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第18話 協力者

 十月三日の午後二時に、保科(ほしな)が来た。  九月二十一日の逮捕から数えて十三日目である。勾留の期限は二十日で、十月十一日には検察がなにかを決める。起訴するか、しないか、責任能力を調べるという名目で賀久(がく)を病院へ送るか。残りは八日だった。  応接間の窓は閉めてある。門の外にはまだ二人ばかり残っていて、車が入るたびに人影が動いた。竹川(たけかわ)が紅茶を出して下がり、扉が閉まってから、山桜桃(ゆすら)は口を開いた。 「あなた方に協力します。一年半ぶんの来客の記録と、贈答の控えと、車の運転日誌を出します。誰がいつ来て、どれだけいたか、どこへ行ったかが全部残っているはずです。ただし条件がある。こちらの知りたいことに、あなたが知っている範囲で答えてほしい」 「伺います」 「三つあります。ひとつ、鑑定留置を誰が押しているのか。ふたつ、久我原(くがはら)泉堂(せんどう)の技術をどうする気でいたのか。みっつ、兄がどこまで承知しているのか」  保科は膝の上で鞄の口を締め直し、それから顔を上げた。四十半ばの、特徴のないところが特徴という女だが、肝が座っている眼差しは、この半年で山桜桃が会った人間のなかで際立っていた。根拠はないが、この女は信用できると感じる。 「三つ目からお答えするほうが早いと思いますので、順を逆にいたします」 「構いません」 「久我原重成(くがはらしげなり)は他国への技術流出をしようなど考えていません。本人の理屈では、立派な外交です。この国は少子化が止まらず、オメガが減り、アルファも減っている。二十年後に理事国の席に座っていられるかどうかは、金でも軍事でも決まらない。よその国が欲しがるものを、こちらが持っているかどうかで決まる。バース医療の技術を同盟国へ渡して、代わりに連盟での発言力と経済協定を取る。渡すのではなく買うのだと、本人は言っています」  久我原の言い分は、人によっては解釈が分かれるであろうが、筋が通っている。であればこそ、調査が長引いたのだろう。 「相手はスイスのエルダー製薬です。その窓口になっていたのは、一昨年の秋までは泉堂宗一郎(そういちろう)でした。ところが倒れたあと、二年前まで三十年続いていた蜜月が完全に止まってしまった。原因はあなたのご主人です。代表権が移った平成元年の一月を境に、久我原の周りの人間はこの家にも会社にも入っていない」  山桜桃はカップに手をかけて、そのままテーブルに戻した。  八月に泉堂製薬の総務で、三枚の名簿を見た。平成元年に三つのことが起きている。当主が病室にいるあいだに代表権が息子へ移り、三十年上客だった幹事長が名簿から消え、外国の製薬会社が初めて招かれた。あのとき山桜桃は、売り先を替えるのに邪魔な政治家を残しておく理由はないと考えたが、見立てを間違えていたらしい。 「主人が止めていたと?」 「結果としてはそうなります。うちが泉堂を張っていたのは、この止まり方が不自然だったからです。技術を売るために久我原を切ったのなら、新しい経路がどこかに立つはず。その動きがないまま、先月に地検がまったく別の件でご主人を持っていきました」 「妙ですね。久我原の周りを切ったのなら、なぜエルダーだけ残っているんですか。八月に本社で名簿を見ましたが、あの会社は平成元年に新規で招かれている」  山桜桃の指摘を想定問答として用意していたのだろう。保科は手際よくパラパラと書類をめくり、該当箇所を指さす。 「契約が生きているからです。先代が昭和六十年に結ばれた共同研究の取り決めがあり、こちらから解消すると、供与済みの技術の返還と違約金が発生します。金額が桁違いですし、返還には実験記録の原本まで含まれます。ですからご主人は契約を残したまま、のらりくらりと売却の話を誤魔化し続けている」  もっともらしい理由に思えたが、まだ根拠がまだ足りない。  経路を止めるだけなら会合まで続ける必要がない。形だけ残しておけば済む話を、この男は律儀に往復させ続けている。 「往復の中身は分かりますか」 「分かりません。うちが見ているのは人の出入りだけですので」 「よくわかりました。一つ目に戻りましょう。鑑定留置は誰が押しているんです」 「久我原の周辺です。検察の中に言い出した人間がいて、その人物の異動の経歴が、久我原の派閥の議員の秘書と重なるというだけです。ただ、目的がはっきりしています。鑑定に回れば起訴されないし、公判が開かれない。つまり押収された証拠が法廷に出ることもない。ご主人がなにか喋る場所を、先に消しておきたいらしいですね」 「主人はやはり一言も喋っていないようです」 「向こうはそれを知らないから、いちばん確実な方法を取りたいのでしょう」  保科は鞄から薄い綴りを出して、ページを繰った。付箋がびっしりとついていて、ちらりと見える端からメモ書きがびっしりとしてある。 「二つ目です。剣崎(けんざき)議員は、七月に連盟の技術協力に関する党内の勉強会を開いています。事務局長は同じ派閥の若手で、参加者に泉堂製薬の顧問が二人。名簿は非公開ですが、こちらでは押さえています」 「いつから?」 「七月です」  兄はその時期、どうにか情報を握ってこいと山桜桃へ急かし、焦っていた。ようやく兄の意図を理解する。  兄が落としたいのは久我原であって、久我原のやっていることではない。蹴落とした先に残ったものを、兄も利用するつもりだったらしい。久我原が本気で国益だと思っていて、兄も同じだけ本気で信じている。二人は敵ではなかったが、椅子の順番だけを争っている。  その政争に山桜桃は巻き込まれたのだ。議員の弟として、次子として、長子を支えるのは当然だから。 「俺が泉堂にいることを、兄はどう使う気でいたのだろう」 「そこまでは分かりません。ただ、議員はうちの存在を関知していないと思いますよ。あちらはご主人が本件の中心人物だと見ていますが、うちが二年捜査していた限り、そうではありません」  保科は綴りを閉じて、鞄に戻した。窓の外で、庭の低いところを風が吹いている。この家にやって来たころは、庭に初夏のそよ風が吹いていた。 「記録は、いつ頂戴できますか」 「明日には揃う。そのうえで、一つ頼みがある」 「伺います」 「久我原の私邸は平河町(ひらかわちょう)だな。あそこへ誰が出入りしているか、そちらは押さえているはずだ」  保科は鞄の口を締める手を止めなかった。 「押さえておりますが、お出しできません。捜査で得たものを外へ出せませんから」 「分かった」  それきりだと思った。保科は立ち上がって、扉のほうへ二歩ばかり歩いてから、思い出したように振り返る。 「平河町でしたら、正面より裏の通りのほうが見通しが良いですよ。以上は、私の個人的な感想です」    ◇  その晩、山桜桃は竹川を書斎へ呼んだ。  家令は扉のところで一礼して、机の前まで来て立つ。座るように言っても、決して座らない男である。 「二年ぶんの運転日誌を出してほしい。それから来客の控えと、贈答の帳面も」 「どちらへお出しになりますか」 「警視庁公安部外事課だ」  竹川の顔は動かなかった。両手を前で組んだまま、返事をしない。山桜桃の意図を考えようとしている様子だった。 「家の記録は当主の指示がなければ出さないものだと思うが、当主は病室にいる。若旦那さまは勾留されていて、やよいさんは財団と美術館で手一杯だ」 「さようでございます」 「俺も賀久のことを考えている。悪いようにはしない」  沈黙が長かった。庭で夜鳥が一度鳴いて、それきり静かになる。この家で自由な気配を感じられるものはいつも庭にある。人間たちは与えられた役目以外を演じるのは難しく、それは山桜桃も竹川も同じだった。 「明朝までに揃えてまいります」  竹川は深く一礼して、部屋を出ていった。    ◇  須永(すなが)から電話が入ったのは翌日の午後である。七十を二つ三つ越えた顧問弁護士は、言葉を選びながら喋るので話が長くなるが、抜けがない。 「本日で九日目です。取り調べの内容に変わりはございません。認めるところは認めて、なぜかというところだけを黙っておられる。理由をおっしゃらないままですと、検察はご自分の都合のいい筋書きをお立てになります。それを申し上げましても、若旦那さまは黙っておられる」 「鑑定留置の請求が出たら、こちらも争えるのか」 「はい、もちろん。ただ裁判所が見ますのは、本人に責任能力を争う意思があるかどうかでございます」  鑑定留置は、被疑者の頭の中を調べるという名目で三月ほど病院へ入れる手続である。入っているあいだ起訴はされない。調べた結果、責任能力がないと出れば、そのまま医療の側へ移される。裁判は開かれず、押収された目録が法廷に出ることもない。心神喪失とされた人間は、社長にも当主にも戻ることはできないだろう。 「主人に会えるか」 「接見禁止がついておりますので、弁護人以外はどなたも会えません。ご家族につきましては、回数と時間を切って一部の解除が出る例がございます。一回きり、十五分、職員の立会つき、事件に関することは一切話さないという条件で。話しはじめれば、その場で打ち切られます」 「是非もない、申し立ててくれ」 「事件のお話ができないのでしたら、行かれましても」 「いや、行けば分かることがある」  須永はそれ以上反対をせず、明日には書面を出しますと言って電話を切った。    ◇  賀久が収監されている小菅(こすげ)の拘置所に着いたのは、十月八日の午前十時である。  九月の末にヒートが来た。半年のあいだ医者はあえて抑制剤を山桜桃に処方しなかったが、賀久が不在とあって、あっさりと処方された抑制剤はよく効いた。  あの壜に入った薬の効果は半年。四月に飲んでから、もう十月に入っている。飲み直さなければ、この身体はアルファに戻る。薬を与えた男は、この殺風景な建物の中だ。  受付で書類を出し、荷物を預け、番号の書かれた札を渡された。待合の椅子は硬く、天井の照明が白い。壁の注意書きは、してはいけないことばかりが並んでいる。三十分待って番号を呼ばれ、廊下を歩いて、扉の並んだ一角に通された。  接見室は狭かった。机と椅子と、天井まで届く透明な板。板の向こうにも同じ机と椅子がある。山桜桃の背後の壁際に制服の職員が一人立って、帳面を開いた。  しばらくして、灰色のスウェットを着た賀久が入ってくる。髪は伸びておらず、痩せてもいない。八月に本社の廊下ですれ違ったときと、姿勢が同じだった。椅子に座って、板の向こうから山桜桃を見る。 「来ると思っていた」  勾留された人間の湿り気が、声のどこにもない。ここが拘置所とは思えない健やかさだった。さすがだな、と内心笑ってしまう。  賀久が机の上で手を組む。指に痣も傷もなく、爪も伸びていない。取り調べで手の出る扱いは受けていないということだった。板越しに山桜桃を見て、それから襟のあたりで目が一拍止まる。  いま山桜桃の身体に、賀久の残したものはひとつも残っていない。  賀久はなにも言わなかった。目が襟から離れて、それきりになる。背後で職員が帳面になにか書く音がした。  山桜桃は膝の上で指を組んだ。時間は限られているので、いきなり本題に入る。 「須永から聞いている。検察が——」 「事件に関するお話は控えてください」  背後で職員の声がした。事務的で、感情の乗らない声である。  山桜桃は口を閉じた。賀久は動かない。板の向こうで、こちらが次になにを言うかをじっと待っている。  残りは十分を切っている。  賀久のいない邸宅は静かだった。門の外は野次馬やマスコミもあって騒がしかったが、山桜桃を監視する目線が減って、二階の書斎に灯りが点かなくなった。夜になっても誰も山桜桃の部屋の扉を叩かない。半年のあいだ山桜桃が煩わしいと思っていたものが、ひとつずつ消えていった。  賀久が捕まってから三週間、ずっと考えていた。なぜ自分は寂しいのだろう。慇懃無礼(いんぎんぶれい)な竹川の主人には忠実なところは気に入っていたし、なかば自由がないとはいえ賀久との生活は不自由しなかった。掌中の珠よろしく扱われることは慣れないが、自我を出せばある程度は認められたし、やよいと雛菊(ひなぎく)のことも気になる。  なにより、賀久ともっと話したい。まだお互いを知らない、話していないことがありすぎる。  伝えるべきことがあるとすれば、これだ、と山桜桃は思った。ほかに言うことはいくらでもあったが、この十五分で渡さなければならないものは、たぶん、これひとつだった。 「いまの暮らしを、気に入りはじめている」  言ってから、言い方が悪かったと思った。賀久の顔が怪訝そうにこちらを見ている。 「……どういう風の吹き回しだ」  眉をひそめて、珍しく山桜桃に理由を訊いた。賀久は幼い頃から言葉数の少ない山桜桃の意図を汲み取って、あまり深追いしない。 「心境の変化か。それとも、そう言えば俺が喜ぶと思ったか」 「後者なら、もっと上手く言う」 「だろうな」  賀久の口の端が、わずかに動いた。笑ったのではなかった。  透明な板の向こうで、この男は答えを待っている。  この半年を任務として説明することはできる。任務だからあの薬を飲んだ、任務だからおまえに嫁いだ、任務だから半年いた。すべて事実だが、山桜桃の心境はもっと複雑だ。  この気持ちを説明する言葉が、山桜桃にはわからなかった。 「時間です」  職員が告げると、山桜桃は顔を上げた。立ち上がりながら、板の向こうへ言う。 「……お前と話がしたい」  声が思ったより低く出た。 「ここではできない。十五分では終わらないし、話していい内容も決まっている。家でしたい。俺をあのだだっ広い家で、ひとりにするつもりなのか。だから……きちんと考えてくれ」  賀久が椅子を引いて立つ。板の向こうで背を向けかけて、一度だけ振り返った。女々しいことを行ってしまった自覚はあるが、取り繕った言葉より、ましであろうと思う。 「わかった。話そう」  それだけ賀久は答えて、今度は理由を訊かれなかった。    ◇  十月十一日、鑑定留置の請求は出なかった。  須永の電話は昼前に入った。声にわずかな張りがある。 「九日の午前、若旦那さまが取り調べの席で、責任能力を争う意思はないとはっきり申されました。理由につきましては相変わらず一言もございません。ですがこの一言で、鑑定の話は立ち消えになりました。本日付で起訴でございます。罪名は有印私文書偽造、同行使、逮捕監禁。技術の輸出につきましては、取り調べに一度も出ておりません。押収の三十七点にも、そうした書類は一枚もございませんでした」 「接見禁止は」 「起訴で解けます。明日からは、どなたでもお会いになれます」  礼を言って受話器を置いた。  書斎の窓から庭が見える。植木屋の入る日ではないので、鋏の音はしなかった。  丁寧に願い出たわけではないが、こちらの意図は伝わったのだろう。  次に会うときは、事件の話ができるが、この半年で自分がしてきたことを全部打ち明けることになる。  山桜桃は机の上の目録を封筒にしまい、引き出しを閉めた。

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