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第1話
Prologue
カツン……カツン……、と硬質な音の響きが耳に届く。徐々にそれは近づいてきているようだったが、もしかしたら幻聴なのかもしれない。
それほど、ここでの暮らしは生きているのか死んでいるのかの境界も曖昧で、夢なのか現なのか時々自分でも判断がつかなくなっていた。
ジーン――ユージーン・オーブリー・アシュクロフトは自身の嫁ぎ先であったヴァロワ公爵家の一人息子リアムを毒殺した罪で一年前から投獄されていた。
仮にも貴族であったジーンは僅かながら温情をかけられて、地下牢ではなく塔の最上階にある牢屋に収容されていたが、それでも過酷な環境ではある。
冷たい石の床に、ないよりはましといった程度のぺらりと一枚ぼろきれのような薄布を敷いただけの寝床。
日中でも牢内は暗い。明かり取りの小窓は自分の背よりもずっと高いところにあって、外の景色を眺めることもできなかった。夜は夜で明かりといえば食事を運ぶ牢番が持っている小さな蝋燭の火だけ。また食事も与えられるだけましだとは思うが、冷え切った水のような、ほんの少し塩味がするだけのスープと、干からびて硬くなった黒パンのみが一日一度か、時折気まぐれに二度だけ与えられる。いつもは夕食だけなのだが、今日はまだ日が射すうちに牢番がやってきた。ということは気まぐれな食事が与えられるのだろう。もしかしたら王宮内でなんらかの祝いでもあったのかもしれない。
「おい、食事だ」
至って不機嫌な牢番の声とぞんざいに置かれる粗末な食事。
ジーンはのろのろと起き上がり、格子越しに差し出された器を手元に引き寄せる。ナイフやフォークはおろかスプーンさえない。尖ったもので牢番に攻撃したり、ジーン自身を傷つけたりするのを防ぐためだ。そのため食事は基本的に手づかみでするのだった。
「…………ありがとうございます」
それでも、ジーンは礼を言うことを忘れなかった。
こんなところに追いやられても、不思議と誰かを恨む気になれなかった。これが自分の運命なのだとしたら受け入れるしかない、そんな心持ちのまま日々を過ごしている。
おそらくこのままなだらかに、いずれ訪れる死を待つしかないのだろう。
唯一の楽しみは、ジーンがこの牢に入ってからまもなくやってきた一匹の小さな蜘蛛が天井の片隅に作る巣の様子を眺めることだった。
時折差し込む日の光に蜘蛛の糸がキラキラと光っていたり、巣の形が日ごとに変化する様は見ているだけでとても楽しい。
そんな僅かな楽しみを見つけなければならないほど、ここでの暮らしは過酷とも言えるもので、おそらく無意識のうちにジーンは正気を保つための選択をしていたのだった。
けれど、満足な食事を与えられることもなく、かつ劣悪な環境下に置かれていたジーンは病に身体を蝕まれていた。咳が止まらず、最近では咳に血が混じるようになっていたが、牢番に見つからないようにしていた。見つかれば牢番は牢に近づかなくなってしまうだろう。そうすれば食事も与えられなくなってしまう。
ジーンは、くす、と笑った。
(まだ、僕は生きることを望んでいるのか)
生きるのを諦めているのだとすれば、もう食事など一切とらなくていいはずだ。なにも食べずなにも飲まずにそのままでいれば死に至る。なのにまだ食事を欲しがり、食べようとする意欲があるというのは、自分はまだ生きたいと願っているらしい。
(おかしなものだ。ここまで虐げられてもなお、生きたいなんて……)
滑稽だ、と思ったその感情を隠しきれず笑い声になったらしい。
そのかすかな笑い声は牢番の耳に届いたのだろう、怪訝な視線をジーンに寄越した。
「なにがおかしい」
不機嫌な声とともに牢番はジーンを睨みつけた。
「いえ……なんでもありません。……蜘蛛が新しい巣を作ったなと」
そう言いながらジーンは天井を指さす。そこには小さな新しい巣ができていた。
牢番はジーンに嫌悪の目を向ける。
「……ちっ、よくそんなことで笑えるもんだ。薄気味悪ぃ」
舌打ちをし、顔を顰めた牢番はそそくさとその場を後にした。
「しまったな……ますます心証を悪くさせてしまった」
牢番とは元々それほどいい関係とは言えなかった。これで彼がジーンのことをもっと嫌いになっても、さして影響はないだろう。牢番はジーンを疎んではいるものの、意地悪をするというほどの気概は持ち合わせない小心な男だ。
「それより、せっかく食事がきたのだから、いただくとしよう」
味のしない冷めたスープとコチコチに硬くなった黒パン。
ジーンは黒パンをスープに浸すと、それをひと口囓った。
「リアム……」
食事の手を止めてジーンは小さく息をつき、スープの上に涙をこぼす。
一年以上経っても、まだジーンの心の傷は癒えない。
ジーンがリアムと過ごしたのは一年と少しとそれほど長い時間ではなかったが、ジーンはリアムを可愛がっていたし、リアムもジーンに懐いていた。
リアムはジーンの結婚相手だったヴァロワ公爵――オーレリアス・ラッセル・ヴァロワの先妻の子で、ジーンとは血の繋がりはまったくなかったが、ジーンはリアムのために心を砕き続けて、可愛がっていたのである。
――あの子が生きていたら、そろそろ貴族学院の初等科に入学する頃だったかな。
彼の制服姿を見たかった、と思いながらジーンは指で目尻の涙を拭った。
可愛い子だった。心から幸せになってもらいたいと願っていた。
だから、けっして自分があの子を殺すわけがない。
ここにこうして自ら死を選ぶことなく、必死に生に縋っているのも、自分は無実だというせめてもの主張だった。しかし――突然、ジーンの身体に異変が起きた。
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