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第四章
小屋には長く人が滞在した形跡はなかった。だが、寒気をしのぐための最低限の備えは、古いまま残されていた。
狭い室内には粗末な卓と椅子が二脚、壁際には古い寝台が置かれている。暖炉の中には薪の燃え殻が積もり、棚には湿気を吸った蝋燭と、錆びた火掻き棒があった。
エリアスはすぐに暖炉の前へ膝をついた。
「薪が使えるか確かめます。旦那様は外套を」
「僕もやろう。濡れているのはお前も同じだ」
セドリックは濡れた外套を脱いで椅子へ掛けると、壁際に積まれた薪を確かめた。上の方は湿っていたが、奥に残ったものはまだ乾いている。
エリアスが火打ち石を取り出し、セドリックは乾いた木片を暖炉へ運んだ。何度か火花が瞬いて消えた後、細い炎がようやく木屑へ移る。橙色の光が、暗い小屋の中へ少しずつ広がった。
雨は屋根を激しく打ち続けている。風が吹くたび、扉の隙間から冷気が差し込み、炎が頼りなげに揺れた。
「こちらを」
エリアスが古い毛布を差し出した。
「お前の分は」
「私は問題ございません」
「それもそろそろ聞き飽きたな……」
セドリックは軽く手を振って不要だと告げる。自分は寝台の上のもう一枚を取り、広げて確かめた。重たい織目のそれは、うっすらと埃をかぶってはいたが、黴びても穴が空いてもいなかった。
「そっちはお前が使え」
「旦那様」
「家令が風邪をひいて倒れれば、困るのは僕だ」
エリアスは何も言わなくなった。
二人はそれぞれ毛布を肩へ掛け、暖炉の前へ座った。濡れた外套と手袋を火の近くへ広げる。庭園の採集物の入った鞄は、卓上へ置いた。
しばらくは、雨と薪の爆ぜる音だけが小屋を満たしていた。かじかんでいた指先にじんわりと熱が戻ってくる。
エリアスが濡れた前髪を指で払った。火の光を受けた横顔は、城で見る時よりも柔らかく見える。髪は乱れて手袋もなく、黒い上着の襟元も少し崩れていた。
セドリックは、その姿に目を奪われている自分に気づき、暖炉へと視線を戻す。
「父上と、ここへ来たことはあるのか」
問いは、考えるより先に口をついて出た。薪を掻いていたエリアスの動きがぴたりと止まる。
「……ございます」
エリアスは炎を見つめたまま、静かに答えた。
「いつ」
「私がまだ従僕だった頃に、何度か」
「二人でか?」
セドリックは、自分が何か決定的な領域に踏み込もうとしていることに気付いていた。だが、九年秘めた問いは、エリアスへ向けて奔流のように溢れ出していく。
エリアスは、少し目を細めて頷く。
「――はい」
セドリックの胸の奥に、古い痛みが戻ってくる。けれど今度は、目を逸らさなかった。一番聞きたかったことを、聞くなら今だという気がしていた。
「父を、愛していたのか」
雨音が一段強くなった。
隣に座った男は暖炉を真っ直ぐ見つめたまま、長いあいだ動かなかった。火の光がその暗い紫紺の瞳に映り、陽炎のように揺れている。指は自分の肩を抱くようにして、毛布の端を握っていた。しばらく経って、エリアスはゆっくりと口を開いた。
「……愛していたのだと、思っておりました」
分かっていたはずの答えだった。
それでも、実際に聞けば胸の内側が抉られるように痛んだ。セドリックは呼吸を整え、次の言葉を待つ。
エリアスは毛布の端を握っていた指を解き、顔を上げた。紫紺の瞳が、逃げることなくセドリックを見つめる。
「少し、長い話になります」
その声には、先ほどまでとは異なる緊張があった。
「ウォーレン様とお会いする以前のことからお話ししなければ、私自身にも、何を愛と呼んでいたのか説明できそうにございません」
「構わない」
「……聞いていただけますか」
問いかけるエリアスの表情に、家令としての整った静けさはなかった。答えを命じられるのではなく、自分の言葉を受け取ってほしいと願っているように見えた。
セドリックも、目を逸らさなかった。
「そのために聞いたんだ」
エリアスは、ほんのわずかに息を呑んだ。
やがて視線を暖炉へ戻し、火の中に遠い時間を探すように、ゆっくりと語り始めた。
◇
私が生まれた町の名前を、私はもう覚えていない。
戦で焼けたのだと、後になって聞いた。けれど、炎そのものの記憶はない。覚えているのは、煙に汚れた赤い空と、誰かに強く腕を引かれたこと、その手をいつの間にか見失っていたことだけだった。
あれが母だったのか、別の誰かだったのかも分からない。
エリアスという名は、おそらく母がくれたものだった。
暗い場所で、女の声がそう呼んでいた気がする。けれど、その顔を思い出そうとすると、輪郭はいつも煙の向こうへ霞んで消えた。
気づいた時には、子どもばかりを集めた収容所にいた。
石造りの倉庫を無理に寝床へ変えたような場所で、窓には硝子がなく、冬には板の隙間から雪が吹き込んだ。食べ物はいつも足りず、薄い粥の底へ麦粒が幾つ沈んでいるかで、その日の幸運を測っていた。
朝になっても起きない子どもがいた。昨日話した子どもが、今日は冷たくなっていた。
初めの頃は、救いを求めて大人を呼んだのだと思う。けれど、何度も同じことが起きるうちに、誰かが死ねば、その子どもの毛布が空くのだと考えるようになった。
悲しくなかったわけではない。ただ、悲しみより飢えと寒さの方が、ずっと近くにあった。
私は、あまり泣かない子どもだった。
泣いても食べ物は増えず、誰かに優しさを施されるわけでもない。弱そうに見えれば、持っているものを奪われる。だから腹が空いても黙り、殴られても相手を睨んだ。
そうしているうちに、痛みは声を上げるほどのものではなくなった。
そこを逃げ出したのは、何歳の頃だったのだろう。十歳にはなっていなかったと思う。
理由は覚えていない。食べ物を盗んだことが見つかったのか、年長の子どもに殴られたのか、ただそこにいたくなくなったのかもしれない。夜のうちに塀を越え、足の裏から血が出るまで歩いた。
その後は、町から町へ移った。
市場で荷物を運び、厩舎の隅へ潜り込み、宿の裏口で残飯を探した。働かせてもらえる日はまだよかった。何も得られない夜には、盗むしかなかった。
金より先に、食べ物を盗んだ。パンを一つ取って殴られ、林檎を隠して犬をけしかけられた。それでも飢えれば、また手を伸ばした。正しいかどうかを考える余裕などなかった。
名を尋ねられることはあった。
エリアス、と答えても、正しく呼ばれることはほとんどなかった。おいだの、痩せ犬だの、小僧だの、呼びやすいように呼ばれるので、そのうち私も、訂正することを諦めた。
名は、相手に自分を覚えてもらうためにある。誰も私を覚えておく必要がないのなら、正しく呼ばれなくても同じだった。
ウォーレン様にお会いしたのは、王都から遠くない宿場町だった。
私は、宿の前へ停められた立派な馬車を見ていた。車輪には泥ひとつなく、扉には見たことのない紋章が刻まれていた。従者たちの服も靴も上等で、その主人なら、もっと高価なものを持っているはずだと思った。
ウォーレン様の身に付けた懐中時計が目に入った。陽を弾く金色の鎖が、上着の胸元から覗いていた。あれを売れば、しばらく食べるものに困らない。そう思い、私は人混みに紛れて近づいた。掏摸にはもはや慣れていたし、身のこなしの素早さには自信があった。
上着の裾に手を伸ばした途端、手首を掴まれた。
驚くほど力強い手だった。慌てて身を引いたが、その拘束は子どもの力ではびくともしなかった。
殴られるか、蹴られるか。衛兵へ突き出されれば、今度こそ牢へ入れられるかもしれない。それでも怯えた顔を見せれば負ける気がして、私は相手を睨んだ。
そんな私を見て、ウォーレン様は、笑われた。
「随分と手癖の悪い子どもだが、私の方が一枚上手だったようだな。盗むなら相手を選ぶことだ」
何を言われているのか分からず、その場を動くことができなかった。怒鳴られず、殴られもしないことの方が恐ろしかった。
ウォーレン様は、私の腕を掴んだまま、字が読めるかと尋ねられた。
教会にいた頃に少し習ったと答えると、道端の看板を読まされた。私は間違えずに読んだ。するとあの方は、しばらく私の顔を見た後、宿の中へ連れていくよう従者へお命じになった。
通されたのは、旅人たちが食事を取る広間の隅だった。粗末な身なりの子どもが上等な客と同じ場所へ入ったことで、何人かがこちらを振り返ったのを覚えている。
やがて、温かなスープとパンが運ばれてきた。けれど、私はすぐには手をつけられなかった。食べれば、その代わりに何を求められるのか分からなかったからだ。
ウォーレン様は向かいの席に座り、急かすこともなく、私が匙を取るまで待っておられた。あの視線が怖くて、それでも空腹には勝てず、私はようやく手を伸ばした。
あの味を、一生忘れることはできないと思う。何ということはない、野菜のスープと白いパンだ。けれど、その時の私にはこの世で一番美味しい食べ物のように感じられた。
城へ来るかと尋ねられたのは、食べ終えた後だった。
それが具体的に何を示すのか、私にはよく理解できていなかった。自分に選択権があるとは思わなかった。断ればまた道へ戻るだけだったし、ついていけば少なくとも次の食事がある。だから頷いた。
灰薔薇城へ着いた日、私は身体を洗われ、新しい服と靴の一揃いを与えられた。温かく柔らかな寝台へ横になっても、朝まで眠れなかった。目を閉じている間に何もかも取り上げられ、外へ放り出されるような気がした。
けれど翌朝にも食事があり、その翌日にも仕事があった。
字を習い直し、食器の扱いを覚え、廊下を歩く時の足音まで注意された。失敗すれば叱られたが、すぐに追い出されることはなかった。
働けば食べられる。命じられたことを果たせば、明日もここにいられる。
私には、それが充分すぎるほどの救いだった。
ウォーレン様は、私が仕事を覚えるたびに褒めてくださった。役に立つと言われた。必要だとも仰った。乾いた土が水を吸うように、ウォーレン様の与えたものが私の中に染み込み、根を張っていく。
私は、必要とされることを愛されることだと思った。
ほかの形を知らなかった。
ウォーレン様に初めて口づけられた時、私は身を引かなかった。
私が十八を過ぎ、従僕として城に馴染み始めた頃のことだったと思う。
書斎には火が入っていた。外は冷たい雨で、濡れた窓硝子に灯りがぼんやり映っていたことを覚えている。ウォーレン様は私の顎へ指を添え、逃げないのかと、どこか面白がるように仰った。
逃げるという考えは浮かばなかった。
あの方の手は温かく、触れ方も乱暴ではなかった。髪を撫でられ、頬へ唇を寄せられるたび、胸の内に固く残っていたものが、少しずつほどけていくように思えた。
誰かに触れられることは、それまで恐ろしいことでしかなかった。けれどウォーレン様は、私の名を呼び、よく仕えてくれたと囁かれた。その声音を聞いていると、自分がただ役に立つだけの使用人ではなく、あの方にとって特別な人間になれたような気がした。
――嬉しかった。
私は、嬉しかったのだ。そう感じたことまで、今になって偽るつもりはない。
あの方の胸元へ手を置いた時、その向こうで鼓動がしていた。私に触れている人も、生きた身体を持つ一人の男なのだと、不意に近しく思えた。肩へ額を預ければ、背へ腕が回される。その腕の中にいる間だけは、どこかへ追い出されることも、明日の食事を失うこともないのだと信じられた。
けれど、ウォーレン様が何も求めず、ただ私を抱き寄せただけだったなら、同じように安心できたのかと考えると、今でも答えは出ない。
私はあの方を望んでいたのか。
それとも、あの腕の中にいれば捨てられずに済むことを望んでいたのか。
当時の私には、その二つを分けることができなかった。
口づけに応えれば、ウォーレン様は満足そうに微笑まれた。その顔を見ることが嬉しくて、次には何をすれば喜んでいただけるのかを考えた。与えられたものには、同じだけ返さなければならないと信じていたからだ。
食事には労働を、寝床には忠誠を、居場所には服従を返す。
そして、あの方の親しさには、自分の身体と心を差し出すのだと思った。
あの方の望むものを差し出せば、私はここにいられる。役に立ち続ける限り、捨てられない。そう信じることで、何も恐れていないつもりになれた。
ウォーレン様は、私が断れないことをご存じだったのだと思う。私が何を欲し、何を恐れているかを、よく見ておられた。
それでも私は、求められることを嬉しいと感じた。
あの方の傍にいる時だけ、私は道端で名前を失った子どもではなく、アシュフォード伯爵に必要とされる人間でいられたからだ。
それを愛と呼んでいた。
今になって思えば、恩も、恐れも、依存も混じっていたのだろう。けれど、当時の私には、それらを分けて考えることなどできなかった。
愛されていると信じたかった。
そうでなければ、自分が差し出したものが、あまりに惨めに思えたからかもしれない。
◇
語り終えたエリアスは、小さくひとつ息を吐いた。
小屋の中には、屋根を打つ雨音と薪の爆ぜる音だけが響いている。
セドリックは顎の下に手を組んで、黙って炎を見つめていた。
何も持たず、泣くことさえ覚えずに生き延びてきた子どもが、火の向こうにいる男の内側へ、今も隠れているように思える。その姿を想像すると、手を伸べて抱きしめてやりたい気持ちになった。自分より十一も年上の男が痛ましく、そして憐れだった。
そのとき不意に、母の葬儀の日の光景が脳裏へ蘇った。
セドリックはまだ八歳だった。礼拝堂は白百合と香の匂いに満ち、大人たちは皆、よく耐えているとセドリックを褒めた。父からは、アシュフォードの跡継ぎが人前で取り乱すものではないと言い渡されていた。
だから泣かなかった。
母の棺が運び出された後も、誰かが肩に触れるたびに背筋を伸ばし、平気だと答えた。涙を堪えているうちに、何を悲しめばよいのかさえ分からなくなっていた。
あの時、エリアスが西廊下の窓辺にいた自分を見つけたのだった。何も尋ねず、使われなくなった衣装部屋へ連れていった。古い衣装棚には白い布が掛けられ、小さな窓から入る光の中を埃が漂っていた。
エリアスは、誰も来ないようにしておきます、と言った。
それだけだった。慰めることも、母の死を口にすることもなく、ただ扉の近くに留まってセドリックを見つめていた。
セドリックは床へ座り込み、いつの間にかエリアスの袖をきつく掴んでいた。それから、ようやく大声をあげて泣いた。
何を口にしたのかは、もう覚えていない。けれど、指の中にあった濃紺の布地と、どれほど強く掴んでも身を引かれなかったことだけは、今もはっきり残っていた。
セドリックは口を噤んだままのエリアスを見た。
「母上の葬儀の日を覚えているか」
エリアスは意外そうに目を上げた。
「奥方様の葬儀を、ですか」
「一人でいた僕を、お前が古い衣装部屋へ連れていってくれたんだ」
エリアスはしばらく考えていたが、やがて首を傾げた。
「……そのようなことが、ございましたでしょうか」
その答えに、セドリックは一瞬呆気に取られて言葉を失った。
「まさか、忘れたのか」
「申し訳ございません。葬儀の日に、お見かけした記憶はございますが……」
エリアスは本当に思い出せないようだった。セドリックにとっては、あの日の中で最も鮮明に残っている出来事なのに、それをした本人は覚えてもいない。
「お前は、僕が泣き終わるまで一緒にいたんだ」
エリアスの瞳が、かすかに揺れた。
「僕はずっとお前の袖を掴んでいた。放してくれと言われても、放さなかったと思う」
「……そうでしたか」
その返事に、腹立たしさより先に、奇妙な可笑しさが込み上げた。
エリアスにとっては、恩として数えるほどのことですらなかったのだろう。目の前に一人で立つ子どもがいたから、人の来ない部屋へ連れていった。袖を掴まれたから、立ち去らなかった。
ただそれだけのこととして、彼の記憶からは消えていた。
「お前は、自分のことでは泣かなかったんだな」
不意にそう言うと、エリアスはわずかに眉を寄せた。
「さっきの話だ」
セドリックは火を見つめたまま続ける。
「寒くても、殴られても、誰かが朝になって起きなくても、お前は泣かなかった。泣いても何も変わらないと、そう思うようになったんだろう」
エリアスは答えなかったが、否定しないことが、何よりの返事に思えた。
「そんなお前が、僕には泣くなと言わなかった」
泣くことを忘れたエリアスは、自分があの時差し出したものの意味など知らなかったのだろう。それが、どれだけ幼いセドリックを慰めたか、支えてくれたのか、知らずに今まで過ごしていた。
「――僕は覚えている」
セドリックは静かに告げる。
「お前が忘れていても。あの日、お前が僕にしてくれたことを、僕は忘れていない」
エリアスは何も答えなかった。炎が、乾き始めた薪の端を舐めている。部屋の空気はだいぶ乾いて温まり、とろりとした眠気を誘った。
しばらくして、セドリックは改めて彼を見た。
「父上を愛したのは、拾われた恩があったからか」
ようやく出た声は、思ったよりも低く掠れていた。エリアスはゆっくりと顔を上げる。
「初めは、そうだったのだと思います」
「その後は?」
問いかけると、エリアスの瞳に複雑な色が浮かんだ。
「必要とされることを失いたくなかったのです。ウォーレン様の傍にいる限り、自分には居場所があると思っておりました」
「だから、父上のものになったのか」
冷たく響いた言葉にも、エリアスは目を逸らさなかった。
「私は、自分で選んだつもりでした」
「つもり?」
「断れば、城を出なければならないと思っておりました。ウォーレン様は、そのようには仰いませんでしたが、私にはほかの道が見えなかったのです」
その言葉は真摯だった。ただ胸の奥にある真実を、セドリックに差し出している。
エリアスは父を愛していた。
恩も、恐れも、捨てられたくないという願いも、すべてが絡み合ったものだったとしても、求められることを喜んでいた。それを知ったうえで手を伸ばした父を思うと、セドリックの内側に冷たい怒りが湧いた。
けれど、その手を取ったエリアスを責めることもできなかった。
彼が安堵を覚えたことさえ憐れに思えてしまい、そう感じた自分にまた腹が立った。憐れみという言葉で括れば、エリアスが抱いていた感情まで、自分の都合のよい形へ変えてしまう気がした。
怒りも痛ましさも行き場を失い、胸の底で澱んでいる。
「……これ以上は」
「やめるな」
セドリックはエリアスを見た。
「謝って終わるな。僕が聞くと言ったんだ」
ここで話を終える気はなかった。何よりも、彼の話はまだ核心に至っていない。エリアスは、しばらくセドリックを見返していたが、やがてかすかな息を吐く。
「十三歳のあなた様に温室での姿を見られた夜、私はすぐに後を追いました」
エリアスの声は、雨音に紛れそうなほど低かった。
「覚えている」
セドリックは短く答える。
忘れられるはずがなかった。温室を飛び出し、濡れた石廊下を無我夢中で走り抜ける。気付けば、雨音に紛れて背後で自分の名を呼ぶ声がした。振り返ると衣服を乱したエリアスが、今にも泣き出しそうな顔でこちらへ手を伸ばしていた。
だが、セドリックはその手を振り払った。
触れられたくなかった。慰められたくなかった。何より、自分を呼ぶその声が、つい先ほど父へ向けられていた声と同じ喉から出ていることに耐えられなかった。
「お前は、確かに僕を追ってきた。でも……何も言わなかったじゃないか」
エリアスの指が、毛布の端を強く握る。
「申し上げるべき言葉が、分かりませんでした。謝ればよいのか、弁明すればよいのか、それとも、何も見なかったことにしていただきたいと願えばよいのか」
セドリックは暖炉を見つめた。目まぐるしく形を変える炎と同じように、セドリックの心中も複雑に乱れている。
「僕は、お前に何か言ってほしかった。だけど、何を言われても許せなかったと思う」
エリアスは、声に出さず頷く。
「その夜のうちに、私は職を辞そうといたしました」
セドリックは目を見開く。あの夜の後、セドリックは追われるように王都へやられ、父とエリアスの間でどのようなやりとりがあったか知る由もなかった。
「ウォーレン様には受け入れていただけませんでした。子どもの一時の感情で、家の人事を変えるつもりはない、と一笑に付されて」
いかにも父らしい。
セドリックは口の端を歪めた。セドリックの痛みも、エリアスの罪悪感も、すべて子どもの感情として片づけたのだろう。
「ですが、それだけでは終わりませんでした」
エリアスの声が、わずかに低くなる。
「ウォーレン様は仰いました。私が去ったところで、あなた様を王都へ送る決定は変わらない、と」
セドリックは、息を止める。
「お前が去れば、この城にあれの味方は一人もいなくなる。それでもよいのか、と問われました。私が残ることで、あなた様の傍に居場所を作ることができれば――そう、自分に言い聞かせました」
エリアスは一旦言葉を切り、頭を振った。
「いいえ、それも後から付け加えた理由でございます。本当は、ただ怖かったのです。城を出れば、私はまた何者でもなくなる気がしました。ウォーレン様のお心を失えば、ここで積み上げたものも、与えられた名も、すべて失うように思えたのです」
言い終えて、エリアスは小さく息を吐く。セドリックは、しばらく何も言うことができなかった。
父の提示したそれは、選択の形をとってはいたが、初めから答えを決められた問いだった。
エリアスに自分の意思で選べと言いながら、実際には二つの道のどちらを選んでも、その首に鎖が繋がれることは決定していたのだ。
自分が王都へ送られることは、エリアスの去就とは関係なく、初めから父の中で決まっていた。エリアスがどう動こうと、自分はあの館を追われる運命だったのだ。
それをエリアスに告げることで、父は何を得たのだろう。
エリアスを縛る理由か。それとも、息子を遠ざけることへの、自分自身への言い訳か。どちらにせよ、父はそうやって、二人を同時に支配していた。
「僕は……あの夜のあと、自分が罰を受けたのだと思っていた」
セドリックの声は、自分でも思ったより静かだった。
「翌朝には、荷物の一部がもうまとめられていた。父上は、僕が何を見たのかも、何を思ったのかも訊かなかった。ただ、王都で学べと言った。アシュフォードの跡継ぎとして恥じぬ教育を受けろ、と」
馬車の窓から見た城の輪郭を、今でも覚えている。雨に濡れた硝子越しに、温室の屋根が鈍く光っていた。それが、十三歳のセドリックが最後に見た生家の姿だった。
「寄宿学校での生活は、何も困らなかった。部屋も、食事も、教師も、必要なものは全部あった。父上からは時折、短い手紙も届いた。学業に励め、身体を大事にしろ、そういう言葉だけが書かれていた」
セドリックは、火の中で崩れていく薪を見つめた。
「けれど、僕が何を思っているのかを訊ねる言葉は、一度もなかった。帰ってこいとも、帰ってくるなとも言われなかった。だから僕は、帰らないことだけは、自分で選んでいるつもりでいた」
口にして初めて、その選択がどれほど長く自分を縛っていたのか分かった。
「僕も本当は、怖かったんだと思う。帰れば、父上の傍にいるお前をまた見ることになる。僕がいなくても、この城は何も変わらず続いているのだと、思い知らされる気がした」
言い終えて、セドリックは小さく溜息を吐いた。ずっと誰かにこの話をしたかったことに、自分でもたった今気が付いたのだ。
だが、この孤独を形作った父は、もうこの世にいない。
「エリアスという名は、元からあったと言っていたな」
セドリックが言うと、エリアスが顔を上げる。
「はい」
「なら、名は父上が与えたものではないだろう」
なぜそこにこだわるのか、自分でも分からなかった。だが、今のエリアスを形作るもののすべてが、父によるものだとは思いたくなかった。
エリアスはしばらく黙っていたが、やがてごくわずかに表情を和らげた。
「その名を初めて大切なもののように呼んでくださったのは、あなた様でした」
セドリックは、はっと息をのむ。
「僕が?」
「ええ、あなた様がまだ幼くていらした頃です。温室で、私の名を訊かれました」
ふと、記憶の断片が胸の奥で揺れるのを感じた。
――菓子の甘い匂いと、うっすらと血の付いた掌。光を含んだ灰色の花が、こぼれるように咲いていた。
エリアスは、柔らかな面持ちのまま続ける。
「あなた様は、エリアスという名は綺麗だと仰いました」
「……覚えていない」
「承知しております」
エリアスは責めるでもなく答えた。
「私には、忘れられませんでした」
セドリックは目を逸らせなかった。
火に照らされたエリアスは、三十三歳の家令であり、父の愛人だった男であり、同時に、名を綺麗だと言われたことを長く抱えてきた少年でもあった。
「父上は……お前に居場所を与えた。だけど僕は、名を呼んだだけだ」
「あの時、私にはそれが必要でした」
その言葉は静かだったが、セドリックの胸の最も柔らかな場所へ触れた。
幼い自分は、何も知らずにエリアスの心の内へ入っていたのだ。父のように必要だと命じたのではなく、ただ傷を見つけ、名を訊き、綺麗だと言った。その記憶を、自分だけが忘れていた。
セドリックはしばらく、火の中で崩れていく薪を見つめた。
つい先ほど、母の葬儀の日を忘れていたエリアスへ、責めるような声を向けたばかりだった。今度は自分の番だと思うと、胸の内にわずかな居心地の悪さが残る。
それでも、言わずにはいられなかった。
「……どうして、言わなかったんだ。僕が帰ってきた時に」
エリアスを責めるには、声が少し弱かった。エリアスは少し困ったように目を伏せた。
「何と申し上げればよかったのでしょう。あなた様が忘れておられる幼い日の言葉を、私は今も覚えておりますと?」
「……そう言えばよかった」
自分でも、子どもっぽい幼い答えだと思ったが、エリアスは笑わなかった。
「申し上げれば、あなた様を縛ることになると思いました」
「お前は僕を縛っている」
セドリックは即座に言う。エリアスは肩をかすかに強張らせた。
「何も言わないことで、ずっと」
まぎれもない本音だった。
セドリックは自分の手を見る。指輪は濡れた手袋とともに卓の上へ置いてあり、今は何も嵌まっていない。
「父上の傍にいたお前を憎んだ。僕を置いていったお前も、何を訊いても謝るだけのお前も、ずっと憎かった」
「当然でございます」
「父上に縛られていたお前を知ったからといって、すべて許せるわけではない」
「はい」
何を言ってもエリアスはただ肯定する。セドリックが胸の内を吐き出したかったように、エリアスもまた糾弾されるのを待っていたのかも知れなかった。
「僕が傷ついた事実も、お前が僕に何も言わなかった事実も消えない」
「承知しております」
エリアスの声は静かだったが、その静けさに逃げ込ませたくなくて、セドリックは続ける。
「それでも、僕はもう、お前を父上のものとしてだけ見たくない」
エリアスの瞳が揺れた。
言ってしまってから、セドリックは胸の内を見せすぎたと感じた。だが、もう言葉を戻すことはできない。
「お前が何を望み、恐れていたのかを知りたい。父上に何をされたかだけではなく、お前自身が何を選んだのかも」
「私には、あなた様に知られる価値など」
「それを決めるのはお前じゃない」
セドリックはきっぱりと言った。炎の熱だけではない温度で、頬が熱かった。
「少なくとも、僕にとってお前が何であるかを、お前が勝手に決めるな」
エリアスは目を見開いたまま、動かなかった。暖炉の薪が崩れ、火の粉が小さく舞う。やがて彼は、かすかに唇を開いた。
「私は、あなた様に優しくされることが、怖かったのです」
予想外の答えに、セドリックは首を傾げて続きを促す。
「ウォーレン様から求められることは、理解できました。役に立てばよい。望まれた通りに振る舞えば、傍へ置いていただける」
エリアスの唇は震えていた。涙の代わりに、言葉が零れ落ちていく。
「けれど、あなた様は何も求めず、私の傷を見て、痛いのかと訊かれました。菓子を分け与えてくださり、名を綺麗だと仰った。私には、その方がずっと恐ろしかった」
「優しくされることが?」
「返し方が分かりませんでした」
セドリックは黙った。
「ウォーレン様には、奉仕で返せました。けれど、あなた様からいただいたものには、何を返せばよいのか分からなかったのです」
「だから離れたのか」
「最初は、そうではございません。ただ、あなた様が成長なさるにつれ、私は自分が近くにいるべきではないと思うようになりました」
エリアスは長い睫毛に縁どられた瞼を閉じた。
「あなた様に見られた夜、それが決定的になりました。私は、あなた様が最初に私へくださったものを、汚してしまったように思いました」
セドリックの胸がまた痛んだ。
エリアスは、自分の名を綺麗だと言われた記憶を抱えながら、その名を父との関係で汚したと思っていたのだろう。エリアスもこの九年の間、セドリックと同じ痛みに苦しんでいたのかもしれなかった。
「――名は汚れていない」
セドリックは静かに言った。エリアスが目を見開く。
「父上と何があったとしても、お前の名はお前のものだ。僕がそう言ったのなら、今も変わらない」
セドリック自身、幼い頃の言葉を覚えてはいない。それでも、不思議と迷いはなかった。
今、主は自分だ。彼自身がその名を信じられないのなら、何度でも言って聞かせればいい。
「エリアスは、綺麗な名だ」
エリアスは何も言わなかった。ただ、紫紺の瞳に、炎の色とは違う濡れた光が浮かんだ。
それを涙と呼ぶには、あまりにわずかだった。エリアスはすぐに目を伏せ、いつものように表情を整えようとした。
セドリックは顔を背けてやらなかった。だが、寄り添って慰める言葉もかけなかった。
今ここで手を伸ばせば、エリアスはまた家令の顔へ戻ってしまう気がした。だからただ同じ火の前に座り、その沈黙が過ぎるのを待った。
やがて、屋根を叩いていた激しい雨音が少しずつ弱まってきた。
「雨が遠のいております」
呟くその声は、まだ少し掠れていた。
「すぐに戻れるか」
「道の様子を見ます。日が落ちる前には城へ着けるかと」
セドリックは頷いた。立ち上がり、乾ききらない外套を手に取る。エリアスも毛布を畳み、火を消す準備を始めた。
先ほどまでの会話がなかったかのように、いつもの動きへ戻ろうとしている。
「エリアス」
呼ぶと、彼は振り返った。
「今日話したことを、なかったことにするな」
エリアスの表情がかすかに揺れる。
「承知いたしました」
その返事が、家令としてのものなのか、エリアス自身のものなのか、まだセドリックには分からなかった。
それでも、以前とは違う。少なくとも、今度は問いを置き去りにはしなかった。
◇
城へ戻った頃には、すでに日没が迫っていた。
雨雲の切れ間から、赤みを帯びた残光が差し、濡れた城壁を鈍く照らしている。二人が正門をくぐると、厩舎の者たちが慌ただしく駆け寄り、泥に汚れた外套と鞄を受け取った。
セドリックはまず、原種株の土と水を温室へ運ぶよう命じた。採取した花弁と枝は傷まないよう箱へ収め、マルグリットへ届けさせる。
玄関広間へ入ると、城の空気が妙に張りつめていた。使用人たちは声を潜め、セドリックとエリアスの姿を見ると、慌てて視線を伏せる。出迎えたハンナの顔にも、安堵より先に不安が浮かんでいた。
「何があった」
セドリックが問うと、彼女はすぐには答えず、廊下の奥へ目を向けた。
そこにはレジナルドが立っていた。いつもと変わらぬ黒い上着を着ていたが、その面差しには、葬儀の日よりも深い疲労が刻まれている。手には一通の手紙が握られていた。
「叔父上」
「戻ったか」
レジナルドはセドリックではなく、その半歩後ろに立つエリアスへと目を向けた。
「ハロウェイ商会の地方代理人から手紙が届いた」
「債権者からですか」
「ああ。だが、債権そのものの話ではない」
レジナルドは片手で眉間を軽く押さえ、溜息を吐く。
「昨日、私が財産整理の概略を送った。温室も売却候補の一つとして名を挙げてある。ところが今日になって、その扱いを留保するらしいという話が、もう向こうの耳に入った」
「なぜ、そんなに早く」
「兄上の葬儀に参列した者の中に、ハロウェイの代理人と繋がる家の者がいたのだろう。噂は、金の匂いがする場所へ流れるのが早い」
返答するレジナルドの声は低かった。セドリックの背後で、エリアスの気配がわずかに固くなる。
レジナルドが手紙を差し出し、セドリックは慌てて開く。
文面はあくまで丁寧な筆致で綴られていた。
新伯爵が北庭の温室売却を留保する意向であると聞き及んだこと、その判断に家令エリアス・ヴェインが関与しているとの風聞を耳にしたこと、今後の返済計画が当主自身の意思に基づくものか確認したいことが、慎重な言葉で記されている。回答によっては、融資条件と返済猶予を見直すと括られていた。
レジナルドが先に送った整理候補から、温室だけが外れようとしている。その理由を、債権者はすでに疑い始めているのだ。
父を篭絡した卑賤な愛人が、今度は若い息子へ取り入り、領地の財産まで意のままにしようとしている――近郊では、すでにそんな話へ形を変えているのかもしれなかった。
紙を握るセドリックの指に力がこもる。
別邸庭園で灰薔薇の根を見つけ、エリアスの過去へようやく手を伸ばしたその日に二人を待っていたのは、安堵でも希望でもなく、エリアス・ヴェインの名を汚泥の中へ引きずり込むための悪意に満ちた噂だった。
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