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 この家は近隣で知らぬ者はいない《南雲井邸》だ。  高級住宅地《紫環崎(しわさき)》を代表する豪邸であり、「丘の上の」と言えば「ああ、南雲井さんちね」と返ってくる。  家を撮るためだけの取材依頼もくるとかなんとか。 「照近さん、僕たち庭にいますね」  篠とその子供が横を追い抜いていった。  リビングにはキッズスペースとしてサンルームがあり、直結の庭には砂場や遊具で遊ぶ子供を見守ることができる。長男夫婦の子供──英一にとっての孫──のためだけに造られた区画だ。 「篠さんはすごいな」  篠は堂々と廊下を歩いていく。  俺はそのへんの花瓶を倒さないかとか、壁の絵画にくしゃみをぶちまけないかとか、いつも不安でいっぱいなのに。 「あっ! サンルームに物干し竿、出しっぱなしだ!」  英一が孫のためにあれこれあつらえたものの、息子夫婦は滅多に帰省しなかった。  だから家政婦時代の俺は、サンルームを布団の天日干しとかで使っていたのだ。  慌てて走って篠を追いかける。  長男家族のための空間を図々しく私物化していたことを見られるのは気まずい。    ■ 「……ま、間に合っては無かったけど、許してもらえてよかった……」  サンルームに駆けつけて、素早く物干し竿や洗濯籠を片付けた。  先に到着していた篠は「ここ、日当たりいいですもんね。掃除してくれてたみたいで、ありがとうございます」と笑ってくれた。  ついでに孫たちからジュースのリクエストを聞いて、キッチンへ移動した。  ヤカンを火にかけて急須の準備をする。  湯が沸くのを待つ間、寿司屋に出前の電話もかけておく。  電話の子機を置いて振り返ると、ちょうど英一が部屋に入ってくるところだった。  アイランドキッチン越しに目が合う。 「朝はだいぶ涼しくなってきたね」 「つい先日まで猛暑だったのに、あっという間に秋ですね。──いま、お茶もっていきますから、座っててください」 「うん。その前に寿司の予約をするよ。いつもの《かずうら鮨》でいいかな?」 「あ、電話しておきましたよ」 「仕事が早いんだから。もっとくつろいでて欲しいな」 「頭ではわかっていても、なかなか難しいんですよ」  子供用のコップには氷とジュースを、湯呑みには急須で緑茶を入れる。お盆に乗せてダイニングテーブルへ運んだ。 「照近さんのお茶が飲めるのは嬉しいんだ。ありがとう。でも、私たちに気を使う必要はないし、『おじゃまします』なんて、もう言わなくていいんだからね」  家に入るときの独り言を聞かれていたらしい。  英一が急須を持って立ち上がり、キッチンへ歩いていく。  なにをしているのかと思えば、茶葉が残った急須にお湯を足し、食器棚から湯呑みをひとつ持って戻ってきた。 「新しい生活、ゆっくり慣れていこう」  茶の入った湯呑みを差し出されてやっと、俺が自分のぶんを用意していないことに気付く。 「あ、ついクセで……」 「いいよ、いいよ。私の男妻(つま)になったこと、何度でも思い知らせるからね」 「なんだか怖い言い方ですね」  くすっと笑うと、英一は嬉しそうに目を細めた。 「一年口説(くど)いたんだよ。やっと捕まえたのに、逃すわけにはいかないさ」  俺は密かに驚く。  経済的に困っていた俺を見かねて、気まぐれに求婚したのだと思っていた。  一年も口説かれていたなんてぜんぜん知らなかった。

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