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第一章

 訃報を告げる黒封蝋の手紙を受け取ったとき、セドリックの脳裏に浮かんだのは、父の顔ではなかった。  雨音に満ちた温室で、灰薔薇の向こうからこちらを振り返ったあの男の顔。彼の面(おもて)には、はっきりとした動揺が浮かんでいた。短く切り揃えられた黒髪は乱れ、暗い紫紺の瞳は欲に濡れている。普段は決して乱れることのない表情が、羞恥にか困惑にかひどく歪んでいた。  ――セドリック様。  自分の名を呼んだ震える声だけが、鮮明に耳の奥へ蘇る。その声は、温室の中で響いていただけではなかった。背を向けて走り出したセドリックを、雨の廊下まで追ってきた声でもあった。  セドリックはその声の記憶を追い払うように軽く頭を振り、ナイフで封を切った。封筒の中からは、折り畳まれた一枚の紙が姿を現す。  ウォーレン・アシュフォード伯爵。アシュフォード領主にして、セドリックの実父であった男は、数日前の明け方、寝台の上で息を引き取ったのだという。朝の支度のために部屋を訪れたウォーレン付きの執事が、すでに冷たくなった主人を発見した。叔父レジナルドから届いた手紙には、そう記されていた。  その一文を目にした瞬間、セドリックは悟る。 (では――、)  父を最初に見つけたのは、エリアスだったのだ。  父の死を悼むより先に、その事実が胸の奥へ冷たく沈む。その理由を、セドリックはまだ、言葉にしたくなかった。  ◇  それより数刻前、王都の朝は、いつも通りの喧騒に満ちていた。  石畳を行き交う馬車の音が、二階の窓硝子をかすかに震わせる。通りでは新聞売りの声が響き、向かいの屋敷の煙突から、細い白煙がまっすぐ立ちのぼっていた。  セドリック・アシュフォードは、借り受けた屋敷の書斎で、机に広げた書類へ目を落としていた。  二十二歳になった彼の佇まいに、幼かった少年の面影はない。  明るい金髪をきちんと撫でつけ、仕立てのよい上着を身につけた姿は、どこから見ても伯爵家の嫡男だった。細かった肩には青年らしい幅が出て、幼い頃から人目を惹いた榛色の瞳には、理知的な光が湛えられている。  机の端には、使い込まれた革装の手帳が置かれていた。十八の誕生日に、父から届いたものだ。添えられていた手紙に、学業に励め、という素っ気ない一文だけが記されていたのを覚えている。  幼い頃から、父が自分の好みを気にかけたことなど一度もなかったのに、革の色も、紙の厚みも、奇妙なほどセドリックの好みに合っていた。結局、四年経った今でもそれを使い続けている。  脇机には、法律書と土地契約に関する書類が積まれており、その中に、王都の商会から届いた一通の書状があった。差出人は「ハロウェイ商会」。アシュフォード家への融資条件の更新について、半年後に期日を控え、改めて確認を求める旨が、丁寧な筆致で記されている。  爵位を継ぐ者にも形式上一通が送られる定めになっている、ただの写しだった。セドリックは一度目を通しただけで、それを紙の山へ重ねる。負債が気がかりではあったが、父がその内実を自分に明かすとは思えなかった。  傍らには、封の切られた社交場への招待状が、何通か置かれていた。舞踏会にも晩餐にも、勉学に差し支えのない範囲で出席している。彼を知る者たちは、アシュフォードの若き後継者を礼儀正しく、将来を弁えた男だと評した。  だが、セドリックが居を構えるその部屋には、長く住みつく者の気配がなかった。  書棚は整えられ、机は磨かれている。生活に必要なものが揃えられた寝室は、何ひとつ不足はないのに、そのどれもが仮に置かれたもののように見えた。あるいは、セドリック自身、それに気づかないふりをしていたのかも知れない。  書類に没頭するセドリックの思考を、扉を叩く音が破った。屋敷に仕える従僕が、郷里からの使者の訪問を告げに来たのだった。  セドリックへ差し出された封筒は、黒い蝋によって封じられていた。  ◇  故郷へ続く街道には、朝から絶え間なく雨が降っていた。  王都を発って三日。黒塗りの馬車は、水を含んでぬかるんだ道を、重たげに軋みながら進んでいる。  窓硝子には細い雨筋が幾重にも流れ、外の景色を歪めていた。地雨の向こうには、ヒースの咲く丘陵が低く連なっている。牧草地の羊たちは、風を避けて生垣の陰へ固まっていた。晴れた日なら白い群れの散らばる丘も、今日は灰色の雨に沈み、ひどく寒々しい。  王都の春はもう少し華やかなものだった。街路樹には若葉が芽吹き、晴れた日には貴婦人たちの日傘の明るい色彩が通りを行き交う。  だが、アシュフォード領の春は遅い。冷たい雨と霧が丘を覆い、石壁には濡れた苔が張りつく。晴れ間よりも曇天の方が、この土地に似つかわしい天候なのだった。  セドリックはそれを知っていたはずだったが、九年ぶりに見る故郷は、記憶の中よりもずっと寂れて暗かった。  馬車が古い石橋へ差しかかる。車輪が大きく跳ね、セドリックは無意識に窓枠へ手を置いた。  橋の片側には、くたびれた木材が仮留めされている。石の欄干の一部が崩れ、そのまま補修を先送りにされているらしい。橋を渡った先にある市場町も、昔よりひっそりとして見えた。軒下へ品を並べる商人の姿は少なく、雨避けの布は色褪せている。通りを行く馬の数も疎らだった。  領地が以前ほど潤っていないことは、王都にいても察していた。  十八の年、セドリックは一度だけ父へ手紙を書いたことがあった。跡継ぎとして、収支と修繕計画に目を通したいという内容で、当時の彼はそれなりに勇気を振り絞ってしたためたものだった。けれども、返ってきたのは、城については案ずるに及ばぬ、という短い拒絶だった。  ならば父に教えを乞う必要のない男になればいい。そう心に決めて法律と財務を学び、領地を治めるための知識を身に付けた。二度目の手紙を書くことは終ぞなかった。同じく王都に居を構える叔父を頼ることも、帰郷して自分の目で城を確かめることもしなかった。  父に拒まれたのだから仕方がないと、そう思っていた。  だが、実際に故郷を前にすると、その言い訳はひどく浅はかで、子どもじみたものに思える。  雨に降りこめられて、他にすることもない馬車の中で、セドリックはその事実と向き合わざるを得なかった。  馬車が再び大きく揺れる。御者の声がかすかに聞こえ、やがて雨に濡れた楡並木の向こうに、灰色の石造りの城が姿を現した。  アシュフォード城――その石造りの外壁と、城館を囲む見事な庭園から灰薔薇城とも呼ばれている。  伯爵家の本邸である城館は、セドリックが生まれ、母を亡くし、父に背を向け、そしてエリアスを置いて去った場所だった。  高台に建つ城は、遠目には昔と変わらぬ威厳を保っているように見える。  だが、近づくにつれて、セドリックはその綻びを目の当たりにすることになった。  門扉の金具には赤錆が浮き、正面玄関へ続く石段の端は欠けている。雨に濡れた外壁には、修復されぬまま残された黒い染みが走っていた。脇へ目をやれば、厩舎の前に並ぶ馬車は、記憶より明らかに少ない。  さらに城の側面、木々の向こうには、硝子張りの温室が見えた。雨の中、その屋根の一部だけが鈍く曇っている。割れた硝子を、別の板で塞いであるのだろう。  セドリックの胸が、理由もなく痛んだ。  九年前、十三歳だったセドリックは、あの温室で父とエリアスの秘密を知った。そして、すぐに寄宿学校へと送られ、二十二歳になった今まで、彼は生家の門をくぐっていない。  帰れなかったのではない。帰らなかったのだ。  父の傍に、エリアスがいる限りは。  馬車は門を抜け、アプローチを回って玄関前で止まる。かつてはこの石段にも、もっと多くの使用人が並んでいたことを思い出す。セドリックが王都へ発った十三歳の朝、誰もが無言で頭を下げていた。庭師も、馬丁も、母の頃から仕えていた女中たちもいた。何十もの瞳に見送られて、この城を去ったのだ。  今、雨の中で彼を出迎えるために並ぶ者は、ほんの十数名ほどしかいない。何人が入れ替わったのだろうか。見覚えのある顔の方が少なかった。  馬車の扉が外から開かれて、湿った冷気が入り込む。馬車から降りるセドリックに、御者が傘を差し出した。  セドリックは、ゆっくりと顔を上げた。石段の上、使用人たちの中心に、喪服に身を包んだ男が立っている。  漆黒の一揃いは寸分の乱れもなく着こなされ、その喪色だけが雨の中で深く沈んで見えた。短く切られた黒髪は玄関の灯りを弾いて鈍く光り、暗い紫紺の瞳は真っ直ぐにセドリックを見つめている。  雨に煙る城を背にして立つその姿は、ひどく静謐な空気をまとっていた。  彼との距離を詰めるまでもなく、セドリックには一目で分かった。  エリアス――。  出会った頃の彼の面影は、もう記憶の中で輪郭を失っている。幼い頃に受け取っていたはずの優しさも、今となっては断片的な追憶の底に沈んでいた。  彼が覚えているのは、あの夜のエリアスだ。父の傍に立ち、自分の知らない顔をしていた男。セドリックの名を呼んで追いかけてきたくせに、最後には自分を選ばなかった男。  九年の歳月は、エリアスの容貌を大きく変えてはいなかった。  ただ、三十三歳になった彼の頬の線はかつてよりも鋭い。目元には静かな疲労が窺えたが、その疲れさえ彼を弱く見せるのではなく、むしろ近づきがたい威厳をまとわせていた。  エリアスは、セドリックの前まで進み出た。向かい合うと、エリアスの方がわずかに背が高く、それが何故か癇に障った。体つきならば、自分の方がよほど青年らしくなっている。外套に包まれた肩も胸も、もうかつての少年のものではない。  それでも、白手袋を重ねて背筋を正しているエリアスには、セドリックにはまだない落ち着きがあった。細身の身体は決して屈強そうには見えない。だが、背筋の伸びた立ち姿には、この城で長く己を律してきた男の厳かな雰囲気があった。  エリアスは、細く降りしきる雨の中で深く頭を下げる。 「お帰りなさいませ、セドリック様」  その声を聞いた途端、セドリックは自分の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。  聞きたかった声だ。九年もの間、夢にまで見た、この世で一番焦がれた声だった。  だというのに、帰ってきたと言われる資格など、自分にはないような気がした。この城を去った日のことは、今さら変えられない。そして、これまで戻らなかったのは自分の意志だったのだから。 「……九年ぶりに会う相手へ、随分と容易く言うんだな」  我ながら、ひどく冷たい声が出た。エリアスはさらに深く頭を下げる。 「失礼いたしました」 「謝るな」  その慇懃な謝罪さえ、腹立たしかった。エリアスの声は揺れてすらいない。昔と変わらず、彼はセドリックの言葉に逆らわず、ただ受け入れる。  あの夜もそうだった、とセドリックはまた過去の記憶が蘇るのを感じた。  セドリックがどれほど叫んでも、訴えても、エリアスは何ひとつ言い返してくれなかった――。  エリアスは自らセドリックの濡れた外套へ手を伸ばしかけ、しかし触れる直前で止めた。代わりに若い従僕へ目配せし、一歩下がる。そのわずかな遠慮が、かえってセドリックを苛立たせた。 「お前は、」  口にしてから、自分でも何を聞こうとしたのか分からなくなる。会いたかった、とでも言うつもりだったのか。父が死んで悲しいのか、とでも。  結局、口をついて出たのは違う言葉だった。 「僕がいなかった九年間、何をしていた」  エリアスは、少しの間も置かずに応じる。 「旦那様に、お仕えしておりました」  分かっていたはずなのに、セドリックはその一言で、九年前の馬車の中へと再び押し込められたような気がした。 「――そうか」  それ以上の言葉が出ない。自分がひどく惨めな問いを発した気分になった。  エリアスは一礼すると、城内へ向かうよう促した。 「旦那様は、礼拝堂に安置されております。長旅の直後に恐縮でございますが、まずはご対面を」 「案内は要らない。自分の生家だ」 「……左様でございました」  穏やかに返された言葉に、セドリックはまた傷つく。自分の意志ではなくこの地を離れ、そして自分で選んで帰らなかったくせに、この城の何もかもが、自分を余所者として見ているようだった。  広間(サルーン)へ入ると外の雨音が、厚い石壁を隔てて遠のいた。  子どもの頃に広すぎると感じていた空間は、今も変わらず高い天井を持ち、壁には代々の当主の肖像画が並んでいる。けれど、以前なら季節の花が活けられていた大壺は空のままで、暖炉にも火が入っていなかった。  セドリックは並んだ使用人たちへ目を向ける。家政婦長のハンナが、目に涙を浮かべて深く礼をした。料理長と思しき男。若い従僕。見知らぬ女中たち。  だがその中に、厳格で背の高かった老家令の姿がない。 「ハーグリーヴズはどうした」  父ウォーレンに長年仕えていた家令だった。家政はもちろん、領内の統治に関する一切を取りまとめ、実質的にアシュフォードを支えていた老人だ。背後でエリアスの足音が止まった。 「三年前、ご病気を理由に退職されました。現在はご息女夫婦のもとで療養しておられます」 「では、今は誰がこの城を取り仕切っている」  セドリックも歩みを止めて振り返る。半ば分かっていて尋ねたのかもしれない。  エリアスの両の白手袋が、わずかに強く重なった。 「私でございます」 「……お前が、家令か」 「はい」  セドリックは、黙り込んだ。  驚いたのは、エリアスがその地位に相応しくないと思ったからではない。むしろ、あまりにも相応しく見えた。整えられた身なりと、落ち着いた態度。使用人たちは皆、彼のわずかな視線だけで立ち働いていた。  九年の間に、彼は確かにこの城の中心に立つ男となっていたのだった。  幼い日に自分が名を呼んだはずの少年は、今や亡き父の城を預かる若き家令として、目の前に立っている。 「旦那様がお待ちです」  エリアスの声で、セドリックはふと我に返った。 「……死者は待たないだろう」  吐き捨てるように言うと、エリアスは俯く。 「それでも、きっと、セドリック様のお帰りを望んでおられたと存じます」 「父上が? お前は、随分と残酷な慰め方をするんだな」  セドリックは思わず乾いた笑いをこぼす。  エリアスは何も答えなかった。  ◇  礼拝堂は、城の北側に設けられている。  細長い窓には色硝子が嵌められ、雨に曇った光が、冷たい石床の上へ青白く落ちる。正面の祭壇の前には、黒布に覆われた棺が置かれていた。周囲には白い花と蝋燭が供えられ、甘く湿った香りが満ちていた。  エリアスは棺の少し手前で立ち止まった。 「こちらでございます」  セドリックは、普段通りの足取りで棺へと近づく。父の遺体と対面することに躊躇いを覚え、それを気取られたくなくてわざとそうした。  棺の蓋は、まだ閉じられていない。身を乗り出して覗き込むと、そこには細身の男の姿があった。  ウォーレン・アシュフォードは死化粧を施され、静かに横たわっている。  セドリックが最後に見た父は、四十代半ばだった。  威厳のある、背筋の伸びた男。セドリックの容姿は母親似で、父に似ているところはあまり無かった。彼が声を荒らげることは少なかったが、その暗灰色の瞳の冷たい一瞥だけで、幼いセドリックを黙らせることのできる人だった。  その父が、老いていた。  額には深い皺が刻まれ、頬はこけ、閉じられた目元には疲れが淀んでいる。九年という歳月の重みが、父の顔へこれほど容赦なく現れていることに、セドリックは奇妙な衝撃を受けた。  けれども、不思議なことに未だ悲しいという感情は湧かなかった。  ただ眠っている、というようにも見えない。棺の中の男は、生きていた頃よりなお遠く、まるで他家の葬儀で目にする死者のようだった。 「父上」  口にしてみても、胸の内は別段動かない。  自分は父を愛していたのだろうか。セドリックは自問する。今となっては遠い記憶だが、幼い頃、父に愛されたかったことだけは覚えている。  涙は出なかった。父の死に際してすら、背後に立つエリアスの気配だけが、嫌になるほど鮮明だった。  棺の脇の蝋燭が、どこかから吹き入る風を受けて、ただ静かに揺れている。 「明日の葬儀を前に、お渡ししておくべきものがございます」  礼拝堂に満ちた重苦しい沈黙を破り、エリアスが近づいてきた。  彼は棺の傍へ膝をつき、ウォーレンの右手に嵌められていた銀の指輪へ触れる。白手袋に包まれた指が、戸惑うように一瞬だけ止まった。  セドリックだけがその仕草を見つめていた。エリアスは、父に触れることを痛んでいる。父の身体から、最後の繋がりを外すことを、耐えがたく思っているのだ。  父とエリアスの間にあったものを、改めてまざまざと見せつけられたような気になった。  やがて彼は、印章の施された指輪を故人の指から抜き取り、用意してあった白布で拭った。  そして両手で捧げるように、セドリックの前へ差し出す。 「アシュフォード伯爵家の印章指輪でございます。本日より、こちらは旦那様がお持ちください」  旦那様。  その呼び方は、セドリックの胸の中心を鋭く突き刺した。つい先日まで、エリアスにとっての「旦那様」は父だったはずだ。道理でいえばアシュフォードの後継ぎはセドリックなのだから、エリアスに何ら非はないが、無性に抵抗を覚えた。  自分は、父が死んだから、代わりにその名で呼ばれるだけなのか。  セドリックは、差し出された指輪を見下ろした。摘まみ上げれば、見掛けよりもずっしりとした重みを感じる。古びた銀の指輪は蝋燭の灯に照らされ、鈍く陰鬱に光っていた。  父の爵位、城、負うべき責任。父の名で生きてきた使用人たちと領内に生きる民。  そして――父が愛した男。  その全てが、今セドリックの掌の中にある。 「父上のものは」  自分でも、止めることができなかった。 「“すべて”、僕が継ぐことになるのか」  エリアスは目を見開き、その薄い唇がわずかに震えた。  それを目にした瞬間、セドリックは自分が何を行ったかを悟った。父の棺の前で、どれほど卑しい響きを持つ言葉を、彼へ向けて投げたのか。それを理解できないほど、彼は子どもではない。  だが、謝罪は喉の奥に引っかかったまま、出てこなかった。  エリアスは長い沈黙の後、低く答える。 「……私は、品物ではございません」 「分かっている」 「では、なぜそのようなことを仰るのですか」  初めて、エリアスの声にわずかな痛みが滲んだ。形の良い眉が顰められ、暗い紫紺の瞳はセドリックを真っ直ぐに見つめていた。  その責めるような響きに、セドリックは己の中にどうしようもなく醜い喜びが生まれるのを感じる。  自分の言葉で、彼が傷ついた。父のためにしか心を動かさないように見えた男が、今、眼前で苦しんでいる。  暗い感情のままに、セドリックはさらに言葉の刃を振るう。 「……お前が、父上のものだったように見えたからだ」  エリアスの口元が強張った。  セドリックは、その染み一つない白手袋へ視線を落とす。瞬間、あの夜の記憶が閃いた。  ◇  激しい雨が、曇り硝子を叩いていたのを覚えている。  温室の扉を押し開けた瞬間、最初に気づいたのは声だった。  その声には聞き覚えがあった。当然だ──何年も、その声を耳に刻んできた。だがそれが自分の知っている声かどうか、一瞬、判断できなかった。あの穏やかで、低くて、決して乱れることのなかった声が、全く別の響きを持っていた。  扉の前に立ち尽くしたまま、セドリックは引き返せなかった。進んでもいけなかった。  葉叢の向こうに、白い肌が見える。エリアスが壁に手をついていた。腰をこちらに向けた格好で上体を屈め、父にその身体を深く貫かれていた。父が強く自身の欲を打ちつけるたびに、エリアスは小さく震えた。その震えに呼応するように父の腕が締まり、堪えきれぬように彼の喉から声が漏れる。 「旦那様……っ、あぁ……」  甘く蕩けたその声が、一番堪えられなかった。  父の問いかけに何事かを答えながら振り向いたエリアスの横顔が、葉の隙間から見えた。  羞恥にか恍惚にか、その頬は赤く染まっている。半ば閉じられた瞳には、蕩けた色が湛えられていた。  父の唇が触れた瞬間、息を呑んで目を閉じる──。  エリアスのそんな顔を、セドリックは知らなかった。  菓子を半分に割った時も、灰薔薇を差し出した時も、セドリックの名を呼んだ時も。エリアスの紫紺の瞳はいつも静かで、穏やかで、どこか遠く隔たっていた。自分がどれほど近づこうとしても、そこには届かない扉があった。  父はその扉を、いつのまにか開けていたのだ。  父がエリアスの腰を引き寄せ、深く押しつける。エリアスの肩が大きく震え、吐き出された喘ぎが雨音にかき消された。  セドリックは気がつくと石廊下へ引き返していた。扉を閉めることも忘れ、靴音も殺さず、ただ無我夢中に走ってその場を後にした。  エリアスの声の届かない場所まで、早く逃げ去りたかった。  ◇ 「旦那様」  現在のエリアスの声が、過去の記憶を断ち切った。 「お疲れでしょう。お部屋の用意は整っておりますので、本日はどうかお休みを」  見上げたエリアスの顔に、先ほどの動揺はもはや見いだせない。そこにいたのは、主を気遣う冷静な家令でしかなかった。  セドリックはほとんど睨むようにエリアスを見つめた。 「お前は……父上が亡くなって、悲しいのか」  問いかけた瞬間、礼拝堂の空気までもが、しんと冷えた。火も花も、息をひそめて静まり返り、ただ雨の音だけが二人の間に横たわる。エリアスは、すぐには答えを返さなかった。  否定してほしかった。父の傍にいたのは義務にすぎなかったと。自分がずっと忘れられなかったものは、ただの誤解だったのだと。  けれども、従順な家令は嘘を口にしなかった。 「……はい」  セドリックの指が、印章指輪を強く握り締める。 「ウォーレン様を喪ったことは、私にとって、深い悲しみでございます」  淡々とした口調は、かえってその哀惜を際立たせていた。彼が今どのような表情を浮かべているかを見たくなくて、セドリックは目を逸らす。 「――そうか。正直で結構だな」  応じた声は、平静を装うことができただろうか。 「セドリック様」 「明日は葬儀だろう。お前はまだ仕事があるはずだ。僕に構うな」  エリアスは唇を開きかけ、すぐに閉じた。 「……かしこまりました」  静かに一礼し、家令は礼拝堂を出ていく。  その背中を見送りながら、セドリックはようやく、掌へ痛みを感じた。指輪の印面が、強く握りすぎた手の内側へ食い込んでいる。  父の死には泣けなかった。  だというのに、エリアスが父を失って悲しいと言ったことには、どうしようもなく胸が痛んだ。  ◇  その夜、セドリックはかつて自分が使っていた部屋へ通された。室内は掃除が行き届いており、九年前とほとんど変わっていない。窓辺の机も、濃緑の天蓋を持つ寝台も、整然と整えられている。少年時代に読んでいた書物のうち、何冊かは今も書棚に並んでいた。  ただ、すべてが薄く色褪せ、時間の膜をかぶっているようだった。誰がこの部屋を保っていたのかセドリックは尋ねなかったが、その完璧な仕事ぶりは、いやでもあの家令を思い起こさせる。  寝台脇の卓上には、熱い茶が用意されていた。湯気の立つカップを目にして、セドリックは思わず眉を寄せる。王都で暮らしている間、夜に茶を飲む習慣などなかった。だが、子どもの頃の自分は、雨の夜になると眠れず、温かいミルクか薄い茶を求めていた気がする。  まさか、今も覚えていて――。  その考えを、セドリックはすぐに振り払う。  家令として、客人――いや、新たな主人を迎える最低限の務めにすぎない。そこに意味など求めてはならない。期待すれば、裏切られた時に落胆するだけだろう。  セドリックは茶に手をつけぬまま、濡れた窓の向こうを見た。  暗闇の中に、温室の輪郭だけが水彩画のようにぼんやりと浮かんでいる。  あの夜、自分はあそこへ何をしに行ったのだったか。父とエリアスの情事を目撃したことは、忘れようとしても忘れられない。けれども、その前に自分が何を望んで温室へ向かったのかは、遠く霧の中へ沈んでいる。  胸に残るのは、誰にも届かなかった悲しみと、あの夜からずっと消えない怒りだけだった。  ◇  翌朝になっても、陰雨は止まなかった。  葬儀は、城の礼拝堂で執り行われた。長い黒衣を纏った司祭が、淡々と祈りの言葉を唱える。礼拝堂には親族や近隣領主、領内の有力者が集まり、黒い衣装の列が蝋燭の向こうへ連なっていた。  セドリックは、棺の最も近くに立っている。  新たな伯爵として。亡きウォーレンの唯一の息子として。  参列者たちは、時折こちらへ視線を向けた。その眼差しに含まれているのは、必ずしも憐憫ばかりではない。九年も王都へ出されたままだった跡取り息子が、父の死によってようやく戻ってきた。その姿は、彼らにとって哀悼の対象であると同時に、格好の観察対象でもあるのだろう。  若い新伯爵。明るい金髪に、アシュフォードの血を思わせる榛色の瞳。彼らは、その姿にウォーレンの面影を探しているのだろう。あるいは、父とは違う当主になれるのかを測っているのか。  セドリックは、何の感情も表さず、粛々と祈祷を聞いていた。それは彼が父から授けられた、唯一の教えだったかもしれない。  人前で心を見せないこと、傷ついていても、当主の顔を崩さないこと。  いかにも、父らしい薫陶だった。  エリアスは使用人たちの列の先頭に立ち、家令として、葬儀の準備から参列客の案内までを取り仕切っていた。誰へも等しく礼儀正しく、誰にも隙を見せず、亡き主人のために完璧な場を整えている。  追悼の鐘が鳴り、男たちの手によって棺が礼拝堂から運び出される。  城に隣接する小さな墓地には、代々のアシュフォード家の祖先が眠っている。雨に濡れた墓標の間を、棺はゆっくりと運ばれていった。新たに掘られた墓穴の傍で、司祭が別れの祈りを述べる。故人の罪が赦されるよう、魂が天の国で安らかな眠りに就くように。居並ぶ参列者が頭を垂れて祈りを捧げるのを、セドリックは黙って眺めていた。  重たい黒土が、穴の底に鎮座する棺の上へ落とされる。どさっ、と湿った音がした。死者と生者を隔てる、最後の音だ。  その、ほんのわずかな一瞬。  セドリックは、エリアスが表情を崩すのを見た。伏せられた睫毛が震え、白手袋に包まれた指が、胸元で固く握られる。涙の一粒をこぼすわけでもなく、声を上げて縋るでもない。  それだけで、分かってしまった。  昨夜、言葉では聞いたが、セドリックは今初めてそれを己の目で見た。喪った者の顔をしているのは、自分ではない。胸の奥深いところに、冷たい棘が食い込むような気がした。  土が棺を覆い隠し、元あったように地面が平らに均されてしまうまで、エリアスはじっと目を逸らさずそれを見つめていた。 「久しぶりだな、セドリック」  不意に声をかけられ、セドリックはやっとエリアスから視線を外す。  目の前に立っていたのは、背の高い初老の男だった。  暗い金の髪をきちんと撫でつけ、仕立てのよい喪服を隙なく着こなしている。父に似た面差しを持ちながら、ウォーレンのような冷たい華やかさはない。深く刻まれた皺と沈んだ目元には、家を案じ続けてきた疲労が滲んでいた。厳しい顔立ちではあったが、人を遠ざける険しさはない。 「……叔父上」  レジナルド・アシュフォード。亡き父ウォーレンの実弟であり、セドリックにとっては幼い頃、年に一度か二度顔を合わせるだけだった親戚だ。  レジナルドは、まず墓前へ目を向け、短く黙礼した。 「兄上のことは残念だった。お前にとっても、重い荷を負うことになったな」 「承知しております」  父の訃報を受けたときに、もう王都へ戻ることはないだろうと覚悟を決めていた。セドリックが答えると、レジナルドは片眉を動かした。 「そうやって、分かったような顔をするところは兄上に似たな」 「……褒め言葉とは受け取りかねます」 「褒めてはいない。だが、責めてもいない」  冷たく、低い声だった。ひどく現実的なその声音に、セドリックはこの叔父がどういう人間だったか思い出し始めていた。  レジナルドは、先代伯爵ウォーレンの弟でありながら、早くから領地経営の外へ身を置いた男だった。アシュフォード領を継ぐ立場ではなかった彼は、王都に屋敷を構え、貴族たちの財産管理や投資の相談、時には縁談の仲介などを引き受けて暮らしている。血筋や情だけでは家が保たれないことを、彼は誰よりよく知っていた。  レジナルドは懐から手袋を取り出し、雨粒を避けるように身につける。 「葬儀の後、少し時間をもらいたい。兄上の遺産について、お前に見せねばならないものがある。まぁ、正確には、遺産と呼ぶには少々苦いものだ」  その言い方に、セドリックは眉を寄せた。 「叔父上は、領地の財務に関わっておられたのですか」 「関わろうとはしていた。兄上が耳を貸したかどうかは、別の話だ」  レジナルドの視線が、一瞬だけエリアスの方へ向かう。その目に浮かんだものが何であるのか、セドリックには読み取れなかった。 「日が落ちる前に、兄上の書斎へ来なさい。私は遺言により、遺産整理の執行を任されている」  それだけ告げると、レジナルドは弔問客へ挨拶をするため、離れていった。雨に濡れた墓地から、参列者たちが少しずつ城へ戻り始めている。  セドリックは墓標の前に立ったまま、その中にエリアスの姿を探した。  彼はすでにその場を離れ、他の使用人へ何事かを指示していた。父を失って悲しんでいるはずなのに、嘆く素振りすら見せず黙々と仕事を続けている。  それが痛ましく、そして、ひどく妬ましい。  自分の胸には残らなかった父の影が、今もこの男の内側には深く沈んでいるのだ。  ◇  葬儀後、城内の広間では、弔問客へ温かな飲み物と軽い食事が振る舞われた。かつて父が華やかな晩餐会を開いていた部屋で、セドリックも幼い頃は、母の隣で大人たちへ挨拶をさせられた記憶がある。  今は喪の黒布が壁際を覆い、音楽も笑い声もない。それでも、集まった面々は完全に沈黙を守るほど殊勝ではなかった。  父の死を惜しむ言葉と、新たな伯爵への挨拶。今後の領地や親族関係を探るような、遠回しな問いがそこここで繰り返される。セドリックは、それらへ一つひとつ礼儀正しく答えながらも、視界の端を横切るエリアスの姿を気にしていた。  彼は喪服の使用人たちを束ね、完璧に差配している。客の求めるものを先回りして整え、誰かが呼ぶより先に給仕を差し向けていた。  父は、毎日この姿を見ていたのだ。そう思っただけで、胃のあたりに苦いものが込み上げる。  弔意を告げる客の切れ間を見て、セドリックは広間を出た。人気の少ない回廊へ入ると、雨音がまた近くなる。高窓の外には、濡れて黒々と光る庭が見えた。  少しだけひとりになりたかった。  人気の少ない回廊へ折れた時、女たちの低い笑い声が聞こえた。それだけなら通り過ぎていた。 「──ヴェインが」  その名が耳に入った瞬間、セドリックの足が止まった。  回廊の先、小窓の辺りに二人の貴婦人が立っている。どちらもこちらには気づいておらず、声を潜めてはいるが、隠そうという気はほとんどないようだ った。 「あれほどの若さで家令にまで。よほど先代様に……気に入られていたのね」 「奥方様が亡くなられてからは特に。お傍を離れなかったそうよ」  一人が、"離れなかった"という言葉に、含みを乗せて笑う。 「まぁ……では、ご嫡男が送り出されたのも」 「本当のところは分かりませんわ。ただ──父君が側仕えに夢中になって、跡取りを遠ざけたように見えることは、否定できないでしょう」  喉の奥が焼けるように熱くなる。セドリックはわざと靴底を石床へ打ちつけながら、二人の元へ近づいた。 「お話の途中、失礼いたします」  セドリックが声をかけると、二人の貴婦人は跳ねるように振り返った。その顔からさっと血の気が引いていく。 「ア、アシュフォード伯……」 「我が家の葬儀へ足を運んでいただき、感謝申し上げます」  セドリックは穏やかに微笑んだ。熱く煮えるような内心とは裏腹に、顔は和やかな笑みを形作り、口は乾いた言葉を連ねる。 「皆様が、亡き父の私生活のみならず、当家の人事や財政にまで深いご関心をお寄せくださっているとは存じませんでした」 「い、いえ、そのようなつもりでは……」 「では、聞き違いでしょう。幸いなことです。父の棺がまだ土の下で冷えきらぬうちから、その使用人を悪し様に語る方々が参列者にいらしたなど、私も思いたくはありませんので」  女たちは青ざめ、おどおどと謝罪を口にすると、急いで礼をして立ち去った。回廊には再び、雨音だけが戻る。  拳が、まだ熱を持っている。だがその熱の底には、別の感覚が沈んでいた。  自分は今、何をしたのか。  昨夜の礼拝堂でエリアスへ残酷な言葉を向けた当のセドリックが、見知らぬ他人の口から同じ男を貶める声を聞いて──耐えられなかった。  その矛盾が、笑えないほど腹立たしかった。 「旦那様」  静かな声がして振り返ると、エリアスが少し離れたところに立っていた。  銀盆を持った若い従僕へ何事かを言い含めていたらしく、その者が一礼して下がるのを見届けてから、エリアスはセドリックへ向き直った。  どこまで聞いていたのか、とセドリックは記憶を探る。距離感から察するに、当然聞こえていたはずだったが、家令の顔には、いつも通り何の感情も浮かんでいなかった。 「……感謝申し上げます」  思いがけない言葉だった。謝罪でも弁明でもなく、感謝。 「お前のためではない」  反射的にそう言ってから、続く言葉が見つからなかった。  ではなぜ怒ったのか。自分が隠してきたものを面白おかしく語られたからか。それとも──。  その問いに向き合えないまま、口をつぐむ。  エリアスは主の沈黙を咎めなかった。ただ、その両の白手袋が強く重ねられる。 「私は」  エリアスはそこで言葉を止めた。  謝罪なら、いくらでもできるのだろう。弁明も、求められれば整えられるはずだった。けれどそのどちらも選ばず、彼はほんのわずかに息を継いだ。 「ずっとここにおりました」  唐突な言葉だった。 「旦那様が王都へ発たれた後も。先代様のお傍で、この城で。どこへも行きませんでした」 「……何が言いたい」 「いえ、ただ……それだけのことでございます」  エリアスの瞳が、一瞬だけ揺れた。言い訳でも告白でも弁明でもない。ただ事実を、そのままの形で差し出すような言い方だった。  だが、セドリックはその揺らぎを見てしまった。  何かを言おうと息を吸ったその時、 「セドリック、来なさい」  回廊の向こうから、レジナルドの声がした。  エリアスはすぐには動かなかった。ほんの一瞬、セドリックの返事を待つようにそこに留まり、それから自分でその間を断ち切るように一歩退いた。 「レジナルド様がお呼びでございます、旦那様」  その滑らかな移行が、腹立たしかった。ついさっきまでエリアスの内側で何かが揺れていたはずなのに、今の彼にはもうそれが見えない。 「……分かっている」  ずっとここにいた。どこへも行かなかった。  それは、誰に向けて言ったことだったのか。  短い間を置いて家令は一礼し、背を向ける。その背中が回廊の向こうへ消えるまで、セドリックは動けなかった。怒りはもはや去り、胸の内で冷えた泥のように凝っている。  エリアスの言葉の意味を探しながら、レジナルドが呼んだ方へと踵を返した。 「随分と、手厳しいな」  落ち着いた低い声が、足並み早く近寄ってきた甥へと投げ掛けられる。 「……聞いておられたのですか」  自然、盗み聞きを咎める口調になったが、レジナルドは何でもないように鼻を鳴らした。 「すべてではない。だが、兄上とヴェインを巡る噂を、お前が早くも耳にしたことは分かる」  セドリックは、険しい目で叔父を見た。 「叔父上も、エリアスをそのように見ておられるのですか」 「ヴェインが有能な男であることは認めている」 「それなら……!」 「有能で、兄上に近すぎたからこそ、あれはこの城の傷となった」  レジナルドの声には、噂好きの貴婦人たちのような下卑た好奇心はなかった。ただ、長い年月を経て固まった確信のようなものがあった。 「アシュフォードの名を傷つけたのは、父上でしょう」  セドリックは吐き捨てるように言う。先ほどあんなに責めた相手を、今は必死に庇っていることが自分でも可笑しかった。 「エリアスではない」 「その判断は、帳簿を見てからでも遅くはない」  レジナルドは淡々と告げる。 「来なさい、セドリック。兄上がお前に遺したものを、今度こそ見せよう」  ◇  父の書斎へ入るのは、何年ぶりだろう。  幼い頃のセドリックにとって、そこは決して足を踏み入れてはならない場所だった。重い樫の扉に閉ざされた部屋の中央には、重厚な設えの机と革張りの椅子が備えられている。書棚は天井いっぱいまで本で埋め尽くされ、暖炉の上には狩猟画が掛けられていた。黒い机の上には、種々の書類が雑多に積み重ねられている。  父はいつもこの部屋で仕事をしていた。セドリックが訪ねても、顔を上げることは少なかった。  今、暖炉には火が入っておらず、部屋はひやりと冷えている。机の向こうに父がいないというだけで、かつてあれほど恐ろしかった部屋が、不思議なほど空虚に見えた。  レジナルドは机の前へ進み、懐から鍵を取り出した。 「兄上は、遺言の中で私を遺産整理の執行人に指定していた。生前は私の忠告など聞こうともしなかったが、死後の後始末を任せる相手としては便利だったのだろう」  引き出しを開け、革表紙の帳簿と封じられた書類の束を机へ置く。棺の上に土が落ちた時の音と、どこか似た響きのある音だった。 「読みなさい」  それだけ言って、叔父は壁際の椅子へ腰を下ろす。  セドリックは帳簿を手に取り、開いた。見慣れた形式だった。王都で幾度も扱ってきた収支表と同じ、数字の列だ。だが同じ形式であることが、かえって一つひとつの数字を生きた情報として鮮明にした。  収入を先に辿っていく。小作料、羊毛と乳製品の販売、森林の利用権、市場の地代──アシュフォードは静かな土地だが、確かに金を生んでいる。数字だけ見れば、決して貧しくはない。 「収入は……さほど悪くないですね」  素直な感想が思わず口に出た。  そうだ、とレジナルドが短く返す。 「では、問題はどこだと思う」  答えを口にする代わりに、セドリックは次の頁を繰る。  数字の色が変わった。競走馬の購入費と飼育費が、まず目を引く。続いて大きいのが王都別邸の維持費だった。さらに、晩餐会と舞踏会の費用、仕入れた調度品の代金と続いていく。 「馬、ですか」 「兄上は馬が好きだったからな」  レジナルドの返答は一言だけで、それ以上でも以下でもなかった。責めるというより、ただ事実を指し示す声だった。競走馬の飼育はよくある貴族の道楽ではあったが、アシュフォードが生む恵みに比して、明らかに大きすぎる額が費やされている。  修繕費の欄で、セドリックの指が止まった。繰り越しの印が、何年にもわたって同じ項目に並んでいた。  北の石橋の補修、外壁の雨漏り、温室の硝子交換、使用人棟の暖房設備、厩舎の屋根──。  城へ来る道中、馬車が大きく跳ねた感触が蘇った。あの石橋の、崩れたままの欄干が脳裏をよぎる。 「修繕を先送りして、宴の費用を出した、と……」 「そういうことだ」 「なぜ、誰も止めなかったのですか」  言ってから、的外れな問いだと分かった。 「止めようとはした。兄上が耳を貸したかどうかは、別の話だ」  セドリックは修繕費の欄を最後まで辿り、そこで一か所だけ目が留まった。 《北部峡谷・水路維持費》  他の修繕項目はほとんどが翌年へ繰り越されているのに、この一行だけが違った。金額は小さく、城の主要な建物からも遠い場所のはずだったが、一度も滞らず、十年以上にわたって毎年支払われ続けている。 「これは」  指で示すと、レジナルドが帳簿を覗き込んだ。 「北の谷か」  わずかな間があった。 「さして重要な設備ではないはずだが」 「橋も壁も後回しにされたのに、誰も行かない谷の水路だけが毎年欠かさず払われている。奇妙ではありませんか」 「恐らく、古くからある取り決めだろう。わずかな額だから、見直す手間も惜しいと思ったのかもしれん」  レジナルドの返答はあっさりしていて、知らないのか興味がないのか、セドリックには判断がつかなかった。  一通り目を通して、セドリックは顔を上げた。 「僕は」  声が掠れ、一度止まる。 「ここまでとは、知りませんでした」 「知らなかったのか」  レジナルドの目が、静かにこちらを見た。 「それとも、知ろうとしなかったのか」  セドリックは弾かれたように顔を上げる。 「十八の時、父上へ帳簿の閲覧を願い出ました。拒まれたのです」 「それで諦めたのか」 「……父上は現当主でした。僕に何ができたというのですか」 「戻ることはできただろう」  レジナルドの言葉は、鋭くも強くもなかったが、セドリックの胸を深く抉った。 「兄上が悪いのは言うまでもない。家の収入を食い潰し、修繕を怠り、跡継ぎへ実情を明かさなかった。ヴェインもまた、兄上の傍にいた以上、何も責任がないとは言えまい」  セドリックの指が、帳簿の端へ強くかかる。 「けれど、お前もまた、九年間この城を見なかった。兄上に拒まれたことを理由にして、ここへ戻ることを選ばなかった」  叔父の口調は、叱責というにはあまりに静かで、セドリックは反論することができなかった。  帰りたくなかった。父へ頭を下げたくなかった。そして何より、父の傍にいるエリアスを見たくなかった。己の責務に向き合うよりも、生々しく痛む傷口からの逃避を優先した。  その事実が、怒りよりも先に、胸の内側を焼くような恥となってセドリックの口を塞いだ。 「……それで、城はどうなるのです」  やっとのことで尋ねる。  レジナルドは、束ねた書類の中から一通を抜き出した。見覚えのある印章――ハロウェイ商会のものだ。先日、王都の書斎で脇へ押しやったのと、同じ差出人だった。 「ハロウェイ商会は、アシュフォード家の負債の大半を握っている。その融資条件の更新が、半年後に迫っている」  半年後。  その言葉が、セドリックの胸を冷たく刺した。王都を出たあの朝、自分はそれを「父の代の話」として脇へ押しやった。  だが、もう父はいない。 「更新できなければ?」 「即時の返済を求められるだろうな。アシュフォードに、それを支払う当座の現金はない」  レジナルドは、机の上の書類を一枚指で押さえた。 「私は兄上の死後、ハロウェイの地方代理人へ財産整理の概略だけは送っている。競走馬、馬車、王都別邸の一部、不要な調度品。どれを処分し、どれを残すか、おおよその見通しを示さねば、向こうも猶予の判断ができん」 「では、もう向こうは売却候補を知っているのですか」 「候補に挙がり得るものは、な」  レジナルドは淡々と答えた。 「負債を整理し、収益にならぬ支出を切り、修繕の優先順位を決める――それを、半年でやり遂げねばならない」  セドリックは頷く。叔父の発言はどれも尤もなものだった。 「それから、もう一つ」  レジナルドは帳簿の上に手を置いたまま言った。 「縁談だ」  セドリックは顔を上げた。城の負債、修繕、売却すべきもの――そうした話の延長に自分の結婚が置かれるとは思っていなかった。 「今、その話をなさるのですか」 「今だからだ」  レジナルドの声は淡々としていた。 「アシュフォードは金だけでなく、信用も失っている。若い新伯爵が王都から戻り、家を継いだ。その隣に誰が立つかで、人はお前を測る」 「……僕の結婚で、帳簿の数字が減ると?」 「減ることもある。持参金、親族間の融資、商取引の紹介、債権者への信用。貴族の婚姻とは、恋文より先にそういうものを運んでくる」  セドリックは唇を引き結んだ。父の棺を覆った湿った土の音も、エリアスの伏せた睫毛も、印章指輪の重みも、まだ身体のどこかに残っている。その上へ、自分の未来まで帳簿の余白に書き込まれていくようだった。 「候補はいるのですか」 「いる。だが、詳しい話は後でいい」  レジナルドはそこで縁談の話を切り上げ、別の書類を一枚抜き出した。 「売却すべきものの話に移る。先ほど挙げた競走馬と豪奢な馬車、王都別邸の一部、それにまつわる調度品。それから──北庭の温室」 「売りません」  帳簿に目を落としていたセドリックの口から、それだけが即座に出た。レジナルドが目を細める。 「感傷で言っているのなら考え直せ。温室を維持する薪と人手で、石橋を直し、使用人の給金を守れる」 「分かっています」  セドリックは帳簿を閉じた。 「ですが、僕はまだこの城の何も自分の目で確かめていない。父上が何を捨て何を残したのかも、温室が本当に無価値なのかも、見てもいないものを数字だけで判断することは、当主のすることではない」 「感傷だな」 「原則です」  即座に言い返してから、それが半分は嘘だと自分で分かった。しかしレジナルドは、すぐには退けなかった。  しばらく、書斎に沈黙が落ちる。 「──いいだろう」  やがてレジナルドは温室の売却案を帳簿の上へ戻した。甥と同じ色の瞳が、値踏みするようにゆっくりと瞬く。 「ならば新伯爵、お前自身でその温室を残す価値を証明してみせろ」  雨が書斎の窓を強く叩いた。硝子の向こう、暮れかかる庭の奥に、温室の影が薄く浮かんでいる。 《北部峡谷・水路維持費》という一行が、まだ頭の隅に引っかかったままだった。  城から遠い谷の、誰も行かない水路に、なぜ十年以上にわたって金が支払われ続けているのか。レジナルドは「古い習慣だろう」と言った。だがその答えは、問いに対してあまりに軽すぎる気がした。  書斎を出る前に、セドリックは閉じた帳簿の重みを手の中でもう一度確かめた。  父が壊したものも、自分が見ようとしなかったものも、一つずつ自分の目で確かめる。今度こそ、何も知らぬまま背を向けない。  父の棺が土に覆われてから、まだ半日も経っていなかった。それでも、セドリックの伯爵としての最初の決断はもう下されたのだった。  

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