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第三章
夜のうちに雲は幾分薄くなったものの、空はまだ低く垂れ込め、城の尖塔を灰色の靄が取り巻いている。草原を渡る風には湿った土の匂いが混じり、庭木の葉から名残の雫が絶え間なく地面を打っていた。
朝食を終えたセドリックが北の谷へ向かう支度を命じると、エリアスは強く反対した。
「昨夜までの雨で、山道はかなり緩んでいるものと存じます。少なくとも、あと二、三日お待ちになるべきです」
玄関広間には、外套を手にした従僕と、厚手の靴を用意した家政婦長のハンナが控えていた。セドリックが手袋を嵌める間も、エリアスは口調こそ丁寧だが、その紫紺の瞳に明らかな懸念を浮かべている。
「待てば、安全になるのか」
「人をやって崩れた箇所を確かめる時間は取れます」
「僕に、その報告をただここで待っていろと言うんだな」
エリアスは口を噤んだ。
それは、これまでのアシュフォードで繰り返されてきたことだったのだろう。父もこうして、誰かの目で見た領地を、机上に届く報告だけで知った気になっていたのかもしれない。
「僕は何も、無謀に進もうとしているわけじゃない」
セドリックは外套の留め金を掛けた。
「道が悪いことも、谷へ下りるのが容易でないことも分かった。その上で、自分の目で見たいと言っている」
「しかし」
言い募るエリアスを遮って、セドリックは問う。
「お前は道を知っているんだろう」
「……昔、何度か。ですが、最後に訪れたのは十年以上前でございます」
「危険を感じたら、その時点で引き返すと約束する。案内してくれ」
命じながら、セドリックはエリアスの顔を見た。
「知らないことを理由に、もうこの領地を他人任せにはしない」
エリアスの睫毛だけが揺れる。何かを言いかけたようにも見えたが、やがて彼はいつものように静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
従僕が差し出した杖を受け取り、セドリックは玄関扉へ向かう。その背後から、コツコツと軽やかな足音が近づいてきた。
「もうお出かけになりますの?」
振り返ると、マルグリットが帳面を胸に抱えて立っていた。昨日よりも簡素な服装で、明るい栗色の髪も低い位置にまとめられている。セドリックは軽く頭を下げて応じた。
「別邸庭園へ向かうつもりです」
「今日、ですか?」
「ええ。道の状態を確かめながら参ります」
マルグリットは一瞬目を見開いた後、隣に立つエリアスへ視線を移した。
「レジナルド様は、お止めになりませんでしたの?」
「無謀だとは言われました」
「ヴェイン氏も、同じご意見でしょうね」
「つい先ほど、折れてもらったところです」
セドリックがそう答えると、マルグリットは口元へ小さな笑みを浮かべた。エリアスは否定も肯定もせず、セドリックの外套を腕に掛けている。
「私も拝見したいところですけれど、雨上がりの谷を歩けるほど頼もしい靴を持ってまいりませんでした。残念ですわ」
同行を辞退するマルグリットに、セドリックは密かに安堵した。雨上がりの谷道は、歩き慣れない者には厳しいはずだった。
「あなたには、昨日の花弁を見ていただけると助かります」
「ええ。そのつもりでおります。乾燥させた場合と、油に浸した場合とで、香りの残り方を比べてみますわ」
マルグリットは、翠の瞳に純粋な好奇心を輝かせて答える。
「もう試してくださるのですか」
「興味を持ったものを机の上へ置いたままにしておくのは、苦手なのです」
肩を竦めて言い、彼女は少しだけ表情を改めた。
「ただし、原種株を見つけても、すぐには枝を切らないでくださいませ。どの株が古く、どこから枝分かれしているのかを、先に確かめた方がよろしいかと」
「承知しました。株の位置と状態を記録し、枝へ刃は入れません。持ち帰るのは土と水を中心に――もし自然に落ちている花弁などがあれば、それも添えましょう」
「それを伺って安心いたしました」
マルグリットはにっこりと微笑む。セドリックだけでなく、エリアスにも目を向けた。
「それにしても」
彼女は、少しだけ首を傾げる。
「お二人は、もう随分と息が合っていらっしゃるように見えますわ。先ほどの道の相談も、まるで長年そうしてきたかのようでした」
何気ない口調だったが、セドリックは一瞬、返す言葉に迷った。エリアスもまた、わずかに視線を伏せる。
「……家令として、当然のことでございます」
「あら、そうでしたわね」
マルグリットは小さく笑い、それ以上は追わなかった。
「お戻りになりましたら、ぜひお話を聞かせてください。お二人とも、どうかお気をつけて」
「ありがとうございます。行ってまいります」
令嬢へ丁寧に一礼してから、振り返る。家令はいつの間にか外套を身に付け、荷を提げていた。
「行くぞ」
「はい、旦那様」
セドリックはエリアスを伴い、城の外へと踏み出した。
◇
二人は厩舎で騎乗し、北の牧草地を抜けた。
セドリックの馬は栗毛の騸馬で、王都からの長旅にも使った気性の穏やかな一頭だった。エリアスは、栗毛より少し小柄な鹿毛に跨がり、先を進んでいた。黒い外套の裾が馬の脇腹に沿って揺れ、その背筋は城内にいる時と変わらずまっすぐ伸びている。
夜間の雨で、草原は全体にうっすらと水をまとっていた。蹄が地面を打つたび、濡れた草から細かな雫が跳ねる。遠くには羊の群れが見え、牧童たちが二人の姿に気づいて帽子を取った。
セドリックは馬を緩め、彼らへ手を上げて応じた。
王都へ向かうために通った街道とは違い、この辺りは城の領内でありながら、幼い頃にもほとんど来た記憶がない。なだらかな草原の先には低い林が広がり、その奥で地面が深く落ち窪んでいる。北の谷は、木々の向こうへと身を隠すように横たわっていた。
「古道の入口は、あの林の中か」
「はい。以前は別邸へ向かう馬車道がございましたが、今は途中までしか馬では進めないかと存じます」
「道を直せば、荷車も入れるようになるだろうか」
エリアスがわずかに視線を寄越す。
「別邸庭園までは、崩れた斜面を補修する必要がございます。水路沿いの道が残っていれば、人と軽い荷を運ぶ程度には使えるかもしれません」
「原種株を管理するなら、道が必要になるからな。庭師が毎回、この泥の中を歩くわけにはいかない」
「すでに、そこまでお考えなのですか」
「まだ何も見ていないが、見つけた後に必要になるものくらいは考えておきたい」
エリアスは前へ向き直ったが、その横顔に一瞬浮かんだものを、セドリックは見逃さなかった。驚きだったのか、それとも安堵だったのかまでは分からない。
牧草地を抜けて林へ入ると、道は急に暗くなった。枝葉に遮られた光が地面へ斑に落ち、蹄が湿った土へ深く沈む。ところどころに古い轍の跡が残っていたが、両側から伸びた草に呑まれ、馬一頭が通る幅しかない。
エリアスは速度を落とし、地面と周囲の木々の状態を交互に確かめながら進んだ。
「この先で降りた方がよろしいかと存じます」
やがて彼が手綱を引いた。前方では、古道を横切るように細い倒木が重なり、その先の道も斜面側へ傾いている。馬を連れて進めば、滑落の危険があった。
「馬はここへ繋ぐのか」
「少し戻ったところに、古い休み場がございます。木立に囲まれておりますので、風雨もある程度避けられるでしょう」
「分かった。そこまで戻そう」
二人がしばらく引き返すと、少しばかり開けた場所に出た。かつては旅人が休息に使ったであろう古い建屋が残っており、その脇には馬のための庇も設けてあった。二頭をそこへ入れて手綱を繋ぐ。鞍から鞄と杖を下ろすと、エリアスが水と餌を馬の前へ置いてやった。
セドリックは、林の奥の暗がりへと沈む細い道を見る。ここから先は、誰かが整えなければ、人も物も容易には通れない道だった。
「帰ったら、古道の状態を記録しよう」
「原種株が見つかった後に、でございますか」
「見つからなかったとしてもだ。この谷に何が残っているのか、領主が知らないままでよいはずがない」
エリアスはしばらくセドリックを見つめた後、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
セドリックは杖を手に取り、先に立つエリアスの背を追って、谷へ続く道へと踏み込んだ。
道は細く、険しい悪路だった。エリアスは数歩先を歩いている。黒い外套の裾を泥から避けながら、杖の先で地面を確かめ、足場の固い場所を選んで進んでいた。時折立ち止まっては、苔むした石や傾いた木を見上げ、記憶の中にある道筋と照らし合わせているようだった。
「右へ参ります」
やがて、道が二つに分かれた場所でエリアスが告げた。左手の山道は比較的広く見えたが、少し先で斜面ごと崩れ、赤茶けた土が剥き出しになっている。
「昔はこちらが正道でしたが、崖際が崩れております。右は水路の管理に使われていた道で、狭くはありますが、地盤は比較的安定しております」
「この辺りには水路があったのか」
「別邸庭園の噴水と池へ水を引いていたと聞いております」
エリアスの示した先には、地面から半ば露出した石の溝があった。水は流れておらず、底は落ち葉と泥でほとんど埋もれている。ところどころがひび割れ、組まれた石は辛うじて形を留めていた。
セドリックは足を止め、屈んで水路を確かめる。
《北部峡谷・水路維持費》。
昨夜、帳簿の片隅で見た一行が、不意に脳裏へ浮かぶ。レジナルドはそれを古い習慣だと一笑に付し、誰も見に行かない場所に払われる、取るに足らない金額だと言っていた。
――これが、その水路か。
目の前にあるのは、水路と呼ぶにはあまりに古びた石組みだった。そのくたびれ方は、昨日今日での有様ではない。何年もの間、この姿であったことが容易に想像できた。
毎年、維持費という名目で金が払われていた場所が、これなのか。
だとすれば、その金はどこへ流れていたのか。ここを直すためでなかったのなら――。
今すぐに答えを得ることはできないが、必ず調べて突き止める。セドリックはそう自身に言い聞かせた。
エリアスは黙ったまま、セドリックの視線を追っていた。
「谷の上流から引いていたのか」
「おそらくは。詳しい図面が城に残っているかもしれません」
「戻ったら探させよう」
セドリックは泥の詰まった溝へ視線を沿わせた。
もし水路が使えるなら、別邸庭園を整える際にも役立つ。原種株が生き残っているとすれば、土と水が灰薔薇に適しているからだろう。温室へ株を移すだけでなく、この土地そのものを保全する方法も考えなければならない。
視線を感じて顔を上げると、エリアスの紫紺の瞳がこちらを見つめていた。
「何だ」
エリアスはそっと視線を下げた。
「いえ……先代様は、この水路をご覧になっても、庭園の復旧には関心を示されませんでしたので」
「僕が父上と同じ反応をしないのが、そんなに意外か」
「そのような意味では」
「なら、どんな意味だ」
問われたエリアスは答えに迷ったようだった。
「……アシュフォードのことを、すでにお考えになっているのだと思いまして」
答える口調は、いつもよりほんの少し温かかった。セドリックは戸惑い、言葉を探すように、再び水路へ目を向ける。
「考えるのが遅すぎたくらいだ」
「遅すぎるということはございません」
迷いのない声で、即座に返された。
セドリックは思わず顔を上げた。エリアスは水路から目を離し、真っ直ぐにセドリックを見ている。慰めようとした様子はなかった。励まそうとしているわけでもない。ただそう思っているから、そう言った。それ以上でも以下でもなかった。
「お前はいつも、そうやって正しいことを言うな」
「申し訳ございません」
「今のは責めていない」
エリアスが目を瞬かせる。その顔を見て、セドリックは自分でも不思議な気持ちになった。九年前なら、エリアスが何を言っても、素直に受け取れた気がする。いまは一つの言葉の裏に何があるのか、いちいち探らずにはいられない。エリアスも同じなのかもしれなかった。
「行こう」
セドリックは水路から離れ、右の道へ足を向ける。
道は次第に険しくなった。谷へ下りるにつれて空気は冷たくなり、木々の間には白い靄が漂い始める。足元には濡れた苔が広がり、踏む場所を誤れば滑り落ちそうだった。
急な斜面の前で、エリアスが足を止める。
「こちらへ」
差し出されたのは、黒い革手袋に覆われた手だった。城の中で白手袋を嵌め、書類や銀盆を扱う時とは違う。泥に触れ、濡れた枝を払い、先に立って道を探してきた手である。
――幼い頃には、何度この手に導かれただろう。
階段を下りる時も、馬へ乗る時も、エリアスの手はいつも、自分より少し先にあった。母を失ったあの日にも。
九年を隔てた今、その手が再び自分へ向けられている。
セドリックは一瞬だけ迷った後、自らの手を重ねた。革越しの感触は思ったよりも温かく、指が閉じられると、胸の奥まで不意に掴まれたような気がした。
「足元にお気をつけください」
低い声が、すぐ近くで聞こえる。エリアスの腕は細く見えるのに、引く力には迷いがなかった。セドリックはその手に身を預け、濡れた斜面を下りる。靴が一度泥を滑ったが、握られた指は少しも緩まなかった。
無事に下へ降り立っても、二人の手はほんの一瞬、繋がれたままだった。どちらが先に離したのか、セドリックには分からない。
「ありがとう」
ようやく口にすると、家令は何事もなかったように軽く頭を下げた。
「いえ」
エリアスはすでに足元へ視線を落とし、次の道を確かめている。再び歩き出したその背を追いながら、セドリックは革手袋越しに残った温度を確かめるように掌を握り込んだ。
◇
林を抜けると、谷の底に崩れた石壁が見えた。
靄の向こうに灰白色の石が連なり、その一部は蔓に覆われ、地面と見分けがつかなくなっている。かつて門柱だったと思われる二本の石柱は片方が倒れ、残った方にも深い亀裂が走っていた。
「ここか」
「はい」
エリアスが足を止める。
「別邸庭園でございます」
門の先に広がっていたのは、庭園というより、森に呑まれかけた廃墟だった。
石畳の小径は草の下に沈み、左右へ分かれていたらしい道筋も、今ではかすかに起伏を残すだけになっている。中央には円形の噴水があったが、縁は崩れ、底には枯れ葉と雨水が溜まっていた。翼を広げた鳥の彫像が中央に立っているものの、頭部は欠け、片翼には苔が厚く張りついている。
それでも、往時の面影がそこかしこに窺えた。
石壁に沿って植えられた木々は、長い年月のうちに枝を絡ませ、自然の天蓋を作っている。雨上がりの光が葉の隙間から差し込み、濡れた石畳へ細かな斑を落としていた。崩れた階段の向こうには低い東屋があり、柱へ巻きついた蔓が、かつての装飾を覆い隠している。
エリアスは、その東屋の前で足を止めた。蔓に覆われた柱を見上げる横顔に、セドリックは見覚えのない表情を見た。懐かしさでも、悲しみでもない。何かを思い出そうとして、思い出せない者の顔だった。
「エリアス」
呼びかけると、彼はすぐに視線を戻した。
「失礼いたしました。こちらです」
先を促すエリアスの後に続きながら、セドリックはその横顔をもう一度だけ見た。何を眺めていたのかは分からないが、ここがエリアスにとって何か意味のある場所だということだけは、確かだと思った。ただ、問いただすのは今ではない気がした。
人が去って久しい場所だというのに、庭はただの野放図な森とは違った様相を残している。
セドリックはその景色を見回しながら、ゆっくりと進んでいった。
「原種株はどこに」
「古い記録では、西壁の近くだったはずです。ただ、この状態では……」
エリアスが辺りを見回す。
「探そう」
セドリックは言い、二人は草を分けながら庭園の奥へ進んだ。
西壁に近づくにつれて、地面は少し高くなっていた。土には細かな石が混じっており、踏みしめると靴底の下で柔らかくほどけた。崩れた壁の隙間からは風が通り、木々に囲まれた庭園の中でも、そこだけ空気が動いている。
セドリックは足元に目を凝らした。
灰薔薇の葉について、詳しく知っているわけではない。温室で見た葉の形と色を思い出しながら、濡れた草の中に似たものがないか探していく。
「エリアス」
呼ぶと、少し離れた場所で枝を避けていたエリアスが振り返った。
「この土は、温室のものと違うのか」
エリアスはセドリックの傍へ来て、足元へ膝をついた。革手袋を外し、指先で土を掬う。
「温室より砂が多いようです。水はけがよいのでしょう。壁が風を防ぎながら、午後には光が入る位置でもあります」
「同じ環境を作れば、別の場所でも育つと思うか」
「可能性はございます。ただ、灰薔薇は移植を嫌います。温度だけでなく、土に含まれる成分や水質も影響しているかもしれません」
調べるしかないな、というセドリックのつぶやきを受けて、エリアスが顔を上げた。
「土と水を持ち帰ろう。温室の株と比べて、どこまで条件を再現できるか確かめる。原種株が複数あるなら、枝を取る前に分布も記録した方がいい」
セドリックは周囲を見回した。
「道も整えなければならない。庭園全体を元通りにする必要はないが、人が安全に入れる道は要る。水路がまだ使えるなら、手を入れる価値もある」
「――旦那様」
その呼びかけには、驚きだけではないものが滲んでいた。
セドリックが振り返ると、エリアスは荒れ果てた庭園を背にこちらを見つめていた。いつものように表情を整えているはずなのに、紫紺の瞳には、長く閉ざされていた窓へ不意に光が差したような明るさがあった。
「何だ」
「そこまで、お考えだったのですか」
「今、考えているんだ」
セドリックは答えた。
「僕は灰薔薇のことも、このアシュフォードのこともまだほとんど分かっていない。だが、知らないままでいるのはもう終わりにする」
荒れてはいても、手を入れるべき場所を自分の目で確かめることができた。崩れた石壁へと視線を上げると、亀裂から這い出た蔓の間から、細い枝が伸びていた。
灰色の蕾が一つ、その葉陰から覗いている。
セドリックは、はっと息を止めた。
「エリアス」
声を低くすると、エリアスもその先を見た。二人は同時に壁へ近づく。
蔓と雑草の奥に、灰薔薇はあった。温室で見たものより枝は太く、棘も鋭い。人の手で整えられていないため、枝は石壁に沿って複雑に広がり、ところどころ枯れてはいたが、幾つもの新しい芽をつけている。花弁の色もほのかに濃く、灰の中へ薄紫を一滴落としたような色をしていた。
一輪だけ開いた花が、風に揺れている。
香りは温室よりも強かった。甘さより先に、濡れた石と冷たい土を思わせる香りが立ち、その奥から、遅れて柔らかな花の匂いがほどけてくる。
「生きていたんだ……」
セドリックの口から、自然と言葉がこぼれた。
エリアスは答えなかった。花を見つめる横顔は静かだったが、その紫紺の瞳には、容易く言葉にできないものが揺れていた。
「誰も見に来なくても、ここに残っていたんだな」
「はい」
ようやく返った声は、低く掠れている。セドリックは原種株へ手を伸ばしかけ、触れずに止めた。
「温室へ移して終わりにしない」
エリアスがセドリックを見つめた。
「ここがこの花に適しているなら、庭園ごと守る必要がある。株を調べ、土と水を記録し、人が安全に入れる道を整える。花だけを切り取って、この場所を捨てるわけにはいかない」
セドリックは朽ちた噴水の向こうを見た。遠くで、水の流れる音がしていた。谷を下る雨水か、埋もれた水路のどこかをかすめる流れなのか、判然としない。
「父上が忘れたものを、懐かしむだけで終わりにしたくない。灰薔薇が誰かの仕事になり、橋を直す石や冬の薪に変わるなら、温室を残すことは僕一人の感傷ではなくなる」
言葉にしてから、セドリックは少し気恥ずかしくなる。原種株がどの程度増やせるのかも、香りが商品として通用するのかも、まだ何も分からない段階で未来を語るのは早計かもしれなかった。
けれどエリアスは笑わなかった。
「旦那様は――きっと、アシュフォードをよい方へ導いてくださると存じます」
その言葉を、セドリックはすぐには受け取れず、渋面をつくる。
「僕はまだ何もしていない」
「何をすべきか、ご自分の目で確かめようとなさっております」
「それだけで褒めるな」
「事実を申し上げたまでです」
エリアスの口元が、かすかに緩んだように見えた。
それはあまりに小さな変化で、見間違いかもしれなかった。けれど、セドリックはそれ以上何も言えなくなる。
原種株の周囲を調べ、持参した帳面へ位置と状態を書き留めた。エリアスが土を少量採り、水路の水を小瓶へ入れる。株は少なくとも五つあり、そのうち二つが花をつけ、三つには新しい芽が出ていた。
根は蔦や他の植物の枝と複雑に絡み、どこまでが灰薔薇のものか見分けがつかなかった。原種株へ刃を入れることはせず、落ちていた花弁と、自然に折れた細い枝だけを持ち帰ることにした。
調査を終える頃には、空が再び暗くなっていた。
「雨になります」
エリアスが西の空を見上げた。谷の向こうから、黒い雲が急速に近づいている。風が木々の梢を鳴らし、先ほどまで庭園を満たしていた靄が、低く流れ始めていた。
「城へ戻れるか」
「急げば、あの建屋までは戻れるかもしれません」
エリアスは答えたものの、表情は険しい。
「ただ、谷道で降られれば危険です。近くに古い狩猟小屋がございます。建屋とは反対ですが、ここから四半刻ほどです。先にそちらへ向かった方がよろしいかもしれません」
セドリックも天を仰ぐ。黒い雲はすでに谷の上まで迫り、遠くで低い雷鳴が響いていた。
「馬はどうする」
林の入口に残してきた二頭が、まず頭に浮かんだ。
「庇の内側へ入れてまいりましたので、雨風はある程度凌げるはずです」
「雷で暴れないか」
「どちらも旅慣れた馬ですし、手綱も身体を傷めない長さにしてあります。餌と水も置いてまいりました」
エリアスはそう答えたものの、セドリックの顔を見て、一拍間を置いた。
「ご心配でしたら、私が戻ります」
「一人で戻らせるわけにはいかない。馬を案じて、お前を危険な道へ行かせたのでは意味がないだろう」
セドリックはもう一度、来た道へ目を向けた。木々の奥に馬の姿は見えない。けれど、今から引き返せば、雨が本格的になる前にあの建屋へ辿り着ける保証もなかった。まして、そこから馬を連れ出して谷道を上る方が危険だ。
「狩猟小屋へ向かおう。馬は嵐が収まったら、何より先に迎えに行く」
そう言って、セドリックは帳面を外套の内側へしまう。エリアスは黙って頷いた。
◇
小屋へ向かう途中で、雨は降り始めた。
最初は大粒の雫が葉を叩くだけだったが、たちまち視界を塞ぐほどの激しさになった。風も強まり、枝が大きくしなるたび、頭上から溜まった水が落ちてくる。
泥は靴底へ重くまとわりつき、斜面を流れ落ちる水が、細い道の端を少しずつ削っている。エリアスは杖で足元を確かめながら先を進み、セドリックは別邸庭園の土と水の入った鞄へ外套の端を被せるようにして、その背を追った。
少し行った先で、道を塞ぐように倒木が横たわっていた。下を潜るには地面との隙間が狭く、上を越えるには太い幹が雨に濡れすぎている。脇へ回ろうにも、片側は低木が密生し、もう一方は谷底へ続く急な斜面だった。
エリアスが慎重に周囲を確かめる。
「私が先に参ります。向こう側の地面を見てまいりますので、旦那様はこちらで」
「いや、僕が先に越える」
「ですが……」
家令を制して、セドリックは鞄を下ろし、杖を受け取った。
「僕が足場を作る。お前は荷を渡してくれ」
濡れた幹の向こうへ杖を差し出し、地面を探る。何度かぬかるんだ土へ沈み込んだ後、固い石へ先端が当たった。そこへ片足を置けるだけの余地があることを確かめると、セドリックは幹へ手を掛ける。
「旦那様、ご無理は」
「大丈夫だ」
腕へ力を込め、身体を持ち上げる。濡れた樹皮が掌の下で滑ったものの、足を石へ移し、そのまま反対側へ降り立った。越えた先の足場は狭かったが、立てないほどではない。
「荷を」
エリアスが鞄を差し出す。セドリックはそれを受け取り、ひとまず灌木の陰に置いた。
「次はお前だ」
「私なら、一人で」
「来い」
主の有無を言わさぬ口調に、エリアスは倒木へと手を掛けた。長い脚を幹へ乗せ、身体を持ち上げる。動きそのものは危なげなかったが、反対側へ足を下ろそうとした瞬間、靴底が濡れた樹皮を滑り、エリアスの身体が大きく崖側へ傾いた。
「エリアス!」
セドリックは反射的に腕を伸ばした。
外套の脇を掴み、そのまま強く引き寄せる。けれど勢いは止まりきらず、エリアスの片足が崖縁の崩れた土を踏み抜いた。重たい泥と細かな石が斜面を転がり落ち、見えない谷底へ消えていく。
セドリックはもう一方の腕もエリアスの腰へ回した。自分の背を倒木へ押しつけ、足を踏ん張る。腕の中で細い身体が大きく揺れたが、セドリックは離さなかった。
「こちらへ体重を寄せろ」
「旦那様、ですが」
「いいから、僕に預けろ」
低く言うと、エリアスの身体から力が抜け、重みがセドリックの腕へと委ねられる。
その重みを受け止めたまま、セドリックは一歩ずつ安全な地面へ引き戻した。濡れた外套越しに、エリアスの背と腰の細さが腕へと伝わってくる。自分より上背があるにも関わらず、想像よりもその身体は薄かった。
ようやく両足が固い地面へ着いても、エリアスはすぐには動かなかった。
胸元へ片手を添え、浅く息をしている。濡れた黒髪から落ちた雫が、セドリックの頬を掠めた。紫紺の瞳と視線がぶつかったが、いつも凪のように静かなその目には、隠しきれない動揺が浮かんでいた。
「怪我は? 足は大丈夫なのか」
「問題ございません」
「本当か?」
問いながら、セドリックはなおも腰へ回した腕を解かなかった。鼓動が早い。今更ながら、背を冷たい汗が伝った。
エリアスは身じろぎし、そこで初めて、二人がどれほど密着しているかに気づいたらしい。胸元に添えられていた手が強張る。
「……旦那様。もう、大丈夫でございます」
その声は、普段より少し掠れていた。
セドリックも、足元を確かめてから、ようやく腕を離した。触れていた重みが失われると、雨に冷えた空気が二人の間へ入り込む。
「一人で越えられると言ったな」
「申し訳ございません」
「謝るところではない」
セドリックは置いた鞄を拾い上げ、泥と雨水を払った。
「次からは、僕が手を出したら素直に掴まれ。お前が落ちれば、道を知る者がいなくなる。それに――」
それに、と続けかけた先にあったものを、うまく言葉にできなかった。エリアスの身体が崖側へ傾いた瞬間、胸の奥が急に底を失ったようだった。道を知る者がいなくなるからではない。家令を失うからでもなかった。
ただ、エリアスがあの暗い斜面の向こうへ消えることを、考えただけで息が詰まった。
「いや、もういい」
「……承知いたしました」
エリアスは丁寧に頭を下げたが、顔を上げるまでに、いつもよりも間があった。
セドリックは先に歩き出す。腕にはまだ、エリアスを引き寄せた時の重みが残っていた。振り返れば、その表情を確かめたくなる気がして、あえて前だけを見る。
今日だけで、十分すぎるほどのものを手にした。生きていた原種株、水路という課題、商いへ繋がる道筋。それらはどれも、明日からのアシュフォードを少しずつ変えていくはずだった。
だが、今セドリックの中にあるのは、そのどれでもない。
さっき感じた、底の抜けるような感覚。エリアスを失うことへの、説明のつかない恐怖が心の中心を占めている。
九年間、訊けなかったことがある。今日まで、訊く資格すら自分にはないと思っていた。
けれど、常に次があるとは限らないのだ。
雨に押されるように、二人は小屋へ向かって足を速める。
やがて木々の間に、低い屋根が見えた。石造りの小屋は、半ば蔦に覆われていたが、壁も屋根もまだ形を保っていた。エリアスが肩で扉を押すと、錆びた蝶番が軋み、重い音を立てて開く。
二人は転がり込むように中へ入った。
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