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第19話 番町

 番町(ばんちょう)へ行ったのは、起訴の翌日である。  官庁街から地下鉄でふた駅、坂を上りきったところに剣崎(けんざき)の門がある。十月の空は高く、門の内側の銀杏がもう色を変えはじめていた。子供の時分、この銀杏が黄色くなると母が落ち葉を拾わせる。手のひらより大きいものを探すのが決まりで、雛菊(ひなぎく)が生まれてからは三人で拾った。  女中が門を開ける。半年ぶりに帰った家だが、迎える顔は変わらない。古株の女中から坊っちゃまと呼ばれ、山桜桃(ゆすら)は一度だけ頷いた。もう子供ではないけれど、懐かしい心地だ。  父は箱根の別荘へ行っているという。雛菊は朝からやよいと出かけていて、夕方まで戻らない。  その方が都合がいいと山桜桃は考え、早く決着をつけたいと足を早めた。  兄の書斎は、番町の家でいちばん古い部屋である。  床の間に先々代の軍刀が飾られ、机の上では霞が関から持ち帰った書類と、読みさしの新聞と、ワープロが場所を分け合っている。半年前と風景が変わっていなかった。  山桜桃が部屋に入ったとき、雪彦(ゆきひこ)は上機嫌だった。顔に出す男ではないので、分かるのは声の運びだけだ。いつもより言葉と言葉のあいだが短い。 「よく来たな、座れ」  山桜桃は椅子に腰を下ろした。 「泉堂(せんどう)賀久(がく)を起訴まで持っていけた。ここまで来れば、あとは公判の手続きだけだ。目録のうち、委任状の写しと病院の記録は大きい。有罪は動かんよ」 「そうですか」 「幹事長のほうも、足元が揺れはじめている。泉堂の窓口が消えれば、あの男が長年苦心した計画がお釈迦だ。次の内閣改造で厚労が空くぞ」  雪彦は湯呑に手を伸ばした。四十三の男の手である。父に似ていない、細くて長い指をしていた。兄の母である前妻は理由あって離縁になったという。山桜桃は雪彦から実母の話を聞いたことがない。聞きたいとも思ったことがなかった。 「半年、よくやってくれた。おまえでなければ入れなかった」  労いの言葉を、この兄が口にするのは珍しい。八つの春に祝いの電報も、十五の春に電話が一本も、そっけないものだった。 「そのうえで、話がある」  来た、と山桜桃は身構える。 「泉堂は当面動かん。当主は病室、その息子は勾留、残っているのは妹だけだ。財閥そのものはまだ生きている。技術も金庫の中にあるはずだ」 「そうでしょうね」 「おまえは籍を置いたまま、あと半年残れ。技術がどこへ行くかを見届けてほしい。泉堂の妹のほうと繋ぎがついているのなら、なおいい」  窓の外で銀杏の葉が鳴った。風が出てきたらしい。  半年前、この部屋で同じように任務を受けた。日程を読み上げるときと同じ、感情の乗らない声である。あのとき山桜桃は内容に疑問など持たず、ただ言われるがままだった。 「お断りします」  湯呑が卓に置かれる音がした。 「なんだと」 「賀久を地検へ渡したのは俺です。それを、俺は間違いだったと思っています」  雪彦の眉が、わずかに寄る。怒りではなく、理解できないときの顔だった。 「間違い、というのは何の話だ」 「言葉のとおりです」 「あの男は代表権の委任状を偽造している。実の父親を病室に閉じ込めていた。おまえが持ってきた情報で裏も取れて、起訴もされた。公判でも覆らん。どこが間違いなんだ」  答えられなかった。  保科(ほしな)の名前も、公安が追っていることも、まだ言えない。出したところで兄には筋が通らない話になる。地検が主犯を捕まえたと思っていて、公安は経路の真ん中を取り上げられたと思っている。そのどちらが正しいのかを決める材料を、山桜桃は持っていなかった。 「……賀久は、売っていた側ではありません」 「証拠は」 「ありません」  雪彦は一度、息を吐いた。 「半年前、この部屋でおまえは同じことを私に訊いた。証拠はあるのかと。私はないと答えた。証拠がないから、おまえに行ってもらうと」 「覚えています」 「今度はおまえが証拠がない側だな。ないなら、話にならん」  その通りだった。この兄の言っていることに、穴はひとつもない。 「情が移ったか?」  言い方に嘲りはなかった。事実の確認をする声である。 「半年も一つ屋根の下にいれば、そういうこともあろう。まして相手は昔の婚約者だ。責めているのではない。おまえの仕事は済んでいる。済んだあとの気持ちの整理まで、私が口を出すことではない」  山桜桃は膝の上で指を組んだ。  この兄は本心で言っている。半年ぶんの働きを認めて、弟の心が乱れていることを認めて、そのうえで次の指示を出そうとしている。悪意がどこにもない。 「俺は兄さんとは違います」  言ってから、声が思ったより低く出たことに気づいた。  雪彦は今日はじめて弟の顔をまともに見た。山桜桃の言動を信じられぬと言いたげだ。 「違わんよ」  短かった。 「おまえは剣崎の次子だ。役目を果たして、よくやったじゃないか。なにが不足なんだ」 「そういう話ではありません」 「ではなんだ?」  どんなに言葉を尽くして説明しても、おそらく兄にとっては情が移った、で片づいてしまう。理由を答えたくなかった。 「疲れているんだろう」  雪彦は椅子の背に体を預けた。声が少し柔らかくなる。 「半年、単身であの家にいた。神経も削れる。しばらく番町に戻れ。部屋はそのままにしてある。籍のことは後で考えればいい」  部屋はそのままにしてある。  その一言が、いちばん堪えた。  この家は山桜桃が出ていったことを、任務だと思っている。半年前に泉堂へ嫁いだのは仕事で、仕事が終われば戻ってくるものだと。結んだ婚姻も、全部そのうちに片がつく。片がついたら部屋に戻ればいい。  山桜桃は立ち上がった。 「俺はもう、剣崎ではありません」  雪彦の手が、書類の上で止まった。 「泉堂へ籍を移した日から、そうです。兄さんと剣崎家のために嫁いだつもりですが、もう俺は自分の意思で残りたいと思っています」 「山桜桃」  名前を呼んで、そのあとが続かない。この兄が言い淀むところを、山桜桃は初めて見た。  一礼して、扉のほうへ歩いた。  雪彦は引き止めなかった。書類を一枚めくって、それから思い出したように顔を上げる。 「来月の頭に、父さんの傘寿(さんじゅ)の集まりがある。日程は追って知らせる」 「はい」  返事だけをして、扉を閉めた。    ◇  廊下は長い。  子どものころ、この廊下を走ると叱られた。走ってよかったのは判定の前までで、八つの春を境に止められるようになる。触れば壊れるものの扱いだと、あのときはまだ知らなかった。  母の部屋の前を通った。いまは物置になっている。  白粉(おしろい)の匂いのする人である。衣紋(えもん)を抜いた首がすっと長くて、喉仏の影までていねいに白く塗ってあった。春の日差しのように暖かく笑う人だった。山桜桃はその笑い方を覚えている。  賀久へ会いに行く日、白い上着に濃紺のリボンを結んでくれたことも、麻布へ向かう車の中でそのリボンを二度直されたことも、全部覚えている。  母がこの家で幸せだったのかどうかを、山桜桃は知らない。  男に生まれてオメガと判定されて、女の着物に身を包んで、剣崎家に嫁いだ。二人の子を産んで、山桜桃が十四のときに死んだ。あの人は籠に入れられていたのだと思う。ただ、当人がそれをどう受け取っていたのかを、訊く機会がなかった。  いま自分が同じ場所に立っている。  麻布の家で、山桜桃は籠の鳥だった。門は閉まっていて、電話は交換台を通り、外へ出れば誰かが半歩後ろを歩いた。掌中の珠として扱われるのは、いまも慣れない。  ただ、ひとつだけ違うことがある。  母は選べなかった。この家は誰にも訊かない家だからだ。父は決めたことを告げるだけで、兄は日程を読み上げるように指示を出す。悪意がないぶん、逃げ場もない。  賀久は、山桜桃に訊いた。  半年のあいだ何度も訊いた。どうする、おまえ次第だ、と。そのたびに腹が立つ。逃げ道がないくせに選ばせるなと思っていたが、あれは山桜桃が生まれてから受けた、最初の質問だった。  庭に出る硝子戸のところで、山桜桃は足を止めた。  銀杏の下に、雛菊と二人で座っていた場所がある。母が死んだ年の秋で、妹はまだ七つだった。父は箱根にいて、兄は選挙区に張りついていて、家には二人しかいない日が続く。落ち葉を拾っても褒める人がもういないので、拾ったものを二人で並べて、大きい順に数えた。  支え合って生きてきた、大切な妹。  いまその妹は、やよいと出かけている。秘密の関係だと、あの女は言った。時期ではないから、まだ求婚はしていないとも。雛菊は自分で相手を選んでいる。この家で、たぶん初めてのことだった。  女中が玄関で靴を揃えている。  山桜桃は三和土(たたき)に降りた。すべてが良い思い出とは限らないが、それでも愛されていた記憶がある。この家は山桜桃にとって割り切れない苦い場所だったが、賀久にとっても泉堂家はそうなのだろうか。    ◇  門を出て、坂を下った。  銀杏の葉が二枚、肩に落ちて、すぐ風に持っていかれる。半年前にこの坂を上ったときは、桜がまだ咲いていなかった。  剣崎の名前を捨てるつもりはない。この家で育った二十八年を、なかったことにする気もない。母がいて、妹がいて、それだけで十分に足りていた時期がたしかにあった。  ただ、次になにをするかを、もうこの家には決めさせない。  兄は正しい。証拠はなく、賀久は罪を犯していて、公判では有罪になるだろう。それでも山桜桃は、あの男が売っていた側だとは思っていない。理由を説明できないまま、そう思っている。  説明できないものを抱えて生きていくことを、この家では教わらなかった。  坂を下りきったところで振り返った。門はもう見えない。銀杏の梢だけが塀の上に出ている。  麻布へ帰ろう、と思った。  帰る、という言葉が自然に出たことに、山桜桃は少し驚いたが、それでいいのだと思い直す。あの家には賀久がいる。山桜桃が話をしたいと願う男だ。判決が出れば、きっと戻ってくる。  戻ってきたら、すべて話すつもりだった。  半年前に兄から任務を下されたこと、自分が情報を渡して賀久を逮捕させてしまったことも、答えられずに終わった質問の続きも。  地下鉄の階段を降りながら、山桜桃は言葉を探しはじめた。今度は、時間の制限がない。

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