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第16話 逮捕

 九月二十一日、五時四十分に目が覚めた。泉堂(せんどう)製薬が五十年目を迎える日で、日本橋の式典は十一時に始まる。竹川(たけかわ)には七時に車を出すよう伝えてあった。  寝台から起き上がると、砂利を踏んだ車の音が聞こえた。複数台、玄関の車寄せの手前で止まる。二台目が同じ間隔で続き、三台目は通りに残った。どれも速度を落としたまま強引に揃って入ってくる。  何事だろうと、山桜桃(ゆすら)はシャツに手を通して廊下へ出る。階下の電気がついていて、使用人の足音が二つ三つ、玄関のほうでは来訪者に竹川が応対していた。  山桜桃が階段の中ほどまで降りたとき、玄関の扉はすでに開いており、スーツを着た男女が四人、そのうち先頭の一人だけが内側に入って、残りは外の敷石に立っていた。  階段を降りきると男がこちらを見た。四十を少し過ぎたあたりか、目の下に眠っていない隈がある。昨夜のうちから起きているのだろう。 「奥さまでいらっしゃいますか」 「そうです」 「東京地方検察庁の者です。ご主人にご用があって参りました」 「ただいまお呼びしております」  竹川が横から言った。背筋が緊張して、一分の隙もなく伸びている。  地検の男はそれきり口を閉じて、紙を持ったまま階段の上を見ていた。要件を言う気がない。妻に説明する義理はないということだった。  玄関ホールの空気が冷えている。九月も終わりに近い朝で、扉が開いたままなのだから当然だった。家中の誰もが戸惑って、扉を締めることすら忘れている。  山桜桃だけが冷静にこの事態を見つめていた。兄へ渡した情報が、とうとう地検を動かしたのだ。賀久(がく)は任意同行か、最悪は逮捕されるだろう。おのれが蒔いた種であるのに、心臓を握りつぶされそうな心地になる。    ◇  賀久はシャツを着ていた。式典の朝なのだから、この時刻には身支度を済ませている。整えられた髪は少しも乱れず、態度に動揺はない。  降りてくる速度も普段と変わらず、手すりに手を置かないまま、いつも二階から食堂へ来るときと同じ間隔で一段ずつ降りて、最後の一段で止まった。 「泉堂賀久さんですね」 「ああ」  男が紙を胸の高さに開く。 「逮捕状が出ています。有印私文書偽造、同行使、それに監禁。平成元年一月十七日付の代表権委任状の件と、お父さまの件です」  平成元年一月十七日。  八月のはじめに日本橋の本社で、山桜桃が受話器へ向かって読み上げた日付だった。 「午前六時十二分、逮捕します」  賀久は紙に目を落としはしたが、上から下まで視線が滑るのに二秒とかからなかったので、読んではいない。 「わかった」  竹川が上着を持って進み出た。 「若旦那さま」  賀久が袖に腕を通すと、竹川の手が襟を直して前を合わせる。物々しい検事に囲まれていなければ、ただの出勤風景のようだ。 「竹川。江崎(えざき)に電話しろ。式典は中止だ。挨拶状はやよいに書かせて——」 「それは、俺の仕事だ」  山桜桃が賀久の言葉を遮った。自分の声が普段通り冷静であることに、山桜桃は少し遅れて気づく。亭主の留守を預かるのは家内の役目だ、と自然と思えた。 「挨拶状は俺が書く。社員には俺から言う」  賀久はしばらく黙っていたが、やがて前を直している竹川の手を軽く払うと、自分で下のボタンを留めた。 「……ああ、頼んだ」  それだけだった。  歩き出して玄関へ向かう途中、山桜桃の前で足が止まる。  目が合った。山桜桃のことを少しは疑っているだろうに、責めても詰ってもいない顔で、怒りも失望も驚きもない。  なにか言われると思って、山桜桃はぐっと身構えていたが、訊かれなかった。  賀久の手が上がりかけて、途中で止まり、下りる。 「行ってこい」  どこへ行くのかはふたりとも分かっているのに、出かける夫を送り出す調子と同じ言い方をした。賀久は頷いてそのまま横を通り過ぎ、玄関のほうを向く。 「どこへなりと連れて行け」  検事が一歩下がって道を空けた。敷石を踏む音が続いて、扉の外で朝の光が一度だけ広がる。    ◇  山桜桃は敷石を降りた。  二台目に賀久が乗せられ、扉が閉まる。三台目の脇で、検事が書類を封筒に納めていた。 「主人はどちらへ」 「東京地検です。取り調べのあと、勾留の請求をいたします」 「面会はできますか?」 「請求が通りますまでは、弁護人以外はできません」  男の答えは速い。いつも同じことを訊かれているのだろう。 「罪状は、それだけですか」  封筒の口を折る手が、そこで一度だけ止まった。 「と、おっしゃいますと」 「主人が捕まる理由として、判の偽造と病室への監禁だけでは軽すぎるように聞こえました。他になにか見込んでおられるのなら、教えてください」  男は封筒を小脇に挟んでから、初めてまともにこちらを見る。こちらの思惑を読み取る一瞬、眉が動いた。 「本日お持ちしたのは、そこに書いてあるものだけです」 「そうですか」 「奥さま。ご主人は当分お帰りになりません。お身体に気をつけて」  礼をして車へ戻っていく背中を見送った。  言い逃れだと思った。捜査中の役人が余罪の見立てを妻に喋るはずがない。固いところから先に取って、本丸は身柄を押さえてから調べで固めるのだ。極めて正しい順序だった。    ◇  車が三台とも出ていくのに二分かかった。門の閉まる音がして砂利の音が遠ざかり、塀の外の通りへ抜けてしまうと、邸は静かになった。  玄関へ戻ると、竹川が扉の前に立ったまま動かず、錠に手をかけたところで止まっている。 「若奥さま。あれは、なにかの間違いでは。若旦那さまが逮捕されるなど」  冷静沈着な家令が狼狽えている姿をはじめて見た。賀久に忠実な男を慰める言葉はいくらでも言えたが、この場を誤魔化す振る舞いはするべきではない。 「間違いじゃない。本物の地検で、正式な令状だった」  竹川の指が少し震えながら錠から離れる。 「今日は帰ってこない。明日も、その次も分からん」 「……そのような」 「竹川、ここではおまえが頼りだ。錠をしっかり下ろせ」  竹川は大きく頷き、背筋が元の位置に戻った。やることを与えられれば人は動く。  廊下の端に使用人たちが集まっていて、三十人が声を出さずに、不安げに立っている。  山桜桃は階段の下まで戻り、全員の顔が見えるように数段だけ登る。 「聞こえていたと思う。若……」  若旦那さまと呼ぼうとして、喉の途中で一度引っかかった。半年、この家の呼び方で夫を呼んだことがほとんどない。 「若旦那さまは、しばらく戻らない」  誰も動かなかった。ただ息を呑む静かな音だけが聞こえる。 「留守は俺が預かる。仕事は今までどおりでいい。外から人が来るし、電話も鳴るが、誰がなにを訊いても答えるな。全部俺に回せ。家の中のことはなにも変わらない。持ち場に戻ってくれ」  一拍あって、そのあいだ三十人はまだ竹川のほうを見つめ、なにを言うのかを待っていた。 「かしこまりました、若奥さま」  竹川の声が響き、それで全員が納得して動きはじめる。廊下の端がほどけてそれぞれの方向へ散り、台所の扉が開き、二階では窓の掛け金を外す音がする。すぐに朝の音が元どおりになっていた。    ◇  竹川に家のことは任せ、山桜桃は書斎へ向かった。挨拶状の文面を組み、江崎に電話を入れ、印刷所を押さえ、会場の手配を止める。逮捕された当主の名前を出さずに社の五十年をどう書くか、考えることは幾らでもあった。  書斎の扉の前で把手(とって)に手をかけたまま少し止まってから、開けて中に入る。    ◇  玄関ホールの電話が鳴ったのは、七時になる少し前だった。竹川が受話器を取って名乗り、それから山桜桃のほうへ向き直る。 「剣崎(けんざき)さまでいらっしゃいます」  受け取っても竹川は下がらなかった。下がる必要がなくなったからだ。 「はい」 「さすが俺の弟だ、これで幹事長にも手が届く」  受話器の向こうで紙をめくる音がしている。雪彦(ゆきひこ)は昔から、ものを書きながら喋るくせがあった。 「兄さん。罪状のことですが」 「うん」 「判の偽造と、当主の病院への監禁だけでした。製薬の技術流出は挙がっていない」 「そこはこれからだ。固いところから先に取る。おまえが一番よく分かっているだろう」 「……ええ」 「半年かけてここまで来た。おまえの働きだ。悪いようにはしないから、片がついたら離婚して戻ってこい。次はもう少し上の部屋になる。籍のことなら心配するな。あの家は当分それどころではないだろうから、こちらで弁護士を立てておく」  兄の口から離婚と出て、山桜桃は動揺する自分に驚いていた。そんなことは望んでもいないし、頼んでいない。喉音に異物が引っ掛かる。そうは思っても、数か月前までは仮初の結婚だと思っていたのは、他ならぬ山桜桃だ。拒否をしたいのか、受け入れるのか、今は答えが出ない。 「今日だと、知っていたんですね」 「なにか言ったか」 「……いえ」  電話が切れた。  受話器を戻すのに、少し手間取った。    ◇  七時に車を出した。  日本橋室町の本社は、いつもの朝より人が多い。中止の報せが回ったあとで、それでも来てしまった人間が玄関前に固まっていた。  車が停まると秘書の宮下(みやした)が寄ってきて扉を開ける。ダークグレーのスーツを着た三十半ばのキャリアウーマン然とした女は、六時半から電話を掛け続けているのか声が掠れていた。 「奥さま。お上がりください」  歩きながら報告が来る。 「役員には七時前にお集まりいただきました。報道の窓口は広報に一本化いたします。ご招待を差し上げた先が二百四十七件、本日中に全件、お詫びのお電話を。詫び状は明日の発送でございます」 「文面は書いた」  封筒を渡すと、宮下は両手で受け取ってその場では開かなかった。 「印刷が間に合わないなら、電話は口頭で構わない」 「……承知いたしました」 「主人のことは、なんと説明する」 「一身上の都合により、と」 「それは通らない。夕刊にこの件はスクープとして出るだろうからな」  宮下の足が止まった。目を丸くして、山桜桃の言葉を待っている。伊達に議員秘書をやってきたわけではない、マスコミも警察も動きを熟知している。 「事実だけ言え。捜査を受けている、社は全面的に協力する、事業に影響はない。それ以上を足すな。答えられないことは、答えられませんと言え」 「承知しました」    ◇  ロビーの天井に、作品が吊られていた。  二週間前に脚立が立っていた場所で、あのとき作業員が金具を打ち込んでいたものの、なにが下がるのかは誰にも見えなかった。  いま、そこに赤いものがある。硝子の小片を無数に繋いだもので、吹き抜けの三階分をまっすぐ落ちていて、天窓から入る光がそれを通ると床の白い石に赤が散った。人が歩けば形が崩れ、通り過ぎればまた戻る。  山桜桃はしばらく足を止めていた。 「三隅先生のお作でございます」  江崎が生花の運び出しを指図している最中だった。式典用の襟章をつけたままなのは、外し忘れたのだろう。 「泉堂やよいさまが四年かけてお願いした先生だそうで、先月こちらへ入りまして、吊り上がったのが一昨日でございます」 「題は」 「『再結晶』と伺っております。混じりものを取り除いて、もう一度きれいな結晶にする工程だとか。私どもの仕事にちなんでのことだそうでございます」    ◇  メインホールの扉は開いたままだった。円卓が三十二、白布が張られて硝子と皿が並び、卓の中央に生花が入っている。誰も座らないと決まったあとも、部屋のほうは支度を終えていた。  正面の壁に榊原(さかきばら)の書が掛かっていて、畳三枚ほどの紙に五十の一字、墨がまだ濡れて見える。 「お電話の割り振りを、お目通しいただけますでしょうか」  江崎が差し出した紙の束は、二百四十七件を誰が誰へ詫びるかで四つに分けてあった。慇懃無礼(いんぎんぶれい)な態度の女だが、仕事は上出来だ。山桜桃は江崎をこの二か月あまりで気に入っていた。  一番上の束だけ、掛ける人間の欄が空いている。 「こちらは、本来でしたら社長がお掛けになる先でございます」  十一件あった。 「俺が掛ける」 「かしこまりました」  江崎は驚かなかった。    ◇  卓のあいだを歩いた。席次は自分で組んだもので、八月の終わりにこの女と二人、一週間かけて上から順に並べ直している。五番の卓にエルダー製薬の名前があり、一番の卓には、三十年ひとつの席を占めていた人間の名前が今年も入っていない。  一番卓の正面に、二枚の札が並んでいた。  泉堂賀久。  泉堂山桜桃。  筆耕(ひっこう)に出したものだろう、名前の三文字は婚姻届に書いたときの形とまるで違う姿をしている。顔も知らない誰かが、事務としてこれだけ丁寧に自分の名を書いていた。泉堂の二字が大きく、下の三文字が小さく、家が先で人が後に来る並びだった。  半年前、この姓は任務のために借りたものだ。  しばらくそこに立っていたが、札には触れなかった。    ◇  十一件目の受話器を置いたのは昼を回った頃だった。 「泉堂の家内でございます」  名乗るたびに同じ言葉を使い、最初の一件で少し詰まったきり、二件目からは詰まらなかった。相手はどこも丁重で、事情を訊いてくる者はいない。夕刊が出るまでは誰も訊かないのだろう。  自分は正しいことをした。  声に出さずに口の中でそう並べてみる。あの男は父を病室に閉じ込め、財閥の当主代理の席を得て、製薬会社の実権を握った。オメガ化技術は海の向こうへ流れかけていて、渡した材料は本物だ。読み違えた箇所はどこにもない。  正しくないのなら、いったいなにが悪いのか。山桜桃には説明できなかった。  ロビーを抜けるとき、天窓の光が硝子を通って床の白い石に赤を落としていた。人が通れば形が崩れ、行ってしまえばまた戻る。  その下を、山桜桃は足を止めずに通り抜けた。

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