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 サンダルをはいて庭に出る。声のするほうへ。 「おつかれさまです。良かったら休憩していってください」  近くのベンチにお盆を置き、手を休めた人へはおしぼりを渡した。 「ありがとうございます。射場さ……いや、もう違うんだった、奥様」  使用人仲間だった花沢に奥様と言われてドキリとする。なんだか気恥ずかしい。 「その、これからもよろしくお願いします」 「こちらこそ。俺はね、射場さ……奥様のことずうっと好きでしたから、幸せになってもらえて嬉しいです。南雲井さんは金持ちのアルファにしちゃできた人だから、本当に良い人と一緒になったと思うよ」  花沢は「くぅっ」と顔をくしゃくしゃにして、目に溜めた涙を袖で拭う。まるで子供の卒業式を見守る親だ。 「大袈裟だなぁ」 「そんなことないですよ、親方は隙あらば奥様のこと……」 「コラッ! クビになるだろ!」  弟子が会話に入ってくると、花沢は大慌てで怒鳴る。  仲の良い庭師たちの会話は、コントのようで聞いていると楽しい。 「みんなしてからかわないでくださいよ」  一緒に笑って、彼らが飲み終わったグラスを回収するとキッチンへ戻った。  英一はワインを開栓するところだった。 「一杯だけ乾杯しないかい?」 「いいですよ」  シンクにコップを置き、カウンターテーブルへ向かう。 「酒はね、嬉しいときに飲むのがおいしいんだ」  彼の口癖だ。だから悲しいときは飲まない、と常々言っていた。 「照近さんに」  赤い液体が揺れるグラスがそっと掲げられる。  同居を素直に喜んでくれていると思うと俺も嬉しくなった。  軽くグラスを持ち上げて、乾杯のジェスチャーを交わす。  ワインを飲み込む。  喉の奥がほんのりと温まった。  家政婦時代から彼に誘われて一緒に飲んだり、食事をしたりすることがしばしばあった。  今のような昼飲み自体は珍しいことではないが、ある意味で特別な『最初』だ。 「なにかつまみます?」 「夕飯もあるからなぁ……。チーズちょっとだけかじろうかな」  冷蔵庫から個包装のクリームチーズを一切れ取り出し、小皿に乗せて小さな二又フォークを添える。  この家には高そうな謎チーズがいくつもあるのに、彼はこのどこでも買えるクリームチーズが好きなようだった。俺も好きだ。 「夜、食べたいものありますか?」  ちまちまとチーズの角を削りながら尋ねると、目をぱちくりさせて英一がこちらを見た。 「まさか、これから買い出しに行くつもりかい?」 「ダメ……ですか?」 「ダメじゃないけれど、初日からがんばらないでよ。今夜は外食でどうかな」 「わかりました。タクシーの手配しますね。どちらに行きましょうか」 「照近さんのおなかは何が食べたいって言ってる?」 「どうでしょう……」 「じゃあ……ワインの口になったし、《ソル》とかどうかな」  懐かしい店名だ。初めて南雲井邸から連れ出されて訪れたスペイン料理店で、それきり行っていない。 「パエリア……!」  人生で初めて食べたパエリア。あの感動は今でも思い出せる。すごく良い匂いがして、噛むたびにじゅんわりと濃い海鮮の味が……。  よだれが出てきて、思い出だけで手元のワインを飲み込んだ。 「決まりだね」  目を輝かせた俺を見て、英一はニコニコしている。  物事を決めるのが苦手な俺をいつだって柔らかく受け止め、牽引してくれた。  押し付けがましく感じないのは、彼が人をよく見ていて、本当に相手のことを思って言葉を選んでいるからだろう。  そんな聡いところ、ゆえに垣間見える繊細さが愛おしかった。  ワイングラスとつまみの皿を回収し、溜めた洗い物をはじめる。  その最中も英一はソファからチラチラとこちらを見ていた。何かが気になるらしい。 「手伝ってもいいかな?」  気が付くと英一が横に来て、水切りカゴの皿を布巾で拭き始めた。 「座っていていいのに」 「なんだか、まだキミを雇っているみたいで変な気持ちになるんだよ」 「だから皿を拭きたいんですか?」 「だってキミ、『家事なんてしなくていい』とは言われたくないでしょう? ならせめて、参加させてくれないかな」 「そんなこと……気にすることないですよ」 「私の気持ちの問題だから、許してほしいかな。──だが申し訳ないのだけれど、この程度の手伝いが限界だ。家事なんてしたことないから、勝手なことをするとかえってキミを怒らせる気がする」 「ええ、その通りです。掃除用具には触らないでくださいね」  この家のあらゆるものが高価だ。大理石のタイルに酸性洗剤でも使おうものなら、英一相手でも思わず殴るかもしれない。 「なにかしら……できるようになるよ。洗濯物を畳むとか」 「雇われているときから思ってましたけど、変わり者ですよ、英一さんって」 「そうかなぁ」 「アルファが家事なんてしたら、笑われます」 「なんだか母を思い出すね。子供のころに似たような叱られ方をしたよ。だから妻のやることには口を出さないようにしていたんだけどね……」  複数人の足音がして、振り返ると庭師の面々が並んでいた。

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