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第21話 紙一枚

 その晩は人払いをした。  竹川(たけかわ)も女中も下がらせて、廊下の灯りを半分落とす。半年のあいだ、この家でこれほど人の気配が消えた夜はない。  山桜桃(ゆすら)賀久(がく)の部屋へ行くとき、いつものっぴきならない事情ばかりだ。ヒートで火照る身体を引きずり、廊下を這って、腕を引かれた。今夜は自分の足で歩いて入る。  窓際に書き物机があり、その上の電気スタンドだけが点いている。天井の灯りは消してあった。賀久は背広の上着だけ脱いで、寝台ではなく椅子に座っている。  山桜桃が先に話した。三月に兄から渡された任務のこと、公安の伯父を通した連絡の経路、この家で見たものを月に一度ずつ外へ出していたこと。あの薬を(あお)ったのが、任務のためであったこと。  賀久は口を挟まない。  話しながら、山桜桃は自分の声がひどく事務的だと気づいた。報告書を読み上げる調子だ。後悔していることが、伝わるだろうか。 「八月に、招待名簿を三枚借りた。名前を見てもなにも出ない。俺は席の順番を見た」  賀久が椅子の背から身を起こした。 「長年蜜月だった久我原重成(くがはらしげなり)の名前が、平成元年の名簿から消えていた。同じ年にエルダー製薬の名前が新しく入って、代表権も移っている。三つとも同じ年だ。売り先を替えたのだと読んで、九月の頭に兄へ報告した」  言い終えて、山桜桃は所在なく膝の上で指を組んだ。 「以上だ。俺がこの家にいたのは任務で、お前を売ったのも俺だ」  賀久は身動きをしない。しばらくして、椅子の肘掛けに片手を置いて声も立てずに笑った。 「席順か。おまえが総務で名簿を見たのは知っていた。江崎(えざき)から報告が来ている。順番を数えていたとは考えなかった。たいした仕事ぶりだな」  言い方に皮肉がなかった。この男は本当に感心している。 「怒らないのか」 「なんでだ」 「俺のせいでお前は前科がついたし、社長でも当主でもなくなった。この家からも出ることになる」  賀久は窓のほうを見た。硝子に部屋が映っているだけで、その向こうはなにも見えない。 「裁かれることも覚悟していた。それがおまえだったというだけの話で、それならむしろ筋は通っている」 「そんなことはない!」  声が思ったより大きく出た。賀久が顔を上げる。 「俺はお前に嘘をついていた。それを筋が通っていると言われても困る。理由を言え、なぜ怒らない。なぜ半年、俺のやることの理由を一度も訊かなかった。なぜあんな薬を渡した」  最後の一つを言ってから、山桜桃は口を閉じる。賀久はしばらく黙っていた。それから襟に指をかけて、ネクタイを緩めた。 「話せば長くなるぞ」 「いい、最後まで聞く」  どんな話でも受け入れる準備はできている。幼い頃から賀久の話は山桜桃の考えを飛び越えたことばかりだ。それに自分には聞く義務がある。    ◇ 「おまえと添い遂げるためだ」  電気スタンドの灯りが、薄茶の髪の輪郭だけを拾っている。夏の夜にこの男が山桜桃の部屋へ来たときも、同じ当たり方をしていた。整いすぎて表情の読めない顔だと、眺めるたびに思う。 「ほかに理由はない」  はっきりと言われてしまい、山桜桃は黙るしかなかった。こちらを見やる賀久の眼差しは反らせないほど強い。 「初等科の参観日を覚えているか。俺は自分の見た目が変だと言った。おまえは、晴れた日の空の色だと言ったな」  賀久の口の端が上がった。忘れたくない思い出を、噛み締めている顔つき。 「あのころから、おまえだけが俺のそばにいれば、それでいいと思っていた」  山桜桃は覚えていない。何と答えたのかも、答えたときになにを思ったのかも。無邪気な子供が言い放った一言だ。意味など深く考えていなかったに違いない。 「俺は代理母に産ませた子だ。親父の正妻に子ができなかったので、外に産ませた。妾腹とは違う。相手を選んで、条件を出して、産ませたんだ。この目も髪もあちらの血から来ている。やよいが生まれてからも、俺は親父の期待に応えて優秀だったし、そのまま後継でいられた。利用価値があるならという条件付きだ。あの人は俺に愛情なんて持っていない」  めかけばら、という言葉を、山桜桃は初等科の教室で覚えた。意味は知らないまま、親の声を写したのを鵜呑みにしてささやいていた。 「八つの春に、この家の座敷でおまえの家と話をしただろう。あのとき親父は一度も俺に目を向けなかったはずだ。俺はあの家の中で、誰の子でもなかった」  賀久は窓を見たまま喋っている。目を合わせずに話す男ではないのに、今夜は視線が合わない。 「おまえだけが、ありのままの俺を受け入れてくれた」  賀久の指が、椅子の肘掛けをすっと撫でた。 「十五の春に、剣崎(けんざき)家と泉堂(せんどう)家の婚約が消えたとき」  声の調子は変わらないが、少しだけゆっくりと喋る。 「婚約破棄を決めたのは親父だ。おまえがアルファだと知らされて、その日のうちに書面が出た。俺が知ったときはもう両家で承諾が済んでいた。渡り廊下でおまえを掴まえたのを覚えているか。あのとき俺は、おまえも一緒に抗ってくれると思っていた」  賀久はそこで一度、言葉を切った。 「おまえはあっさり受け入れてたな」  責めているつもりはないのだろうが、山桜桃は居心地が悪くなる。 「疑問に思うほど、俺は事情を理解していなかった」  色恋も知らぬ十五の頃だ。賀久と友人関係が続くのなら、変わらないと本気で思っていた。賀久は窓から目を離さず、だろうな、と言った。 「あのときに決めた。おまえが素直に受け入れるのなら、受け入れるしかない形を作るしかない。俺と結婚しなければならない状況に置く。そうすればおまえは、また素直に受け入れる」  山桜桃はふたたび膝の上で指を組んだ。自分が馬鹿正直な人間である、と評価されているようだ。  この男が言っているのは、あの日の自分の返事のことである。渡り廊下で凄まれて、それでも山桜桃は納得した顔をしていた。 「バース性で俺たちの結婚が決まり、それを理由に引き剥がされるなら、性別のほうを書き換えればいい。アルファをオメガに変える技術を手に入れよう、とな」 「そのために海を渡ったのか」  賀久が水の入った硝子のコップを持ち上げて、気まずそうに一口飲んだ。 「ああ、そうだ。欧州の大学では薬学をやった。学位も論文も、全部その一つのためだ。帰ってきて会社に入ったのは、うちに設備があるからだ。役員の息子ならフリーパスで使える。六年かけて、おまえ一人のための薬を作った」  口数の少ない賀久が珍しく喋り続けている。心に秘めていた事実を洗いざらい、白状するつもりらしい。 「エルダーとの契約は、帰った翌年に親父が結んだものだが、あれを口実に使った。人に使う前に薬を確かめる場所が、この国にはない。うちの研究所は倫理委員会で止まる。向こうには共同研究という名目で持ち込める」  名簿にエルダーの名前が新しく入っていた理由が、そこで分かった。  技術の売り先として登場したわけではなく、この男が研究に使う場所を、表向きの名目に載せる必要があっただけである。山桜桃の見立ては、はなから違っていた。 「平成元年に、親父が久我原(くがはら)の線を本気で動かしはじめた。バース医療の一式をまとめて海外へ出す話だ。当然、あの薬も対象に入る。会社の設備で作ったものだからな。おまえのための薬が、どこかの国の資産になる」  賀久はコップの縁を指でなぞった。 「だから止めた。代表権を取るには、親父が署名できない状態でなければならない。委任状を偽造した。それから久我原の周りを全部切って、エルダーとの往復だけを残した。切れば違約金で会社が傾くし、俺の場所もなくなる。ただ、中身はなにも渡さないでいた」 「……そして俺を婚約者にまた指名したのか?」 「ああ、そうだ」  賀久は窓から視線を外し、今度は山桜桃の足元を見つめた。 「剣崎から雛菊(ひなぎく)さんとの縁談の打診が来た。ついにチャンスが来たと、柄にもなく舞い上がったよ。薬は前の年にできていたし、受けると返事をして、おまえの名を書いた」  ことの顛末は理解したが、訊きたいことが一つだけ残っている。口を開く前に、賀久が続けた。 「そこまでする必要があったのかと、おまえは訊きたいんだろう」 「ああ」 「お前に素直に思いを告げる勇気があればよかったのにな。俺にはそれができなかった。もし断られたら、俺は生きていけない」  賀久は自嘲気味に笑うと、椅子の背にもたれた。 「だから、婚約が成立する条件から固めたかった。おまえがオメガなら、俺たちは決まりの上でもう一度結ばれる。誰にも文句を言わせない。それが理由だ」    ◇  山桜桃はしばらく黙っていた。  多少驚いたからもあるが、賀久の話を頭の中で組み立て直すのに時間がかかっただけである。  小学生のころは弁当の時間に賀久の席が空いていて、ちょうどくつろげそうだと座った。毎週のように泉堂家の庭で一緒に遊び、帰り際に頬に口づけられる。どれも山桜桃にとって深い意味などなかったが、あの男にとっては家の中で唯一の居場所だったというのか。  心のよすがを奪われ、取り返すために長い年月、大層な計画を立てていたとは知りもしなかった。そのあいだ一度も、山桜桃は賀久から好意を告げられていない。  馬鹿げている。はじめから言えばいいのに。  組み立て終わって最初に出てきたのは、その一語だった。 「……そんなに俺のことが好きだったのか」  賀久が顔を上げる。今度こそ、しっかり山桜桃の顔を見た。 「本当におまえは変わった男だな」  言ってから、山桜桃はおかしくなった。この家ではじめて声を立てて笑う。 「感想はそれだけか?」 「それだけだ。ほかに何と言えばいい」 「引くところだろう、普通は」 「引かん。おまえが俺のことを好きだったというだけだろう。手のかけ方が異常なだけだ」  賀久は長いまつげを瞬かせて絶句し、ようやく口を開いた。 「そういうところが好きなんだよ、昔から。おまえ宛の手紙を破っても、婚約が消えても、とんでもない薬を出しても、受け入れる。腹が立つほど潔い」 「人のせいにするな」 「して悪いか、俺の人生をこうしたのは山桜桃だぞ」  賀久は立ち上がって、机のほうへ歩いた。抽斗(ひきだし)を開ける音がする。  戻ってきた手に、紙が一枚あった。卓の上に置かれる。  離婚届である。夫の欄には泉堂賀久の署名と印がすでに入っていた。日付だけが空いている。 「いつ書いた」 「籍を入れた晩だ。おまえがいつでも出ていけるように」  賀久は椅子に戻らなかった。立ったまま、卓の向こうにいる。 「全部話した。俺がなにをしたかも、なぜしたかも。知ったうえで、もう一度決めればいい。選ぶのはおまえだ」  山桜桃は薄くて軽いその紙を取る。  十五の春に、この男は渡り廊下でこう叫んだ。たかだか紙一枚のことで、なぜ納得できるんだ、と。  あのとき山桜桃は答えなかった。紙一枚で人生が動くのがこの国だと思っていたし、それに逆らう方法も知らない。  賀久はいつも山桜桃宛ての手紙を目の前で破っていた。破片が膝の脇に積もるのを、山桜桃はただ見ていて、紙を破るのはいつもこの男だ。  山桜桃は記入済みの離婚届を、勢いよく破る。  二つに裂いて、四つにして、それ以上は細かくしない。破片を卓の上に置いた。 「俺に逃げ道を用意してくれるなんて、おまえらしくないな」  賀久は動かなかった。 「何枚用意されても、破るからな」  賀久の手が卓の縁にかかった。指の関節が白くなっている。それがいったいどういう感情からなのか、山桜桃にはわからなかった。本心では破ってほしかったくせに、ずるい男だと思っただけだ。    ◇ 「それから、もうひとつ話がある」  賀久が言った。立ったまま、こちらを見ずに言った。  声の運びが変わっている。ここまで全部を言い切ってきた男が、そこで一度、息を吸い直した。 「親父は倒れたと言ったが、正確じゃない。あのとき俺には時間がなかった。代表権を取るには、親父が署名できない状態でなければならない。それで……」  部屋が静かになる。賀久は息を吸い直し、言葉を続けようとした。 「もういい」  山桜桃は咄嗟にそれを遮る。わかってしまったからだ。  この家に半年いて、山桜桃は当主の病名を一度も聞いていない。竹川も、やよいも、須永(すなが)も、お倒れになってから、としか言わない。呆けたのなら呆けたと言う。病名のつかない病人が、あの病室にいる。  そしてこの男は、アルファをオメガに書き換える薬を信じがたい執念で作った。人の判断を奪う薬を作れないはずがないし、専門分野なのだから如何様にもできるだろう。  やよいも勘付いていたようだった。訊いてどうなるものでもないと、自分から話題を切ったのは、単純に真実を知りたくないからだ。 「言うな。もう分かった」  賀久がずっと抱えてきたものは、あまりに罪深い。  言葉にすれば、それは形になる。山桜桃は立ち上がった。  卓を回って、賀久の前に立つ。この男の目は、いつ見ても晴れた日の空の色をしている。十五の春に、雨が降りそうなほど揺れていた青である。  賀久は俺のためなら実の父にも冷酷な仕打ちをやってのける。  置いていけないと思った。  置いていけば、この男は次になにをしでかして、誰を壊すか分からない。そしてひとりで抱えたまま、自分自身も傷ついていく。  こいつは、俺がいないと駄目だ。  愛情の言い方としては最悪だが、もうそれしか言葉が出ない。半生をかけて自分を求めた男が、目の前で許しを求めている。許してやらねば、この男はもっとひどいこともやるだろう。  賀久はなにかを言いたげにしているが、唇をわずかに開けたまま、こちらをじっと見つめている。  山桜桃は手を伸ばして、捨てられそうな犬のように哀れな男の頬に触れた。 「俺はアルファに戻ってもいいし、薬を飲み続けてもいい。どちらでも構わん。この半年で分かったが、俺は自分の性にあまり執着がない。お前が思っているほど、そこに重きを置いていない」  賀久が怪訝そうに眉を寄せている。山桜桃はかまわず続けた。 「あの薬を、不妊治療の技術として世に出せ」 「……それは」 「それが条件だ。俺のために作った薬だと言うなら、願いをきけ」  言いながら、山桜桃は自分が交渉をしていることに気づいた。  半年間、この家で条件を出すのはいつもこの男の役目だった。山桜桃に差し出して選ばせ、待っている。今夜は逆だった。 「俺はお前と夫婦でいたい」  賀久の手が上がって、山桜桃の手首を強く掴む。 「山桜桃」 「……返事は?」  賀久は答えなかった。  答える代わりに、額を山桜桃の肩に落とした。  この男が頼りなく山桜桃に体重を預けたとき、山桜桃は愛しいという気持ちでいっぱいになる。  幼い頃からともに過ごして、となりにいることが当たり前になっていた存在に愛欲を抱くなど考えたこともなかった。賀久を慕っている気持ちならあったけれど、好きだと思ったことはない。  許嫁として、好きも嫌いも関係なく、一緒にいるものだった。  山桜桃は手を上げて、その髪に触れる。  そもそも賀久と関係を築くために踏む手順を、いくつもすっ飛ばしてしまったのだろう。  電気スタンドの灯りだけが、二人の足元に落ちている。 「賀久……好きだ」  そう囁くと、賀久は顔をゆっくりと上げ、山桜桃に噛みつくような口づけを寄越した。

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