7 / 11

第六章

 異変に気づいたのは、朝食の少し前だった。セドリックは夜明け前に一度目を覚まし、そのまま浅い眠りへ戻ることもできず、天蓋の布越しに薄く滲む朝の気配を眺めていた。  窓の外では、雨がまだ降り続いていた。今年の春時雨はいやに長い。石造りの城館のあちこちから、しんとした冷気が染み入ってくるようだった。  寝台の脇には、いつも通り朝の支度が整えられていたが、セドリックはそれを見てわずかな違和感を抱いた。  少し前なら、その違いに気づかなかっただろう。湯も衣服も、必要なものは揃っている。それだけを当然のように受け取っていたはずだ。だが今朝は、手巾の折り目がかすかに浅いことや、靴の向きが半歩分外側を向いていることまで目についた。  セドリックは身を起こし、寝台を抜け出る。  昨夜、書斎の机に置かれた鍵箱の音が耳に蘇った。じゃら、と小さく鳴った金属音。自分を成り立たせてきたものを机の上へ置いた男の顔が脳裏を過る。  セドリックは彼に答えを与えなかった。彼の去就を自分が決めたくないと考えてのことだったが、エリアスはその言葉をどう受け取っただろうか。今になってそのことが、セドリックの眠りを妨げていた。  身支度を整えたところで、扉が控えめに叩かれた。 「入れ」  盆を持った若い従僕が入ってくる。普段なら用を終えたらすぐに退くはずの彼は、茶器を卓上へ置いたあとも、その場から動かなかった。目線は落ち着かず辺りをさ迷い、おろおろとセドリックの顔色を伺う。 「どうした」 「……旦那様、家政婦長のハンナが、至急お耳に入れたいことがあると」 「ハンナが?」  何事にも控えめな家政婦長の名が出たことで、セドリックの胸騒ぎはいっそう激しくなった。 「用件は」 「いえ……その……」  狼狽える従僕を前に、セドリックは声の調子を和らげて告げる。 「落ち着くんだ。何かあったなら教えてくれ」  従僕は顔を上げてセドリックの目を真っ直ぐに見る。その表情は困惑に歪んでいたが、意を決したように口を開いた。 「ヴェイン様が……今朝からお見えになりません」  セドリックは、息を呑んだ。  意味はすぐに分かった。分かったからこそ、言葉にすることが出来なかった。指先が冷えるのを感じて拳を握り込む。 嫌な予感は現実となったのだ。 「家令室は整えられております。衣類も、書類も、ほとんどそのままで。ただ、外套と鞄がございません。夜明け前、裏門を出られたと門番が申しております」 「行き先は」 「承っておりません」  若い従僕は、叱責を待つ者の顔をしていた。  セドリックは椅子の背に掛けられていた上着を取った。手元が震え、一度だけ釦を掛け違える。 「ハンナと、叔父上を呼べ。裏門の番をしていた者にも、あとで話を聞きたい」 「かしこまりました」  従僕が退くと、部屋にはまた雨音だけが残った。  セドリックは卓上の手袋へ目を落とした。整えられてはいるが、エリアスの手によるものではない。これまで目に見えなかった差異が、今朝は不意に輪郭を持っている。  エリアスは消えた。だが、逃亡ではない。 それだけは確信できた。逃げるためなら、もっと楽なやり方があったはずだ。鍵を持ち出し、帳簿を抱え、誰にも告げずに姿を消せばよかった。だがエリアスは、城の扉を開く権限をすべて置いていった。  彼は、家令として使えるものを一つも持っていかなかった。  何をしに、どこへ。  その答えはまだ分からない。けれど、エリアスが何もかもを捨てて去ったのではないことだけは、セドリックにも分かっていた。  ◇  書斎へ着くと、レジナルドは珍しく葉巻を燻らせていた。細い紫煙が棚引き、わずかに甘い香りが漂っている。  昨夜と同じ机の上に、鍵箱が置かれている。蓋は開かれていたが、大小の鍵束は整然と用途ごとに分けられたままだった。その乱れのなさは、かえって人一人の不在を際立たせている。  ハンナは扉の近くに控えていた。顔色を失い、身を竦めるようにして主人たちを見比べている。 「夜明け前、と言ったか」  レジナルドが尋ねると、ハンナは頷いた。 「はい。裏門の番をしていたジャイルズが、明るくなる前にお姿を見たと。旅外套をお召しで、小さな鞄を一つお持ちだったそうです」 「止めなかったのか」  セドリックの声は、思ったより鋭く響いた。ハンナが丸い肩を縮こまらせて答える。 「申し訳ございません。ですが、ヴェイン様は……その、いつも通りでいらっしゃったと申しますか、落ち着いておられたそうで」 「いつも通り……」  セドリックは繰り返した。  ハンナは言葉を選ぶように、手を胸の前で重ねた。 「はい。ただ、裏門を通る前に、厨房へ朝の支度の順を伝え、家政の当面の指示を書いた紙を私の机へ残しておいででした。鍵は使われておりません。裏門も、ジャイルズに開けさせたと」 「他に書き置きはなかったのか」 「旦那様宛てのものは、ございません」  その答えに、セドリックは唇を引き結んだ。  書き置きがないことに傷つく資格が、自分にあるのだろうか。昨夜、答えを与えなかったのは自分だ。命じず、縛らず、分からないままでいろと言った。その曖昧さの中で、エリアスは自分の行き先を、誰にも告げなかった。 「北へ向かったと聞いたが」  レジナルドが問うと、ハンナは顔を上げ、ジャイルズがそのように申し上げました、と言ってまた俯いた。  北。  北の谷、旧別邸庭園、原種株。峡谷へと共に辿った道と、その帰りに小屋で聞いた雨音が、セドリックの中で一つに繋がる。エリアスがどこへ向かったのか断言はできないが、少なくとも先ほどまでの闇雲な不安とは違った感情がセドリックに兆した。 「追うのか」  その動揺を見透かしたようにレジナルドが問うた。セドリックは額に手を当てて黙り込む。  本音を言えば、すぐにでも北の道へ人を出したかった。  エリアスが無事なのか、どこへ向かったのか、何をしようとしているのか。確かめたいことはいくつもあった。けれど、それは「戻れ」と命じたいからではない。  エリアスは逃げたのではない。何かをしに行ったのだ。鍵を置き、家令としての権限を置き、それでも城の外へ出た。あの男が何も考えずに姿を消すはずがないことだけは分かっていた。  ならば、今セドリックがすべきことは、彼を追いかけることではない。  エリアスが自分の足で歩き出したのなら、自分もまた、彼のいない城で立たなければならない。待つとは、ただ何もしないことではない。戻ってきたエリアスを、また家令という役目へ押し戻さずに済むだけの場所を、こちら側に作っておくことだった。 「――いいえ」  短く答えてから、自分でもその響きを確かめる。 「今、追えば、僕はまたエリアスを家令として連れ戻そうとしてしまう。あの男が自分の名で何かをしようとしているなら、僕はそれを待ちます」  叔父は目線だけで頷くと葉巻の火を消し、机上の帳簿を引き寄せた。 「待つだけで済むと思うな。三日後には、クラインが来る。ヴェインがどこへ行ったのかは知らんが、こちらはこちらで準備を進めるしかない。あの男がいなくなった途端に城が止まるなら、ハロウェイ商会の疑念は正しかったことになる」  セドリックは頷く。渦巻く怒りも不安も、今はすべて脇へ置かなければならない。時間が限られている以上、自分にできることをするしかないのだ。 「ハンナ」  セドリックは、できるだけ声を平らにして言った。 「今朝エリアスが残した指示書きを持ってきてくれ。それから、庭園、厨房、厩舎、銀器庫、使用人棟の責任者を順に呼ぶ。今後の指示は、僕か叔父上を通す」 「はい」 「ただし、急に手順を変えて混乱させるな。エリアスのやり方を知っている者には、そのまま続けさせる。分からないことだけ上げてきてくれ」  ハンナが驚いたようにセドリックを見たが、セドリック自身もまた驚いていた。命じることは、声を荒らげることとは違う。今ようやく、その境目に指先が触れた気がした。 「かしこまりました」  ハンナが退くと、レジナルドがわずかに口角を動かした。 「悪くない」 「……褒めるなら、もう少し分かりやすくお願いします」 「調子に乗るな」  それだけ言って、叔父は帳簿を開く。 「まずは《北部峡谷・水路維持費》だな。クラインが見れば、必ず突くだろう」  セドリックも椅子に掛け、自領の負債を覗き込む。  昨夜までそこに立っていたエリアスの姿が、ふと視界の端を掠めた気がした。白手袋の手と低く乾いた声。必要な箇所を、迷わず示す指先――。 だが今、帳簿をめくるのはセドリック自身だった。  彼は指輪を嵌めた手で、重い頁を捲る。  ◇ 《北部峡谷・水路維持費》の項目は、すぐに見つかった。  十年分の支出を並べると、その不自然さは以前よりもはっきり見えた。額は大きくないが、毎年ほぼ同じ時期に途切れず支払われている。橋の補修や暖炉の修繕が先送りにされる一方で、北の水路だけは、細い糸のように金を受け取り続けていた。 「この水路は、現在も領地に必要なのですか」  セドリックが尋ねると、レジナルドは古い地図を広げた。 「昔は必要だった。北の谷から下の畑へ水を引くための水路だ。だが主要な農地が南へ移ってからは、ほとんど使われていない。兄上にも、何度か廃止か整理を勧めた」 「父上は何と」 「何も」  レジナルドは乾いた声で言った。その声の調子に、兄弟間の軋轢が垣間見え、セドリックは黙って帳簿へ目を戻した。  水路番への手当、北谷小屋の屋根補修、道の倒木処理、石積み確認、古庭園周辺の下草刈り、庭師謝礼――。  水路維持費と呼ぶには、いくつかの支出が妙に庭へ寄っている。だが庭園費として立てられているわけではない。あくまで水路に関する費用として、他の支出の隙間に紛れていた。 「このままだと、エリアスが不審な支出を隠していたように見えます」 「そう見えるだろうな」 「叔父上は、彼が私腹を肥やしていたと思いますか」 「思わん」  即答だった。  セドリックは思わず顔を上げた。レジナルドがエリアスに甘い目を向けているとは、一度も思ったことがない。むしろ叔父は、エリアスという存在がこの家に落とす影を誰より冷静に見ている。そのレジナルドが、疑う余地もないように言い切った。  胸の内側で、張りつめていたものが少しだけ緩む。  セドリックはその安堵を恥じた。エリアスがそんなことをするはずがないと信じていたつもりだったが、叔父の一言に救われた時点で、心のどこかに疑いではなくとも、恐れがあったのだと知ってしまった。  レジナルドは、セドリックの反応に気づいたのか、気づかないのか、帳簿の数字を見たまま続ける。 「兄上の死後、私は一通り帳簿を見た。ヴェインは自分のために金を抜くような男ではない。むしろ使用人の給金と城の最低限の維持だけは、どうにか守ろうとしている。問題は、そのやり方が外へ説明できる形になっていないことだ」 「説明できない正しさは、不正と同じに見えるということですね」 「分かっているならいい」  淡々と返され、セドリックは帳簿へ目を戻す。  エリアスは不正をしていない。少なくとも、レジナルドはそう見ている。  その事実に救われながらも、セドリックは同時に思い知っていた。救われているだけでは足りない。外の者にもそう見える形へ、整え直さなければならないのだ。  その時、扉が叩かれ、トマスが通された。老庭師は作業着の上に古い外套を羽織っている。朝の仕事の途中で呼ばれたらしく、靴の縁には湿った土がこびりついていた。  彼はセドリックへ礼をした後、帳簿へ一度だけ目をやった。 「北の谷のことでございますかな」  トマスがそれに思い至っていたことに驚いて、セドリックは庭師の顔を見る。 「分かるのか」 「ヴェイン様が城を出られたと聞きましたので。今のあの方が向かわれるとすれば、そこしかありますまい」  その一言で、セドリックの中にあった予感がはっきりとした形を持った。  エリアスが向かった先を、トマスもまた同じように考えている。ならば、あの不在はやはり、何もかもを捨てたものではない。北部峡谷へ細く続いていた金の流れと、今朝のエリアスの不在が、ようやく一本の線になった。 「旦那様、北の谷にあるのは、ただの古い水路ではございません」  トマスは、帳簿の頁へと目を落とす。 「ご覧になりましたかな。別邸庭園は、アシュフォードのすべての薔薇に繋がる祖の地なのです。昔は人の手も入っておりましたが……」  セドリックは庭園を思い浮かべながら頷いた。 「……父上は、もう顧みていなかった」 「はい。少なくとも、ここ数年は」  トマスも首を縦に振る。 「ですが、北部峡谷への支出だけは途切れておりませんでした。水路維持費という名目は、完全な偽りではございません。道が塞がれば谷へ降りられなくなりますし、水の流れが変われば、古い庭の土も痩せます。けれど実際には、あの場所を完全に失わないための費用でもございました」 「誰が、それを――」  答えは分かっていたが、セドリックは尋ねずにはいられなかった。 「ヴェイン様でございます」  その名を聞いた途端、セドリックの手が帳簿の上で強く握られる。  やはり、と思った。ウォーレンが見捨てた後も、北の谷への細い道だけは残されていた。領地の誰もが忘れかけた庭へ、年にわずかでも金が流れ続けていた。その道筋をつけていたのがエリアスだと、トマスもまた知っていた。 「なぜ、彼は僕に言わなかったのだろう」  問いはトマスに向けたものではなかった。それでも老庭師は、少し間を置いて答えた。 「言えば、ご自身が守ってきたと認めることになるからではありませんか」 「それがなぜ悪い」  セドリックが問うと、トマスは目を細めた。 「悪いことではございません。ですが、ヴェイン様はそういうふうに物を持てない方です。先代様のご意向だ、必要な支出だと、そのようにしか仰らなかった」  トマスの声は責めるものではなかった。長いあいだ黙って枝葉の具合を見てきた者が、ようやく土の下を指し示すような声だった。 「灰薔薇は、放っておけば失われておりました。温室の花も、北の谷の根も。あの方は、それを細く繋ぎ止めておいでだったのです」  細く繋ぎ止めていた。  その言葉に、セドリックは北の谷で見た雨の中の原種株を思い出した。荒れた旧庭園の片隅に、まだ生きていた灰色の花。誰かが完全には見捨てなかったから、そこに残っていたもの。  エリアスは、それを守っていた。  その事実だけなら、セドリックはきっと救われていた。父の影の下にあったものが、すべて父の気まぐれや執着ではなかったと知ることができたのだから。  だが同時に、その守り方はあまりに危うかった。  父の名のもとで、帳簿の項目に紛れ込ませ、ただ支出だけを続けていた。エリアスにとっては正しくとも、外から見れば、それは隠された金の流れであり、説明のつかない支出だった。  クラインがそこを突けば、灰薔薇を守ってきたはずの行為そのものが、今度はエリアスを疑わせる理由になる。 「正しいやり方ではない」  セドリックは低く言った。  守るための沈黙が、彼を傷つける刃に変わろうとしている。  そのことが、腹立たしかった。エリアスに対してではない。そんな形でしか大切なものを残せなかった年月に対して、そしてそれを知らずにいた自分に対して。 「はい」  若い主の怒りに触れても、トマスは否定しなかった。ただ、淡々と諭すように言う。 「誤りの形をしているからといって、その中に何もなかったことにはなりません」  セドリックは何も返せなかった。トマスは、ふと温室の方角へ目を向ける。 「若君がお戻りになる前から、ヴェイン様は灰薔薇をよく見ておられました」 「父上のためにか」 「それも、あったでしょう。ですが、それだけではないように思います」  トマスの目元に、かすかな笑みが浮かんだ。 「剪定のたびに、落とした枝を捨てるなと仰るのです」 「枝を?」 「はい。細すぎて挿し木には向かないものまで、一本ずつ見ておられました。私が、そんな枝まで残していては作業場が薔薇で埋まりますぞ、と申しましたら、たいそう真面目な顔で」  トマスは、その時の声を思い出すように少し間を置いた。 「『枯れると決まるまでは、捨てる理由にはなりません』と」  セドリックの脳裏に、見たことのない光景がふとよぎった。  まだ家令になる前のエリアスが、温室の片隅で切り落とされた細い枝を手に取っている。トマスに呆れられながらも、捨てるには早いと真顔で言い張る、若い下男の姿。  それは、父の傍にいた男でも、あの夜に自分を追いかけてきた男でもなかった。  セドリックの知らない時間を、この城で生きていたエリアスだった。  その事実は、不思議な重みを持って胸の底へ沈んだ。寂しさとも、羨望ともつかない。けれど、九年という歳月がただ空白だったわけではないのだと、今さらのように思い知らされた。  セドリックが父とエリアスから目を逸らしていた時間の中で、エリアスはただ父の影として存在していたわけではない。この城で、誰かに名を覚えられ、褒められたりからかわれたりしながら、働いていたのだ。花を育み、帳簿をつけ、やがて誰もに頼られる家令となってからも、密かに北の谷への道を細く保っていた。  それを知らなかったのは、セドリックの方だった。 「トマス、北の谷に関わった者の名を、分かる範囲で書き出してくれ。庭師、道を見た者、水路を確認した者、手当を受け取った者。誰が今も話せるかも知りたい」 「かしこまりました」 「それから、旧別邸庭園の地図を出せるか」 老庭師は、古いものでしたら、と頷く。 「それでいい。クラインに見せよう。水路維持費が、ただの不審な支出ではなかったと説明するには、僕の言葉だけでは足りない」  セドリックは一度言葉を切ると、 「頼む」  と懇篤な調子で告げる。トマスは応えて深く頭を下げた。 「承知いたしました」  その返事を聞きながら、セドリックはようやく、自分が少しだけ息を継げたことに気づいた。  エリアスを追うのではなく、エリアスが残したものを追う。今の自分に許されているのは、おそらくそれだけだった。  ◇  一日目は、帳簿と人の名を拾うだけで暮れていった。  城は、ぎこちないながらも動いている。  厨房からは指示を仰ぐ使いが来て、馬丁は修繕に回す馬車の優先順位を尋ねた。銀器庫の女中は、誰から鍵を受け取ればよいのか分からず、書斎の前で立ち尽くしていた。  今までなら、そうした乱れはエリアスが先に整えていたのだろう。  セドリックはハンナから預かった指示書を頼りに、一つずつ自分の言葉で命じた。すべてがうまくいっているとは言い難いが、何とか機能している。  エリアスがいなければ何も動かない城にはしない。そう決めて、セドリックは鍵箱を閉じた。  夕刻になって、レジナルドが書斎へ古い書類箱を運び込ませた。ハーグリーヴズが退職する前に整理したものの残りだという。箱の表面には埃が厚く積もっており、革紐は乾いて硬くなっていた。 「これも見ますか」 「見る。どうせ今夜は眠れんだろう」  レジナルドは当然のように言った。  セドリックは反論しなかった。眠れる気はしなかったし、眠ろうとすれば、北へ向かったエリアスの姿ばかり思い浮かぶだろう。ならば少しでも紙の上に目を落としていた方がいい。  箱の中には、領地の修繕計画、使用人の給金表、王都の屋敷に関する書簡、古い請求書などが入っていた。レジナルドと二人で分類しているうちに、セドリックは一束の控えを見つけた。  革紐で綴られたその束の表紙には、“王都へ送付した物品の記録”と記載されている。  何気なくめくってみると、最初に出てきたのは、法律書の請求書だった。土地契約に関する新版、判例集、財産管理に関する書物。差出人は王都の書肆で、支払いはアシュフォード伯爵家名義で行われている。  添えられた控えには、細い筆跡で注記があった。 “第三巻は既に所持。新版のみ手配”  セドリックの指はぴたりと止まった。  彼はその手跡を、既に知っていた。帳簿の木札、温室の記録、昨夜の鍵箱に添えられていた目録。整いすぎて感情を読ませない、エリアスの文字だった。 「叔父上」  呼びかけると、レジナルドが横から覗き込む。 「ヴェインの字か」  セドリックは次の控えをめくった。  革の手袋。冬用の外套。書きつけ用の手帳。どれも父の名で王都へ届いたものだった。品そのものは、特別に気の利いた贈り物というほどではない。色形は、時にはセドリックの好みから外れていた。革の手袋は最初、縫い目が硬かったし、外套の襟は少し高すぎた。  それでも、捨てることはできなかった。  父から届いたものだと思っていたからだ。腹立たしく、今さら何をという思いもあったが、ひとり王都で暮らすセドリックにとって、それは数少ない、アシュフォードとの繋がりを示すものであった。  家に帰ることはできず、父へ手紙を書いても、返事は短く素っ気ない。  それでも季節の変わり目になると、丁寧に包まれた贈り物だけが届く。セドリックは、それを使う度に二つの感情に揺れていた。父を慕う心と、憎み疎んじる心だった。  だが、あの品々を選んでいたのは父ではなかった。  控えの端には、さらに小さな文字で注記がある。 “前回の手袋、右指先に傷みあり” “王都屋敷の管理人より、雨天の外出多しとの報告” “仕立屋の採寸控えを確認。肩幅、昨年より調整”  エリアスはきっと、王都のセドリックを見ていたのではない。城を離れ、遠く隔たった少年の好みすら知らなかっただろう。届いた請求書や、管理人からの報告、仕立屋の控えを一つずつ拾い、そこから必要なものを選んでいただけだ。 それでも、あの谷の斜面で、迷いなく手を引いた指と、この細い文字は、同じ手から生まれたのだ。  その手は父の名を借りて確かに届いていた。家令の仕事の中に紛れ込ませ、セドリックが拒まずに受け取れる形へ、注意深く姿を変えて王都での生活の助けとなっていた。  セドリックは紙を持つ手に力を込める。 「僕には……父上の名で届いていたんです」 「そうだろうな」  レジナルドは、顎に手をやってセドリックを見つめた。 「ヴェインの名で送れば、お前は受け取らなかっただろう」  その通りだった。もし差出人がエリアスだったなら、セドリックは封すら切らなかったかもしれない。あるいは、怒りのまま送り返していただろう。そこに父の名があったから受け取った。やりきれない思いを抱えたまま、それでも使っていた。  エリアスはそれを分かっていたのだ。自分の名では、何も差し出せないことを理解していた。父の名を使った優しい嘘でしか、セドリックへ手を伸ばせなかった。  それは正しくない。  それでも、その不器用さを一息に断じることができなかった。 「腹が立ちます」 「何に」 「全部にです」  セドリックは紙束を机に置く。 「僕に言わなかったことにも、父上の名を使ったことにも、それを知って少し救われたように感じている自分にも」  レジナルドは何も言わなかった。慰めも叱責もなく、ただ待っている。 「……僕は、完全に忘れられていたわけではなかった」  その言葉を口にすると、思っていたよりも深い場所が軋んだ。  九年の空白が消えるわけではない。十三歳の夜に温室から逃げ出し、馬車に乗せられて、エリアスを置いて去った自分が、まだどこかにいる。父を、エリアスを憎み、けれど誰よりも彼の声を待っていた少年を簡単に消し去ることはできなかった。  だが、その九年が、無関心だけでできていたわけではなかった。  見えない場所から差し出されていた手を、自分は父のものだと思い込んで拒絶していた。  レジナルドが、静かに紙束をまとめる。 「セドリック」 「はい」 「あれが戻っても、声を荒げるな」  あまりに直截な言葉に、セドリックは顔を上げた。 「僕はそこまで子どもでは」 「あるだろう」  即答だった。 「お前は傷つくと、相手を傷つけてから後悔する。ヴェインは傷つくと、自分を罰するように働く。二人でそれを繰り返せば、いくらでも不幸になれる」  セドリックは耳が熱くなるのを感じる。叔父の言葉は鋭いが、的外れではなかった。むしろ、あまりに本質を突いていた。 「何をしてきたのか聞け。その上で必要なら責めてもいい。だが、戻った瞬間に『なぜ黙って出た』と切りつけるな。言葉を選べないなら、黙って書類を受け取れ」 「……難しい時もあります」 「訓練しろ」  レジナルドは何事でもないように言った。  セドリックは、机の上の鍵箱を見る。昨夜、エリアスが置いた鍵と、今朝のエリアスが残した不在。父の名で届いた贈り物の控え、北の谷へ流れ続けた細い支出――。  それらは、どれも言葉ではなかった。  エリアスは、言葉にする代わりに、物を残してきたのだ。鍵、記録、花、贈り物。 ならば自分は、言葉でまた彼を傷つける前に、まずそれらを確かめなければならないのかもしれない。  ◇  翌朝、セドリックは城の中だけでなく、領地に関わる書類へ目を通した。  従僕が運んできた箱に収められていたのは、城内の備蓄の控えだけではなかった。 借地人からの地代減免に関する訴え、老朽化したアシュフォード所有の小家屋の修繕願い、救貧院への石炭代といったものに始まり、村の消防隊への寄付や、母が手掛けていた少女たちの家事学校の教材費の控えまで入っていた。 いずれも大きな額ではない。だが止めてしまえば、最初に困るのは城ではなく、領地の端で暮らす者たちだった。  ウォーレンはそれらをほとんど見ていなかったのだろう。少なくとも近年の書類には、父の筆跡は少ない。代わりに、支払いの延期や、修繕箇所の優先度についての指示、救貧院の石炭は減らさないこと、消防隊への出資は来季まで維持すること――そんな細かな指示が、エリアスの字で残されていた。  家令の仕事、と言ってしまえばそれまでだ。  けれどセドリックは、紙の束を前にして、初めてその重さを知った。エリアスが整えていたのは、銀器庫の鍵や食卓の順だけではなかった。伯爵家という大きな器の底からこぼれ落ちそうなものを、見えないところで拾い続けていたのだ。  セドリックは、いくつかの支払いを保留から実行へ移した。すべてを救うには時間も金も足りなかったが、何から手を付けるのかを、父でもエリアスでもなく自分の名で選ばなければならない。  その署名を終えた時、セドリックはこの城が石壁と温室だけでできているのではないことをようやく知った。  領地とは、ただ地図の上に塗られた色ではない。  雨漏りする屋根の下で眠る老人がいて、冬の石炭を待つ救貧院があり、火事の鐘に駆けつける男たちがいて、読み書きと家事を覚える少女たちがいる。その一つひとつに、アシュフォードの名は繋がっているのだ。  そしてそのか細い繋がりを、エリアスは長い間、父の名の陰で守っていた。  エリアスが、その日々を支えていた。  午後になると、マルグリットが再び書斎を訪れた。  葬儀の後、彼女はいったん隣領にあるエインズワース家の屋敷へ戻っていた。灰薔薇城から馬車で小一時間ほどの距離にある、香料商との取引にも使われる小さな屋敷だという。今日も侍女と従僕を伴い、雨の道を越えて来たらしかった。  彼女は喪服ではなく、控えめな深緑の外套を着ている。悪路を来たにもかかわらず、表情は明るかったが、机上の帳簿と散らばった古い控えを一目見て、笑みを少しだけ収めた。 「ヴェイン様が、お戻りでないとうかがいました」 「ええ」  セドリックは短く答える。我ながら疲労の滲む声音だった。  マルグリットはそれ以上、無遠慮に尋ねてはこなかった。代わりに、持ってきた紙箱を机に置く。中には、灰薔薇の香りを写した試験紙と、リヴィントン商会宛ての紹介状の控えが入っていた。 「正式な契約は、今の段階では難しいでしょう」  彼女は率直に言った。 「試料も評価していない花を、買い取ると約束する商会はありません。ですが、試料を受け取り、評価に回すという一筆なら、取れる可能性があります」 「それでクライン……代理人は納得するでしょうか」 「納得ではなく、即時売却以外の選択肢を検討させる材料にするのです」  マルグリットは試験紙を一枚取り上げた。手渡され、セドリックも紙片に顔を寄せた。小さな紙からは、強くはないが、不思議に後を引く香りがする。花そのものの甘さというより、深い森や冷たい水を思わせるような印象的な香りだった。 「商売にするには、まだ弱いです。けれど、今必要なのは大きな約束ではなく、小さくても正式な入口でしょう」  セドリックは頷いた。今なら、その意味が分かる。  すべてを一度に救うことはできない。温室も領地も、エリアスも、自分自身も。だが、即座に売らないための入口を作ることはできる。代理人の決断を少しだけ遅らせることはできる。その猶予の中で、形にしていくしかない。 「マルグリット嬢」 「はい」 「ありがとうございます。その、力になってくださって」  マルグリットは一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。 「親切だけではございません。以前にも申し上げましたでしょう? けれど、アシュフォード家にも得があるようにいたします。そうでなければ商いではありません」  その屈託のない明るさに、セドリックは少しだけ笑った。書斎にこびりついていた重苦しい空気が、その一瞬だけ軽くなるようだった。 「香りの仕事は、そんなに面白いですか」 「ええ!」  マルグリットは勢いよく頷き、そしていたずらっぽく続けた。 「失敗すると、家じゅうが酢漬け林檎や、焦げたジャムの匂いになりますが」 「……経験がおありで?」 「ございます。父は私を“エインズワース家の災害”と呼びましたわ」  マルグリットは真顔で答え、セドリックは再び口を緩ませた。 「でも、その時に分かりました。美しい香りだけでは駄目なのです。残り方、混ざり方、嫌われ方まで記録しなければなりません」 「嫌われ方まで」 「ええ。人も香りも、そこを見誤ると厄介ですわ」  彼女は言ってから、少しだけ肩を竦めた。 「今のは少し、説教じみましたわね」 「いえ」  セドリックは机上の灰薔薇の試験紙を見た。  嫌われ方まで記録する――妙な言い方だが、なぜか胸に残った。 自分が今までエリアスへ向けてきた言葉のいくつかは、きっと彼にひどい跡を残しただろう。今さら消すことはできないが、どんなふうに残ったのかを見誤らなければ、別のものを重ねていけるのかもしれない。 「ヴェイン様は、お戻りになると思います」  マルグリットが、不意に言った。  セドリックは顔を上げる。彼女は、灰薔薇の試験紙を箱へ戻しながら、窓の外へ目を向けていた。雨に濡れた硝子の向こうで、庭木の枝が細く揺れている。 「なぜ、そう思うのですか」 「短いお付き合いですけれど、あの方を見ていれば分かりますわ。灰薔薇を置いて逃げる方ではありません」 「……逃げたとは、思っていません」 「ええ。セドリック様もそういうお顔をなさっています」  さらりと言われ、セドリックは思わず自分の頬に手を当てる。マルグリットは、悪びれた様子もなく灰薔薇の試験紙を箱へ戻す。 「ヴェイン様を見る時のあなたは、疑っている方の目ではございませんもの。ただ、待つことに慣れていない方の目をしておいでです」  セドリックは何も返せなかった。  待つことに慣れていない――その言葉は、思いがけないほど正確だった。エリアスを疑ってはいない。だが、彼が見えない場所で何をしているのか分からないまま、自分は自分の仕事をしなければならない。そのことに、セドリックはまだうまく耐えられていなかった。 「あなたは、よく見ておいでですね」  セドリックが言うと、マルグリットは目元を緩ませる。 「香りを見る者ですから」 「花も、人も?」 「商いをするなら、どちらも見なければなりませんわ。もっとも、人の方はよく間違えます。父にも、余計なものまで嗅ぎ取ろうとするなと叱られます」  彼女は小さく笑ったが、その笑みには、先ほどの軽さだけではないものが混じっていた。 「けれど、間違えることも含めて、私はそれを仕事にしたいのです」  セドリックは、彼女が初めて縁談候補として紹介された時のことを思い出した。家を再建するために隣へ立たせるべき令嬢。持参金や商業の伝手を持つ、都合のよい相手。そう見ようとしていたのは、周囲だけではない。セドリック自身も、彼女をひとつの選択肢として見ていた。  だが彼女にも、自分の名で進みたい道がある。 「マルグリット嬢、あなたの紹介状を、無駄にはしません」 「それは頼もしいお言葉ですわ、アシュフォード伯」  マルグリットは微笑んだ。 「けれど、無駄になっても構いません。失敗も数の内です」 「お強いのですね」 「いいえ。しつこいだけなんです」  そう笑って、彼女は紙箱の蓋を閉めた。  その音は軽やかで、書斎に落ちた余韻は不思議と明るかった。  ◇  その晩、セドリックは一人で書斎に残った。  レジナルドは仮眠を取ると言って退き、マルグリットも夕刻には帰った。ハンナは明日の支度について確認を終え、トマスは北の谷に関わった者の名を書き出した紙を置いていった。  机上には、何種類もの紙が重なって山を作っていた。多くはハロウェイ商会へ提出する資料の写しだったが、その脇に、王都へ送られていた贈り物の記録がある。  セドリックは、何度もその束へ手を伸ばしかけ、そのたびに別の書類へ戻った。今見るべきではない。明日の協議に必要な資料でも、外に見せる証拠でもない。読めば心を乱されるだけだと分かっていた。  それでも、夜が深まるほど、その紙束の存在だけが机の上で静かに主張しているようだった。  結局、日付が変わる頃になって、セドリックはそれを手に取った。  十八の誕生日に届いた手帳に、冬用の外套。革の手袋、学業用の法典、王都での雨が多かった季節に届いた、撥水加工の外套。  自分の暮らしの中に、エリアスの選んだものがいくつも紛れていたのか。  そう考えると、足元が揺らぐような感覚があった。  セドリックは、控えに記されたエリアスの字を指でなぞる。  実際には触れず、ただ紙の上に落ちた細い文字を追っただけだったが、その先に白手袋ではないエリアスの手が見えた気がした。彼の手が、王都の商人へ宛てた書簡を書き、品目を選び、父の名で支払いを処理した。直接差し出すことのできなかったものを、遠回しに送った手。  なぜ言わなかった――その問いはまだ胸の中にある。  だが、言えなかったのだ、という答えも、今なら少し分かる。  それは間違っている。少なくとも、その間違いこそが今彼の身を危うくしている。だが、間違いの中にしか置けなかったものがあったのだろう。  セドリックは椅子の背にもたれた。暖炉の火は弱く、部屋は肌寒い。以前なら、エリアスが火を調整していただろう。セドリックが気づくより先に、彼の周りの全ては整えられていた。  その整えられた世界の中で、自分は彼に憎しみを向けていたのか。  父に奪われた男だと。自分を置いていった男だと。謝るばかりで何も言わない男だと。  間違いではない。そう思った感情のどれもが、嘘ではない。けれど、それだけでもなかった。  煩悶に倦み、セドリックは目を閉じる。  思い出したのは、帰還の日にエリアスが言った「お帰りなさいませ」だった。あの時、自分はその言葉を責めた。九年ぶりの相手へ、随分と容易く言うのだな、と。だが本当に容易かったのだろうか。  九年の間、父の名の影に身を置きながら灰薔薇を守り続けた男が、自分を再び迎え入れた。  その言葉が、容易いはずがなかった。  セドリックは目を開け、のろのろと机の上の手紙を引き寄せた。白紙に向かい、ペンを取る。  ハロウェイ商会のクライン代理人へ向けた一次回答案。形式的な文面はレジナルドが整えている。セドリックが書くべきは、その冒頭に置く自分の意思だった。 “温室の即時売却を、現時点では行わない”  その一文を書き、しばらくペンを止めた。  これは父の判断ではない。エリアスの懇願でも、マルグリットの商機でも、レジナルドの助言でもない。それらすべてを聞いたうえで、セドリックが自分の名で出す答えだ。  まだ計画は不完全で、証拠も足りない。それでも、今書かなければならなかった。セドリックは続けてペンを走らせる。 “灰薔薇温室は、アシュフォード家の単なる贅沢品ではなく、原種株の保全および将来的な香料事業の可能性を有する資産である。その価値を検証するため、一定期間の評価猶予を求める”  その筆跡は、父のものには似ておらず、エリアスの整った字とも違っていた。  だが、それでよかった。  これは父の判断でも、エリアスの代筆でもない。 セドリック・アシュフォードが、自分の名で書いた最初の答えだった。  

ともだちにシェアしよう!