った者たちのためにあるもので、自分のような人間が触れてよいものではない。  セドリックは、躊躇いなくもう一歩近づいてきた。 「みせて」 「いけません。坊ちゃまのお召し物を汚してしまいます」 「あとであらえばいいよ」  あまりに当然のように言われ、少年は目を瞬かせる。  そのまま黙っていると、セドリックは自らそっとしゃがみ込んだ。上等な下衣が石床につくことなど、少しも気にしていない様子に、少年はさらに戸惑いを深める。 「ねえ。みせて」  逆らうこともできず、閉じた右手をゆっくりと開いた。掌の浅い傷に、乾きかけた血が残っている。セドリックはぎゅっと眉を寄せた。 「いたそうだね」 「大したことではございません」 「ほんとうに?」 「……少しだけ」  観念してそう答えると、セドリックはなぜか安堵したように頷いた。 「よかった」 「よかった……?」  訝しんで問い返すと、子どもは頷いてその大きな瞳で少年を見つめる。 「だって、いたいのにいたくないっていうの、かなしいもの」  少年は、思わず息を止める。まだ年端もいかない子どもの、真っ直ぐな言葉が胸を打った。 「そうだ、ぼくのハンカチ……」  ポケットを探り始めたセドリックを慌てて制す。この上、彼の手巾を自分の血で汚させるわけにはいかなかった。 「いけません。あとで、洗って手当てをいたしますので。お約束します」  セドリックはなおも心配そうに掌を見つめていたが、やがて「じゃあ、こっち」と、手にしていた布包みを膝の上で開いた。中から砂糖をまぶした小さな焼き菓子が二つ、姿を現す。 「これ、お茶のときにもらったの。ひとつあげるね」  セドリックは、そのうちの一つを摘まんで差し出した。 「……私に、でございますか」  少年は、なるべく子どもを傷つけないよう、静かに首を振る。 「いただくわけにはまいりません。坊ちゃまのお菓子でございましょう」 「ぼく、もうひとつあるよ」  差し出された菓子を直視できず、そっと目を伏せた。  甘く芳しい香りが、鼻をくすぐる。口の中に入れたら、きっと簡単に崩れてしまうような、柔らかな焼き菓子だった。けれども、それを受け取ることがどうしてもできない。  何の役にも立っていない自分が、ただ優しくされる理由を少年は知らなかった。手は再び膝の上に戻され、強張ったまま動かない。 「……お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします」  ようやくそう答えると、子どもは少し考えるように焼き菓子を眺める。そして突然、ぱくりと半分を齧った。 「これで、ぼくのぶんだよ。はんぶんこなら、いいでしょう?」  残りの半分を、もう一度差し出す。 「坊ちゃま……」 「ひとりで食べるより、いっしょに食べたほうがおいしいもの」  その屈託のない笑顔に、掌の傷よりも、もっと深いところがひどく痛む気がした。だが、不思議とその痛みから逃れたいとは思わなかった。 「……ありがとうございます」  そっと焼き菓子を受け取る。口に入れると、ふわりと甘さが香り、そしてほどけるように溶けた。その甘さに浸っていたくて、飲み込むのに少し躊躇う。自分が今、どんな顔をしているか見られたくなくて、少年は俯いた。 「おいしい?」  セドリックが瞳をきらきらと輝かせて尋ねる。 「……はい。とても、おいしゅうございます」  答える声が掠れた。子どもは、ぱっと花が開くような笑顔を浮かべる。 「よかった。ぼくも、これすきなんだ」  しばらく二人は、温室の片隅で黙って菓子を食べた。春霖が硝子屋根に弾かれ、柔らかな響きを奏でている。 「そういえば、きみ、なまえは?」  セドリックが、ふと思い出したように言う。  少年は一瞬、答えを躊躇った。けれど、その澄んだ瞳は、身分を確かめるためでも何かを命じるためでもなく、ただ目の前にいる自分を知りたがっているだけだった。 「……エリアス・ヴェインと申します」 「エリアス」  セドリックは、その音を確かめるように、ゆっくりと口にした。 「きれいななまえだね」  エリアスは、大きく目を見開いた。これまで、誰かに名前を褒められたことなど一度もない。エリアスにとって名とは、呼び付けられるための記号のようなものだった。  だがセドリックは、まるで咲いている花の名を口にするように、エリアスの名を呼んだ。 「……ありがとうございます」 「ぼくは、セドリック。セドリック・アシュフォード」  男の子は、自分の胸へ手を当てて名乗った。 「存じております、セドリック様」 「さま、ってつけるの?」  子どもの眉が下がり、明るかった表情がにわかに曇った。エリアスはひどく悪いことをしたような気になったが、幼い主を相手にどんな顔をすればよいのか分からず、ただ口の中で言葉を探す。 「もちろんでございます。私は、この城の下男ですから」  セドリックは目を瞬かせた。そうして、その言葉の意味するところを飲み込むと、ぱっと嬉しそうに笑い、身を乗り出してエリアスの傷ついていない方の手を取った。 「じゃあ、あしたもいる?」  無邪気に問われ、エリアスは俯く。 「……そのように、伺っております」  自分の意思でここに来たのか、いつまでいられるのか、本当に居場所を与えられたのか。そのどれもが、エリアスにはまだ分からなかった。  セドリックは、彼の迷いなど知らないまま、にっこりと微笑む。 「よかった。また会えるね」  その声音があまりに嬉しそうで、また、握られた小さな手がとても温かくて、エリアスはつられて思わず笑みを浮かべる。 「……はい。お目にかかる機会も、あるかと存じます」 「あるよ。ぼくが会いにくるもの」  セドリックはきっぱりと言い、思い出したかのように花壇の方へ顔を向けた。 「ねぇ、あのお花、きれいでしょう」  指さした先には、春の雨空を映したような、淡い灰色の薔薇が咲いていた。白とも銀ともつかない花弁の奥には、ごく淡い紅が差している。冷たい色なのに、不思議と寂しくは見えなかった。 「灰薔薇っていうの。ぼくのすきなお花。お父さまは、じみな色だっていうけどね。あめの日のそらの色みたいで、ぼくはすき」  エリアスも、薔薇の方へ目を向けた。  光の加減によって影を帯びるその花弁は、華やかさを誇るのではなく、薄明かりの中でひっそりと息づくような色をしている。 「はい。とても、美しい花でございますね」  エリアスは穏やかに頷く。セドリックの好きな花だと聞くと、より一層美しく思えた。 「エリアスも、きにいった?」 「はい」  エリアスが答えると、セドリックはまた嬉しそうに笑んだ。そして、あ、と小さく声を上げて立ち上がる。掌に触れていた小さな熱が離れていく。彼の動きを追うと、花鉢の傍に一輪の灰薔薇が落ちていることに気づいた。折れたわけではなく、咲ききって茎を離れた花だった。  セドリックは、それをそっと拾い上げる。小さな両手で大切そうに持ち上げ、エリアスの前へ差し出した。 「じゃあ、これ、あげる」  子どもの言葉に、エリアスはその顔と花とを交互に見比べる。 「私に、でございますか? ですが、これは坊ちゃまのお好きな花では……」 「すきだから、あげるの」  セドリックは、さも当たり前のように言った。 「ひとりで知らないところにいるの、いやでしょう。だから、ぼくのすきなもの、ひとつあげる」  エリアスは、動くことができなかった。  不意に降りた沈黙の中、硝子屋根を叩く雨音だけが、近く、遠く響いていた。  ここへ来てから、自分へ向けられる視線の多くは冷たいものだった。だから、この場所に受け入れられるには、働いて役に立つしかないのだと思っていた。  けれども今、この小さな子どもは、自分の事情など何も知らずに花を差し出している。  エリアスは、両手でそっと、その灰薔薇を受け取った。胸の奥に、これまで知らなかった温かさが灯ったような気がした。それを何と呼ぶのか、エリアスにはまだ分からない。  ただ、掌の中の薔薇を手放したくないと、そう思った。 「……ありがとうございます」  それ以上の言葉は、どうしても出てこなかった。セドリックは、目を細めて満足そうに笑う。 「だいじにしてね、なくしちゃだめだよ」 「……はい。決して」  エリアスがそう答えると、子どもは少し照れたように薔薇色の頬を掻いた。 「セドリック様! どちらにいらっしゃいますの!」  その時、遠くから誰かの呼ぶ声がした。セドリックはそちらを振り返り、困ったように肩を竦める。 「よばれちゃった」 「お戻りくださいませ。皆様がご心配なさいます」 「うん」  数歩駆けだしてから、セドリックは立ち止まった。そして、何かを思いついたように振り返る。 「ねえ、エリアス。セドリックさま、じゃなくて、セドリックでいいよ」  エリアスは驚いて瞬き、そして再び首を横に振る。 「それは……できません」 「どうして?」 「私は、坊ちゃまにお仕えする者でございますから」 「でも、ぼくたちおかしをはんぶんこしたでしょう? もう、おともだちだよ」  そう言って、頬を膨らませる様子が愛らしかった。 「それでも、でございます」  頑なな返答に、セドリックは唇を尖らせる。だが、すぐに何かいい考えを思いついたようで、顔をほころばせた。 「じゃあ、ぼくがおとなになったら、セドリックってよんでよ」  エリアスは、手の中の灰薔薇を見下ろした。淡色の花弁の上に、硝子を伝った雨の光が揺れている。  未来のことなど、何一つ分からなかった。明日、この館でどのように扱われるのかも。この子どもが、いつまで自分の名を覚えていてくれるのかも。  それでも、今だけはその無邪気な約束を、信じてみたいと思った。 「……その日まで、セドリック様が覚えておられましたら」 「おぼえてるよ」  セドリックは、迷いなく答えた。 「ぼく、わすれないもの」  そして、小さな足音を響かせて、今度こそ温室の扉へと駆けていく。その向こうへ消える直前、彼はもう一度振り返り大きく手を振った。 「またね、エリアス」 「……はい」  エリアスは、胸元へそっと灰薔薇を抱き寄せた。 「また、お目にかかれますように――」  温室の扉が閉じられ、再び雨音だけが辺りに響く。エリアスは一人、花の香りに満ちた温室に立ち尽くしていた。掌の傷はまだ痛んだが、もうそれを隠さなければならないとは思わなかった。  その日、エリアスは初めて、この美しい城のどこかに、自分の名を置いてもよい場所があるのだと知った。  そして、その温かさと同じ場所に、エリアスはもう一つ小さな誓いを刻むことにした。  ――いつか、セドリックの役に立てる者になろう。  この城が、未来の主にとって冷たいばかりの場所にならないように。たとえ下働きの一人にすぎなくても、廊下の灯を守り、温室の花を枯らさず、あの子どもが帰る場所を少しでも温かく保てる者でありたい。  そうすることでしか、もらった優しさに報いる術を知らなかった。

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