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第七章

 三日目の朝になって、雨はようやく弱まり始めた。  灰色の雲はまだ低く垂れていたが、空全体にごく薄い明るさが差している。庭の芝は水を含み、踏めば靴が沈みそうだった。  エリアスは、未だ戻っていない。  セドリックは朝食をほとんど取らず、書斎へ入った。レジナルドはすでに机の前に立っている。昨夜の仮眠だけでは疲れが取れていないのだろう、目元には濃い影があった。 「明朝が期限だ」 「はい」 「ヴェインが戻らなければ、今ある材料だけでクラインに臨むことになる」 「戻らなくても、温室の即時売却は止めます」  セドリックは机上の書類を揃えた。トマスの持ってきた旧別邸庭園の地図、北部峡谷の支出控え、マルグリットの紹介状と試験紙。完全ではないが、評価猶予を求める根拠にはなる。 「それでも、彼がいなければ何も示せない、という形にはしません。そうなれば、結局ハロウェイ商会の疑念を認めることになる」  レジナルドは、短く頷いただけだった。  セドリックは窓の外に目をやった。北の道はここからは見えないが、視線は木立の向こうへと向かってしまう。雲の切れ目から淡い光が落ち、庭の濡れた石畳が鈍く光っていた。  エリアスが戻ることを、信じている。  彼が自分の足で外へ出たのなら、セドリックもまた、自分の足でこの城に立たなければならなかった。  ◇  その二日前、まだ夜明けの気配も薄い時刻に、エリアスは家令室で旅支度をしていた。  支度と呼ぶには、荷物があまりに少なかった。替えのシャツを一枚。北部峡谷の古い地図。園芸覚書。小さな植物採取用の箱。どれも家令として持ち出すものではなく、エリアスが長いあいだ手元に置いてきたものだった。  机の上には、厨房の朝の支度、銀器庫の管理、使用人棟の暖炉、来客用の馬車について書いた控えがある。  いつもの癖で、必要なことをすべて書き出そうとしてしまう。誰がどの順で動けば、城が乱れずに済むか。どの鍵を誰へ預け、どの支出を一日だけ止め、どの火だけは弱めてはならないか。  だが、書きながら、エリアスは途中でペンを止めた。  これはもう、自分の役目ではない。  昨夜、鍵箱を返した時から、その事実は変わらない。家令室の机も、帳簿棚も、温室の扉も、今は彼の手で開けてよいものではなくなっている。だから、これ以上の指示は残してはならない。必要最低限の引き継ぎだけを紙に書き、最後にペンを置いた。  セドリックへの書き置きは、残さなかった。  何度か、白い紙を引き寄せかけた。けれど、そこに言葉を書けば、きっと言い訳になる。なぜ黙って出るのか。どこへ向かうのか。戻るつもりなのか。そんな問いへの答えを紙に並べたところで、それはまた、エリアスが自分の行動を誰かの許しの下に置くことになる。  今朝だけは、そうしてはいけない気がした。  白手袋は、机の端に揃えて置かれている。  いつものように身につけてしまえば、また家令としての自分に戻る。城の廊下を歩き、使用人たちに指示を仰がれる。誰かに「ヴェイン様」と呼ばれれば、自然と背筋を伸ばし、必要な返事をしてしまうだろう。  それでは駄目だった。  エリアスは素手のまま、机の上に置いた指先を見下ろした。若い頃より骨ばった手。掌には古い傷跡が薄く残っている。セドリックが幼い日に、痛いのかと尋ねた傷だった。  家令でなくなれば、何者なのでしょう。  昨夜、そう尋ねた時、エリアスは本当に答えを知らなかった。セドリックが答えてくれればよいと、どこかで思っていたのかもしれない。ここにいろと言われればいられる。必要だと言われれば、その必要にすべてを差し出せる。  だがセドリックは、そうしなかった。  分からないまま、ここにいろ。  命令ではない言葉を受け取ることに、エリアスは慣れていなかった。そこに留まることさえ、自分で選ばねばならない。  そうして、今朝は出ていくのだ。  逃げるためではない。持ち帰れるものを、探しに行くために。  家令室を出る前に、エリアスは一度だけ振り返った。  ここで暮らした歳月は長い。下男の頃には近づくことさえ許されなかった部屋。ハーグリーヴズの背を見て仕事を覚え、やがて自分が机の前に座るようになった場所。どれだけ疲れていても、ここに入ればすべきことがあった。帳簿を検め、鍵をしまう。使用人の配置を考えて、ウォーレン宛の手紙や書類を整頓する。役目は、いつも彼の前に道を作ってくれた。  今はもう、その道はない。  エリアスは扉を閉め、廊下へ出た。  裏門へ向かう途中、厨房へ寄った。朝の火入れを担当する下男に、残しておいた手順をハンナへ渡すよう伝える。いつものように用件だけを短く言いかけて、エリアスはふと口を噤んだ。 「ヴェイン様?」  下男が不思議そうに顔を上げる。 「……頼みます」  言い直すと、下男は目を瞬かせた。おそらく、エリアスがそのような言い方をするのは珍しかったのだろう。けれど彼は深く尋ねず、紙を受け取った。  裏門には、ジャイルズがいた。まだ眠気の残る顔をしていた若い門番は、外套姿のエリアスを見て慌てたように姿勢を正す。 「ヴェイン様、こんな時刻に」 「門を開けてください」 「馬車をお出ししましょうか」 「いいえ。村までは歩きます」 「ですが、雨が……」  ジャイルズはなおも迷っていたが、エリアスの表情を見て、それ以上は何も言わず閂を外した。  門が開く。夜明け前の冷たい空気が、湿った土の匂いを連れて流れ込んだ。エリアスは一歩外へ出る。  その瞬間、ふいに足元が頼りなくなった。  鍵を持たずに城を出るのは、いつ以来だろう。仕える者としてではなく、使いとしてでもなく、誰かの命を受けたわけでもなく。ただ、エリアス・ヴェインという名だけで外へ出る。それは自由というにはあまりに心細く、放逐というには奇妙に静かだった。  背後で門が閉じる音がしたが、エリアスは振り返らなかった。  ◇  その日の昼過ぎに、エリアスはハーグリーヴズの住む村へ着いた。  灰薔薇城から下った先にあるその村は、雨に煙っていた。小さな家々の煙突からは白い煙が細く上がり、石畳の窪みには水が溜まっている。エリアスは外套の肩を濡らしたまま、村の外れにある古く大きな家の門を叩いた。  応対に出たのは、ハーグリーヴズの娘だった。彼女はエリアスの顔を見るなり驚き、それから心配そうに眉を寄せた。 「ヴェイン様。まぁ……こんな所まで、お一人でいらしたのですか」 「はい。突然の訪問をお詫びいたします。ハーグリーヴズ様にお目にかかれますでしょうか」 「父は、今日は少し調子がよいのですが……」 「長くはお時間を取らせません」  娘は迷った末、彼を中へ通した。  ハーグリーヴズは居間の窓辺に座っていた。かつての老家令は、城にいた頃よりもずいぶん痩せ、膝には厚い毛布を掛けている。けれどその鋭い眼光だけは、少しも衰えていなかった。エリアスが部屋に入ると、老人は片眉を上げる。 「来るのが遅い」  第一声がそれだった。エリアスは静かに頭を下げる。 「申し訳ございません」 「謝れと言ったのではない」  ハーグリーヴズは杖の先で床を軽く叩いた。 「座れ。いつまで家令の顔をして立っている気だ」  その言葉に、エリアスは一瞬だけ動きを止めた。  家令の顔。  自分では外してきたつもりでも、まだそれは身体に染みついているのだろう。背筋の角度、手の置き方、頭を下げる間合い。役目を離れたからといって、すぐに消えるものではない。  エリアスは手近の椅子に腰を下ろした。  娘が茶を出し、部屋を出ていく。扉が閉じると、老人はまっすぐに尋ねた。 「誰の命でここへ」 「誰の命令でもございません」 「では、何のために来た」  答えは、すぐには出なかった。  灰薔薇のため。城のため。新しい旦那様のため。 その全てが正しく、けれどそれだけでは足りなかった。足りないからこそ、エリアスは答えを求めてあの城を出たのだ。 「……私が、確かめなければならないことがございます」  ハーグリーヴズの目が細くなる。 「ようやくか」  その声には、咎める響きよりも、長く待っていた者の疲れがあった。 「北部峡谷の水路維持費について、控えが必要です。先代様の時代、あの費用がどのように扱われていたのか。旧別邸庭園との関わりを示せるものが残っていれば、すべて」 「自分の潔白を示すためか」 「いいえ」  エリアスは首を横に振った。 「それだけなら、ここへは来ませんでした」 「では何のためだ」  老人の言葉は端的だったが、冷たさはない。その声色に、エリアスは彼に師事していた頃のことを思い出した。今エリアスを支えているものの多くを、ハーグリーヴズに与えてもらった。 「――灰薔薇を、売らせないためです」  言ってから、エリアスは自分の声が思ったよりも静かだったことに気づいた。叫ぶ必要も、縋る必要もなかった。ただ、それが今の自分の答えだった。  ハーグリーヴズはしばらく黙っていた。  窓の外で、雨が庭の低い植え込みを濡らしている。城の雨とは違う、近く大きな雨音だった。長く仕えた家を離れた者の暮らしには、こういう雨があるのだと、エリアスはふと思った。 「ヴェイン、お前は昔から、何かを守るのが上手かった。だが、自分が守ったと言うのが下手だった」  エリアスは手元の茶に目を落とした。 「私が守ったものではございません。城に必要だっただけです」 「ほら、それだ」  老人は呆れたように言った。 「そういう言い方で、どれだけのものを帳簿の陰へ押し込んできた」  返す言葉がなかった。ハーグリーヴズは杖を脇へ置き、椅子の横の小さな棚を指した。そこには、古い書類箱が置かれている。 「先代様は、旧別邸庭園に興味を失っていた。だが完全に切れとは命じなかった。おそらく、切れば何かを失うと分かっていたのだろう。分かっていながら、手を掛ける気力も金もなかった」  老人の声は、淡々としている。 「お前はそこへ金の道筋だけを残した。水路維持費という名目は、嘘ではない。だが十分な説明でもない。クラインのような男が見れば、疑う」 「承知しております」 「ならばなぜ、もっと早く詳らかにしなかった」  その問いは、静かだった。だからこそ逃げることを許されず、エリアスは膝の上で手を握る。 「表に出せば、ウォーレン様の失策も、私が隠していたものも、同時に明らかになります」 「それで?」 「……家名に、傷がつくと考えました」 「違うな」  ハーグリーヴズは言った。 「傷つくのは、お前が自分を役目の外に出すことだったのだろう」  エリアスは、息を止めた。老人は責めるでもなく、淡々と言葉を重ねる。 「先代の名で命じられた支出なら、お前は耐えられただろう。城のための仕事なら、お前はどれほどでも手を汚せる。そのように躾けられたからな。だが、エリアス・ヴェインが灰薔薇を守ったのだと言われることには、耐えられない」 「……そのような、大層なものでは」 「大層かどうかは、若君が判断することだ」  若君。  その呼び方に、エリアスは湯呑みへ伸ばしかけた指を止めた。  セドリックはもう子どもではない。父の葬儀を執り行い、印章指輪を嵌めたアシュフォード家の後継ぎ。怒りを隠せずに自分を責め、それでも最後には命じることを拒んだ。 彼はもう、温室で菓子を分けた幼い少年ではなかった。けれど完全に遠い主でもない。  では、自分にとってセドリックは何なのだろう。  守るべき跡取り、仕えるべき当主、償うべき相手であり、先代の息子。九年前に自分が追いかけ、それでも届かなかった子ども。  そのどれもが間違いではない。  けれど、ただそれだけではなかった。 「必要なものは渡そう」  ハーグリーヴズの声で、エリアスは思考を引き戻された。 「だが、持ち帰るなら、お前の名において明かせ。先代のせいにも、城のせいにもするな」  エリアスは答えられなかった。  老人は娘を呼び、小さな書類箱を運ばせた。革紐の擦り切れた、古い箱だった。 「念のために言っておくが、城の帳簿を持ち出したわけではない」  ハーグリーヴズは、箱の蓋に手を置いた。 「ここにあるのは、私が家令だった頃につけていた手控えだ。大帳簿へ移す前の覚書、後任へ渡すための引継ぎ、古い図面の写し。正式な原本は、今も城にある」 「では、なぜこれを」 「公式の帳簿だけでは、意味までは残らんからだ」  老人は、乾いた指で革紐をほどいた。 「北部峡谷の水路費は、昔から説明の難しい項目だった。水路のためであり、道のためでもあり、旧別邸庭園を完全に失わないための費用でもあった。旦那様――いや、先代様がそこを見なくなってからは、なおさらな」  箱の中から、薄い紙束と古い図面が現れた。 「いずれ後任が困ると思っていた。だから、分かる範囲で残しておいた。それだけだ」  エリアスがそれらを検め終えるのを待って、老人はもう一度娘を呼んだ。 「紙とペンを。それから、印章も」 「お父様、何を」 「証言書を書く」  ハーグリーヴズは当然のことのように言った。 「北部峡谷の支出が何のために続けられていたか。誰が進言し、誰が実務を担っていたか。私が家令であった間に見てきたことを、私の名で記す」 「ハーグリーヴズ様、お身体に障ります。口述いただければ、私が」 「お前が書いてどうする」  老人は一蹴した。 「お前の潔白を示す紙を、お前の手で書かせるやつがあるか。黙って見ていろ」  娘が紙とペンを運んでくる。ハーグリーヴズは膝の毛布を払い、机へ向き直った。  その手は、記憶の中の家令のものよりずっと細かった。インク壺へ向かう動きも遅い。一文字ずつ、確かめるように書いていく。途中で二度、手を止めて息を整えた。娘が心配そうに覗き込んでも、老人は顔を上げなかった。  エリアスは、その手元から目を離せなかった。  自分のしてきたことが、他人の手で、他人の言葉で、紙の上に形を成していく。北部峡谷への支出と庭園の保全。誰にも告げず、帳簿の陰へ押し込んできた年月。  彼は、見ていてくれたのだ。  見られれば責められ、弱みを握られる。役に立たないと知られる。長いあいだ、そう思って生きてきた。けれどこの老人は、見守っていた。咎めるためではなく、いつかこうして差し出すために。  書き終えるまでに、長い時間がかかった。  ハーグリーヴズは署名をし、日付を入れ、砂を撒いてインクを乾かす。それから、震える指で蝋を落とし、古い私印を押した。 「これで、紙の上では、お前は一人ではない」  差し出された証言書を、エリアスは両手で受け取った。  まだ温かい蝋の感触が、指先に伝わる。 「――ありがとうございます」  ようやく言うと、老人は鼻を鳴らした。 「礼を言うなら、戻ってからにしろ。証言書は花を守らん。お前が何を持ち帰るかだ」 「はい」 「今夜は泊まっていけ。雨の中、今から谷へ向かえば書類もお前も駄目になる」 「いえ、私は……」 「まったく…融通のきかん子どもだ。少しは人の助言を聞くことも覚えろ」  エリアスは口を噤んだ。役目の外へ出た自分は、誰かに世話を焼かれることさえ下手なのだと知る。 「……お世話になります」 「最初からそう言えばいい」  ハーグリーヴズは肩の力を抜き、疲れたように目を閉じた。  その夜、エリアスは客間に通された。  城の家令室より狭く、家具も簡素で、窓は一つしかない小さな部屋だった。けれど火は暖かく、寝台には清潔な布が掛けられている。  鞄から書類を取り出し、湿気が移っていないかを確かめる。受け取ったばかりの証言書は、防水布で二重に包んだ。採取箱の中身を整え、明日向かうべき道を地図で確認する。するべきことを一つずつ済ませていくうち、夜は静かに深まっていった。  枕に頭を預けて目を閉じると、セドリックの顔が脳裏に浮かんだ。  怒っているか、失望しているだろうか。  あるいは、もう追わないと決め、淡々と城を動かしているだろうか。  どれも想像できた。けれど今夜、その答えを考え続ける時間はなかった。明日は北の谷へ入らなければならない。雨で道は悪く、旧別邸庭園までどれほどかかるか分からない。  エリアスは灯りを落とした。  眠りは浅かったが、それでも夜は過ぎていく。  ◇  翌日の朝も、雨は変わらず細く降り続いていた。  出発の前、ハーグリーヴズがもう一度だけ彼を呼び止めた。 「若君は、先代とは違うか」  エリアスはすぐには答えなかった。  セドリックはウォーレンではない。そんなことは分かっている。けれど、似ているところもある。ぴんと伸びた背筋、人前で感情を隠そうとする癖、傷ついた時ほど冷たい言葉を選んでしまうところ。  それでも、あの夜のセドリックは違っていた。  エリアスに、一方的な答えを与えなかった。彼を縛らず、彼自身に何かを選ばせようとしていた。 「……違う方に、なろうとしておられます」  エリアスは答え、老人はかすかに笑った。 「ならば、お前も違う者になれ」  それは命令ではなかった。むしろ、祝福であるようにエリアスの胸の内に柔らかく響く。  エリアスは頷くと、一礼して老家令の家を後にした。  北の谷へ向かう道は、思っていたよりも荒れていた。  村で小さな馬車を借り、谷の入口までは馭者に頼んだ。だがそこから先は、車輪が泥に取られて進めない。エリアスは馭者に夕刻まで待つよう頼み、外套の裾を持ち上げてひとりで道へ入った。  古い水路の脇道は、雨で緩んでいる。足を踏み入れるたび、靴底に泥が纏わりついた。倒れた枝を避け、崩れかけた石積みの横を通り、濡れた下草を分けて進む。何度か足を滑らせ、そのたびに鞄の中の書類を庇った。  昔は、この道にも人の手が入っていた。  若い庭師たちが籠を持って行き来し、切った枝を運び、土や肥料を入れ替え、水路の流れを見た。灰薔薇がまだアシュフォードの誇りであった頃、この道は確かに使われていたのだ。  今は、忘れられた道になっている。だが、消えてはいない。  エリアスは濡れた枝を押し上げ、旧別邸庭園へ入った。  雨は弱まっていたが、空はまだ暗い。崩れかけた石柱の向こうに、かつて花壇だった場所が見える。煉瓦の縁は苔と土に沈み、古い支柱は腐り、蔓草が絡んでいた。  その中に、灰色の花があった。  多くはない。枝も痩せ、葉もところどころ傷んでいる。けれど以前見たときと同じように、細い枝先に雨を含んだ花弁が重たげに揺れている。  エリアスは外套の裾が汚れるのも構わず、地面に膝をついた。素手の指先が冷たい泥に触れる。鞄から小さな記録帳を取り出し、まず株の数を記した。 生きている根、枯れた枝、今年出た新芽、水路からの距離、土の湿り具合、支柱の傷み。  それから、採取箱を開けた。膨らんだ柔らかな花冠をいくつか、そっと摘み取る。枝の先の若い葉を少し、そして、根元の土を小瓶へ入れる。水路の水も、別の小瓶へ取った。  持ち帰れるものは、ごくわずかだ。 以前にセドリックとこの谷へ来た時は、枝へ刃を入れず、落ちていたものだけを持ち帰った。あれは、見つけた日の記念のようなものだ。だが、今日は違う。どの株から、どの状態の花弁と葉を採り、土と水がどうであったか。商会に渡しても、クラインに見せても、資料として扱われる形へ整えなければならない。  棘が指先を掠め、わずかな痛みが走った。次いで、指の腹に赤い雫が滲む。エリアスはそれを見て、ほんの一瞬だけ手を止めた。  掌の傷を幼いセドリックに見つけられた日のことが、唐突に蘇る。 (――いたいの?)  あの幼い声は、労りに満ちていた。痛いのに痛くないと言うのは悲しい、と子どもは言い、痛みを隠す必要がないということを、エリアスはあの時初めて教えられた。  そして、それからまた長い時間が経った。  セドリックがいない間に、エリアスはまた、いくつもの痛みを隠してきた。 役目の下へ、先代の名の影へ、帳簿の項目の中へ。誰にも触れられないよう隠すことだけが、大切なものを守る方法だと思っていた。  エリアスは、血を手巾で押さえる。白手袋ではない、旅用の粗い手巾で、指先の血はすぐに止まった。  記録帳の最後に日付を書き、その下に、少し迷ってから自分の名を書き添えた。  Elias Vane.  書き記した文字は、雨に濡れて少し滲んでいる。だが、読めなくなるほどではない。  エリアスは記録帳を閉じ、花弁を収めた採取箱を抱えた。  帰らなければならない。  ◇  城を発って二日目の夜、エリアスは北の谷に近い宿に泊まった。  宿と呼ぶには簡素な場所だった。水車小屋を兼ねた石造りの建物で、部屋は狭く、寝台は硬い。だが炉には火が入り、濡れた外套を乾かす場所もあった。エリアスは宿の女主人に湯を頼み、採取箱を机の上へ置く。  花弁と葉を傷めないよう、紙を替えた。土の小瓶を布で包み直し、水路の水は、割れないよう箱の奥へと収めた。記録帳を開き、昼間の走り書きを清書する。  そうしていると、不思議と城にいる時よりも筆の進みが遅くなった。  いつもなら、必要なことを必要な順に処理できた。迷う余地などなかった。だが今夜は、ひとつ書くたびに、セドリックの顔が浮かんだ。  この記録を、あの人はどう読むだろうか。  エリアスは、ペンを止めた。  離れているせいで、かえってセドリックの姿がはっきりする。  城にいれば、彼は新しい当主だった。怒りを抱えた主であり、父を失った青年であり、自分が深く傷つけた相手だった。だが城を離れ、雨の宿でひとり名前を書いていると、彼の別の輪郭が思い起こされる。  温室で菓子を差し出した子ども。その九年後、冷たい言葉で自分を刺した青年。  それでも最後には、自分を役目で縛らなかった人。  そのすべてが、セドリックだった。  ウォーレンの息子だからではない。アシュフォード伯だからでも、過去の日の償いだけで戻りたいわけでもない。  エリアスは、セドリックという人の傍へ戻りたいのだ。  そのことを認めた瞬間、ペンを持つ指先から、ふっと力が抜けた。  愛という言葉を、胸のうちに抱くのは恐ろしかった。 かつてウォーレンに必要とされたことを愛だと取り違え、その役目の中でしか生きられなかった自分には、その名を口にする資格があるのかさえ分からない。  けれど、この気持ちが忠義だけなら、こんなふうには痛まない。償いだけなら、戻ることをこれほど恐れはしないだろう。  だから、セドリックが必要だと言わなかったことが――  そこまで考えて、エリアスは思考を閉じる。これ以上言葉を継げば、また何かの理屈で自分を庇ってしまいそうだった。  エリアスは記録帳の最後に、もう一度、自分の名を書きつける。  今度は、先ほどよりも少しだけ迷いがなかった。  ◇  三日目の朝、雨はようやくその勢いを弱め、霧のように細かな粒が名残惜し気に町を濡らしていた。  エリアスは夜明け前に宿を出て、近くの市場町へと向かった。マルグリットが以前、灰薔薇の見分をした折に口にしていたリヴィントン商会の地方取次が、その町にある。正式な紹介状は彼女の手元にあるはずだったが、試料を先に預け、評価へ回すための控えだけなら取れる可能性があった。  商会の看板は、通りの奥にあった。  薬種と香料を扱う店で、店内には乾いた草や樹脂、瓶詰めの油の匂いが混じっている。店主は最初、泥のついた外套の男を警戒した目で見た。エリアスがアシュフォード家の名を出しても、その表情は大きく変わらなかった。 「灰色の薔薇?」 「はい。アシュフォード領の原種株から採取した試料です。リヴィントン商会の評価に回していただきたい」 「正式な依頼書は」 「本状は、マルグリット・エインズワース嬢より別途届く手筈です。こちらは先行試料として、受領の控えだけをいただければ」  店主は疑わしそうにエリアスを見る。 「あなたは、アシュフォード伯の代理人で?」  その問いに、以前のエリアスなら迷わず頷いただろう。  伯爵家の家令です、主の代理で参りましたと、そう言えば話は早い。肩書きは扉を開き、権限は相手を納得させる。  だが今、エリアスにその言葉は使えなかった。 「いいえ」  首を横に振り、静かに答える。 「私は、エリアス・ヴェインと申します。アシュフォード家に長く仕えてまいりましたが、これは命じられて持ち込んだものではありません。灰薔薇の維持に関わってきた者として、お預けします」  店主は少し目を細めた。 「それでは、商取引の保証にはなりませんな」 「承知しております。ですから契約ではなく、試料の受領控えだけで結構です。正式な評価依頼と条件交渉は、アシュフォード伯とエインズワース嬢の紹介状をもって後日行われるはずです」  しばらく沈黙があった。エリアスは採取箱を開け、薬包紙に分けておいた花弁と葉を店主の前へ置く。  店主はそれを確かめ、さらに記録帳をめくって、日付と株の状態を書き留めた頁を見る。  最後に、署名のところで手を止めた。 「この記録は、あなたが?」 「はい」 「随分と細かい」 「必要がありましたので」  いつもの返事が口をついて出て、エリアスは一瞬だけ自分の言葉に気づいた。必要、という言葉はまだ自分の中に深く根を張っている。  けれど店主は、今の返事を別の意味で受け取ったらしい。エリアスに記録帳を返すと、 「花を見る目のある方の記録だ」  そう言って、奥から控え紙を出した。  正式な契約書ではない。試料を預かり、リヴィントン商会の評価担当へ回すという短い受領控え。ただし、日付と店主の署名、店舗の印がある。それだけで十分だった。  エリアスは、受け取った紙を丁寧に折り、鞄へ収める。 「ありがとうございます」 「評価がどうなるかは分かりませんよ。それでも持ち込むのですか」 「はい」  頷くエリアスに、店主は少しだけ笑みを見せた。 「では、無駄にならないことを祈りましょう」  エリアスはゆっくりと頭を下げ、店を後にした。  表に出ると、雨はほとんど上がっていた。雲の切れ間から淡い光が差し、市場の石畳を鈍く照らしている。人々は濡れた荷を運び、馬車が泥を跳ね上げて通りを進んでいく。  エリアスは、城へ向かう馬車を手配した。  けれど馭者は、空を見上げて渋い顔をした。街道はまだぬかるみがひどく、夕刻までに灰薔薇城へ着くのは難しいという。行けるところまでは行くが、夜道で馬車を進めれば車輪を取られる恐れがある。  エリアスは懐中時計に目をやる。今すぐ出れば、夜には城に近い村まで戻れるだろう。だがそこから先は、翌朝を待つしかない。  明日には、クラインがアシュフォード城を訪う。  間に合うかどうかは分からなかった。  鞄の中にはハーグリーヴズから預かった資料と、商会取次の受領控えが収められている。幾分軽くなった採取箱は膝の上で抱えていた。どれも軽いものだったが、今のエリアスにはひと際重たく感じられた。  それは、誰かに命じられたものではない、自分で選びとったものの重みだった。  ◇  夕刻、馬車は灰薔薇城へ続く北の街道に入った。雨は上がっていたが、道はまだ悪い。車輪は幾度も泥に取られ、そのたびに馭者が馬を宥めた。林の影が深くなり、空は少しずつ夜へ傾いていく。  灰薔薇城の尖塔はまだ見えなかった。  エリアスは窓の外を見つめたまま、鞄の上に手を置く。  城へ戻れば、セドリックがいる。  そう考えるだけで、指先が落ち着かなかった。叱責が恐ろしいのではなく、受け入れられないことに怯えているのでもない。自分がどれほどあの人の前へ戻りたかったのかを、道が一里縮まるごとに思い知らされることが、エリアスをひどく心細い気持ちにさせた。  馭者が手綱を引き、馬車が小さく揺れて止まる。 「旦那、これ以上は、今日は危ねえです」  窓の外から声がした。 「この先の村で一晩待ったがいい。明け方に出れば、昼前には城へ着けますよ」  昼前――その言葉にエリアスは逡巡する。その時には、協議はもう始まっているかもしれない。  脇に置いた鞄をそっと抱き寄せた。本音を言うならば、今すぐに歩いてでも戻りたかった。だが、夜の泥道で荷を損なえば、すべてが無駄になる。  ハーグリーヴズの声が、ふと耳の奥に蘇った。  “証言書は花を守らん。お前が何を持ち帰るかだ”  そうだ、必ず無事に、持ち帰らなければならない。  エリアスは、ゆっくりと息を吐いた。 「分かりました。明け方、すぐに出してください」 「もちろんでさ」  馭者は頷き、馬車を近くの村へ向けた。  宿の部屋は狭く、どこか黴臭かった。エリアスは外套を脱がず、鞄を寝台の脇へ置く。眠るにはあまりに心が急いていたが、目を開けていてもただ夜が更けていくだけだった。  明日、戻る。協議に間に合うかは、分からない。  それでも、戻る。  エリアスは、鞄の上に手を置いたまま、浅い眠りに落ちていった。  

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