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第20話 判決
公判は一回で終わった。
十一月十四日、東京地方裁判所の法廷である。傍聴席は三十ばかりの椅子が並んでいて、半分は記者で埋まっていた。山桜桃 は後ろから二列目の端に座った。
被告人席は傍聴席に背を向けている。灰色の上下ではなく、須永 が差し入れた紺の背広を着ていた。髪をさっぱりと刈ってある。一か月前に硝子板越しに見たときより、後ろから見る肩のほうが薄く見えた。
起立と礼のあいだ、賀久 は一度も振り返らなかった。
審理は速かった。争点がないからである。被告人は起訴事実をすべて認め、責任能力も争わない。証拠調べは書証の取り調べだけで済み、証人尋問はひとりも立たなかった。弁護人席には須永のほかに三人、いずれも元検事の名前が並んでいる。泉堂 の顧問弁護士団が総出で来ていた。
弁護側が出したのは示談書と嘆願書である。示談は被害者の家族との間で成立していて、処罰を望まないという書面に泉堂やよいの署名があった。嘆願書は段ボールで運ばれてきた。数は法廷で読み上げられなかったが、財界と、医学会と、美術館の理事たちと、名前を聞けば誰でも分かる文化人が並んでいる。
検察官の論告は短かった。長期にわたる監禁であること、偽造の態様が計画的であること。求刑は懲役二年である。
最終陳述で、賀久は立ち上がって一言だけ言った。
「間違いありません」
それだけだった。
動機については、この日もなにも述べなかった。
判決は同じ日の午後に出た。
懲役二年、執行猶予四年。
裁判長は理由を読み上げた。被害者が実父であること、医療は継続して受けさせていたこと、家族が処罰を望んでいないこと、被告人に前科がないこと。そして最後に、被告人は動機について何ら述べておらず、そのため犯行の背景を認定することはできない、と付け加えた。
賀久は起立して聞いていた。背中は動かなかった。
閉廷して、記者が一斉に立ち上がる。山桜桃はその流れの外に立って、賀久が扉の向こうへ連れられていくのを見ていた。結局、こちらを最後まで振り返らないままだった。
傍聴席の通路で、須永が近づいてくる。
「検察も控訴はしないでしょう。二週間で確定です」
「随分と早いですね」
「ええ。争わないと決めた事件はこうなります」
老弁護士は鞄を抱え直して、それから少しだけ声を落とした。
「若奥さま。若旦那さまは最後まで、なぜかというところを話されませんでした。捕まってからずっと、どなたにも」
翌日の朝刊は、三紙が社会面で扱った。泉堂前社長に有罪判決、執行猶予、財閥の内紛は決着。一紙だけが、審理が一日で終わったこと、弁護団に元検事が三人入っていたこと、嘆願書が段ボールで運ばれたことを書いて、財閥の力が司法の場でどう働いたのか疑問は残る、と締めていた。
逮捕から判決まで、二か月足らずである。
こちらは半年かかっている。そのあいだ山桜桃は神経を削り続けたし、あれだけ苦労して手に入れたものが、この家の力であっけなく片づいた。これが泉堂財閥の底力なのか。
さらに山桜桃は政治面をめくった。
民和党の幹事長をめぐる政治資金の記事が、隅に載っている。金額も相手も書かれていない。党内で交代論が出ていると、二行だけである。
二行だけである。あの老人はまだ落ちていない。
山桜桃はため息をついて新聞を畳んだ。
その間、山桜桃は毎朝六時に家を出て、平河町 へ行く。
行き先を竹川 には言っていない。車も使わず、地下鉄で麹町 まで出て、住宅街の裏通りを歩いて、手帳に短く書きつけて帰る。判決の朝も同じようにして、それから霞が関へ回った。
手帳は、まだ誰にも見せていない。
◇
やよいが応接間に来たのは、その二日後である。
黒に近い紺の上下を着て、髪をきつく結っていた。この義妹と少しばかり近況などを話す間柄にはなったが、今日は座るなり本題から入った。
「来月の株主総会で、私が代表になります。当主も同時です。父はもう署名ができませんので、家法の手続きで済ませます」
「……受けるのか」
「はい、もちろん。兄が戻れない以上、ほかにいませんので」
竹川が紅茶を運んできて、下がった。扉が閉まる。
やよいは膝の上で手を重ねた。ぎゅっと片手を丸めている動作には、わずかに緊張が滲んでいた。肝の座った女にしては珍しいことだ。
「兄は来週の火曜に出ます。確定はもう少し先ですが、身柄は判決の日に解かれていて、マスコミ対策で財閥系列のホテルにいます。麻布へ戻る日を火曜にしたいと言っているそうです」
「俺には言ってこないんだな」
「はい。そのうえで、この家のことです。あまり良い思い出のない家ですけど、当主になるからには目白を引き払って、こちらに帰ってこないとなりませんから」
やよいがその先を言い淀んでいたので、山桜桃はすかさず言葉を重ねる。
「分かった、俺たちが出ていこう。同居するには気まずいだろう」
「さすがですね、話が早くて助かります。今後の生活は心配なさらず。兄は当主でも社長でもなくなりましたけれど、資産なら金融も不動産もしっかりありますよ」
安堵の声を漏らすやよいに、山桜桃は静かに頷く。賀久の所有する財産はどうでもいいが、やよいに気を遣って生活をして欲しくはなかったので、ありがたい申し出だ。
やよいはカップに口をつけて、それから顔を上げた。
「兄への署名を集めるのは、そこそこ苦労しました」
「だろうな、苦労をかけた」
「あの人のせいで、こちらは美術館の予定も財団の理事会も大事な予定が飛びました。文句を言ってやろうと思って、接見が通るようになって会いに行ったんです。そうしたら、兄さんはなんて言ったと思いますか?」
やよいの声が、そこで少し変わった。アーモンド型の形良い瞳が驚きで見開かれている。
「頼む、と言ってきたんです」
山桜桃も驚いて顔を上げた。
「信じられます? あの人が私に頭を下げるんですよ。子どものころから一度もありません。悪いと思ったことも、間違えたと言ったこともない人です。私はもう拍子抜けしてしまって、明日は雪でも降るのかと思いました」
言い終えて、やよいは息を吐いた。
「それで、嘆願書やら弁護団やら、集めることにしました。まだ怒っていますけどね」
あの男が妹に頭を下げたのがいつなのかは、聞かなくても見当がつく。接見禁止が解けたのは起訴の日である。その前日に、山桜桃は賀久に続きは家で話したいと言った。
「それを見ていて、決めたことがあります」
ようやくいつもの余裕が出てきたのか、やよいはゆっくりと脚を組む。山桜桃は続きを待った。
「兄がやりたいようにやったのなら、私もやりたいようにやります。近いうちに雛菊 さんとご一緒に、番町 へご挨拶に伺いたいと思います」
息を吸う音が、自分の耳に聞こえた。
「雛菊は承知しているのか」
「先月にプロポーズしました。時期を待つと申し上げていましたが、やめます。当主になれば、誰の許しも要りませんので」
この女は本気で言っている。
剣崎 の家は、雛菊の縁談を財閥との政略に使うつもりでいた。それが泉堂の当主から求婚されるのなら、家門としては断る理由がない。父も兄も、損得の上では喜ぶだろう。やよいは家の力を私事に使うと言い切った。兄妹で同じことをしている。
三日前に、剣崎ではないと言ったばかりであるが、それでも雛菊の兄という立場は捨てていない。
「雛菊を、大事にしてやってくれ」
「もちろんです」
やよいは立ち上がりかけて、一度止まった。
「ひとつだけ、伺ってもよろしいですか」
「なんだ」
「父が倒れたのは、一昨年の十一月です。兄が代表権を取ったのは、その年明けです」
部屋が静かになった。やよいは膝の上の手を動かさない。
顔だけがこちらを向いた。この女は察している。半年前から察していて、一度も口に出さなかったことを、いま入口だけ開けて見せている。
山桜桃はなにも言わなかった。
しばらくして、やよいは息を吐いた。
「いえ、いいんです。訊いてどうなるものでもありませんし」
そう言って、立ち上がった。扉のところで一度だけ振り返る。
「山桜桃さん。兄はたぶん、あなたにしか話しません。私には一度も話してくれませんでした。ずっと一緒に育ってきたのに」
扉が閉まってから、山桜桃は椅子に座り直した。
やよいはたったの二十四である。財団と美術館だけでも手一杯の娘が、来月から泉堂を背負う。経路を止めていた男は社長でも当主でもなくなり、技術は金庫に残ったままだ。落ちきっていない老人から見れば、いまがいちばん動きやすい。
自分が奔走した半年ぶんに意味があったかどうかは、いま考えても答えが出ないし、考えているあいだに、あの老人は次の手を打つだろう。
山桜桃は受話器を上げた。
◇
面会の段取りは、竹川に付けさせた。
家の交際はこの家令の領分である。贈答も、来客も、先代と久我原 の付き合いも、二十年この男が帳面につけてきた。当主の交代を控えて挨拶に伺いたい、と先方へ入れれば、幹事長の側に断る理由はない。
竹川は受話器を置いて、両手を前で組み直してから口を開く。
「先様は大変お喜びでございました。若奥さまがお一人で、とお伝えしましたところ、それは結構、と」
「そうか、喜ばれるのか」
「若い当主が立つ前に、身内のほうから先に伺うのでございますから。あちらから出向く手間が省けたとお思いでしょう」
言い終えて、竹川は一礼した。
永田町の議員会館は、入る道も出る道も一本しかない。正面の受付で通行証を受け取り、守衛の脇を抜けてエレベーターに乗る。
三十そこそこの女の議員秘書が扉を開けた。
久我原重成 は奥の椅子に座って、書類を膝に置いたまま老眼鏡の上から山桜桃を見た。七十を越えた男である。遠目に見ていたころより肩が厚く、首が短い。秘書として兄の後ろに立っていた三年のあいだ、この顔は会合でも料亭でも何度か見ている。向こうも覚えているらしかった。
「剣崎くんのところの、下の子か」
「ご無沙汰しております」
「秘書をやめられたと聞いたが。どうしておられる」
「泉堂の籍に入りました」
「ああ」
久我原は書類を脇へ置いて、老眼鏡を外した。素の目で笑うと、顔の造作がひとまわり大きく見える。
「そうか、あの話は本当だったのか。妹さんの縁談があなたに替わったとは聞いておったが、まさかご当人が入られるとはね」
驚いている声ではなかった。面白がっている顔である。
秘書は茶を出しても下がらずに、扉の内側に立ったままでいる。
「財閥の当主はやよいさんが継がれるとか。おいくつになられる」
「二十四です」
「二十四か。大変だ。財団と美術館だけでも手一杯でしょうに、会社まで背負われる」
老人は湯呑に手を伸ばした。指が短く、爪が厚い。
「先代とは長い付き合いでしてね。あの子がまだ歩けもしない赤ん坊の頃から、よく知っております。なにかお困りのことがあれば、遠慮なく仰っていただきたい。こういうときこそ、古い付き合いというものが働くものです」
来た、と山桜桃は思った。
まだなにも切り出していない。この老人はもう手を出している。若い当主が立つ前に繋ぎを付けておきたいのだろう。しかも本人は、それを親切のつもりで言っている。
「手短に申し上げます。三つございます」
「ほう」
「泉堂やよいに近づかないでいただきたい。また、剣崎雛菊にも。あれは私の妹ですが、近く泉堂の側の人間になります。そして主人にも」
部屋が静かになった。
久我原が老眼鏡を卓に置く。置いてから、声を立てて笑った。
「これは面白い。何のお話かな」
「これから先のお話です」
「若奥さん。私はなにもしておりませんよ」
「存じております」
「では、なにをお困りなのかな。私にはさっぱり分からん」
老人は湯呑を持ち上げて、一口すすった。すすってから、湯呑を置く手が少し乱雑になる。苛立っているらしい。老獪 とはいえ、気の短さは兄から聞いていた通りだった。
「ご承知かどうか知りませんが、私はこの国のことを考えておるのだよ。子が生まれん。オメガが減って、アルファも減って、来年は今年より少ない。二十年後にこの国が連盟の理事の席に座っていられるかどうか、それを考えて四十年やってきた」
「そうですか」
「あなたが仰っているのは、妹だ、主人だという話でしょう。家の中の話だ。私が話しているのは国の話です。並べるものではない」
言い方が変わった。愛想が消えて、四十年政治の世界にいる男の声になる。
「剣崎くんもね、まだ分かっておらん。椅子取りゲームは若いうちは結構だが、数えたところでなにも生まれん。こわっぱには分からんでしょうが」
山桜桃は反論する材料は持っていない。持っていても、ここで出せば保科 たちの二年の捜査を潰すことになる。
しかし出せるものは、別にあった。もっとも山桜桃らしい、奥の手である。
「先生。恐れ入りますが、一つよろしいですか」
「なんだね」
「先生のお宅は、平河町でございますね。この二か月、門を入った車を数えました。曜日と時刻と、お帰りになるまでの時間だけを書き出しますと、どなたが何度いらしたかが並びます。名前は要りません。番号を見れば足りますので」
久我原の手が、湯呑の脇で止まった。
「そのうち三台が外国の登録でした。大使館のものが二台と、あとの一台は品川の民間です。滞在はいずれも二時間を超えております」
「……あなた」
「議員会館でお会いになれば、受付に記録が残ります。料亭でしたら、仲居が顔を覚えます。ご自宅なら、どちらも残りません。残したくない相手と、残したくない話をなさるための場所です」
扉の内側で、秘書が身じろぎをした。
山桜桃は湯呑を置いた。
「私が二か月で気づく程度のことです。気づいている者がほかにもいるとお考えになったほうがよろしい。むしろ、気づいていないのは先生おひとりかと存じます」
久我原はなにも言わなかった。
山桜桃もなにも言わなかった。
沈黙が長くなる。老人が湯呑に手を伸ばしかけて、途中でやめた。手が膝の上に戻る。指が一度、揃えられた。
これは尋問で覚えた間の取り方である。相手がなにか言うまで待つ。待っているあいだ、こちらはなにも足さない。足せば、そこから逃げ道が生まれる。
久我原が息を吐いた。
「……内助の功にしては、いささか手荒だな」
「もとより軍人でしたので」
老人の目が、そこで一度細くなった。
平河町のことを保科に持ち出したのは、逮捕から半月ほど経った頃である。あの女は数字を一つも寄越さなかった。捜査で得たものを外へ出せば、二年が全部無駄になる。代わりに平河町でしたら正面より裏の通りのほうが見通しが良いです、とだけ言って帰った。
あとは自分の足で通った。曜日を変え、時刻を変え、控えた。軍を出て三年だが、こういうものは身体から抜けない。
「国際連盟の顧問団におりました。中東と、南アジアです。剣崎がどういう家か、先生はご存じでしょう。父は中将まで参りました。あの家の付き合いは、政治のほうにばかりあるわけではございません」
「……脅しておられるのかな」
「私にも手がある、と申し上げているだけです。使うつもりはございません」
「剣崎くんは、このことを」
「兄は知りません。これは私ひとりでやったことです」
久我原は老眼鏡を取り上げて、かけ直した。かけると、また幹事長の顔に戻る。
「わかった、承ったよ」
「ありがとうございます」
「もっとも、私はなにもしておらんし、これからもせん。そういう年でもない」
「存じております。なにもなさらないままでいてください」
一礼して、扉のほうへ歩いた。秘書が身体をよけて、道を空ける。
背中で、老人の声がした。
「若奥さん」
山桜桃は足を止めた。
「君は、なんのためにこんなことをしておられる。剣崎くんのためではないでしょう。泉堂のためでもない。あなたご自身に、何の得もない」
振り返らずに、扉に手をかけた。
得はない。この老人の言うとおりだった。
賀久を渡してしまったことへの申し訳なさはある。後悔もある。だが、ここへ来たのはそのためではない。
賀久を守りたい。そして、やよいと雛菊を。理由はそれだけで、ほかにない。
剣崎の家では、こういうものを口に出す機会がなかった。理由を訊かれれば任務だと答えればよかったし、それで足りた。いまは足りない。足りないが、この老人に説明してやる義理もない。
「失礼いたします」
扉を閉めた。
◇
火曜の朝から、竹川が動いていた。
部屋を整えて、風呂を沸かして、夕食の献立を確かめている。当主でも社長でもなくなった男を迎えるのに、この家令は半年前と寸分も違わない手順を踏んでいた。前科のついた主人を、指の先まで同じ丁寧さで迎える。それができるのが、この男の職業だった。
玄関に人は出さないようにと、山桜桃は言ってある。
書斎で待った。話すことは頭の中で順番に並べてあるが、どう話せば良いのかまとまらない。
門が開く音がした。車は一台だけである。
廊下を歩く足音が近づいてくる。書斎の扉が開いた。
紺の背広のまま、賀久が立っている。少し疲れた顔をしているが、元気そうだ。
「ただいま」
山桜桃は立ち上がった。
並べてあった順番が、その一瞬で全部散った。
「……おかえり」
やっとそれだけ、言葉にできた。
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