9 / 11

第八章

 翌朝、クラインは時刻ぴったりに灰薔薇城へ到着した。  雨は上がっていたが、空はまだ重く湿っていた。玄関前の石畳には水が残り、馬車の車輪が通るたびに水音を立てる。セドリックは書斎の窓からその馬車を見下ろし、息を整えた。  エリアスは、まだ戻らない。  その事実は、昨夜から変わらなかった。だが、彼が何を持ち帰ろうとしているのかを信じるなら、今はただ手を拱いているべきではない。  机の上には、昨夜までに整えた資料が並んでいる。  北部峡谷の支出控えと旧別邸庭園の地図。トマスの証言の記録。マルグリットの紹介状と、彼女の手による灰薔薇の香料試験紙。即時売却を保留し、資産としての評価期間を求める一次回答案。  どれも、今手元にある最大限の実弾だ。十分ではないが、無手でもない。  セドリックは印章指輪に指を触れ、それから手を下ろした。父のように振る舞う必要はない。父の影を借りて相手を黙らせることも、エリアスの不在を理由に退くことも、今日だけはしてはならなかった。  扉が控えめに叩かれる。 「旦那様、クライン様をお通しいたしました」 「分かった」  返事をして、セドリックは書斎を出た。  協議の場には、応接室ではなく、小会議室を選んだ。壁際には古い地図棚があり、中央には長机が置かれている。かつてウォーレンが領地の問題を遠ざけるために使っていた部屋だと聞いた。今は、その同じ部屋で、セドリックが初めて自身で相手と向き合うことになる。  クラインは、窓を背にして立っていた。  先日と同じく細身の黒い三つ揃えに身を包んだ男からは、一分の隙も感じられない。傍らには、書記らしい若い男が革鞄を抱えて控えていた。 「アシュフォード伯」  クラインは丁寧に頭を下げた。 「お時間をいただき、恐れ入ります」 「こちらこそ、お越しいただき感謝します」  セドリックは室内を見渡す。現在アシュフォードの灰薔薇に関係する者たちが、ひとりを除いて一同に会していた。  レジナルドは右奥に座り、マルグリットは少し離れた位置についていた。彼女にしては珍しく、閉じた扇を膝の上に置いている。トマスは明らかに緊張している様子で、末席に控えていた。老庭師がこの場にいることを、クラインは一度だけ視線で確認したが、何も言わなかった。  椅子を引く音が、静かな部屋にいやに大きく響く。  最初に口を開いたのは、クラインだった。 「先日お伝えした通り、ハロウェイ商会としては、アシュフォード家への融資条件を見直す必要がございます。現在の負債状況と担保価値を踏まえますと、灰薔薇温室の即時売却は、最も確実な回収手段です」 「承知しています」  セドリックは早速、用意していた紙を一枚、机の中央へ置いた。 「ですが、当家としては温室の即時売却を現時点では受け入れません」  クラインの眉は動かなかった。 「理由を伺いましょう」 「灰薔薇温室は、単なる装飾温室ではありません。北部峡谷の旧別邸庭園に残る原種株と関連し、香料資産として評価できる可能性があります。その確認のため、一定期間の評価猶予を求めます」  セドリックは旧地図を広げた。  紙は古く、角が少し傷んでいる。トマスが持ってきた旧別邸庭園の図には、水路と灰薔薇の花壇が淡い筆致で記されていた。セドリックはそこへ、現在の支出控えを重ねる。 「北部峡谷への水路維持費は、長年、帳簿上では単なる水路費として扱われていました。しかし、旧図面と照合すると、この水路は旧別邸庭園の土壌維持と無関係ではない。温室の灰薔薇は、この原種株に由来するものです」 「由来する、と断定なさいますか」 「現時点では、可能性と申し上げます」  クラインは、ようやく薄く笑った。 「正直でいらっしゃる」  その笑みは、褒めるためのものではなかった。セドリックはそれを分かっていながら、表情を動かさなかった。 「断定のためには調査が必要です。だからこそ、即時売却ではなく猶予を求めています」 「なるほど」  クラインは地図を見下ろした。 「では、その旧別邸庭園とやらに現存する原種株の確認記録は?」  セドリックは一瞬だけ指を止める。部屋の空気が、より緊張を孕んで張り詰めた。 「トマスが、旧庭園の存在と、過去に灰薔薇が育てられていたことを証言できます」 「庭師殿の証言は尊重いたします。しかし、庭師殿はアシュフォード家の使用人です」  クラインの声は穏やかだった。 「身内の証言だけで資産価値を認めることは、商会としては難しい」  疑義を向けられたトマスが唇を結んだ。セドリックは彼を目で制し、次の資料を差し出す。 「こちらはマルグリット・エインズワース嬢による灰薔薇の試験紙です。香料化の可能性について、専門の見地から意見をいただいています」  クラインの視線がマルグリットへ移り、彼女は静かに頷いた。 「正式な鑑定書ではございません。ですが、灰薔薇には通常の薔薇とは異なる香調があります。安定して採取できるなら、香料としての試験価値は十分にございます」 「安定して採取できるなら、ですね」  クラインは試験紙の封筒を手に取り、香りを確かめるでもなく机に戻した。 「エインズワース嬢のご意見は興味深い。しかし、香料商会が正式に受け取った試料も、評価依頼の控えも、こちらにはありません。あるのは、あくまでご令嬢個人の試験紙です」  マルグリットの表情が強張った。クラインの物言いは無礼でも不躾でもない。ただ、相手の言葉から、証明にならない部分だけを正確に切り分けていく。その刃は冷静で、音がしない分だけセドリック側の弱みへと深く刺し入った。 「リヴィントン商会への紹介状は用意しています」 「拝見しました」  クラインは、すでに確認した紹介状へ目を落とす。 「ですが、紹介状は契約ではありません。評価に回すという確約でもない。可能性を示すものではあっても、現在の担保評価を覆すには足りません」  セドリックは喉の奥で息を整えた。  想定していた問いだった。想定していたはずなのに、実際に正面から突きつけられると、机上に並べた紙が急に薄く見えてくる。  それでも、ここで引くわけにはいかなかった。 「温室を売却してしまえば、灰薔薇の栽培環境は失われます。旧別邸庭園の原種株だけでは、事業化の可能性を検証する前に終わってしまう。商会としても、評価前に資産を切り売りすることが最善とは限らないはずです」 「資産であれば、です」  クラインは即座に返した。 「現在の帳簿上、温室は維持費のかかる施設です。収益は上がっていない。支出の名目も曖昧で、北部峡谷費との関連も内部資料に留まる。失礼ながら、先代伯の趣味の延長と見る方が、債権者としては自然です」  先代伯の趣味。  その言葉に、セドリックの指がわずかに動いた。  父の名が出るたび、胸のどこかが冷える。けれど、ここで父のために怒っても意味はない。温室を父の思い出として守ろうとすれば、クラインの言葉は正しくなる。  これは父の遺物ではない。  そう言い切るための根拠を、セドリックは探していた。 「……先代の趣味として始まったものだとしても、現在の価値までそれで決まるわけではありません」 「では、誰がその価値を管理していたのです」  クラインの目が、まっすぐセドリックを射た。 「これらを実務として扱っていたのは、ヴェイン氏ではありませんか」  部屋が水を打ったように静まった。  レジナルドの視線が、わずかにセドリックへ向く。マルグリットも口を引き結んでいる。トマスは膝の上で拳を握っていた。  この場で今、口を開くことができるのはアシュフォード伯爵であるセドリックだけだった。 「――その通りです」  絞り出すようにして、セドリックは答えた。 「では、なぜこの場にいないのですか」  問いは穏やかで、だからこそ逃げ道がなかった。 「ヴェインは、現在、家令職を離れています」 「なるほど」  クラインは、顎の下で指を組む。その眼差しには相変わらず何の色も無かったが、彼の天秤が自分たちに不利な方へと傾いたのをセドリックは感じた。 「先代伯の死後、家令であったヴェイン氏が職務を離れた。帳簿の一部には曖昧な支出が残り、本人はこの協議の場にいない」  事実を並べていくクラインの語調は、淡々と室内に落ちる。 「アシュフォード伯。私が債権者の代理として最も懸念しているのは、灰薔薇の価値そのものではありません。管理の透明性です」  セドリックは黙って聞いていた。 「価値があるかもしれない、旧庭園に関係があるかもしれない、香料になるかもしれない。どれも可能性としては理解します。しかし、その可能性を支えてきた実務者が不在であり、支出の経緯を外部に説明できる形で示せないのであれば、こちらは最も確実な回収手段を選ぶしかありません」  じり、と何かが足元から崩れるような感覚がした。  ここまでの準備で勝てるとは思っていなかった。だが、もう少し持ちこたえられると思っていた。今ある資料だけでも、せめて猶予の入口までは押し込めると。  しかしクラインは、可能性を否定しないまま、そのすべてを「未証明」という箱の中へしまい込んでしまう。  セドリックは、自分の一次回答案へ目を落とした。  父の筆跡ではない。エリアスの代筆でもない。自分で書いた最初の答えだった。それを、今ここでただの紙にしてはならない。 「管理の透明性については、僕が責任を持って改めます」  クラインは、静かにセドリックを見た。 「若き伯爵のご決意としては、立派です」 「決意ではありません。方針です」  セドリックは、机の上に手を置いた。印章指輪が盤面と触れ合い、鈍い音を立てる。 「今後、家政と財務は分けます。温室と北部峡谷への支出も、別項目として整理する。家令一人が全てを抱える形にはしない。アシュフォード家の管理体制を改めることを、ここで明言します」  レジナルドが隣で息を呑み、セドリックへと視線を向けた。  それは、事前に擦り合わせた言葉ではなかった。けれど嘘ではない。 セドリックは、この三日間でそれを見ていた。城の鍵も、領地の支出も、灰薔薇も、あまりに多くのものがエリアスの沈黙に寄りかかっていた。  現状そのものを変えなくては、アシュフォードは父の影から脱したとは言えない。  クラインはわずかに身を乗り出し、その言葉に初めて少しだけ興味を示したように見えた。 「管理体制の改定。それ自体は、債権者として歓迎すべきことです」 「ならば」 「ですが、それは今後の話です」  クラインは、柔らかく遮った。相変わらず、感情ひとつ読ませない声音だった。 「過去の支出については、説明が必要です。北部峡谷への金が何のために流れ、誰がそれを認め、何を維持したのか。温室を売らずに残すなら、それを裏付ける資料が要ります」  セドリックは返す言葉を探した。握り込んだ掌は汗で冷たく湿っている。  ある。あるはずなのだ。エリアスが戻れば。  その考えが浮かんだ瞬間、セドリックは自分を叱咤する。  戻れば、ではない。今この場にいるのは自分だ。自分がすべてを決めなくてはいけない。他の誰にも、この責務を押し付けることはできない。 「……猶予を一か月ください」  セドリックは言った。 「その間に、現地調査、灰薔薇の試料提出、支出記録の再整理を行います」 「一か月ですか。その間にも、利息は増えますよ」 「承知しています」 「温室の買い手を逃す可能性もある」 「それでも、評価前の売却は受け入れません」  クラインは息を吐き、椅子の背に体を預けた。  沈黙が落ちる。その沈黙の中で、セドリックは自分の鼓動を聞いていた。声は震えておらず、手もまだ机の上に置いていられる。だが、クラインの表情を見る限り、相手はまだ退いていない。 「伯爵」  クラインは静かに言った。 「私も商人です。可能性ある資産を潰すことが必ずしも得策でないことは理解しています」  セドリックは目を上げた。 「しかし、債権者は夢に金を貸すわけではありません」  その一言は、事実を述べているだけに鋭かった。 「現時点で、灰薔薇は夢です。可能性に対して、こちらが確認できるものはまだ少ない」  クラインは、机上の資料を一枚ずつ指した。 「内部地図に内部証言。個人の準備した試験紙と紹介状……。猶予を決定するには、もう一段、外に出せる証明が要ります」  もう一段。  その言葉が、重く沈んでいく。  セドリックは、ようやく自分がどこまで押されているのかを知った。崖の縁ではない。まだ足場はある。けれどその足場は狭く、次の一歩を誤れば、温室は父の浪費として処分される。  エリアスが守ってきたものも。自分が守りたいと思ったものも。 「それがなければ、即時売却以外は認められないと?」  レジナルドが低く問う。 「本日の資料だけでは、私は保留を勧められません」  クラインは答えた。 「ただし、アシュフォード伯が一か月の猶予をお望みなら、条件を付けることは可能です」 「条件とは」 「温室の売却準備は停止せず、買い手との接触は継続する。その上で、二週間以内に外部評価に足る試料の受領控え、旧庭園の確認記録、過去支出に関する第三者の証言を提出すること。提出できなければ、売却へ移行します」  二週間。こちら側の望んだ期限の半分であり、しかも売却準備は止まらない。  それは猶予というより、首に縄をかけたまま歩く時間だった。  マルグリットが口を開こうとする。だがセドリックは、軽く手を上げて制した。  ここで彼女に救わせてはいけない。彼女の紹介状も、試験紙も、すでに差し出されている。これ以上は、アシュフォード家の当主として自分が答えるべきだった。  セドリックは大きく息を吸う。口を開こうとしたその時、扉の外で足音が止まった。  軽いノックが三回、静かな部屋に響く。  全員の視線が扉へと向けられた。  セドリックは、心臓が一度だけ強く打つのを感じた。だが、椅子から立ち上がりはしなかった。 「入れ」  主の許しを得て、扉が開かれる。  入ってきたのは、ハンナだった。普段よりもわずかに頬が上気している。彼女は部屋にいる面々を見てから、セドリックへまっすぐ向き直った。 「旦那様」  その声色に、セドリックは頷いて先を促す。 「ヴェイン様がお戻りです」  部屋の空気が、確かに変わった。  レジナルドが目を細め、マルグリットは握っていた扇を閉じる。トマスは、ほとんど立ち上がりかけた。クラインだけが、表情を崩さないまま、ゆっくりとセドリックを見た。  セドリックは椅子の肘にかけた指へ力を込める。  立ち上がりたい。今すぐ廊下へ出て、その姿を確かめたかった。無事なのか、怪我はないのか、何を持ち帰ったのか。問いは喉元までせり上がっていた。  だが、ここは協議の場だ。  エリアスが戻る場所を作るために、自分はここに座っている。  夜明け前に近くの村を発たれたそうです、と続けるハンナに向かって頷いてみせる。 「ここへ」  セドリックは告げる。声は、自分が思ったよりも落ち着いていた。 「ヴェインをここへ通してくれ」 「かしこまりました」  ハンナは頭を下げ、扉を閉めた。  待つ時間は、実際にはごく短時間だったのだろうが、セドリックにはひどく長く感じられた。  廊下の向こうで、足音が近づく。ひとつはハンナのもの。もうひとつは、それよりも少し重く、疲れを含んでいた。  扉が再び開かれる。  椅子に掛けたセドリックと真っ直ぐ向かい合う位置で、エリアスがそこに立っていた。  旅外套はまだ湿り、裾には泥が跳ねている。黒髪は乱れ、やや顔色が悪かった。白手袋は身に付けておらず、素手の指先が鞄の持ち手を強く握っている。  その姿を見た瞬間、セドリックの内側で、張りつめていたものが静かに軋んだ。  だが、彼は動かなかった。  エリアスは部屋に一歩入り、そこにいる面々を見回す。クライン、書記官、レジナルド、マルグリット、トマス。そして最後に、セドリックへと視線を戻す。  彼は反射的に膝を折りかけた。 「そのままでいい」  セドリックの声が、それを止めた。  その一瞬、部屋の誰もが黙っていた。クラインの冷静な目も、レジナルドの厳しい横顔も、マルグリットの押し殺した息遣いも、すべてが遠のいたように感じられる。  エリアスは、ゆっくりと体を起こした。  立っていろ、と命じたのではない。もう傅かなくていいと、そう伝えたかった。  そのことを、彼がどう受け取ったのか、セドリックには分からない。だが、エリアスは膝をつかなかった。鞄を抱え直し、会議机の前へ進む。 「遅くなって申し訳ございません」  声は掠れていたが、乱れた調子はない。  紫紺の視線を受けたセドリックは、問い詰めたい言葉をすべて飲み込み、 「何を持ち帰った」  それだけを口にした。 エリアスは、鞄の留め金を外し、革の書類入れを丁寧に取り出す。何枚もの紙束を卓上に広げた。 「北部峡谷の水路維持費に関する補足資料と、旧庭園の原種株の採取記録です。それから、リヴィントン商会地方取次による、試料受領控えを」  クラインの目がわずかに動く。初めて、彼の表情の内側に計算ではないものが走ったように見えた。 「試料受領控え、とおっしゃいましたか」  エリアスはクラインへ向き直った。 「はい。原種株から採取した花弁と葉を、リヴィントン商会の地方取次へ先行試料として預けてまいりました。正式な評価依頼は、アシュフォード伯とエインズワース嬢の紹介状をもって後日行う手筈です」  流れるように説明するエリアスへ、クラインは重ねて問う。 「あなたは現在、家令職を離れていると伺っています」 「その通りです」 「では、どういった権限でそれを」  セドリックの手が、わずかに強張る。それを取り上げたのは自分だった。  思わずエリアスの顔を見たが、彼は揺れていなかった。 「権限ではありません」  静かな、だが決意に満ちた言葉が発せられる。 「灰薔薇の維持に関わってきた者として、私が確認し、預けてまいりました。商取引の保証ではなく、試料の受領控えです。そのため、契約書ではございません」  クラインは黙ったまま、指を組み替えた。エリアスは、卓上の紙のうちの一枚をクラインの方へと差し出す。雨を避けるために丁寧に包まれていた紙は、わずかに波打っているが、文字ははっきりと読めた。 「こちらが受領控えです」  クラインがそれを受け取り、書記へ目をやる。書記はすぐに控えの印と日付を確認した。  横からちらりと覗き込んだマルグリットが、短く息を吐く。 「リヴィントンの地方印ですわ」  クラインは、彼女の言葉を否定しなかった。  エリアスは続けて、封蝋の押された証言書を差し出す。 「こちらは、ハーグリーヴズ様の証言書です。北部峡谷の水路費が旧別邸庭園の維持と関わっていたこと、また支出の性質について、家令時代の手控えをもとに記されています」 「ハーグリーヴズ氏は、先代の家令でしたか。現在はアシュフォード家の使用人ではない」 「はい、退職されております」  クラインは証言書を開いた。部屋に紙の擦れる音だけが落ちる。  セドリックは、その横顔を見ていた。クラインの表情は、すぐには変わらない。だが、先ほどまで一つずつ未証明として退けられていたものが、今、別の形を取り始めているのが分かった。  内部地図に、旧家令の証言がつく。  試験紙に、商会の受領控えがつく。  支出控えに、実務者の採取記録がつく。  まだ勝利とは言えないが、そこにあるのはもう、夢だけではない。  クラインは証言書を読み終え、静かに紙を置いた。 「確認には時間が必要です」 「もちろんです」  セドリックは頷く。 「では、即時売却については」  クラインはすぐには答えず、セドリックとエリアスを順に見やった。セドリックは力を込めてその眼差しを受け止める。 窓の外から、雨後の雫が枝を伝って落ちる音がした。 「――本日の時点で、即時売却を強行するのは拙速と判断します」  その言葉が落ちた瞬間、トマスの肩から力が抜けるのが見えた。マルグリットは扇の陰で小さく笑い、レジナルドは何事もなかったように資料へ目を落としたが、その横顔はわずかに緩んでいた。  セドリックだけが、まだ息を吐かなかった。  ここで終わりではない。 「先ほど申し上げた提出物のうち、三点は今この場で示されました。条件を改めます」  クラインはセドリックをまっすぐ見つめる。 「二週間以内に、正式な評価受理の返答を得ること。庭園と北部峡谷支出の関係を、今回の資料をもとに再整理すること。温室の維持費については、今後の管理項目を分けて提示すること」  代理人は一旦言葉を切り、そして再びゆっくりと口を開く。 「以上を条件に、温室の売却準備は一時停止とします」  セドリックは、強く頷いた。 「受け入れます」  その言葉は、勝利の宣言ではなかった。むしろ、ここからようやく始めることを許されただけだ。灰薔薇はまだ守られたわけではない。エリアスが持ち帰った紙も、セドリックが書いた回答案も、これから本当に試されていくのだ。  それでも、即時売却という刃は一度止まった。  クラインは書記へ指示を出し、その場で短い確認書を作らせた。セドリックは内容を確かめて署名し、印章を押す。  蝋の上にアシュフォードの印が重く刻まれた。  かつて父が何度も押してきたであろうその印を、今日初めて、セドリックは自分の手で扱った気がした。  クラインが確認書を受け取り、立ち上がる。 「伯爵。二週間後に、改めて確認に伺います」 「お待ちしています」 「それまでに、灰薔薇が夢でないことを示してください」  それは商会の代理人としてではなく、クラインというひとりの人間が発した言葉のように思えた。セドリックはわずかに目を細め、はっきりと答える。 「必ず」  クラインは頭を下げ、書記を伴って部屋を出ていった。  扉が閉まるその瞬間まで、誰も動かなかった。足音が完全に遠ざかり、静けさが戻った後で、トマスが深く息を吐いた。マルグリットは扇を畳み、レジナルドは椅子に深く背を預ける。 「首の皮一枚だな」  叔父らしい言い方だった。 「はい」  セドリックは答えた。 「ですが、繋がりました」 「繋いだのはお前だけではない」  レジナルドの視線が、エリアスへ向く。  エリアスはまだ立っていた。外套を脱ぐこともせず、鞄を手にしたまま、会議机の脇に控えている。顔には疲労を滲ませていたが、姿勢を崩すことなく背筋を伸ばしていた。  まるで、家令のように――。 「エリアス」  セドリックが名を呼ぶと、彼は顔を上げた。 「はい」 「座ってくれ」  エリアスは一瞬、返事に詰まる。部屋の中に、微かな戸惑いが広がった。それは命令ではなく、会議に参加した者へ、同じ机につくよう求める声音だった。  エリアスは何か言いかけたが、レジナルドが先に低く言った。 「いいから座れ。倒れられると、次の仕事が増える」  マルグリットが扇で口元を隠し、トマスが小さく咳払いをする。エリアスは一同を見回すと、静かに椅子へと腰を下ろした。  セドリックは、その向かいに立ったまま、ようやく言った。 「よく戻った」  その言葉を聞いたエリアスの瞳が、大きく揺れた。深く頭を下げようとして、途中で止める。代わりに手元の鞄へ指を置き、静かに頷いた。 「……はい」  それはまだ、完全に自由を得た者の返事ではなかったが、それでも鍵を置いた夜の「承知いたしました」とは違った響きを湛えていた。  セドリックは机の上を見る。  自分が書いた一次回答案、エリアスが持ち帰った証言書、リヴィントン商会の受領控え、旧庭園の図面。  どれか一つでは足りなかった。  自分ひとりでも、エリアスひとりでも、灰薔薇は守れなかった。  けれど今、机の上には二人分の答えが並んでいる。  窓の外では、雨上がりの雲の切れ間から、淡い光が差し始めていた。

ともだちにシェアしよう!