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2 泥あればこそ蓮【1】
一ヶ月が経った。
平和そのものだ。
俺は専業主夫だし、英一も楽隠居の身だからお互いほとんど家にいる。
朝から晩まで二人きりの時間……といえばそうかもしれない。だが、それぞれ違うことをしているので蜜月のような甘いニュアンスはない。
俺は家事、彼は庭いじりや読書。たまに一緒にテレビを見て、雑談をして、食事をする。
外出を含めて自由にしていいと言われているが、この土地は広大な坂を車で降りて──それこそ《下界に降り》なければ住宅以外なにもない。
土地勘もないし、やりたいこともないから、家でやれることを探してしまう。
それに、呪いのように元義母の言葉が脳裏に蘇る。
──他のアルファに取り入って楽をしようとするなんて。
楽をしようだなんて思ったことはない。……はずだ。
(楽になりたいとは、願った)
「身体が冷えてしまうよ」
いつの間にかそこに立っていた英一が窓を閉める。
俺はリビングのソファに座って、庭師たちがせっせと働く庭を眺めていたのだった。
晩秋のキンと冷えた空気と陽光が心地よくて窓を開けたままにしていたが、気付けば指の先まで冷たくなっている。
「……こんなに寒くても、花は咲くんですね」
隣に英一が座った。
「バラなんかは寒さに強いね。もうちょっとしたらエリカが咲くよ。しとやかな小さな花でね、ほんのりと石鹸みたいな甘い匂いがするんだ」
「気になりますね。楽しみです」
付けっぱなしにしていたテレビの中で、キャストたちが談笑していた。
画面には《ずっと続けている趣味特集》とあり、様々な人物が紹介されている。筋トレしているというムキムキのおじいさんがインタビューを受けていた。
英一も俺と同じようにテレビを見て、ふと思いついたように言った。
「照近さん、学生時代とかなにかやってなかったの?」
「俺の学生時代って、中学までですよ。剣道をやってましたけど、趣味というほどでは……」
「剣道? 意外だけど、かっこいいじゃないか。続ければ良かったのに」
簡単に言ってくれる。オメガにそんなことをしている暇などないのだ。
十五歳になったらすぐ見合い写真を撮り、花嫁修業が始まる。
俺の故郷は古い習わしを大切にしている年寄りが多かったから、近代の感覚に惑わされない《まともなオメガ》を育てることに誰もが熱心だった。
スポーツなど遊んでいる暇があるならたしなみを身につける勉強をしなければならない。
家事や帳簿管理、行事のマナーなどもそうだし、子供が産める身体づくりのためにまじないじみたことまでやっていた。
思えば、同郷の元夫はあの空気を嫌って上京を決めたのかもしれない。療養のためとは言っていたが、大きな病院はもっと近い県にもあった。
都会生まれのアルファである英一は、こういう世界を知らないだろう。
「……俺には向いてなかったので。今更やろうとも思わないですよ」
「そっか。無理にやるものじゃないものね」
「英一さんだって、何かないんですか? ゴルフも最近行ってないでしょう」
「キミとの時間を大切にしたいと思っているんだよ。家で一人にさせたくないし、誘っても照近さんは乗り気じゃないみたいだから」
「どうしてもと言うなら行きますが……」
「いい、いい。そんなのお互い楽しくないよ」
「すみません……。むずかしいことって、苦手で」
以前の英一は、仲間とよくゴルフに行っていた。
最近は誘われても断っているらしい。
俺のことを最優先にしてくれているのはわかるが、彼の人生も大切にしてほしい。
「我慢していないかい?」
こっちのセリフだ、と言いかけて飲み込んだ。
英一が我慢しているとして、原因は俺なのだから。
俺がいつまでもぎこちないのを、彼は見抜いている。
理由まではわからないだろう。彼や家のせいではない。俺の問題だ。
「大丈夫ですよ。のびのびさせてもらってます」
「それならいいんだ。そうだ、ゴルフがあんまりなら、クルーザーに乗ろうよ。静かな沖で日向ぼっことかオツなものだよ。暖かくなってからだけどね」
「いいですね。船、乗ったことないんです」
窓の向こうで花々が風に揺れている。
整然としたおだやかな景色の中にいる。
アザミが咲く野暮な田舎とは違う。
ここは天国だ。
英一の優しさに触れるたび、自分が罪を重ねているようで怖くなる。
テーブルに置いていたスマホが鳴った。
手に取る前に画面を見る。
あのとき以来の元義母からの電話だった。
俺が表情を固くしたのを、英一は見逃さない。
「私が出ようか」
「そういうわけには。すみません」
慌ててスマホを取る。
コールはまだ続いていた。
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