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第九章

 クラインが去った後、エリアスは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。  言われたまま椅子に掛けてはいたが、背筋は伸び、膝の上の手は揃えられて、寛いだ姿とは言い難かった。 何かを命じられればすぐ立てるように、まだ身体のどこかで待っている。  セドリックは、それに気づいてしまった。  そして、気づいた以上、見なかったことにはできなかった。  部屋には、雨上がりの光が薄く差し込んでいる。机上には、揃えられた資料が並んでいた。先ほどまで、それらは温室を救うための熱を帯びた武器だったが、今はどれも静かに横たわっている。  トマスが、胸を撫で下ろすように息を吐いた。 「……売られずに済んだんですね」 「まだだ」  レジナルドがすぐに言う。 「二週間、売却の刃を止めただけだ。浮かれるのは早い」  トマスは慌てて背を正したが、レジナルドの声は思ったほど冷たくなかった。彼は卓上の紙を一枚ずつ確かめ、最後にエリアスへ視線を向ける。 「ヴェイン」 「はい」 「よく間に合わせた」  短い言葉だった。  エリアスはすぐには返事をせず、視線を彷徨わせた。叱責なら受け入れ、指示なら従っただろう。だが、温かい労いを渡されると、それをどこへ置けばよいのか分からなくなるようだった。 「……恐れ入ります」 「褒めたつもりはない」 「いいえ、間違いなく褒め言葉ですわ」  マルグリットが扇の陰で微笑んだ。レジナルドは眉を寄せる。 「あなた方は、何でも甘く受け取りすぎる」 「まあ。苦いお言葉ばかりでは、薔薇も萎れてしまいますわ」  そのやり取りで、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。  セドリックは確認書を手に取り、マルグリットへ差し出した。 「リヴィントン商会への正式な評価依頼は、今日中に出します。エインズワース嬢、紹介状の追伸をお願いできますか」 「もちろんです。地方取次が試料を受けた以上、本店も動きやすくなりますわ。受領控えの写しと、アシュフォード家の正式な依頼書を添えましょう」  セドリックは頷くと、次に庭師へと目を向けた。 「トマス」 「はい、若旦那様」 「温室の株数と状態を、一覧にしてほしい。北の谷については、後日でいい。道がまだ悪いからな」 「承知しました」  トマスは目を細めて何度も頷いた。  その横で、エリアスの口元がわずかに動いたのを、セドリックは見逃さなかった。彼はおそらく、温室の記録も、商会へ提出する補足資料も、自分が整えると言うつもりだったのだろう。  何かを言われる前に、セドリックは名を呼んだ。 「エリアス」  エリアスが顔を上げた。その瞳に、指示を求める色が浮かぶのを制してセドリックは告げる。 「君は休むんだ」  断固とした口調に、紫の瞳が見開かれる。エリアスは、困ったように眉を寄せて若い主を見つめた。  その顔があまりにも真面目だったので、セドリックは少し笑いそうになる。笑えば傷つけるかもしれないと思い、代わりに声を落とした。 「君が戻ってきたのは、ただ働くためだけじゃない」  エリアスの瞳が、かすかに揺れた。  彼が答えを求めているのは分かっていたが、セドリックにしてみれば、その一言で十分だった。  これ以上言い足せば、説明になる。君が心配だった、無事でよかった、休んでほしい。そうした言葉は胸の中にいくらでもあったが、今ここでそれらを重ねる気はなかった。  マルグリットが、静かに立ち上がる。 「では、私は手紙を整えてまいります。トマス様、後ほど温室へ伺いますわ。レジナルド様、確認書の写しはいただけまして?」 「用意させる」 「ありがとうございます」  彼女は部屋を出る前に、エリアスの方を見た。 「ヴェイン様。今日だけは、薔薇の花もあなたを待つと思いますわ」  エリアスは返答に迷い、それから小さく頭を下げた。  トマスも資料を抱えて退室し、レジナルドは最後にセドリックへ目を向けた。 「十分間だ」 「叔父上?」 「十分だけ話せ。その後は休ませろ。お前もだ」 「僕は……」 「お前もだ」  有無を言わせない声音にセドリックが黙ると、レジナルドはようやく満足したように扉へ向かう。出ていく直前、彼は振り返らないまま言った。 「家を動かす者が倒れれば、結局誰か一人に皺寄せが行く。忘れるな」  重たい音を立てて扉が閉まる。  残された静けさは、先ほどまでの沈黙とは違っていた。窓外の雨は止んだようだった。窓の桟から落ちる雫の音だけが、室内に小さく響く。  セドリックは、エリアスの向かいに座った。  向かい合っただけで、言葉が遠くなる。  昨夜からずっと、この顔を思い浮かべていた。怒っているのか、冷えているのか、疲れているのか。戻ってきたら何を言うべきか、何を言ってはいけないか。何度も考えていたはずなのに、いざ目の前にいると、そのどれもが形を失ってしまう。  エリアスの方が、先に口を開いた。 「――怒っておいでですか」  その問いの静けさが、セドリックには痛かった。怒られることに慣れた人間の声だと思った。自分の不在が相手をどれほど不安にさせたかよりも、まず裁かれるかどうかを確かめてしまう声。 「怒っていた」  セドリックは正直に言った。今、偽りを述べる気にはなれない。 エリアスは俯く。まだ水気の残る髪が、彼の頬に影を落とした。 「勝手にいなくなったことに、腹が立った。置き去りにされた気がした。……でも、それは僕の勝手な怒りだ」 「勝手ではございません。私は何も告げずに出ました」 「告げれば、僕は止めた」  エリアスは返事をしない。その沈黙こそが、答えだった。 「止めたと思う。あるいは、戻れと言った。僕のために、灰薔薇のために、城のために。そう言えば、お前はたぶん戻ってきた」 「……はい」 「それが嫌だったんだ」  セドリックは、自分の手に目をやった。  銀の印章指輪が鈍く光っている。この指輪ひとつで、人は命令できるのだ。拒みにくい言葉を振りかざし、守るふりをして、相手の足元を奪うこともできる。 「父と同じになりたくなかった」  エリアスが、弾かれたように顔を上げた。 「お前を必要だと言って、ここに縛るのは簡単だったと思う。たぶん、僕はそれを一番言いたかった。けれど、言ってしまえば、お前はまた役目の中へ戻る。僕は、それを待っているのではないと思いたかった」  言い終えると、胸の奥が少し軽くなった。あのとき抱いた葛藤を、エリアスには打ち明けたかった。例えそれが、父との過去を基とする醜い感情であったとしても。  エリアスはしばらく黙っていたが、やがて、膝の上の手を見下ろしたまま口を開いた。 「私は、必要だと言われたかったのだと思います」  セドリックは、目線だけで続きを促す。 「その言葉に縋れば、考えずに済みます。戻る理由も、ここにいる理由も、すべて誰かが与えてくれる。……あなたがそれをおっしゃらなかったので、私は困りました」 「別に困らせたかったわけじゃないが……」 「分かっています」  エリアスは頷き、真っ直ぐにセドリックを見つめる。その紫紺の瞳には、強い輝きが宿っていた。 「けれど、困ったから、出て行けたのだと思います」  その言葉は、セドリックが予想していたどの返事とも違っていた。  セドリックのことを、責めても慰めてもいない。  エリアスがここを自分の足で出て行ったあと、何があったのかセドリックは知らない。けれどこの返事で、その道中にあったものを、少しだけ覗き見ることができた気がした。  セドリックは、彼の手に視線を落とした。  白手袋はない。長い指は冷え、指先には小さな傷があった。棘に触れたのだろう。乾いた赤い跡が、薄く残っている。 「手を見せてくれ」  エリアスは、慌てたように机の下に手を隠した。 「大した傷ではありません」 「そんなことは聞いていない」  エリアスは困ったように眉を寄せたが、それでも、おずおずと両手を差し出した。  セドリックはその手を取る。触れた指先は冷えきっていた。掌の古い傷跡と、新しい細い傷。 幼い日の記憶が、濡れた温室の匂いとともに蘇ってくる。あの時、痛いのかと尋ねた。痛くないと答えたエリアスに、痛いのに痛くないと言うのは悲しいと、子どもらしい残酷さで言ったのだ。  あの日の言葉が、今も彼の中に残っていたのだと知ったばかりだった――。 「痛い?」  同じ問いが、自然と口をついた。  エリアスの瞳が揺れる。その一瞬、あの日の少年の面影が彼の瞳に浮かんだ気がした。 「……少しだけ」  彼は、今度は、そう答えた。  その答えに、セドリックは、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。 「そうか」  彼は自分の手巾を取り出し、傷ついた指先をそっと包む。もう血は止まっているし、不要な手当かもしれない。それでも、布を巻く間、エリアスは手を引かなかった。  触れるための言い訳がなくなっても、まだ触れていられる。  そのことに気づいた途端、セドリックは慎重になった。  強く握らないように、逃げ道を塞がないように。けれど離したくないという気持ちだけは、どうにもならない。エリアスはそれを知ってか知らずか、巻かれた手巾を見下ろしていた。 「……子どもの頃、あなたは私の名を綺麗だと言いました」  ぽつりとエリアスが言い、セドリックは手を止める。 「覚えてる」 「私は、あれから少しだけ、自分の名を嫌いではなくなりました」  声は小さかったが、震えてはいない。 「ただ、どう使えばよいのか分からなかったのです。呼ばれれば返事をする。命じられれば従う。叱られれば謝る。そういうものだと思っていました」 「今は?」  エリアスは、布の巻かれた指先を見つめた。 「まだ、分かりません」  その正直さが、セドリックには愛しかった。  分かったふりをしない、完璧な答えを返さない。役目も何もなく、ただ所在なさげに、それでもこの場所に座っている。その姿の方が、どんな忠誠よりも近く感じられた。 「でも、記録帳に名を書いた時」  エリアスは続けた。 「ただ呼ばれるためではなく、自分が何をしたのかを残すために書いたのだと思いました」 「見たかったな」 「雨で少し滲んでしまいました」 「それでも、お前の字だと分かると思う」  エリアスは、ふっと口元を緩めて微笑む。  それは、笑みというには草臥れていて儚かった。けれどセドリックにはもう、それが彼の心から零れた笑みだということが分かっていた。  そのとき、静寂を割るように扉が叩かれた。  ふたりの手は、まだ重なっている。  エリアスが反射的に引こうとしたので、セドリックは少しだけ力を込めた。エリアスの手は、少しだけ温まっている。自分の温度の移った掌を、まだ離す気になれなかった。 「入れ」  告げると、ハンナが大きな銀盆を携えて入ってきた。  盆の上には、温かなスープと柔らかいパン、蜂蜜を落とした紅茶が載っている。明らかに一人分ではなかった。  ハンナは二人の手に気づいたかもしれないが、何も言わなかった。 「ヴェイン様。まずは温かいものを」 「……ありがとうございます」 「お礼は結構です。召し上がってください」  その言い方は、長く城を支えてきた使用人へのものではなく、帰ってきた家族を叱るようだった。  エリアスは少し戸惑ったようだったが、そっと匙を取った。  湯気が、二人の間に立つ。  一口飲んだエリアスは、小さく息を吐いて目を伏せた。 「美味しいです」 「うん」 「帰ってきたのだと、思います」  その言葉に、セドリックは目が潤まないよう、眉間に力を込めた。  帰ってきた。  ただ帰城したのではない。逃げた者が引き戻されたのでもない。自分の意志で戻り、思いやりを受け取り、ここにいることを身体で確かめている。  ハンナは給仕を終えると、頭を下げて部屋を出ていった。  しばらく、二人は黙って食事を取った。  急いで話さなければならない課題は山積していた。けれど、食事を共にする息遣いが、今はどんな言葉よりも必要に思えた。  セドリックは、自分もパンをちぎる。  朝から何も喉を通らなかったのに、にわかに空腹を覚えていた。向かいにエリアスがいる。それだけで、身体がようやく今日を始めようとしている。  ◇  午後、城の中では静かな組み替えが始まった。  正式な鍵の分配はまだ先にするとしても、今日から何を誰が見るのかだけは決めておく必要があった。家政はハンナへ、財務の整理はレジナルドと会計係へ、領地の書類はセドリックの机へ。温室と北の谷に関する記録だけが、エリアスの前へと積み上げられる。  最初は、誰もが戸惑いエリアスに指示を仰ごうとした。エリアスもまたそれに応えかけたが、その度に口を噤み、新しい担当者へその問いを振り分けている。  夕刻、書類仕事をあらかた片付けたセドリックは温室へ向かった。  雨は完全に上がっていた。庭の土は柔らかく、靴底に湿り気が伝わってくる。硝子の温室には水滴が残り、夕陽を受けて細かな光を散らしていた。  扉を開けると、濡れた緑の匂いがした。  エリアスが作業台の前に立っていた。外套は脱いでおり、髪も整えられていたが、顔色はまだ白い。彼の前には、灰薔薇の記録帳と、持ち帰った採取記録の写しが置かれている。 「休めと言った」  セドリックが声をかけると、エリアスはばつの悪そうな顔で振り返った。 「……少しだけです」 「その言葉を信用しないことにした」 「では、どう申し上げれば」 「眠れなかったと正直に言え」  エリアスは黙った。図星だったのだろう。  セドリックは作業台へ近づき、記録帳を見下ろした。原種株の位置、花弁の状態、水路との距離、土の湿り具合。丁寧な文字が、まるで刺繍のように帳面に綴られている。 「君の字だな」 「はい」  家令ではなく、エリアス自身の文字だ。セドリックの込めた意図に気付かなかったのか、エリアスは真面目な顔で頷く。  エリアスの手がそっと記録帳の端に触れた。その指先には、まだ手巾が巻かれている。  セドリックも同じように記録帳に触れながら、口を開いた。 「僕は、お前を家令に戻すつもりはない」  エリアスの身体がぎくりと強張った。拒絶されたわけではないと分かっていても、その言葉は彼の長い歳月の中心に触れたのだろう。  セドリックは、言葉を急がなかった。  沈黙の中で、灰薔薇の香りがほのかに鼻先をかすめる。 「誤解するなよ。前も言っただろう、追い出すつもりはない」  エリアスがほんのわずかに首を傾げる。セドリックは顔を上げ、自分より少し高い位置にあるその瞳を覗き込む。 「灰薔薇を任せたい。温室と北の谷、原種株の記録、商会へ出す資料。お前が隠して守ってきたものを、これからは隠さずに育ててほしい」  エリアスは瞬きもせずに、セドリックを見つめている。 「家令ではなく、灰薔薇の管理人として」  その呼び名は、まだ正式なものではない。書類にも記されていない。けれど口にした瞬間、温室の中で静かに根を下ろした気がした。  エリアスは、作業台に視線を落とした。 「私は、それを望んでもよいのでしょうか」 「僕が決めることじゃない」  そう言うと、エリアスは少し驚いたようにセドリックを見た。 「お前が決めることだ。僕は望みを言うことはできる。でも、決めるのはお前なんだ」  言葉を紡ぐほどに、セドリックの中でその思いは確信へと変わっていく。これが、自分がエリアスに差し出したかったものだと、セドリックは強く決意していた。 「セドリック様は」 「残ってほしい」  今度は、迷わなかった。  必要だ、とは違う。役目のためでもない。  ただ、望みだった。 「君に、ここにいてほしい。灰薔薇のそばに。……僕のそばに」  言い終えた後で、セドリックは自分の声が少し掠れていることに気づいた。  エリアスは長く黙っていた。  その間、セドリックは待った。言い換えず、理由を重ねず、返事を誘わずに。沈黙を自分に都合よく解釈しないことが、こんなにも難しいとは思わなかった。  やがて、エリアスが口を開いた。 「私は、戻りたいと思いました」  昼にも聞いた言葉だった。  けれど、今度は続きがあった。 「灰薔薇を守るためだけではありません。アシュフォード家に仕えるためだけでもありません」  エリアスは、机の上に置かれた記録帳へ触れた。 「ここで、この花を育てたいと思いました。あなたが、この先どうこの家を変えていくのかを、見ていたいと思いました」  セドリックは、息を詰めた。 「あなたの、隣で」  静かな言葉だった。  甘い告白というには慎ましく、誓いというにはまだ不確かで、けれどセドリックの胸にはまっすぐ届いた。  それだけで、十分だった。  セドリックは、そっと手を伸ばし、途中で止めた。  エリアスの視線がそれを追う。 「触れてもいいか?」  尋ねると、エリアスの表情がわずかに変わった。驚きではない。嬉しさに似た何かを、どう扱えばよいのか分からない顔だった。 「はい」  許しを待って、セドリックは彼の手に触れた。  手巾の巻かれた指先ではなく、掌の方へ。昼よりも少し温かかった。エリアスは逃げず、かすかに指を開く。セドリックの指がそこへ入ると、彼はゆっくり握り返した。  控えめな力だった。けれど、それは確かにエリアス自身の応えだった。 「……今日は、ここまでにしよう」  セドリックの言葉にエリアスが顔を上げる。 「お前は休む。僕も休む。灰薔薇の管理人の正式な話は、明日以降にする」 「温室の記録は……」 「明日の朝食の後だ」 「……朝食の後、であれば」  エリアスは、少しだけ考えてから頷いた。  その頷きがあまりに真面目だったので、セドリックは今度こそ笑ってしまった。 「何かおかしいでしょうか」 「いや」 「笑っておいでです」 「うれしいんだ」  そう答えると、エリアスは言葉を失った。  温室の中に、静かな夕暮れが満ちている。外では濡れた庭が淡く光り、硝子に残った水滴が一つ、ゆっくりと落ちた。空が、エリアスの瞳と同じ色に染まっている。  セドリックもエリアスも、繋いだ手を離さなかった。 「戻ってきてくれて、よかった」  もう一度、セドリックは言った。誰に聞かせるためでもない、独り言のような呟きだった。  エリアスは目を瞬かせて夕闇を見上げる。 「戻りたかったのです」  その返事が、今夜の全てだった。  

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