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第五章
夜半を過ぎても、書斎の灯は消えなかった。セドリックとエリアス、そしてレジナルドの影が、暖炉の炎に照らされて床の上で揺らめいている。
卓上には、ハロウェイ商会の地方代理人から届いた手紙が広げられていた。脇に置かれた布鞄からは、まだ湿った土と葉の匂いが漂っていた。
「王都の本店からではない。この近隣の市場町の代理人からだ」
レジナルドは暖炉を背にして立っていた。セドリックは、手紙の末尾へもう一度目を落とす。
明日、弔問を兼ねて城へ伺う。
直接的な侮辱はどこにもないが、だからこそ腹立たしかった。
エリアスは扉のそばに控えている。小屋の中で切れ切れに己の過去を語った男は、もういない。そこに立っているのは、主の判断を待つ冷静な家令だった。
「馬鹿げている」
セドリックは低く言った。
「温室を売らないと決めたのは僕だ。エリアスに命じられたわけではない」
「お前が分かっていることと、外からそう見えることは違う」
レジナルドは机上の手紙を指で叩いた。
「明日、代理人が問うのは二つだ。温室を残す根拠。そして、この家の判断が誰のものか」
「……明日は、僕が会います」
「当然だ。だが、ヴェインの同席は許さない」
セドリックが口を開くより先に、エリアスが頭を下げた。
「承知いたしました」
その一言は家令として発されたものだった。丁寧で、少しの乱れもなく、ただ遠い。
セドリックは、小屋の中で聞いた声を思い出す。同じ喉から出ていたはずなのに、あまりにも違うあの声音を。
◇
翌朝、城はいつもより早く動き出した。
代理人を迎えるため、玄関広間には新しい枝が活けられた。葬儀で使われた白百合はもうない。庭から摘まれた淡い緑だけが、控えめに花瓶へ挿されている。女中たちは足音を抑え、従僕は銀器の曇りを何度も確かめた。
その動きには、どこかぎこちない緊張が漂っている。エリアスは不要な疑いを避けるため、その日は自ら表へは出ていなかった。
いつもなら、エリアスの一瞥だけで決まるはずのことが、うまく回っていない。どの茶器を選ぶべきか、誰が代理人の馬車を先導するか、レジナルドの席にどの書類を置くか。小さな迷いが、城の端々でいくつも生まれていた。
セドリックは広間の端に立ち、黙ってそれを眺める。
エリアスがこの空間にいない。それだけのことで、城の呼吸は噛み合わないのだ。彼が支えていたものは、帳簿や鍵だけではないことを、新伯爵は遅れて知った。
馬車は、昼前に到着した。
ハロウェイ商会の地方代理人はサミュエル・クラインと名乗った。彼の黒い外套の裾は雨に濡れている。背は高く、痩せた男で、深く礼をする姿には隙がない。皺のない手袋に、磨かれた靴、細い銀縁の眼鏡を掛けている。商人というより、法律家のような硬い雰囲気をまとっていた。
彼はまず、父の死に対する悔やみを述べた。言葉は丁重で声は穏やかだったが、その礼儀正しさは温かさとはおよそかけ離れている。
応接室で、セドリックとレジナルドが出迎えた。エリアスの代わりに、ハンナが茶を運んできたが、緊張のせいか、カップが受け皿に触れて小さな音を立てた。クラインはそれに気づいても、顔色ひとつ変えなかった。
茶の湯気が、薄く立ちのぼっている。
「お忙しいところ、お時間を頂戴し恐れ入ります」
クラインはそう切り出した。
「先代伯爵様のご逝去から間もない折に、こうしたお話を持ち出す非礼は重々承知しております。ですが、当方も取引先への説明を控えておりまして」
「本題を」
セドリックが促すと、レジナルドが眉を吊り上げた。急ぎすぎたかもしれない。だが、形式的な弔意をこれ以上聞いていられなかった。
クラインは頷いて、膝の上の書類入れを開いた。
「では、率直に申し上げます。噂そのものを問題にしているのではございません」
中から数枚の紙を取り出し、机へ置く。整理可能資産一覧。その写しだった。
北庭温室、という文字が、丁寧な筆跡で書き留められている。
「問題は、どなたのご判断によって、この家が動いているのかという点です」
セドリックは、その一文から目を離さず答えた。
「温室を売却候補から外したのは、私の判断です」
「承知いたしました」
クラインはあっさりと頷く。
「ならば……」
「その判断を支える材料をご提示いただく必要がございます」
遮る調子ではなかったが、きっぱりとした言葉は反駁を許さなかった。
「北庭の温室は、返済猶予の交渉材料の一つとして挙げられておりました。売却を見送るのであれば、代わりとなる返済計画、あるいは温室自体が今後収益を生む見込みを示していただかなければなりません」
「灰薔薇には、香料としての可能性があります」
セドリックの返答に、クラインはわずかに目を見張ったが、すぐには頷かなかった。
「可能性がある、というお話であれば理解いたしました。ですが、当方がこれまで伺っているのは、北庭の温室が希少な薔薇を育てるための施設である、ということまでです」
彼は机上の資産一覧へ視線を落とす。
「それが価値を持つかどうかは、まだ示されておりません。株数、栽培記録、安定供給の見込み。商いとして帳簿に載せるなら、いずれ揃えていただくものです」
クラインは淡々と続けた。
「当方が確認したいのは、その先です。誰がその事業を監督し、責任を負うのか。温室を残す判断が、アシュフォード伯爵ご自身のものとして示されなければ、返済計画の検討には進めません」
セドリックは、返す言葉を探した。
マルグリットが語ったのは、灰薔薇が商いになるための条件だった。今、クラインが問うているのは、その商いを誰が信用するのかということだ。
「今、準備を進めています」
「では、三日間のご猶予を差し上げましょう。四日目の朝、改めて拝見いたします」
あまりにも簡単に言われた。灰薔薇の根を見つけたのは、昨日だ。温室にある株数も、原種株の状態も、修繕費も、まだ何一つ整っていない。昨日まで灰薔薇は、セドリックにとって記憶の中の花でしかなかったのだから。
だが、こちら側の事情は、クラインには関係がないことだった。
「もう一点」
クラインは、別の紙を取り出す。
「温室の硝子修繕を請け負う予定であった職人から、当面は掛けではなく現金での支払いを求めたいとの申し出がございました」
セドリックは顔を上げる。
「なんだと?」
「職人の側にも、仕入れがございますので」
その言葉の意図するところを理解して、セドリックは頬に朱がのぼるのを感じる。
「当家が支払わないとでも?」
「そうではございません。支払い能力と、支払い方針の安定性は別の問題でございます」
安定性。その言葉が、妙に冷たく響いた。
「資産整理の方針が変わったと聞けば、慎重になる者も出ます。今後、橋や外壁の修繕についても、同様の申し出があるかもしれません」
茶は、手をつけられないまま冷めていく。
噂は、すでに形を持っていた。誰かの舌先に乗るだけの醜聞ではない。約束の返事が遅れ、差し出されていた猶予が少しずつ渋られ、これまでなら黙って待ってくれた者たちが、静かに距離を測りはじめる。アシュフォードという名に寄せられていた信用が、雨に滲むインクのように薄れていくのだ。
「つまり、私が温室を残したことで、城の修繕まで滞ると言いたいのか」
「温室を残すこと自体が問題なのではございません。誰が、何のために残すのか。その判断を、債権者が信用できるかどうかです」
クラインは、同じ調子で答える。セドリックは、手元の茶器に添えていた指先に、無意識のうちに力がこもっていることに気づいた。
窓の外で、雨が強くなる気配がした。応接室の壁紙は美しく保たれているが、よく見れば窓枠の下に薄い染みがある。昨夜までは気づかなかった。あるいは、気づこうとしていなかっただけかもしれない。
「四日後、回答をお伺いしましょう」
クラインは淡々と告げた。
「温室を売却候補へ戻すのか。あるいは、温室を残すだけの実利と返済計画を示すのか。その根拠となる一次資料をご提示いただきたい。正式な返済計画の協議はその後に」
そこで彼は、一度言葉を切った。
「加えて、家政と財務の判断がヴェイン氏から独立していることも、確認させていただきます」
エリアスの名が出た瞬間、胸の奥がざらついた。
「エリアスは、不正などしていない」
「セドリック」
レジナルドが制するように口を挟んだが、声が低くなるのを止めることはできなかった。
「その点について、当方から断定するつもりはございません」
「ならば、なぜ」
「ヴェイン氏は先代伯爵様の時代から、この城の帳簿と家政の中枢におられた方です。新伯爵様がご帰還なさって間もなく、その方の管理してきた温室が売却候補から外れた。確認を求めるのは当然でございます」
エリアスが父のものだったように見えた。
かつて自分が抱いたその疑いが、今は商人の冷静な声を借りて戻ってきている。違う、と言い切りたかった。だが、あの夜の記憶はまだ、セドリックの中で完全には過去になっていなかった。
クラインは、セドリックを見ていた。損益を測る静かな目には、侮蔑の色はない。怒りを向けるには、あまりに平らな目をしていた。
「ではまた、改めて伺います。アシュフォード伯爵家としてのご回答をお聞かせください」
彼は立ち上がり、そう告げた。
◇
代理人を乗せた馬車が門を出ていく頃、雨はまた細くなっていた。
セドリックは、応接室の窓からそれを見送った。車輪が濡れた石畳の上を滑るように進み、門扉の向こうへ消える。外套を受け渡すために控えていた従僕が、ほっと息をついたのが見えた。
緊張していたのは、自分だけではない。
レジナルドもまだ部屋にいた。彼は冷めた茶のカップを見下ろし、手をつけぬまま皿へ戻す。
「よく堪えた方だな」
「慰めですか」
「評価だ」
セドリックは、笑おうとしたが、口からこぼれた音は笑いとは程遠かった。
「三日で、温室を売らずに済むだけの材料を揃えろと。無茶を言う」
「向こうは、無茶を言える立場にある」
レジナルドは窓の外へ目をやった。その声音には、悔しさに似たものが滲んでいた。
「温室を売れば、いくらか楽になるだろう。だが根本は変わらない。兄上の代に失った信用が、金だけで戻るわけでもない。残すなら、別の信用を作らねばならない」
別の信用――その言葉は、曖昧なくせに重かった。灰薔薇の価値を示すだけでは足りない。自分がこの城の前に立っているのだと、債権者にも、使用人たちにも、そしてエリアスにも示さなければならない。
「ヴェインをどうする」
レジナルドが言った。セドリックは、はっと顔を上げる。
「どうする、とは」
「今のまま家令として立たせ続ければ、三日後も同じことを問われるだけだ。お前の判断は本当にお前のものか、と」
「外せば、商会は納得するのですか」
「納得はしない。だが、判断の出所は見えやすくなる」
セドリックは窓枠に手を置いた。冷えた木が掌に触れる。
「……エリアスは、この城を支えてきました」
「だからこそだ」
その返答は、昨夜と同じだった。
「有能な家令を傍に置くのは楽だ。彼はお前が知らないことを知り、お前より先に動き、失敗の穴を埋めるだろう」
その通りだった。すでに何度も、エリアスはそうしていた。部屋の茶、手袋の向き、温室の鍵、灰薔薇の記録。セドリックが何かを言う前から、彼は必要な場所にいた。
「だが、それでお前はいつ当主になる」
レジナルドの声は低い。セドリックは叔父を見返すことができずに顔を背けた。
「そしてヴェインは、いつ家令でない自分を持てる」
その言葉は、怒鳴られるよりも深く刺さった。
必要だ、と言えば、エリアスは戻る。その甘さが、父の与えた鎖と同じ形をしていることを、セドリックはもう知っていた。
「……外すしかないのですか」
「決めるのは、お前だ」
レジナルドは、それだけ言った。
その言葉は、この城へ戻ってから何度も突きつけられている。温室、灰薔薇、そしてエリアスをどう扱うのか。そのすべてに、セドリックは自分の印章を押さなければならない。
父が死んだからではない。
もう、逃げることを許されないからだ。
◇
エリアスは温室にいた。
セドリックが北庭へ向かうと、硝子の向こうに黒い影が見えた。棚の前に立ち、薄紙に花弁を挟んでいる。今は白手袋ではなく、作業用の手袋をしていた。隣の卓には、小瓶と帳面が並べられている。
扉を開けると、湿った温気と花々の香りが頬を撫でた。
エリアスは気配に気づいてすぐに振り返る。
「旦那様」
セドリックはゆっくりと歩を進めた。
「まだ作業をしていたのか?」
「マルグリット様へお渡しする試料を整えております。昨日採取したものは、香りが落ちる前に処理した方がよいので」
彼の声はいつも通りに穏やかで、そのことが、セドリックには耐えがたかった。
代理人の言葉も、レジナルドの助言も、城内のぎこちなさも、すべてがこの温室の外で起きている。その間にもエリアスは、灰薔薇の花弁を一枚ずつ紙に挟んでいる。誰かの役に立つために。必要とされるために。
何も知らないわけではないのに。
「代理人は、何と」
エリアスが尋ねた。セドリックは答えず、卓の上の薄紙を見た。灰薔薇の花弁は、摘まれた後でも色を失っていない。淡い銀灰色が、紙の上で静かに光る。
「三日以内に、温室を残す理由を示せと言われた。それと、家政と財務の判断が、お前から独立していることも」
エリアスの指が止まった。花弁に触れていた指先が、一瞬だけ宙をさまよい、すぐに紙の端を整え直す。
「必要であれば、私は」
セドリックは口を開きかけた。
城を去るなどと言うな、勝手に自分を差し出すな。そんなふうに、また彼を責める言葉が喉元まで込み上げる。
だが、そこで止めた。以前の自分なら、そのまま怒鳴っていただろう。エリアスが目を伏せ、謝り、また家令の顔へ戻るまで、言葉を重ねていたかもしれない。
それでは、何も変わらない。
「……城を去れとは言っていない」
低く、けれどできるだけ乱さずに、セドリックは言った。
「お前を罰したいわけでもない。僕が示さなければならないのは、僕自身の判断だ。だから――調査が終わるまで、お前には家令の職を離れてもらう」
エリアスは、しばらく何も言わなかった。やがて手元の薄紙をゆっくり閉じる。
「……では、こちらの試料は、どなたにお預けすればよろしいでしょうか」
問われたのは、花弁の行方だった。そのことが、セドリックの胸を深く刺した。
「僕が預かる」
「かしこまりました」
エリアスは頷き、紙束を揃える。乱れた花弁を一枚ずつ直していくその指先は、いつも通りに正確で、そうあろうとしていることが、痛ましかった。
その指先を見つめながら、セドリックは喉まで出かかった言葉を飲み込む。
必要だと言えば、エリアスはきっと戻ってくる。何も尋ねず、何も望まず、ただ役目のある場所へ。
だからこそ、今は言えなかった。
静かな温室の中には、灰薔薇の香りだけが満ちている。
◇
マルグリットが来たのは、その少し後だった。
彼女は手に小さな革の帳面と、昨日の試料を挟んだ紙束を持っている。温室へ入るなり、セドリックとエリアスの間に落ちた沈黙を見て、足を止めた。
それでも、彼女は何も尋ねなかった。
「灰薔薇の香りについて、急ぎ確認したいことがございます」
そう言って、いつもの穏やかな調子で卓に紙束を広げる。試料ごとに短い記号が振られ、横には香りの残り方が書きつけられている。雨の日、温室内、北の谷、原種株。まだ断片的な記録にすぎないが、彼女の字はどれも迷いがなかった。
「北の谷で採った花弁は、温室のものより香りの芯が強いですわ。こちらは、商会に見せる価値があります」
「リヴィントン商会へ?」
「はい。ただし、紹介状だけでは足りません。原種株の状態、来年以降の採取見込み、温室で増やせる可能性、修繕に必要な費用。すべてでなくとも、最初の形は必要です」
それは、そのままクラインへの返答に必要な材料でもあった。三日という期限が、セドリックの中であらためて重くなる。
マルグリットはエリアスの方を見た。
「ヴェイン様、温室の記録はどちらに?」
「家令室の保管棚にございます。必要なものは、すぐに」
言いかけて、エリアスは口ごもった。先ほどまで自然に出ていた「私がお持ちいたします」という言葉を、途中で飲み込んだのだ。
マルグリットも気づいたらしいが、何も言わなかった。ただ、視線をセドリックへ移す。
「では、セドリック様にお願いする形でよろしいでしょうか」
「はい」
セドリックは答えた。
「記録は、僕が確認します」
その言葉を口にした瞬間、エリアスの指が、紙束の端を強く押さえた。ほんの小さな動きだったが、セドリックには、何かを手放す前のためらいのように見えた。セドリックは、胸が痛むのをこらえる。痛むからといって、撤回するわけにはいかない。
マルグリットは、余計なことを言わずに帳面へ一行を書き足した。
「では、私はリヴィントン商会への書き出しだけ整えておきますわ。正式な試料を送るには、もう少し材料が必要です」
「ありがとうございます」
セドリックが礼を言うと、マルグリットは帳面から目を上げずに微笑んだ。
「その価値があると思ったからですわ」
そして、卓上に並ぶ花弁を一枚だけ持ち上げる。鼻先へ近づけ、目を伏せた。セドリックもエリアスも、しばらくその動作を見ていた。
「摘んだ直後より、少し置いた方が輪郭が出ますわね。商会へ見せるなら、この変化も記録に入れましょう」
マルグリットは花弁を紙へ戻す。
「急ぎません。今夜でなく、明朝までに拝見できれば十分です」
彼女はそれだけ言って、温室を出ていった。
追及も慰めもなかったが、その気遣いが、かえってセドリックにはありがたかった。
◇
その日の夕刻、エリアスは自ら、家令室に保管されていた鍵箱を持って書斎へ現れた。
深い色の革張りの箱の中には、大小さまざまな真鍮の鍵が、用途ごとに束ねられていた。古いものは縁が摩耗し、いくつかには小さな札がつけられていた。家令室、帳簿棚、南倉庫、使用人棟、銀器庫、そして――温室。
その一つ一つが、彼の仕事だったのだろう。
書斎には、セドリックとレジナルドがいた。外はすでに暗く、窓硝子には部屋の灯がぼんやり映っている。机の上には、ハロウェイ商会の書状と、温室の記録を写すための白紙の束が置かれていた。
エリアスは机の前で立ち止まった。白手袋の手が、鍵箱に恭しく添えられている。
「本日より、調査が終わるまでの間、家令としての職務を解く」
告げたセドリックの声は硬かった。硬くなければ、崩れてしまいそうだった。
「帳簿、鍵、支出、人事の管理は、当面、僕と叔父上が預かる。使用人への指示も、僕か叔父上を通す」
「かしこまりました」
エリアスは答えたが、その声を聞いた瞬間、セドリックは言葉を重ねたくなった。そうではない。そんな返事が欲しいのではない。家令として承るな、と。
だが、今ここでそれを言っても、エリアスをさらに追い詰めるだけだと分かった。彼はまだ、そのほかの返事を知らないのだから。
「出ていけという意味じゃない」
セドリックは再び告げる。レジナルドの前で自身の考えをはっきりと示しておきたかった。
エリアスは、何かを答えようとして、やめた。唇が小さく動き、閉じられる。
セドリックは、ふと彼の手元を見た。鍵箱を支える指が、白手袋の上からでも分かるほど強張っている。
この鍵を返すことが、彼にとってどれほどの意味を持つのか。セドリックはようやく、それを肌で理解した。エリアスにとってこれは、ただ職務を止められたというだけではない。
食事には労働を、寝床には忠誠を、居場所には服従を。
彼が自分を成り立たせてきたものを、一度すべて手放して机の上に置けと言っているのだ。
「……私は」
静けさの中にエリアスの声が落ちた。レジナルドも、何も言わなかった。
「家令でなくなれば、何者なのでしょう」
問いは、誰かに答えを求めるものではなかった。言ったエリアス自身が、その言葉に触れてしまったことに初めて気づいたというように、わずかに息を止める。
セドリックは、固く拳を握った。今、答えを与えれば、たぶん間違えてしまう。
お前は僕にとって大切な存在だ。ここにいてほしい。お前が必要なんだ。
どれも偽りなく本当だった。けれど、そのどれもが今のエリアスには軛になるのかもしれなかった。
「今は、分からなくていい」
セドリックは言った。顔を上げたエリアスの瞳は、幼い迷子のような色をしていた。
「分からないまま、ここにいろ。答えを急がなくていい」
エリアスは長く沈黙し、やがて、両手で持っていた鍵箱を机の上へ置いた。
じゃら、と、鍵の擦れる音がする。さほど大きな音ではなかったが、書斎の沈黙を破るにはそれだけで十分だった。
「……承知いたしました」
エリアスは静かに言った。その返事は、まだ家令のものだったが、声の底にわずかな余白があるように思えた。
彼は深く一礼し、書斎を出ていく。
扉が閉まるまで、セドリックは動かなかった。追いかけたいと思った。手を掴み、違うのだともう一度言いたかった。失うためではない、捨てるためではない、そう何度でも。
だが、それでは何も変わらない。
セドリックは、箱の中の鍵束へ手を伸ばした。冷えた真鍮が掌に触れる。印章指輪とは違う重みだった。父から継いだものではない。エリアスから預かったものだ。
手の中で、鍵がかすかに鳴る。
扉の向こうへ消えた足音はすぐに聞こえなくなったのに、その小さな金属音だけが、いつまでも耳の奥で響いていた。
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