1 / 16

第1話 縁談の報せ

 ソファーテーブルの上に小さな薬壜がひとつ。 「どうする?」  信頼していた幼馴染は悪魔的な美貌を破顔させて、琥珀色の液体が入った小さな薬壜を差し出した。茶でも勧めるような気安さで、人ひとりの性を根こそぎ書き換える薬を。  平成二年、春。帝都の一等地に翼を広げる泉堂(せんどう)本邸の最奥、応接間である。庭の桜はすでに満開で、硝子越しの花明かりが男の薄茶の髪をほのかに光らせていた。剣崎(けんざき)山桜桃(ゆすら)がこの席に着いたのは、妹で進んでいた縁談の身代わりとして名指しを受けたためだ。少なくとも、表向きは。  泉堂賀久(がく)。泉堂財閥の後継者にして泉堂製薬の若き総帥。二十年前に婚約を結び、山桜桃がアルファと判定された日にそれを反故にした家の男が、いまテーブルの向こうで頬杖をついている。  アルファをオメガに書き換える、世界に存在しないはずの薬を挟んで。  なぜ今さら、俺との婚約を——と山桜桃が探りを入れても、賀久は頬杖を崩さなかった。声は揺れていないはずだ。軍を出て三年経っても、交渉の席で声を揺らさない訓練だけは身体に残っている。 「相変わらず、細かいことを気にする男だな。選ぶも選ばないも、おまえ次第だ」  山桜桃は長いこと抱いていた目の前の男への友情と、提示された条件の残酷さの明暗に目をくらくらとさせて、じっと考えていた。  考えながらも、頭のべつの場所で損得を測っている。この薬を飲めば妹の雛菊(ひなぎく)は完全に卓から降りる。効果のほども安全性もわからないが、飲んでオメガになれば泉堂家の内情を知る機会が生まれるだろう。  兄が半年かけて探しあぐねた扉が、向こうから開くのだ。それに剣崎の家門を思えば、泉堂と結ぶこと自体は悪い取引ではない。あの男の思惑には裏があるとしても、狙いはどうせ剣崎の姓だ。  お互いが利用し合う関係なら、都合がいい。  結論はそれだけだ。おのれの性がどうなるかは、はじめから外していた。装備がひとつ変わる、その程度の話である。 「剣崎家としては申し出を喜んで受ける」  言葉で答えてから、手を伸ばした。硝子は指先より冷たい。琥珀色の液体が灯りを受けて、蜂蜜のようにとろりと光る。毒がこんなにきれいな色をしていていいのか。  封を切っても薬液は匂わなかった。一気に(あお)る。ごくりと飲み干す。  桜の色をした静けさの中で、壜のように澄んだ青い目だけがそれを見ていた。  ——三日前。    ◇  帝都、番町(ばんちょう)。官庁街から地下鉄でふた駅の一角に、剣崎本家は古い門構えを残している。武門の家系として五代、陸軍に将官を、警察と公安にも高官を送り出してきた家系だ。当主の剣崎時雨(しぐれ)は、陸軍中将まで昇って退いた女傑である。隠居して十年になるが、家の決定権は変わらず手放していない。  実務を担うのは長子の雪彦(ゆきひこ)だった。与党である民和党の代議士、四十三にして厚生労働省の副大臣。党内では幹事長派の次代と目される男である。家督も爵位も、長子が継ぐ。次子の生き方は、それ以外の全部だ。  弟の山桜桃は兄の秘書兼護衛で、元は陸軍の情報将校だった。国際連盟の理事国顧問団の名目で、中東や南アジアの戦争に何度か参加した経験がある。百八十五センチの偉丈夫で、仕立てのいいスーツの上からでも胸の厚みが分かる。廊下を歩いても足音を立てない癖だけが、前歴を知る者に軍隊出身の名残りを伝えた。  泉堂家との縁談は、もともと剣崎の側から持ちかけたものだった。オメガの雛菊の嫁ぎ先として、財閥の後継ほど家格の釣り合う相手はいない。時雨の差配で話は進み、先方の内諾も得て、あとは正式な返書を待つばかりだったのである。  返書が届いたのは、水曜の夕方だった。  予告の電話は昼のうちに秘書室から入っていた。玄関に立ったのはダークスーツの男がひとり、差し出されたのは飾り気のない白い大判の封筒である。中身はワープロで打たれた縁談への返書、署名だけが万年筆だった。泉堂家先代当主の名義である。型どおりに進んだ承諾の文面が、最後の一枚で壊れた。  添え状に手書きで、一行だけ。  雛菊嬢ではなく、兄君の剣崎山桜桃を。  夕食の皿が冷めるあいだ、剣崎の家は静まり返った。 「……わたくし、意味が分かりません」  口火を切ったのは当の雛菊だった。二十一になる妹は、テーブルの上で拳を固めている。青ざめてはいたが、目は返書から逸れていない。 「わたくしで進んでいたお話です。なぜいまさら、お兄さまの名前が出てくるのですか。お兄さまはアルファでいらっしゃるのに」  もっともな問いだ、と山桜桃は思う。オメガの雛菊に財閥の後継との縁談が調うのは、この国の仕組みでは自然の摂理に近い。少子化が急激に進むこの国で、百人といないオメガは家門の宝であり、政略の駒であり、生まれたときから嫁ぎ先を家に決められる身の上だ。雛菊が青ざめたのは縁談の破談にではない。差し替えを指定された兄の身を案じてだった。 「解せんな」  食卓の奥で、時雨が老眼鏡を外した。陸軍中将で退いた声は、いまも号令の芯を残している。 「泉堂の先代は入院されているはずだが。この署名で返書が出るとはな」  誰も答えなかった。財閥の内向きの事情など、外の家が測れるものではない。時雨も深追いする気はないらしく、老眼鏡を畳んで封筒の上に載せた。疑念より先に、家門の値踏みが済んでいる顔だった。 「いずれにせよ、泉堂と縁ができるなら家門に否やはない。子なら妾腹に産ませればよかろう。——山桜桃。おまえがアルファでも、使い道があったということだ」  悪意のない声がいちばん深く刺さることを、この父は知らない。  山桜桃は一礼だけ返し、添え状を二度読み、折り目を戻して封筒へ納めた。  癖のない、定規で引いたような筆跡だった。療養中の老人の字ではない。十年前に会ったきりの男の字を覚えているわけではないが、覚えているのは筆跡ではなく、判定の日を境に一度も届かなくなった手紙の、届かないという事実のほうだ。  許嫁、という言葉の重さを、幼い時分は知らなかった。休みのたびに麻布へ通い、庭で暴れ、同じ皿から菓子を取る。大人たちが「いずれ夫婦になる」と笑うのを、遊びの続きのように聞いていた。山桜桃のアルファ判定の紙一枚が、その全部を書類ごと畳んだのだ。  泉堂賀久。  名前を胸の内で読み上げても、浮かぶ顔は十八で止まっている。    ◇  夜、兄の書斎に呼ばれた。  番町の家でいちばん古い部屋である。床の間に先々代の軍刀が飾られ、机の上では霞が関から持ち帰った書類と、読みさしの新聞と、ワープロが場所を分け合っていた。新聞の一面は、仏印の停戦案を巡る連盟理事会の記事である。雪彦は着替えもせず、ワイシャツの襟だけ緩めて座っている。 「泉堂賀久か」  雪彦は封筒を一瞥して、名前だけを口にした。 「許嫁以前に、おまえたちは親友のようだったな。バース判定でおまえがアルファと診断され婚約が流れてからは、それきりだが」 「……よく覚えていますね」 「忘れる歳の差ではない。あの頃おまえは、休みのたびに麻布へ通っていた」  兄は弟より十五も年長で、腹も違う。番町の家で共に暮らした歳月は短いが、見るべきものは見ていたということだ。雪彦は手元の茶を一口含み、湯呑を置く音だけで話題を替えた。ここから先は、父の耳にも入れていない話だという意味だった。 「厚労の仕事とはべつに、半年ほど前から泉堂を洗っている」  山桜桃は黙って続きを待った。秘書として兄の日程は把握している。日程に載らない会合が月に数度あることも、相手が公安の伯父筋であることも、把握した上で訊かずにいた。 「バース医療の独占の件だ。不妊治療に転用できる技術を、あの財閥は金庫に眠らせている。眠らせるだけならまだいい。海の向こうに売る算段をしている節がある」 「証拠は」 「ない。金の流れの影と、人の出入りの影だけだ。泉堂の内側に立てる人間がいない」  そこまで言って、雪彦は封筒に目を落とした。白い上質紙が、デスクライトの下で骨のような色をしている。 「渡りに船、という言葉がある」  兄の声は変わらなかった。日程を読み上げるときと同じ、感情の乗らない声である。あとになって山桜桃は、この夜の兄の声を何度も思い返すことになる。 「向こうから名指しで扉を開けてきた。理由は分からん。分からんが、雛菊を内偵に使うわけにもいかないだろう。おまえは——」 「……俺は適任ということですね」  引き取ると、雪彦ははじめて弟の顔をまともに見た。かつて役に合わぬと舞台を降ろされた身が、ふたたび泉堂財閥の御曹司の婚約者という役に戻される。うまく演じるのであれば、今の自分ほど似合っている役者もいない。 「嫌なら断っていい。家長代理として無理強いはせん」  嘘ではないのだろう。ただ、断れば雛菊の縁談が卓に戻ることも、兄の内偵が振り出しに戻ることも、双方が承知の上の問答だった。武門の家で、断っていいと言われて断る次男坊は育たない。 「承知しました」  答えは短く済んだ。雪彦は一つ息を吐き、それきり労いは口にしない。代わりに来たのは、公安の伯父の連絡経路と、報告の頻度と、深入りの禁止事項である。命のやり取りではなく書類のやり取りだ、と兄は念を押した。  書斎を辞して自室に戻り、山桜桃は窓の外の暗い庭を眺めた。  泉堂賀久がなにを考えているのかは分からないが、読み筋は立つ。武門の家柄、政界に立つ兄。軍と警察、おまけに公安へと張られた一族の根。財閥が縁を結んで損のない家だ。執着の体裁を取った投資だろう。だとすれば、こちらも投資で返すまでのことだ。  十八で止まった顔が、まぶたの裏で一度だけ笑う。  考えるのをやめて、山桜桃は灯りを消した。    ◇  三日後の朝は、憎らしいほど晴れた。  麻布の丘は坂の多い町である。長い塀に沿って車が登り、鉄の門が音もなく開いた。門から玄関まで、桜並木の私道が続いている。花はちょうど満開で、風のたびに白い花弁が黒塗りの車体を叩いた。  玄関で出迎えたのは黒服の使用人たちだった。磨き上げられた廊下を奥へ通される。調度は舶来で統一され、壁の一箇所だけ、額を外した跡が四角く日に灼け残っていた。  応接間の扉の前で、案内の男が一礼して下がる。  扉の向こうに、十年ぶりの男が待っている。  山桜桃は息を整えもせず、扉に手を掛けた。

ともだちにシェアしよう!