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第17話 沈黙
夕刊が届いたのは三時過ぎだった。
一面の下に三段。泉堂 製薬社長を逮捕、私文書偽造など、とある。書いているのは山桜桃 ではない。朝のうちに宮下 へ口述させた文は、記事の終わりに一行だけ、同社は捜査に全面的に協力するとしている、という形で残っていた。それだけだった。
残りは全部、こちらが伏せておいて欲しい事柄まで、ずらりと並んでいた。賀久 の二十六歳という若さでの社長就任、二年前の代表権の委任、療養中の先代。関係者によれば社内でも異例の人事だったという一文があり、株価の終値と、取引先の名を伏せた談話が続く。実父を長期にわたり病室から出さなかった疑いがあるという段落には、看護の記録が押収されたことまで書いてある。
門の外では人の声がしていた。呼び鈴が鳴るたびに誰かが出ていき、同じことを言って戻ってくる。竹川 は門番を三人に増やし、応対の文言を紙に書いて持たせていた。電話は交換台で止めさせている。
◇
四日目の午後に、顧問弁護士の須永 から電話があった。先代の代から泉堂の顧問をしている男で、七十を二つ三つ越えている。受話器の向こうのこの老人は、言葉を選びながら喋った。
賀久は父の名で代表権の委任状を作ったこと、それを取締役会に出したこと、倒れた父を二年近くのあいだ病室から出さなかったこと、すべてを認めているという。日付も経緯も、訊かれる前に自分から言った。ただ、なぜそうしたのかだけ頑なに黙秘している。四日かけて訊いても、こちらへ顔を向けて最後まで聞いて、それから黙るのだという。認めた罪に理由がつかないままだと、検察が好きな筋書きを書けることになる、と須永は繰り返した。
オメガ化技術の輸出については、取り調べに一度も出ていない。
受話器を置いてから、山桜桃は書斎に籠って、届いていた写しを机に並べた。
特捜が押さえたものの目録である。代表権委任状、稟議書 、取締役会の議事録、社印の使用簿、病院の入院記録と看護の日誌。締めて三十七点。
どれも社の内部に残っていた書類だ。輸出に関わるものは一枚もない。契約書も覚書も、送金の記録も、渡航の記録も、エルダー製薬との往復書簡も出てこなかった。八月に採番簿と回覧の履歴を端から追ったときにも出てこなかったし、家宅捜索と社の捜索を終えた検察の目録にも載っていない。
妙なのは、そこではなかった。
あの男は、自分に不利な書類を一枚も処分していない。判を偽ったことも、父を閉じ込めた日数も、全部そのまま残してある。普通なら、真っ先にそれを消すはずだ。賀久の用意周到さも頭の回転の速さも、よく知っている。
山桜桃は写しの上に手を置いて、そのまま少し動かなかった。
まだ出ていないだけだ。相手はスイスの会社で、日本の捜査権が届かない場所に書類がある。政治が絡めば、そもそも書類を作らない。そう考え直して、机を離れた。材料が足りないうちに判断するのは、この仕事でいちばんやってはいけないことだった。
◇
現当主の宗一郎 が入院する文京区の病院へ行ったのは十月二日で、やよいと二人だった。
車の中で、やよいは膝の上の封筒から書類を出して確かめていた。入院費の支払い、療養計画の同意、後見の申立ての進み具合。財団と美術館を回すだけで手一杯そうだが、兄の逮捕でお鉢が回って来てしまった。
「父のところへは、月に一度誰かが顔を出すことになっています。本来は兄の仕事ですが、ご存知の通りなので私が引き取りました」
「嫌なら人にやらせればいい」
「嫌いな相手ほど、自分の目で見て対応したいんです。人に任せると、あとで人の言い分を信じなくてはなりません。リスクでしょう?」
やよいは書類を封筒に戻した。本人へ伝えたら嫌がりそうだが、やはり賀久とやよいは似ている。出会ってから、山桜桃はこの女が頼りなく眉を寄せるところを一度も見ていない。
「須永先生から聞いていますか。検察が兄の鑑定留置を請求するかもしれないという話」
「精神鑑定をするのか」
「責任能力を調べるという名目で、二月から三月、指定の病院へ移すとか。その間は勾留の期限が止まりますし、起訴もされません。起訴されないということは、裁判も判決もないということです」
物騒な話題の車内と打って変わって、のどかな本郷 の坂の下の商店街が流れていく。
「刑期の始まらない人間は、いつ出られるとも限らないか」
「そうです。須永先生は請求を争うと言っていますが、決めるのは裁判所です。それに、いま泉堂には代表がいません。会社として意見を出すのに、誰の名前で出すかから決めなければならない」
困りましたね、と呟く割には淡々としている義妹を見つめ、山桜桃は車窓へ視線を移した。そろそろ病院へ着く頃合いだ。
深くため息をついて、どうしたものかと考えるが、都合の良い解決策など思いつかない。なにしろ、相手は国家機関だ。
「仕方がない。いったん俺の夫がどんなところへ入れられるか、見学でもしよう」
「あなたも冗談を言うんですね」とやよいが真顔でこちらを見る。意外と次兄が毒舌だということを、雛菊 は恋人に話していないようだ。
「妹もけっこう言うだろう、あの顔で」と付け加えると、やよいは心当たりでもあるように楽しげに笑った。
◇
特別病棟は五階の南で、廊下に人の気配がほとんどなかった。ナースステーションの内側で看護師がひとり書き物をしている。病室の扉には鍵がかかっていて、開けてもらってから入った。
泉堂宗一郎は窓際の椅子に座っていた。
髪も髭も整えられ、寝間着ではなく普段着を着せられて、痩せてもいない。手のひらは白く、爪が短く切り揃えてある。誰かが毎日きちんと世話をしている様子だった。
やよいが名を呼ぶと、顔がこちらを向いて、それから笑う。
なにか喋っているが、言葉の形はしているのに文脈がおかしかった。時系列も登場人物もバラバラで、途中で切れて、また同じ話に戻る。山桜桃を見て、知っている人間を見つけた顔をした。
「この方が誰だか分かりますか」
やよいが訊くと、父は迷わずに、聞き取れない名前を言った。
「毎回ちがう人になるそうです。今日は誰でしょうね」
「いつからこの状態なんだ」
「入院した日からと聞いています。倒れる前は普通でした。私と口喧嘩ができる程度には」
やよいは父親の膝掛けを掛け直して、水差しの水を替えた。嫌いだと言う割に、丁寧な手つきだ。
「賀久」
山桜桃が言うと、父の口が止まった。二秒か三秒、なにも動かない。やがて口が止まったことも忘れて、また意味もわからぬの話に戻った。
◇
帰りがけに廊下で医師を掴まえた。四十くらいの、白衣の下から寝不足がそのまま出ている女だった。
「こちらでのお薬は、どういったものを」
「鎮静のものと、睡眠薬を少し。それ以外はお出ししておりません。むしろご入院された当初より減らしていますね」
「二年近くで、ああなるものですか」
医師は答えにくそうな顔をした。困っているというより、齟齬 なく伝えるために正確に言おうとして手間取っている。
「原因が特定できません。倒れられたときの出血が残っているのか、それ以外なのか。診断書には器質性のものと書いていますが、正直に申しまして、はっきりしません。うちへお移りになった時点で、すでにあの状態でしたので」
「移られる前のことは、こちらには分からないと」
「分かりません。ご自宅で診ておられた先生に伺うほかないです。そちらの記録は頂戴しておりません」
これ以上はなにも出ないと踏んで、医師に礼を言って離れた。
つまり当主は入院前から心神喪失状態であり、麻布の家で療養していた期間からここへ移されるまでのあいだに、ああなったということだった。
実の父親を飼い殺しのような状態にした目的が、財閥の実権を握りたいのであるなら、やよいの言うとおり生かしておく必要はないだろう。理由を訊きたくとも、賀久は地検に勾留されている。
そして近いうち父と同じように、鍵のついた病室に閉じ込められるのだ。
◇
邸宅に戻ったのは四時過ぎで、車を降りると門の内側に女が一人立っていた。
竹川が通したのだから、マスコミ関係ではないだろう。四十半ばくらいの、目立たない背広を着た女が名刺を両手で差し出す。警視庁公安部外事課、保科 スミレとあった。
「主人のことでしたら、弁護士を通してください」
「泉堂賀久さんの件ではありません。その周りの件で伺いました」
保科は名刺を引っ込めなかった。受け取るまで手を下げないつもりでいる。山桜桃は仕方なく、名刺を受け取って上着の内ポケットへしまった。
応接間に通し、竹川が紅茶を出して退出するのを見計らい、扉を閉める。保科は角のない顔つきで、道を訊かれることの多そうな、覚えにくい造作をしている。長年、公安として生きてきた隙のない人間の顔つきだ。
「久我原 ですね」
保科は座ったまま、少しのあいだ山桜桃を見ていた。
「話が早くて助かります」
「兄のところにいましたので」
「存じています。ですから伺いました」
外事課の人間が財閥の家へ来る用向きなど、多くはない。地検が賀久の身柄を取った直後にわざわざ足を運ぶのなら、外事課はまた別の目的がある。たとえば、与党の若手有力議員、その弟であり元議員秘書。そう、山桜桃だ。
「協力していただきたいのです。この一年半、泉堂の中で誰が誰と会ったか。会食、来客、贈答、渡航。中身は結構です。誰と誰が、いつ会ったか」
「なぜ」
「久我原の周辺が、二年前から泉堂に出入りしています。記録の残らない形で、会っているのはご主人です。エルダー製薬はスイスの会社で、あちらの枠組みは連盟の理事国の側で動いている。久我原がそこへ日本の技術を回そうとしている。あと半年あれば、金と物がどう動いたか揃えられるところでした。それが先月の二十一日に、地検がまったく別の件でご主人を持っていきました」
久我原重成 。民和党の幹事長で、この十年、党の金と人事を握っている男。半年前に兄から渡された情報に、その名は一度も出てこなかった。
「連絡はなかったんですね」
「あちらもうちに知らせる義理はないですからね。あなたも心当たりがあるでしょう、同じ穴の狢たちが、それでも足を引っ張り合っている世界です」
八月に兄へと渡した委任状の番号が、地検へ渡って、この女のところへは行かなかった。兄はそれを手柄として抱え込み、公安が同じ家をずっと見ていたことも知らないまま、賀久を持っていった。外事課も剣崎 雪彦 の弟が泉堂賀久の妻に納まったことを取りこぼしていたのだろう。この婚姻はほぼ外に露見することはなく、進んでいった。
公安の二年を潰したのは山桜桃だと気づき、胸の奥がざらつく。当然、山桜桃に責任を感じるいわれはない。自分は与えられた仕事をしたまでだが、政治の世界は苦手だ。同じ相手を違う組織が追っているのなら連携をすればいいものを、それができない。
「主人はなにも話していません」
「取り調べのことでしたら、こちらには一切の情報が入ってきていません」
「弁護士が四日かけて訊いています。委任状も、取締役会も、父親のことも、主人は全部認めました。認めたうえで、なぜそうしたのかだけを黙秘しています」
保科の顔から、道を訊かれそうな柔らかさがすっと引いた。山桜桃は保科の目が、光を宿していないことに気づく。軍人の山桜桃とは戦場が違えど、この女も踏み抜いた修羅場が多くあるのだろう。
「それは、うちにも都合の悪い話です。そういう人間は取引に乗りません。刑を軽くする代わりに上を差し出せという話が、そもそも始められませんので」
「なぜ俺なんですか。この家のことなら家令のほうが詳しいし、あなた方は内偵を送ることも容易いでしょう」
「その選択肢もありましたが、あなたが剣崎雪彦の弟さんだからです。お兄さまの思惑は手に取るようにわかります。元陸軍の情報将校がなぜか急に泉堂財閥の御曹司と結婚し、新婚生活もろくに味わえない半年のうちにご主人は逮捕されました。あなたと泉堂賀久の婚姻はほぼ表に出ず、我々もつい数か月前に情報を仕入れた」
外事課が賀久と山桜桃の結婚を知った時期は、式典の招待状が回りはじめた時分と一致する。泉堂家側もよく隠しておいたものだと、山桜桃は柄にもなく感心してしまった。病院からのリークもなく、家令たちも口が硬い。それだけよく統制が取れているのだろう。
「では兄も、見ているんですか」
「久我原重成を取り巻く人間は、全員見ています」
保科は名刺を卓に置いて立ち上がった。
「お返事は急ぎません。それから、余計なことを一つだけ。ご主人の身柄の行き先が、近く変わるかもしれません。決まりましても、こちらからはお知らせできません」
◇
その晩、山桜桃は書斎に籠った。
机には昼に並べたままの写しが残っている。三十七点の目録と、須永から届いた調書の要旨。
このまま山桜桃がなにもしなければ、賀久は意味のない精神鑑定を受け、そのまま父親のように病室へ閉じ込められる。
鑑定に回れば賀久は起訴されず、法廷で喋る機会を失ってしまう。オメガ化技術の国外流出も、賀久がなぜ父の名で判を偽ったのかも、そこで宙に浮いたまま終わるのだ。
責任能力を争う気のない被疑者に、検察が自分から鑑定を請求するのは筋が通らない。誰かが外から押している。
すべてに納得が行かなかった。思えば生まれてから、ずっと敷かれたレールの上に黙って乗っていたのだ。
望んで賀久の妻になったわけではない。それでも賀久のそばにいたいと思い始めていた矢先だった。
ならば選んで、叶わぬとしても後悔はしたくない。いや、必ず賀久を救い出さなくては。それができるのは、山桜桃しかいない。
泉堂家の中を堂々と探れるし、製薬側の人間も、この数か月で山桜桃に信用を置いている。雪彦に会えるのも山桜桃だ。あの兄は従順な弟をそこそこ買っているから、慎重に聞き出せば口も軽いだろう。
山桜桃は上着に入れたままの、保科の名刺を取る。公安に協力をしてやろう、その代わりこちらの欲しいものは差し出してもらう。
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