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第二章

 目覚めた時、セドリックはまず右手の冷たい重みに気づいた。  部屋はまだ薄暗く、天蓋の布越しに朝の光が淡く差し込んでいる。印章指輪が、その中で鈍く輝いていた。父から自分へと継がれたそれは、眠っている間も指の上にあったはずなのに、少しも体温に馴染んでいなかった。  寝台脇の卓上には、昨夜、手をつけなかった茶器のかわりに、新しい水差しと洗面の用意が整えられていた。椅子の背へ掛けてあった上着は、いつの間にか皺を伸ばされ、着やすい向きに直されている。手袋も置いた位置から動いているはずなのに、あまりに自然に揃えられているせいで、最初からそこにあったように見えた。  従僕が入ってきたことには気付かなかったが、恐らく家令の差配だろう。そう考えて、セドリックは眉を寄せた。姿も声もないが、この部屋には確かにエリアスの気配がある。  身を起こし、洗面台の湯に手を浸す。湯は程よく温かかった。  茶に手をつけなかったことを、エリアスは知っているだろうか。満たされたままの茶器を見て、彼は何を思ったのだろう。あるいは何も思わず、家令として必要なことをしただけなのかもしれなかった。  セドリックは湯から手を引き上げ、濡れた指をしばらく見つめた。 「まるで拗ねた子どもだな」  その言葉ごと押し流すように、勢いよく顔を洗う。  淡々と身支度を整え、喪章をつけた上着に袖を通した。鏡の中には、明るい金髪を撫でつけ、黒い服に身を包んだ若い新伯爵が立っている。王都にいた頃と同じ顔であるはずなのに、どこか見慣れない気がした。  昨日、弔問客たちが、肌に残した眼差しを思い出す。それは父の面影を探し、父とは違う当主になれるのかを測る目だった。温室を残すと即答した自分を、レジナルドが黙って値踏みした目もまた、同じ色をしていた。  ――お前自身で、その温室を残す価値を証明してみせろ。  叔父の声が耳の奥で甦り、セドリックは指輪へ目を落とす。その重みが、ようやくその意味を持ちはじめた。  ◇  階下へ降りると、広間ではすでに使用人たちが忙しく立ち働いていた。  昨日まで壁を覆っていた黒布は半分ほど外され、折り畳まれて箱へ収められている。女中が萎れた白百合を花瓶から抜き取り、若い従僕は銀器を丁寧に布で磨いていた。葬儀の気配は、朝の仕事の中で少しずつ薄められていく。  父の死が城の日常にしまい込まれていくのを、セドリックは黙って眺めていた。  ふと広間の奥、暖炉のそばに目をやると、そこには見慣れない後ろ姿があった。  仕立ての良い喪服に身を包んだ若い令嬢が、小卓の前に立っている。卓上には、昨日の葬儀で使われた白百合の花弁と、庭から集めたらしい濡れた枝葉が並べられていた。令嬢はそれらを薄い紙に挟み、帳面に何事かを書きつけている。  弔問客がまだ残っていたのか、とセドリックは思った。けれど、その姿は、喪に沈むというより、何かの手がかりを拾い集めているかのようだった。 「おはようございます。何をなさっているのですか」  声をかけると、令嬢は驚いたように顔を上げた。低い位置で結われた明るい栗色の髪と、大きく利発そうな翠の瞳が印象的だった。セドリックは、彼女が昨日、墓地で挨拶を受けた顔の一つであることを思い出す。  彼女は紙片を置き、優雅な礼をした。 「失礼いたしました、アシュフォード伯。マルグリット・エインズワースでございます」 「エインズワース……」  その名前に、記憶の端に引っかかるものがあった。王都の社交場で、エインズワース家の名を耳にしたことがある。古くからの爵位を持つ家ではないが、商会との繋がりが深い堅実な一族だと聞いた覚えがあった。それ以上のことは知らない。  純粋な疑問を抱き、卓上を覗き込みながら尋ねる。 「お尋ねしたかったのは、そちらです」  セドリックが示すと、マルグリットは少しだけ気まずそうに、けれど隠す様子もなく微笑んだ。 「香りを見ておりました」 「花そのものではなく、香りを?」 「はい。花は目で見るものでしょうけれど、香りは記憶で見るものですから」  セドリックは眉を寄せる。言葉の意味は、すぐには分からなかった。だが、彼女が奇を衒ってそう言ったのではないことだけは、声の落ち着きで分かった。  マルグリットは、紙に挟んだ百合の花弁をそっと持ち上げる。 「同じ白百合でも、礼拝堂に置かれたものと、雨の当たった庭にあったものでは残り方が違います。蝋燭の匂いを吸った花は、少し重たくなる。雨に濡れた葉は、花そのものより土を思わせる。そういう違いを記しておくのが、癖なのです」  言いながら、掌の中の花弁をセドリックの方へ示した。セドリックは面食らって頷く。 「なるほど。珍しいご趣味ですね」 「よく言われますわ」  彼女はまるで傷ついていない様子で答えた。 「母の実家が、香料商と取引をしておりまして。子どもの頃から、花を愛でるより先に、香りを嗅ぐよう躾けられました」 「それは……なかなか変わった教育ですね」 「父は“奇妙な振る舞いをするな”と嘆いておりますわ」  マルグリットは快活に笑う。その笑みには、恥じるような弱さはなく、自分の性質を承知した上で引く気のない者の明るさがあった。 「ですが、私は好きなのです。香りは、なくなったものを少しだけ留めておけますから」  なくなったもの。  その言葉に、セドリックは一瞬だけ返事を失った。  広間の中央には、昨日まで父の葬儀のために飾られていた花の名残がある。白百合はすでに萎れかけ、蝋燭は消え、祈りの言葉は石壁の奥底へ沈んでいた。だが、この令嬢はその残り香を紙に閉じ込めようとしている。  それは、確かに奇妙ではあった。けれど、笑って退ける気にはなれなかった。 「マルグリット嬢」  背後から低い声がして、セドリックは振り返った。  レジナルドが廊下の奥から近づいてくる。黒い上着に手袋を合わせ、すでに外へ出る支度を整えていた。 「朝から花を分解しているのか」 「分解ではございませんわ、レジナルド様。記録です」 「私には同じに見える」  まぁ、それは残念ですこと、とマルグリットは穏やかに返した。この二人は、昨日今日の知り合いではないのかもしれない。少なくとも、レジナルドは彼女の変わった癖を承知しているようだった。  レジナルドはセドリックへ目を向ける。 「昨日は詳しい話をしなかったな。エインズワース家は、王都の商会と取引のある堅実な家だ。母方には香料商との縁も深い」 「それで、葬儀の翌朝から白百合の香りを?」  セドリックが言うと、マルグリットが小さく笑った。 「お叱りを受けるかと思いました」 「叱るほど事情を知りません」 「では、知っていただくところから始めますわ」  そう言える令嬢なのか、とセドリックは思った。  喪服を着て伯爵家の広間に立ちながら、彼女は少しも委縮したように見えなかった。その所作に無作法は感じられず、むしろ礼儀はよく心得ていると感じられた。  レジナルドが続ける。 「マルグリット嬢は変わり者ではあるが、品物の価値を嗅ぎ分ける目を持っている」 「鼻、ではなく?」  セドリックが言うと、マルグリットが小さく笑った。 「どちらでも構いませんわ。お役に立てるのなら」 「今朝は、北庭の温室を見るといい」  レジナルドはそう告げる。 「叔父上はご一緒なさらないのですか」 「私は領地管理人と話がある。案内はヴェインに任せる。マルグリット嬢も連れていきなさい」  その言葉に何か含むものを感じて、セドリックは思わず叔父を見返した。その視線を受けて、レジナルドは甥にだけ聞こえるように声を落とす。 「誤解するな。彼女を残らせたのは、まず灰薔薇を見る目が必要だったからだ」 「まず、ですか」 「それ以外の役目を持てるかどうかは、お前と彼女が決めることだ。私が決めるのは、家にとって有益な選択肢を並べるところまでだ」  昨晩告げられた“候補”は彼女だったのか、とセドリックは改めてマルグリットを見やった。  レジナルドの少し後ろには、いつの間にかエリアスも控えていた。黒い喪服に白手袋を合わせ、口を挟むことなく二人のやりとりを見守っている。エリアスは、何も言わなかったが、白手袋に包まれた指先に、ほんのわずかに力が込められたのをセドリックは目の端にとらえた。  それが何を意味するのか、まだ分からない。けれど、見過ごせなかった。 「お前が温室を残すつもりなら、外から見る目も必要だ。私やお前が感傷で見ているものを、彼女は別の尺度で測る」  セドリックは、レジナルドを見返す。 「僕が感傷で温室を残すと決めたようにお考えですか」 「違うと言い切れるだけのものを、今日探すのだろう」  レジナルドの言葉は、いつも通り鋭くはない。ただ、逃げ道を塞ぐように正しかった。  セドリックは口を噤む。マルグリットは二人のやりとりを横目に、白百合の紙片を丁寧に束ねてから、女中へ預けた。 「温室に、灰色の薔薇があると伺いました」 「よくご存じですね」 「古い園芸誌に、一度だけ載っておりました。アシュフォードの霧に咲く、色のない薔薇と」 「色のない薔薇……」  セドリックは、その言い方を繰り返した。  光を含んだ灰のような色の花が、父とエリアスの向こうに咲いていた光景まで蘇る。  その花を、彼女はまだ見ぬまま、古い文字と香りの想像で追っているのだ。 「ご覧になって、どうなさるおつもりですか」 「まずは、香りを確かめます」 「それだけですか」 「それだけ、かどうかは、実際に見てみませんと」  マルグリットは、にこやかに笑んでそう言った。  ◇  マルグリットには広間で待ってもらい、セドリックは先にエリアスの案内で、城の傷みをいくつか確認することにした。  昨夜、帳簿で見た数字は、朝の光の下で石橋の仮留めや廊下の雨染みとなって、その不具合を訴えてきた。どこも、初めて知るものばかりではない。昨夜レジナルドから聞き、すでに書類の上で見た傷だったが、実際に目にするとただの傷だと流すことはできなかった。  使用人棟の暖炉では、細く割った薪が控えめに燃えていた。年配の女中が、セドリックを見て慌てて立ち上がる。彼女の手は赤く荒れていたが、磨いていた鍋だけは曇りなく光っていた。 「昨冬から、薪を節約しております」  エリアスが静かに言った。 「誰の指示だ」 「私でございます。給金を遅らせないために」  それ以上の説明はなかった。セドリックは、暖炉で瞬く火に目をやる。  城は、人も物もあちこちが軋んでいる。分かっていたはずのことが、歩くほどに別の重さを持ち始めた。セドリックの中にあった灰薔薇城の面影は、今や少しずつ形を変えていた。  北庭へ向かう頃には、空の重たさはいくらか和らいでいた。灰色の雲の切れ目から薄い光が落ち、濡れた芝が暗く沈んでいる。マルグリットは傘をさし、二人の少し後ろを歩きながら、時折庭木や濡れた土へ視線を向けていた。  彼女は余計なことを話さない。その沈黙は礼儀でもあったし、観察でもあった。  温室は、木立の向こうに見えた。遠目には、かつてと同じ硝子の箱のように見える。けれど近づくほどに、その傷みが露わになった。硝子は曇り、ところどころ割れた箇所を古い木板が塞いでいる。蝶番には赤く錆が浮き、外れかけた雨樋から落ちる水が、入口の石畳へ小さな水たまりを作っていた。  セドリックの歩みが、自然と遅くなった。  硝子屋根を叩く雨音と湿った土の匂いに、身体の奥が強張る。  エリアスは温室の扉の前で立ち止まり、懐から細い真鍮の鍵を取り出した。城じゅうの鍵を常に身につけているわけではないのだろう。その日必要なものだけを革の鍵入れに収めているらしく、歩いている間、彼から金属の音はしなかった。 「……その鍵は、以前からお前が預かっていたのか」 「はい」  エリアスは頷いて答える。 「ウォーレン様は、ここ数年はほとんど温室へお入りになりませんでしたから」  その“数年”がいつから始まったのか、エリアスは語らなかった。けれど、セドリックには分かる気がした。きっとあの夜以来、父はこの場所に近づかなくなったのだ。  エリアスが鍵を差し込むと、古い金具が小さく軋む。セドリックは重たい指輪の嵌まった手を、強く握り込んだ。もう二十二歳の男だというのに、この扉の前に立つと心のどこかが、十三歳の夜へ引き戻されそうになる。  セドリックにとって温室は、ただの庭の一部ではない。父とエリアスの声と、何も知らないまま立ち尽くしたあの時の自分が、長いあいだ硝子の内側に閉じ込められていた場所だった。 「お入りになりますか」  エリアスが尋ねる。おやめになりますか、とは言わなかった。けれど、その問いだけで、セドリックが一瞬ためらったことを見透かされたような気になる。 「――開けろ」  低く言うと、エリアスは軽く頷いた。 「かしこまりました」  扉が開くと、湿った温気がふわりと頬を撫でた。セドリックは一歩、足を踏み入れる。温室内は、外よりも少しだけ暖かかった。土と葉の匂いが濃く、硝子屋根に残った水滴が、薄い光を細かく砕いている。石畳はところどころ濡れ、木製の棚には大小さまざまな鉢植えが並んでいた。どこかで落ちた雫が、小さく石を打つ音がする。  記憶よりも、狭かった。  子どもの頃は、この温室がもっと大きく、どこまでも続く秘密の庭のように思えた。木棚も、自分の背丈よりずっと高かった気がする。今は少し手を伸ばせば、上段の鉢にも届きそうだった。  セドリックは、視界の端に映ったものに気付いて足を止める。  灰薔薇が、そこにあった。  隅の一角にひっそりと身をひそめるようにして、その花は咲いていた。淡い灰色を帯びた花弁は、曇り空を薄く溶かしたような静かな色をしている。赤でも白でもなく、華やかさから遠い花であるはずなのに、硝子越しの光の中では、不思議と目を離しがたい。  その色を見た瞬間、記憶の奥で何かがかすかに揺れた。  この花を、自分は知っているはずだった。アシュフォードの温室に咲く花であり、あの夜も、父とエリアスの背後にあった花だ。  だが、それより前にも、何かがあったという気がした。  硝子屋根を叩く春の雨音。砂糖をまぶした焼き菓子が、舌の上でほどける甘さ。血が滲んでいた薄い掌。そして──この花を、誰かに渡した、あるいは、誰かから渡された記憶。  掬い上げようとするたびに、その輪郭はほどけていく。あの暗い夜の記憶が蘇るたびに、それより前に在ったものは押しのけられてしまう。  それでも確かに、この花のそばには、あの夜よりずっと古い何かが沈んでいた。 「旦那様、お加減が」  エリアスの声で、セドリックは我に返る。 「悪くない」  遮るように答えると、エリアスはそれ以上踏み込まなかった。  マルグリットも、何も言わない。彼女は扉の傍で立ち止まり、まず温室の空気を確かめるように静かに息を吸っていた。花へ駆け寄るのではなく、湿度や土、木の棚、硝子の曇り具合を一つずつ拾っているように見える。  棚の灰薔薇は、株ごとに育ち方がまちまちだった。  花をつけている株は多くない。古い鉢の中には、枯れた枝だけを残したものもある。だが、決して放置されているわけではなかった。枯れた株には状態の記された札が刺され、新しい鉢では小さな挿し木が根を張ろうとしている。割れた天井硝子の下には輪染みだけが残され、鉢自体は移動されたであろうことが窺えた。棚の隅には、麻紐や剪定鋏などの庭具が整然と置かれている。この温室は傷んではいるが、見捨てられてはいない。  棚の奥に掛けられた古い木札を読もうとして、セドリックは少し身を屈めた。インクは水気に滲み、年号の下半分が読み取りづらい。 「こちらは、七年前の挿し木でございます」  背後から声がして、エリアスが同じ札を覗き込んだ。  近い。  振り向けば、頬が触れそうな距離だった。湿った温室の空気の中で、彼の黒髪から雨と石鹸のかすかな匂いがした。セドリックは札を見ているふりをしたまま、息を止める。  エリアスも、すぐには退かなかった。ほんの一拍の沈黙の後、白手袋の指が木札の端を示す。 「ここに、根付きの時期が記されております」 「……読めるのか」 「私の字でございますので」  それだけ言って、エリアスは一歩下がった。  温室の空気が、急に広くなる。セドリックはようやく息を吸い、木札に残る古い文字へ目を戻した。 「いつからお前が?」 「ハーグリーヴズ様が退職される少し前から、正式には私が引き継ぎました。ただ、それ以前より手伝いはしておりました」 「なぜだ」  尋ねてから、セドリックは自分の声が思ったより低いことに気づいた。エリアスは、少しだけ視線を動かして棚を見る。 「誰かが見ていなければ、枯れてしまいますので」  当たり前のことのように言った。  たったそれだけだった。エリアスは花のことを言っているのだと分かっている。それでも、すぐには返事ができなかった。  エリアスは棚の前へ進み、弱った葉のついた細い枝に触れる。指先で千切るのではなく、剪定鋏を取って、茎を傷つけない位置で落とす。パチン、と高い音が鳴った。その動きはあまりに自然で、仕事というより、身体に染み込んだ動作のようだった。 「この株は、三年前に一度根を傷めました」  エリアスは、落とした葉を布の上へ置きながら言った。 「葉が落ち、枝もほとんど駄目になりましたが、根は生きておりました。傷んだ枝を落とし、土を替え、場所を移して、昨年ようやく花をつけました」 「よく覚えているな」  セドリックは目を見張る。 「記録しておりますので」 「それだけで、そこまで覚えているものか?」  エリアスは答えず、ただ目を伏せる。  セドリックは棚に並ぶ札を見た。そこには株ごとの年月があった。弱った時期、花をつけた日、挿し木の成否、硝子の傷みに合わせて鉢を移した記録。  セドリックの中で、温室はあの夜のまま閉ざされていた。  だが、木札の日付も根づきかけた挿し木も、その後の時を確かに刻んでいた。彼が王都でエリアスを憎み、焦がれ、忘れようとしているあいだに、この男は枝を切り、土を替え、何度も花の季節を迎えていた。  九年の歳月を隔てていたのは、距離だけではなかったのだろう。  自分が背を向けた場所で、エリアスは誰にも告げず、枯れかけたものを拾い上げ続けていた。その姿を想像すると、胸の奥に悔しさとも痛ましさともつかないものが残った。  父の傍にいた男――その一枚の影だけで、セドリックは長いあいだ彼を見ていたのかもしれない。その影の外で、エリアスがどんな顔をしていたのか、今まで考えたこともなかった。  セドリックはエリアスへ目を向けた。  家令は棚のそばに立ち、指先で細い芽の育ち具合をそっと確かめていた。父のためでも、セドリックへの義務でもない。ただ、長く繰り返してきた習慣として、そうしていた。その横顔は穏やかで、どこか遠い。  九年間、ここで花の時を数えていた。誰にも頼まれたわけでも、褒められたわけでもなく、ただそれだけを続けてきた男だった。  その事実が、胸の内へじわりと沁みてくる前に、 「――灰薔薇は、収益になるだろうか」  考えを振り切るように発した問いは、少し乱暴に響いた。エリアスは顔を上げる。 「観賞用としては、難しいかと存じます。花持ちはよくありませんし、切り花にも向きません。色も、王都で好まれる赤や白の大輪とは違います」 「随分とはっきり言うな」 「残すのであれば、なおさら欠点も知っておくべきです」  正論だった。  セドリックは、灰薔薇を見つめる。淡い灰色の花弁は、確かに華やかではない。客間の大壺に活けても、赤い薔薇や白百合のようには人目を引かないだろう。花そのものも大きくはない。硝子越しの柔らかな光の中でこそ目を留めるが、舞踏会の燭台の下では沈んで見えるかもしれなかった。 「では、なぜ残した」  問いは自然と口をついて出たが、エリアスはすぐには答えなかった。  ぱた、とまたどこかで水滴が石畳を叩く音がする。 「……この土地の花ですので」 「それだけか」 「それだけでは、足りませんでしょうか」  静かな問いに、今度はセドリックが返答に詰まる番だった。  足りない。当主としてなら、そう答えるべきなのだろう。土地に咲く花だからというだけでは、橋は直せず、薪も買えず、使用人たちの暮らしも守れない。  それでもセドリックは、足りないとは言い切れなかった。  彼が欲しかったのは、温室を残すに値する正しい理由ではなかったのかもしれない。エリアスがなぜ、この花を見捨てられなかったのか。その答えを、家令としてではない言葉で聞きたかった。  灰薔薇の色が目の奥に残る。この花を、昔好きだった気がするのに、理由は思い出せない。思い出そうとすると、あの夜が先に来る。それより前の記憶は、灰を混ぜた水のように指の間からこぼれ落ちていった。  その時、マルグリットが静かに灰薔薇へ顔を寄せた。触れはせず、香りを確かめるように、目を伏せて息を吸う。 「あら、これは、雨の後に香りが立つのですね」  目を見開き、短い声を上げるマルグリットに、エリアスが首肯する。 「はい。晴天の日より、湿度の高い日に強く香ります」 「やはり」  マルグリットはもう一度、花を見た。その瞳には、抑えきれない興味が灯っている。 「華やかな薔薇香ではありませんわね。もっと低くて、湿った土に近い。けれど、後に甘さが残る。雨の匂いと喧嘩していないのが面白いですわ」 「花の良し悪しは、香りで決まるのですか」  セドリックが尋ねると、彼女は少し考えるように視線を落として首を傾ける。 「何に使うかで、価値は変わります。舞踏会の花瓶に挿すなら、この灰色は少し沈みすぎるでしょう。でも、香りとして瓶に閉じ込めるなら、ありふれた赤い薔薇より記憶に残るかもしれません」 「記憶に残る香り……」  その言葉は、湖に投げられた小石のように、セドリックの胸にさざ波を立てた。 「ええ。香水は、ただ良い匂いがすればよいわけではありませんもの。人はそこに、失くした場所や、会えない人や、戻れない季節を嗅ぐことがあります」  セドリックは、マルグリットを見た。彼女の目は熱心に灰薔薇へ向けられている。だが、その言葉は、花だけを見ている者のものではなかった。  問いを口にしようとして、視線の端にエリアスが映った。彼もまた、マルグリットの横顔を静かに見つめていた。  目が合った、と思った瞬間、エリアスはそっと視線を逸らす。 「――母君の影響ですか」  気づけば、そう尋ねていた。マルグリットは少し驚いたように瞬いたが、すぐに柔らかな表情へ戻った。 「そうかもしれません。母が亡くなった後も、香油の匂いだけは、なかなか部屋から消えませんでした。悲しかったのか、慰められたのか、今でもよく分かりません。母がいないのに、部屋だけがまだ母を覚えているようでした。姿がなくなっても、香りは残るのだと、その時に知ったのです」  彼女は、はにかんで灰薔薇の花弁へ目を落とした。 「だから私は、香りを扱いたいのです。父は、結婚前の娘が商人の真似をするものではないと申しますけれど」 「……叔父上は、あなたをその……候補の一人として考えているようですね」  口にしてから、少し直接的すぎたかもしれないと思った。マルグリットは顔を上げる。驚いた様子はなかった。 「存じております」 「それでも、香料の仕事を?」 「結婚しても、香りを嗅ぐ鼻がなくなるわけではありませんから」  さらりと返され、セドリックは返答に迷った。 「私は、誰かの妻になること自体を嫌っているわけではありません。ただ、婚姻だけで人生が決まるのは、少し退屈だと思っております」  その声は穏やかだったが、一本はっきりとした芯があった。  セドリックは、初めて彼女をまっすぐに見る。  叔父の口から、彼女は家を再建するための候補として語られた。だが今、灰薔薇を見つめるその目は、誰かに飾られる場所ではなく、自分で選ぶ道を探しているように見えた。 「……灰薔薇は、この領地を救う花になるでしょうか」 「可能性はございます」  その言葉に、セドリックは目の前がぱっと開けたような気がした。だがマルグリットは、夢のある言葉だけを並べはしなかった。 「ただし、商人は実利がなくては動きません。必要なのは、試料、株数、栽培記録……そして来年も同じ香りを届けられる見込みがあるかどうかです」  マルグリットは、指を折りながらすらすらと挙げていく。  セドリックは黙った。マルグリットが示した条件は、すなわちその一つ一つが灰薔薇に対する質問だった。そして、セドリックはそのほとんどに答えられない自分を知っていた。  この温室に何株あるのか、どれが香りの強い株なのか。花期はいつか、挿し木はどれほどの成功率か、どれくらい増やせるのか。そもそも、灰薔薇の原種株がどこにあるのか。  売らないと言った花について、セドリックには答えられることがほとんどなかった。  エリアスは、黙って棚の横に控えている。彼なら答えを持っているのだろう。  その名を呼びかけて、セドリックは唇を結んだ。頼ることと縋ることの違いが、この男の前ではいつも分からなくなる。 「王都に、そうした香りを扱う商会をご存じですか」 「リヴィントン商会なら、話を聞いてくれるかもしれません」  即座に応じたマルグリットに、セドリックは目を丸くする。 「――紹介していただけると?」 「お名前をお伝えすることはできます。紹介状も書きましょう」 「失礼ですが……なぜ、そこまでしてくださるのですか」  問いは、思ったよりも素直に口を出た。マルグリットはその大きな目を瞬かせる。 「私にも都合がございますから」  令嬢は悪びれずに言って、微笑む。 「父は、私の鼻を嫁入り道具の一つくらいに考えております。けれど私は、誰かの屋敷に飾られるより、自分の名で香りの仕事をしたいのです」 「そのために、灰薔薇を?」 「ええ。珍しいだけの花なら、私はここまで申しません。けれど、この香りには力があります。商会に認めさせることができれば、アシュフォード家のためにも、私自身のためにもなります」  彼女は灰薔薇の花弁へ目を落とした。 「ですから、これは親切ではなく、賭けですわ」  セドリックは黙った。マルグリットは、棚に並ぶ灰薔薇に目をやる。淡い灰色の花弁は、硝子越しの光を受けて、白とも銀ともつかない色に沈んでいる。 「レジナルド様はこの温室を売却候補に挙げられたのでしょう?」 「……ご存じでしたか」 「昨夜、お話しする機会がございました。細かい事情までは伺っておりませんが、北庭の温室が重荷になっていることは聞いております」  マルグリットの声は穏やかだった。好奇心は持っているが、人の傷を覗き込むような無遠慮さはない。 「普通なら、売るのが正しいのでしょうね。古くて、傷んでいて、収益も見込めない。まして家が傾いているなら、なおさらです」 「僕は愚かな判断をしていると?」 「いいえ」  彼女はすぐに首を振った。 「私は、少し羨ましいと思いました」 「羨ましい?」 「はい。まだ価値が証明されていないものを、手放せないと言えることが。私はいつも、先に価値を示せと言われてきましたから」  セドリックは返事を失い、ただマルグリットを見つめた。マルグリットは、少しだけ笑う。 「もちろん、それは間違っていません。価値を示すことは必要です。けれど、まず誰かが『これは手放したくない』と思わなければ、何も始まらないのだと思います」  温室の中に、雫の落ちる音が響く。 「アシュフォード伯は、この花をまだよくご存じないのでしょう? それでも、売らないと仰った」  セドリックは、すぐには答えられなかった。 「つまらない感傷だと、叔父上には思われています」 「感傷ではいけませんか」  マルグリットは問い返した。 「感傷だけでは城は直りません。けれど、誰かが手放したくないと思ったものに、後から価値が見つかることもありますわ」  彼女は灰薔薇へ視線を戻した。 「あなたがなぜこの花を手放せなかったのか、私は存じません。けれど、確かめようとなさるなら、紹介状を書く理由にはなります」  セドリックも、灰薔薇へと視線を落とす。その花弁は、先ほどまでとは少し違う色に見えた。 「それに」  マルグリットは、少しだけ声の調子を明るくした。 「私にとっても賭けだと申し上げましたでしょう? 慈善だけで紹介状を書くほど、私は善良ではございませんわ」  その言い方があまりに率直だったので、セドリックは肩を竦めて息を吐いた。 「正直な方ですね」 「商いに嘘はつきものですが、最初から嘘だけでは長続きいたしませんもの」  そう言って、彼女はもう一度、灰薔薇の香りを確かめるように目を瞑った。 「けれど、私にできるのはそこまでです。紹介状一枚で契約が取れるほど、王都の商人は甘くありません。商売の種となるものを揃えられなければ、ただ珍しい花を見せて終わりです」  セドリックは頷く。マルグリットは微笑んで続けた。 「先ほどお伝えしたものの他に、できれば、原種株の所在も把握しておきたいですわ」 「原種株……」  セドリックは灰薔薇を見た。 「この温室の株では足りないのですか」 「今ある株だけでは、商取引としては弱いかと。栽培が難しいのでしょう? 絶えてしまえば終わりです。原種株があり、そこから増やせる見込みがあるなら、話は変わります」  原種株。  その言葉だけが妙に重たく響いた。 「エリアス」  呼ぶと、エリアスは顔を上げた。 「この灰薔薇の原種株について、何か知っているか」 「……記録は、残っております。温室内の覚書に少し。あとは、庭師のトマスの記憶の方が確かかと存じます」 「なぜ、それを先に言わなかった」  言った瞬間、エリアスの表情がわずかに強張る。セドリックも、自分の声が責める響きを帯びたことに気づいた。けれど口にした言葉を戻すことはできない。 「申し訳ございません。温室の維持だけで手一杯でした。記録の所在は把握しておりましたが、現存を確かめる余裕はなく……また、先代様も、お望みではありませんでしたので」  それに、と続けかけたエリアスの唇が、躊躇うように閉じる。その先に何があったのか、彼は言わなかった。  父が望まなかった――それだけで、何年も調べられなかったことがあるのか。そう思いかけて、セドリックもまた口を噤む。エリアスだけを責めるには、自分の九年もまた、あまりに長い空白だった。 「トマスはどこにいる。会いに行く」 「北庭の作業小屋に。現在は重い仕事からは退いておりますが、灰薔薇については最も古くから知る者でございます」  マルグリットは二人のやり取りを静かに見ていた。主従のあいだの空気が緊迫していることには気づいただろうが、余計な口を挟まないところに彼女の賢さが窺えた。 「では、私は失礼いたしますわ」  彼女は軽く一礼した。 「紹介状は、今日中にしたためておきます。けれど、アシュフォード伯。どうかお忘れなく」 「何を……」 「商人は夢だけでは動きません。でも、夢のない品にも心は動かされませんわ」  マルグリットは、いたずらめいた笑みを浮かべる。灰薔薇をもう一度見やり、 「この花には、物語があります。あとは、それを支える根があるかどうかです」  そう言い残し、彼女は温室を後にした。扉が閉じると、室内には再び雫の音が戻る。  セドリックはしばらく、灰薔薇の棚を見つめていた。  マルグリットの残した物語と根という言葉は、まだ胸の奥でほどけずにいる。扉のそばに控えるエリアスを見ると、彼は何も言わず、ただ次の指示を待っていた。  九年間、ここで花の時を数えていた男が、今はセドリックの指示を待っている。その事実が、奇妙なほど長く胸に留まった。 「……行こう」  短く言うと、エリアスはかすかに頷く。 「かしこまりました」  温室の扉が閉まる音を背中に聞きながら、二人は作業小屋へ向かった。  ◇  その小屋は、温室から少し離れた場所にあった。  低い石造りの建物で、屋根には苔が生え、扉の脇には使い込まれた鍬や剪定鋏が吊るされている。雨避けの庇の下には、麻袋や割れた鉢が積まれていた。  中へ入ると、乾いた土と古い木材の匂いがふわりと香った。  暖炉のそばの椅子に、背を屈めた老人が座っている。名をトマスと言った。セドリックが幼い頃には、すでに白髪混じりだった気がする。今でこそ腰が曲がっているが、椅子に沈んだ肩幅にはかつて大柄だった男の名残があった。  立ち上がって帽子を取るトマスに、エリアスが事情を説明する。トマスはその皺に埋もれた目で、ゆっくりとセドリックを見た。 「若君が、温室を残すと仰ったとか」 「まだ、残せると決まったわけではないんだ。だが、できる限りの努力はする」  老庭師は、顔をくしゃりと歪めて笑う。 「それで十分、報われる思いがいたしますな」  セドリックは返事に困った。守ると口にしただけで、まだ何一つ、守れたわけではない。 「灰薔薇の原種株について聞きたい」  セドリックが言うと、はっと老庭師の表情が変わった。懐かしむような、痛むような色が浮かぶ。 「原種株、でございますか」 「温室の株のどれかではないのか」  トマスは白い顎鬚に触れ、しばらく火の方を眺めていた。 「温室の灰薔薇は、“枝”でございます」 「枝?」  トマスは暖炉の火へ目を落とした。小さな炎が、皺深い顔を橙色に照らしている。 「若君はご存じでしょうか? アシュフォードは領地北部に別邸がございます。今は誰も近づきませんが、その庭園に灰薔薇の古い株がありましてな。温室の薔薇は、そこから枝分けしたものです」  旧別邸庭園。  セドリックはその名を聞いたことがある。だが、行った記憶はほとんどない。北部の峡谷は道が悪く、雨の後は危険だと止められていた。子どもの頃、遠くから崩れた石壁を見たことがあるような気もするが、それすら定かではなかった。 「今もあるのか」  老庭師はしばらく黙った。 「分かりません。ここ何年も、誰も訪っておりません。道が崩れ、私ももう足が利きません。先代様は、早くにあの庭園にご興味を失われました」  セドリックはまた同じ影に行き当たったように感じたが、言葉にはしなかった。  トマスは、膝の上の手をゆっくりと握った。  雨脚が強まったのか、硝子を打つ音がひと際大きくなる。老庭師は顔を上げ、濡れた窓の向こうを見ながら繰り返した。 「温室の灰薔薇は枝です。本当の“根”は、北の谷にございます。もっとも、今もなお生きておればの話ですが」  その言葉は、雨音に混じって長く小屋の中に留まった。  セドリックは、不意に昨夜の帳簿で見た一行を思い出した。 《北部峡谷・水路維持費》。  その項目だけが、古い帳簿の中で妙に消えずに残っている。だが、今はまだ、何を意味するのか分からなかった。  灰薔薇には、商いへ繋がるかもしれない道が見え、トマスの言葉は、その根が北の谷にあることを示している。それは確かな前進だった。  だがその先には、まだ誰も踏み込んでいない谷が、静かに口を開けて待っている。  

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