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【最終話・R18】第22話
噛みつくような口づけだった。
この男の口づけはいつも計算されていた。深さも長さも、山桜桃 が息を継げる間合いも、全部測ったうえで与えて来る。今夜は違った。歯が唇に当たって、痛いのに離れる気がしない。
背中に手が回って、書き物机の縁に腰が当たる。電気スタンドが揺れて、灯りの角度が変わった。
「賀久 、机の角が腰に当たっている」
「ああ、すまない」
賀久は短く笑って、山桜桃の膝の裏に腕を入れた。抗議する間もなく持ち上げられて、寝台へ運ばれる。細身に見えて、意外に力があるようだ。
仰向けに下ろされて、上から見下ろされた。
賀久は動かない。ずっとそうだ。差し出して、選ばせて、待つ。今夜も待っている。
馬鹿げている、と山桜桃は思った。まだ躊躇っているだなんて、やって来たことは前代未聞であるのに臆病な男だ。
手を伸ばして、賀久のシャツの釦に指をかけた。上から二つ外したところで、その手を掴まれる。
「……いいのか」
「そういう訊き方は、もういい。おまえの好きにされたい……これで満足か?」
言ってから、自分の声が掠れているのに気づいた。
賀久が熱い息を吐いた。長く吐いて、それから山桜桃の手首を放す。
「後悔するなよ」
それきり、この男は訊かなかった。
◇
賀久は手際よく山桜桃の服を脱がした。
釦を外して袖を抜くのも、迷いがない。それでいて急がず、肩から布が落ちるあいだに、指が鎖骨をなぞって下りていく。
脇腹の古い痕のところで、手が止まった。
「……これはいつのだ」
「顧問団にいたころだ。銃弾の破片が浅く入って、何針か縫った」
「もう消えないんだな」と、賀久はそこに口づける。
傷を悼んでいるわけではなく、自分が知らない山桜桃の八年を確かめていた。触れられるたびに、ぞわりと肌が粟立 つ。
仰向けのまま、山桜桃は目を閉じかけて、やめた。
「灯りを消さないのか?」
「消したくない、おまえの顔が見えなくなる」
「見て面白いものでもないだろう」
「面白い。いま、ひどい顔をしているぞ」
山桜桃の火照った肌の色と、橙色の灯りが合わさっている。この夜、山桜桃はおのれの身体すべてを賀久にさらけ出した。
◇
枕元の抽斗 を開ける音がした。
冷たいものが指に取られる気配がある。半年のあいだ、この手順は何度も繰り返された。ヒートの夜は要らないが、そうでない夜には山桜桃の奥をほぐす必要がある。無理やりオメガに変えられたこの身体は、都合よく濡れたりしない。
最初の一本が入ってくる。
内側が押し返す。慣れているはずなのに、粘膜は他人の指を異物と認識した。山桜桃は息を細く吐く。
「……大丈夫だ、山桜桃」
賀久は急がなかった。指の腹で内側をゆっくり撫でて、山桜桃の呼吸が変わるのを待っている。はじめての夜も、こうだった。この男は身体を開かせるときだけ、恐ろしいほど気が長い。
二本目が入るまでに、ずいぶんと時間がかかる。
時間がかかったぶん、指が動きはじめたときの熱が違った。奥の一点を探り当てられて、山桜桃の腰が跳ねる。
「……っ、あ」
半年前なら、ここで声を抑えようと必死で努めていた。声を殺すのは訓練で覚えているが、この行為は訓練でも、ましてや拷問でもない。
今夜、山桜桃は声を押し殺すのを諦めた。そうやって我慢したところで、無駄に思えたからだ。
「あ、っ……そこ、……ん!」
「知ってる、ここだな」
三本目が入って、内側がひらく。
滑る音が耳に届いて、それが自分の身体から出ているのだと分かるのに、山桜桃はいちいち羞恥を覚えた。半年経っても慣れない。慣れないままで、身体だけが素直になっていく。
「賀久、もういい」
「まだだ。おまえは痛いと言わんからな」
「……もう、挿れろ、挿れてほしい」
賀久が指を止める。山桜桃を見下ろして、それから、なにかを堪える顔をした。
◇
袋の破れる乾いた音がする。
この音を何度も聞いた。賀久は最後の線だけは越えないでいる。傷つけないし、望まない妊娠もさせない。逃げ場は塞ぐのに、そこだけは残しておくのだ。
山桜桃は手を伸ばして、賀久の手首を強く掴んだ。
「……つけるな」
賀久の青い目が、暗闇の中で激しく揺れる。
「そんなものは要らない」
「山桜桃、薬はまだ効いているんだぞ」
賀久を掴んだ手首に指を喰い込ませた。逃がさないように、強く、力を込める。
「子を作ろう、賀久」
賀久の呼吸が途切れ、息を吸うことすら忘れたように固まり、それから掴まれた手首を力任せに振りほどこうとする。山桜桃は絶対に放さなかった。
「ふざけるな、同情か! それとも罪悪感のつもりか!」
賀久の声が荒れた。ともに暮らしてから、一度も見せたことのない必死な顔だった。
「俺のような人間の子どもを、お前に産ませられると思うか?」
「……知ったうえで言っている」
山桜桃も声を張った。自分でも驚くほど声が掠れている。
「お前には本当の家族がいない」
賀久の動きがぴたりと止まる。
「お前はこの家で誰の子でもなかった。ずっとひとりで……だから作るんだ。俺とお前で」
「山桜桃……」
「俺には家族がいる。ろくでもない家だったが、あたたかい瞬間もあった。お前にもそれを作ってやる。……お前と家族になりたい」
沈黙が二人のあいだに落ちる。
賀久の目が晴れた空の色から、今にも雨が降り出しそうな暗い色に変わっていく。十五の春、渡り廊下で自分を睨みつけていたあの日の眼差しだ。
「……ずるいのは、いつだって本当にお前だ」
低く呟くと同時に、賀久は避妊具を放って、山桜桃の膝を強引に割った。
◇
薄い膜が一枚ないだけで、世界が変わる。
内側が生身で直接擦り合わされ、山桜桃は敷布を破らんばかりに掴んだ。奥を突かれるたびに、背骨を甘い痺れが駆け上がっていく。
「っ、あ……ぁ、」
「山桜桃」
「賀久、っ……ゆっくり、」
「……無理だっ」
賀久の律動が狂っていた。いつもの浅く二度、深く一度という計算された動きなど、どこにもない。髪を振り乱し、必死な顔で山桜桃を突き上げている。
「ずっと加減していた……嫌われないように、壊さないように、後戻りできるように!」
「……守らなくていいと言っている」
「黙れ」
「嫌なものか。気持ちがいい」
賀久の動きがぴたりと止まった。見開かれた青い目が山桜桃を映している。
「お前に抱かれるのが、気持ちがいい。お前じゃなきゃ嫌だ」
畳みかけるように言い、山桜桃は腕を伸ばして賀久の首に抱きついた。
そのまま、顔を横に切る。
無防備な、うなじをさらけ出した。
「噛め」
賀久の息が詰まる音がした。
「……山桜桃、自分がなにを言っているのか……」
「知っている。お前が待っていたのはこれだろう。噛めよ、賀久」
「……噛んだら」
賀久の声が、見たこともないほど掠れていた。
「もう、一生離してやれないんだぞ。離婚届を何千枚書こうが、番は上書きできない。お前が後から正気に戻って後悔しようが、俺はお前を死ぬまで放さない」
「そうしろと言っているんだ」
歯が当たった。
当たって、そのまま沈んだ。
痛みが走って、次の瞬間に、痛みが痛みでなくなった。首の後ろから背骨を伝って、熱いものが下りていく。視界の端が白く飛んで、山桜桃は声も出せずに背を反らした。
内側が勝手に締まる。
賀久が呻いて、奥まで押し入ってきた。膜のない熱が、いちばん深いところで弾ける。
山桜桃は、その全部を受け取った。
◇
うなじには歯型が残った。
朝に鏡を見て、山桜桃はそれを確かめた。首の横の痕とは違う。あれは数日で消えたが、これは消えない。番の証はアルファから解消されない限り、生涯残る。
賀久はまだ寝台で寝ていた。
この男が先に起きなかった夜は一度もない。抱くときはいつも上にいて、寝台を出るときも先に立った。今朝は山桜桃のほうが先に起きて、まだ眠っている。
顔を覗き込んだ。
整いすぎて表情の読めない顔だと、ずっと思っていた。眠っているといくらか幼く見える。二十八の男の顔ではない。八つの春に座敷の上座を見ていた子どもの顔だった。
山桜桃は寝台に戻って、その隣に横になった。
◇
麻布の邸宅を出たのは、十二月の半ばである。
荷物は少なかった。賀久の私物は本と、段ボール六箱ぶんの実験記録だけだ。
新しい住まいは広尾にある低層マンションで、三階建ての二階を借りた。一つの階に二戸しかない。百三十平米ほどで、四つ部屋がある。ふたり住まいにしては広いが、山桜桃からしても豪邸に住んでいた賀久からすれば手狭になったのだろう。一つを賀久の書斎にして、実験記録の箱をそこへ入れた。寝室が一つ。居間が一つ。
もう一部屋は空いたままにした。
使用人はいない。もう雇うことはしないと決めたからだ。
竹川 が門まで見送りに出た。
この家令は最後までなにも訊かなかった。一礼して、車の扉を閉めて、それきりである。
車が動き出してから、山桜桃は一度だけ振り返った。桜並木の私道は枝だけになっていて、その向こうに屋敷が見えた。半年住んで、一度も自分の家だと思ったことがない。
「恋しくなるか?」と賀久に問うと、賀久は「まさか」と即答した。
◇
二人だけの生活は、思っていたより騒がしかった。
賀久は炊飯器で米が炊けない程度の生活力だった。かろうじて電子レンジは扱えるが、さすが財閥の跡取りとして育って、二十八まで一度も台所に立ったことがない男である。
山桜桃は軍にいたので一通りできる。士官学校時代から掃除と洗濯も叩き込まれていた。
「玉子を割るとき、殻が入るのはなぜだ」
「力の入れ方だ。角に当てると割れ目が汚くなるから、平らなところに当てて、割れ目に親指を入れて開く。おまえだって繊細な実験ぐらいやって来ただろう。玉子ぐらい割れるはずだ」
「理屈は分かる。手が言うことを聞かん」
賀久は覚えるのが速い。三日で米は炊けるようになった。味噌汁はまだ塩辛い。
夜はふたりでよく喋った。財団で続けている研究の話をして、山桜桃が分からないと言うと、噛み砕いて説明してくれるが、専門用語ばかりで説明が下手だった。
◇
オメガ化技術の公開は、翌年の二月である。
泉堂 記念財団の研究所という名前で発表され、バース性の不妊治療における新しい手法、と新聞は書いた。研究者の名前は泉堂賀久であると、堂々と載っている。
前科のある男の名前が出ることにリスクはあったはずだが、やよいが押し切ったのだと、あとで聞いた。
反響は大きかった。医学会からも、世論からも、そして海外からも。
久我原 が幹事長を降りたのは、その翌月である。政治資金の件で、と新聞は書いた。技術供与の話は、どこにも出なかった。保科 からはその後、連絡がない。外事課の泥臭い捜査が果たしてどう昇華されたのか、山桜桃は知らないままである。
◇
やよいと雛菊 の式は、四月の第一土曜だった。
帝国ホテルの孔雀の間である。泉堂の当主が立って最初の披露の場でもあるので、招かれた顔ぶれが尋常ではない。財界と医学会と、政界からも相当数が来ていた。
日比谷の桜は満開で、ふたりの門出を祝っているようだ。
控室で、雛菊が白無垢のまま山桜桃を待っていた。
「お兄さま」
「きれいだな」
「それだけ?」
「ほかに何と言えばいい」
雛菊はくすりと笑い、袂から封筒を出して差し出す。
「お手紙です。式が終わってから読んでくださいね。いま読まれると、わたくしが泣いてしまいますから。それと、これは言っておきたかったのですけれど」
妹は名前の通り、雛のような大きな瞳を潤ませた。
「大好きよ、山桜桃お兄さま」
「ああ、俺もだ」
山桜桃がそう返すと、雛菊の涙は途端に引っ込み、大きな目が丸くなる。
「まあ、驚いた」
「なんだ」
「お兄さまがそんなふうに答えてくださるなんて、生まれてから一度もございませんでしたもの。いつも、そうか、とか、分かった、とか、それだけでしたのに」
背後でウェディングドレス姿のやよいが吹き出した。すらりとした体型に、マーメイドラインのシルエットがよく似合っている。
「言ったでしょう。この半年で、だいぶ変わられたって」
「本当ですわね。泉堂の家は恐ろしいところですこと」
二人が顔を見合わせて笑っている。
山桜桃は封筒を上着の内ポケットに入れた。
六月に届いた本のことを思い出す。あのとき雛菊が寄越した本は、仕掛けのある便りだった。今度はただの妹からの心尽くしの手紙である。
◇
式場では紋付袴 を着こなす父が、堂々たる声で短い挨拶をした。
兄の雪彦 も当然、招かれている。厚労省の大臣として内閣に入ってから忙しいらしく、式のあいだ何度か時計を見ていた。山桜桃とは目を合わせないままだ。帰り際に一度だけ、元気か、と言った。
「元気です」
「そうか」
それだけで、兄はそのまま秘書に呼ばれて行ってしまった。
母が生きていたら、この日のためになにを言っただろうと山桜桃は考えた。晴れの日の衣装には気合を入れたがる人だったし、妹の襟のあたりを気にして、何度も直したに違いない。
やよいが山桜桃のところへ来て、言った。
「兄をよろしくお願いします」
「こちらこそ。雛菊は気が回りすぎるところがあるから、無理をしていないか時々見てやってくれ」
「存じています。うちの兄と同じですね」
「そうだな」
「それと、首、隠れていませんよ」
言われて、襟に手をやった。うなじの歯型は、この短い髪では隠れない。
その姿を見て、やよいはおかしそうに笑う。
「よかった。ずっと心配していましたから。あの人はいつまで待つ気なんだろうって」
それだけ言って、花嫁のところへ戻っていった。
◇
広尾へ帰り着いたのは、九時過ぎである。
賀久は上着を椅子に掛けて、ネクタイを緩めた。式で飲まされた酒で、少し顔が赤い。
「疲れたな。おまえの兄上は俺と目を合わせなかったぞ。前科者の義弟が視界に入ると困るんだろう」
「兄は誰とも目を合わせない。昔からだ」
「そういうことにしておく」
「風呂を沸かすか」
「あとでいい」
山桜桃は上着を脱いで、椅子の背に掛けると、腹のあたりをそっと撫でた。
今夜はどうしても言わねばならないことがあるのだ。
「賀久」
「なんだ」
「病院へ行った。先週だ」
賀久の手が、ネクタイの上で止まる。
「八週だそうだ。予定は十一月の頭だと言われた。母子ともに問題はない。オメガの初産は入院が長くなるそうだから、病院は早めに決めておきたい、ここから近いほうがいいな」
しんと部屋が静かになった。
賀久はなにも言わず、山桜桃の顔を見ている。この男にしてはありえないほど、思考が停止している顔をしていた。
「……聞こえたか」
返事がない。
「聞こえたなら返事をしろ。俺はこういう話を二度言うのが得意ではない」
「……本当か」
「嘘をつく理由がない。おまえと俺の子だ。ほかにどう説明すればいい」
「山桜桃」
「なんだ」
賀久が椅子から立ち上がって、大股で距離を詰めた。抱きすくめられて、背中に回った腕が震えているのが分かる。抱きしめる腕が震えていた。
肩に顔を埋めたまま、賀久は無言だった。じんわりと肩越しに温かいものがあたる。
山桜桃は手を上げて、その髪に触れた。
「泣くな」
「泣いてない」
「泣いている。肩が濡れているし、息が乱れている。ごまかせると思うな」
「……うるさい」
「部屋がひとつ空いているだろう。あれを使う。おまえの実験記録の箱は、書斎に詰め直せ」
「今からその話をするのか」
「早いほうがいい。おまえは決めるのが遅いから」
賀久が肩に顔を埋めたまま、小さく笑った。
窓の外で、どこかの家の桜が咲いている。
一年前、琥珀色の薬壜を差し出された。人ひとりの性を根こそぎ書き換える薬。おのれがどんな目に遭うかもわからず、選んで飲んだ。
あのとき自分がなにを選んだのかを、山桜桃はいまも正確には言えない。
言えないまま、ここにいる。
それでいいのだと思った。
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